怪盗と囚われの姫君

色部耀

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怪盗と囚われの姫君

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『明日の深夜零時、囚われの姫君を攫いに参上いたします。怪盗ネロ』


 警視総監である父、近藤一の下に一通の洒落た手紙が届いた。煌びやかで丈夫な紙に書かれた犯行予告と怪盗ネロの文字。怪盗ネロとは今を賑わす大泥棒。平成のアルセーヌ・ルパン、石川五右衛門などと呼ばれている。

 巧妙に偽装されて運営されている専用サイトに書き込みを行うと、誰のどんな依頼でさえ盗み出してしまうという。ただし依頼には条件があった。それは義があること。だまし取られた物を盗み返すこと、不当に搾取された金銭を盗むこと――簡単に説明されている内容だとこのような事らしい。

 そんな怪盗ネロが私の父に予告状を出したのだ。


「至急警備を強化しろ! 亜紀は警視庁に移動だ。そこで厳重に匿う」


 囚われの姫君――それは十中八九私のことだった。母は私を生んだ瞬間に命を落としている為、近藤家では女は私一人。姫君という名詞を使うならば私しか有り得なかった。

 警備を強化とは言ったものの、大学四年生になった私には常にSPが三人ついている。一般的に言えばそれだけでも十分過ぎる警備。プライバシーの欠片もありはしない。家にはもちろん盗聴器もカメラも設置されている。くつろげるのはトイレと風呂場だけだった。トイレと風呂場でスマホを使って知らない人たちとSNSで会話をする。それが今の私の精一杯の自由だった。

 卒業後だって自由はない。父が組んだ見合いで結婚することが決まっている。警視庁で出世頭の若手らしい。顔も性格も知らないそんな人間、好きになれるはずないというのに――

 そんなこともあり、私が生まれてこの方経験した二回の恋は成就することなく消え去った。一度目は高校生の時。彼は私に思いを告げてくれた。私がそれに承諾の返事をした翌日。彼はどこか知らないところに転校していった。二度目は去年のこと。私は付いてくれていたSPの一人に恋をした。それもまた、互いに思いを伝えあった直後に彼はどこか知らないところに転属させられた。行先は誰も教えてくれない。

 囚われの姫君とは皮肉にも私にぴったりの称号だったのかもしれない。

 予告されていた犯行日。私は警視庁の最上階で何十人もの護衛の中、父の隣に座っていた。


「本当にお前は厄介ごとを引き寄せてくれる」


 父は眉間に皺を寄せて貧乏ゆすりをしながら吐き捨てるように言った。トントントンとリズミカルに揺れる膝。その振動がソファーを伝って私の心臓を殴る。脈拍を加速させる。罪悪感を加速させる。

 初めて父にそんなことを言われたのはいつだったか。幼い頃に同級生からいじめを受けた時だっただろうか。それとも誘拐されかけた時だっただろうか。お前は厄介ごとを引き寄せてくれる――。それだけではない。私は忘れない。父が言ったあの言葉を。


「産まれてくるときだって、お前がすっと出てくれば美紀が死ぬことも無かったんだ」


 また言った。母が死んだのは私のせい。だからいじめも誘拐も過度な監視も全ては殺人者である私への罰だと受け入れるしかなかった。反抗は許されなかった。誰がという訳ではなく、私自身が私自身を許せなかった。それは父が日常的に殺人犯は最も重い罰を受けるべきだと言い続けていたことも原因かもしれない。

 だから私は、いつも取ってつけたような笑顔で誤魔化しては心で涙を流していた。私に許された涙も心の中でのみ。

 殺人犯に同情の余地など存在しない。


「何事だ!」


 護衛として部屋の中にいた二十人ほどの警官隊が一斉に倒れる。そして父が叫びながら立ち上がった時、窓ガラスが弾けて外から一人の男が入って来た。


「囚われの姫君を攫いに参上いたしました。怪盗ネロと申します。以後お見知りおきを」


 真っ黒なマントを羽織ったネロ。その姿はまるで夜の闇に溶けた濡れ鴉。短く切られた黒の短髪に真っ黒な仮面もまた影と同化する為なのだろう。彼はフロアに立つと深くお辞儀をした。次の瞬間――

 耳を劈く三連発の銃声が鳴り響く。隣を見れば父が拳銃を怪盗ネロに向かって発砲していた。


「お父さん!」


 私の声とは無関係に銃弾は怪盗ネロの両足に突き刺さった。かのように見えた。


「警視総監殿。私は拳銃では止められませんよ?」


 ネロは穴の開いたマントを翻しながらクルリクルリと何度もその場で周る。


「くそ! 護衛達に何をした!」


「簡単な事ですよ。部屋の上方に溜まりやすい薬品を流し込んでいただけ。あなた達とは違ってSPは皆立っていますからね」


「換気もセンサーもあったんだぞ!?」


「私はプロの怪盗ですから。その辺りも滞りなく。いや、現状が全ての答えなので問答の必要はありませんよね?」


「亜紀は後ろに隠れていろ」


 父が乱暴に私の腕を掴んで自分の身体を使ってネロから隠す。その瞬間、私はネロが嬉しそうに口角を上げたのを見た。直後、まばゆい光が迸る。父はその場で動かなくなったが、私は体を抱えられて移動させられた。幸いなことに父の身体に隠れていて私は光にやられていない。


「亜紀! 亜紀! どこだ!」


「亜紀さんなら今丁度私とあなたの真ん中に立っていますよ」


 ネロに抱えられた私はそのまま連れ去られるのではなく、父から十歩ほど離れた位置。同じくネロから十歩ほど離れた位置に立たされていた。


「何がしたいんだ貴様!」


 まだ目を押さえたままの父はその場で大声を上げる。


「動くとそのまま亜紀さんを連れて飛び立たせてもらいます」


 まともに身動きの取れない父はネロの言葉で立ち尽くす。


「何がしたいか……でしたね。簡単な事です。いや、難しいことかもしれませんね。亜紀さんにとっては」


 ネロはそう言って私を指さす。高鳴る鼓動を指摘するように心臓に向かって真っすぐに。


「亜紀さんに残るか抜け出すか――それを決めてもらおうと思うのです」


 仮面の奥に真っ直ぐで純粋な瞳が見える。私はその瞳をどこかで見たことがあるような気がしていた。その声が何故か心地良いものに聞こえていた。


「とはいえ、私に付いてくることに対して理由らしい理由もありませんからね。なぜ私があなたを攫いに来たのかお伝えしておきましょう」


 ネロはおもむろに仮面を剥ぎ取って素顔を晒す。ふわりと優しく笑った表情は懐かしく、見ただけで涙が溢れてくる。


「武志――くん?」


 私は誰にも聞こえないほどの小さな声を漏らした。仮面を取った彼は紛れもない。高校時代に想いを伝えあった彼だった。私の一日だけの彼氏だった。


「しー」


 ネロは口元に人差し指を当てて私の言葉を遮る。


「私は昔、君と約束をした。大丈夫、悲しみに暮れた時、涙に濡れた時、幸せが何か分からなくなった時。必ず駆けつけて暗い世界から引きずり出すと」


 脳内であの日の台詞が再生される。五年前なのに鮮明で、私に手を差し伸べる仕草も大丈夫といった時に目元が緩む微笑み方も。その全ての優しさを思い出す。


「あなたと一緒に抜けだしたら、確かに幸せな毎日かもしれない。夢みたいで、想像するだけで涙が出てくるくらい」


「僕のそばで君は好きな事をすればいい。名前も変えることになるかもしれないけれど、昔君が夢見た未来を実現させればいい。小さな幼稚園でピアノを弾きながら子供たちと歌ったり、一緒になって絵を描いたり。家に帰れば夫婦そろって料理をして、オシャレにお酒なんかも嗜んだり。子供は二つ年の離れた姉と弟で。やんちゃな弟を姉が叱って泣かせたり。それを君がまたなだめたりなんかして。僕はそのそばで狼狽えてるだけで君に怒られるんだ。その度君は凄いって褒めたりするんだけど、君は赤くなったまま僕に馬鹿なんて言ったり」


「うん。うん……」


 昔二人で語った未来図。何一つ色褪せることなく再生される夢。私が諦めてしまっていた夢。何度も願った楽しい毎日。思うだけで涙が止まらなくなる。嗚咽が止まらなくなる。だってそんなことできないから。


「私は幸せになっちゃいけないから……。私はお母さんを殺した殺人者だから……」


「亜紀! 何も、やりたいことをやるだけが幸せじゃないんだぞ! 今だってピアノも絵もやらせてやってるだろう! そんな犯罪者の言うことに騙されるな!」


「そうです。私はただの小狡い盗人。亜紀さんの身体を盗むことはできても心までは盗めません。何が幸せかを決めるのは私みたいな他人でも、ましてや親のあなたでもない。彼女自身なんです」


「そうだ! 幸せかどうかは亜紀が決める事だ!」


「しかし警視総監殿。今を不幸に感じているのは紛れもない事実。彼女がSNSで毎日辛さを吐き出していること。あなたはご存じないでしょう?」


 ああ、そうか。ネロが私のことを分かっていてくれたのはSNSのおかげだったのか。妙に得心した私がネロを見ると「黙っていてごめん」と悲し気に言ってくれた。


「さっき君は自分が幸せになっちゃいけないって言ったね?」


「うん……」


 殺人犯だから――父の大切な人を殺した罪人だから――。だから私はその十字架を背負わなくてはならない。


「幸せになるのに理由なんて必要ない。幸せにならないための言い訳なんて必要ない」


 強い言葉でネロは言い切った。


「でも、決めるのはあくまで君だ」


 私の足はわなわなと震えていた。


「君がこちらに踏み出せば、私はすぐさま駆け出して、君を攫って飛び立とう。もしも逆に歩むのならば、黙ってここから立ち去ろう」


 だから私を父とネロの間に立たせたのか。確かに簡単な理由だったけれど簡単な問題ではなかった。私が今まで生きてきて最も責任の伴う決断。

 震える足は地面に縫い付けられていた。しかし、ここに立ち尽くす事さえ決断の一つなのだ。時間が来ればネロは逃げる為に飛び立つだろう。父の下に残る決断をするのと同じだ。


「できることなら僕を選んでほしい」


「こっちにこい! 亜紀!」


 二人の異なる提案に、私の頭は破裂しそうだった。そして、ついに私は足から生えた根っこを引きちぎって一歩を踏み出した。


「なぜだ! なぜなんだ! こんなに大切に育ててやったのに! お前は俺を裏切るのか!」


 父は罪悪感に顔を歪ませながらも幸せそうにネロの腕の中にいる私に怒号を飛ばした。ネロが割れたガラス片を踏んで小さな音を立てる。


「それでは警視総監殿。囚われの姫君は頂いて帰ります。しかしご安心を。彼女にかかる不幸は全て、私が盗んでみせましょう。怪盗ネロの名に懸けて」


 近づいて来るヘリコプターの音が一つ。


「それでは!」


 窓から飛び立つと、ロープを使ってタイミングよくヘリコプターに乗り込んだ。


「亜紀!」


「お父さん! 私! 幸せになりたい! ううん! 絶対に幸せになるから! いつかお父さんに私の幸せな顔見せにくるから! だから!」


 ヘリコプターの風切り音が大きくて喉が壊れるほどに声を上げないといけない。


「またね!!」


 ヘリコプターは遠ざかって行った。警視庁から――私の過去から――

   ***

 あれから五年後、東京から離れた田舎町で私と武志は細々と暮らしていた。夢に見た保育士をしながら、夫婦二人で家事をして暮らす日々。

 武志は一般企業に就職しながら、育児休暇を取ってまだ一歳半の娘の世話をしてもらっている。

 私はお腹に二人目の子供を抱えながら、楽しく仕事をさせてもらっていた。何一つ不満の無い自由な毎日。笑顔で過ごせる素敵な日々。

 父への後ろめたさが消えることは難しいかもしれない。もしかしたらずっと抱えて生きていくことになるかもしれない。けれど、この幸せは――私が選んだ幸せは間違いなんかじゃない。そう言い切れる。

 あの日恋した武志と一生を共にする。

 これ以上の幸せなんて考えられないのだから。


「藤本さん、今日も幸せそうね。何かあったの?」


 保育士の同僚に声をかけられる。


「いいえ。幸せですけど、その幸せに理由なんて無いですよ」


 幸せになるのに理由なんて必要ないから。幸せにならないための言い訳なんて必要ないから――
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