夢の渚

高松忠史

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その日…島中が大騒ぎとなった。

間も無く夕方になるというころ諒太は自宅の屋根に上り傷んだ屋根の補修作業をしていた。
ちょうどそんな時千鶴が勢いよく玄関に飛び込んできた。

「諒太さーん!いるー⁉︎」

千鶴は慌てた感じで家の中に声をかけた。

チーリンが玄関に出ていくと千鶴は息を切らせて切迫した表情で立っていた。

「千鶴さん 一体どうしたの⁉︎」

チーリンは千鶴の雰囲気から何か大変な事が起きたのではないかと直感した。

「チーリンさん、唯来てない⁉︎」

「いえ、来てないですよ、どうかしたの?」

「朝 家を出て行ったまままだ戻らないの…
お昼も食べに帰らずに…
唯が行きそうなところに連絡とってみたんだけど誰も見てないって…
竜っちゃんたち漁師の人みんな与那国の漁師と合同で遠くの漁場にカジキマグロ漁に出ていて明日まで帰らないし…私どうしたらいいかわからなくなっちゃって…
私、 唯に夏休み遊んでばかりいないで勉強しなさいって強く言いすぎたのかもしれない…  …ああ…どうしよう」

千鶴は明らかに動揺していた。

ちょうど諒太が屋根から脚立で降りてきた。千鶴は諒太の顔を見ると泣きそうな顔で縋った。
動揺して言葉が出てこない千鶴の代わりにチーリンが諒太に事の顛末を説明した。

「千鶴さん大丈夫だ、落ち着いて。
唯はしっかりした子だから必ず帰ってくる」

諒太は千鶴の肩に両手をかけて励ました。

「千鶴さん、もう一度唯が出て行った時の様子を教えてもらえるかい?」

「そ、そうね、」
千鶴は諒太の冷静な対応に幾分落ち着きを取り戻したようだった。

「今日着ていた服は?」

「花柄の黄色のワンピースに麦わら帽子だった…」

「どこへ行くとか言ってなかったかい?」

「いえ、何も…    ただ…
透明なプラスチックの虫かごを持って出掛けていったわ…」

「虫かご…?」
諒太は考えこんだ。

「よし、俺もこれから唯を探しに出るから千鶴さんは役場の瞳ちゃんに頼んで村の防災スピーカーで見かけた人いないか呼びかけてもらって」

「そうね、わかった!」
千鶴は飛び出して行った。

「真田さん私も唯ちゃんを探しに行きます!」

諒太はチーリンの申し出に少し躊躇した表情を顔にだした。

「唯ちゃんは私にとっても家族みたいなものなんです!」

「わかった…
チーリンさんも一緒に来てくれ」

「はい!」

諒太は車を出してチーリンと一緒に唯を探しに出発した。
唯の足取りを追って通りすがり島民に片っ端に声をかけたが唯を見たという人はいなかった。諒太は子供が寄りそうな場所や分校も立ち寄ってみたが唯が来た形跡は全く見られなかった。しばらくして島の防災スピーカーから唯を探している旨のアナウンスが流れ始めた。

車がサトウキビ畑の農道を進んでいると畑で作業していた高齢の真栄田 正雄が手を振って諒太の車を止めた。真栄田 正一は既に齢80を超えるが足腰は矍鑠としたもので未だに畑に出て働いている。しかし最近では視力と聴力が弱ってきていた。
諒太もサトウキビの収穫期にはこの畑で収穫の手伝いをしたことが何度もある。

「真田さん、今放送で聞いたが唯ちゃんがいなくなったんだって?
昼頃だったかなぁ、わし、唯ちゃんを見かけたよ。これから役場に知らせに行こうと思っていたらちょうど真田さんが通りかかったもんで」

「本当ですか!真栄田さん?」

「ただ、かなり遠かったから顔までは見えなかったけど多分あれは唯ちゃんだったと思う。黄色い服を着て一人で西の方に歩いていったよ」

「間違いない…それ唯ちゃんです」
諒太とチーリンは顔を見合わせた。

「真栄田さん、申し訳ないが俺たちはこのまま唯を追うからこのことを役場に行って話してもらえますか?」

「そんなことはお安いご用だよ。
子供は島の宝だからね」

黒縁の分厚いレンズのメガネをかけた真栄田はしわの多い笑顔で快く請け負ってくれた。
こうして島中の手の空いているもの歩けるもの全ての人たちが唯の捜索に出た。

先を急ぐ諒太の運転する車はある三叉路の前で止まった。

「どうして止まるの?」
チーリンは諒太の顔を見た。

「左に行けば沢のある雑木林に出る。そして右に行けば海に出る。
千鶴さんは唯は虫かごを持っているといった…」

「だったら虫を採りに雑木林に行ったはずでしょう?」
チーリンはさも当然だと言うように諒太に言った。

「それならいいんだが…
虫かごは虫を採るためだけのものじゃない…」



チーリンには諒太が何を言いたいのか解らなかった。

「右に少し進んで海に出た崖の下には島の人たちが鬼の洗濯岩と呼ぶ岩場があるんだ。そこの崖にはいくつも洞窟があって、岩場は海が干潮の時に現れ満潮になると水没する…
干潮の時には洗濯岩の岩場の穴に取り残された小魚や蟹が子供でも簡単に採れるんだ。もし唯がそっちに行ってたなら大変なことになる」

「どうして?」

諒太は腕時計を見た。
「この時期の満潮の時間はもうすぐだからだ」

「なんですって⁈」

「唯が雑木林に行ったことを祈って俺たちは海へ探しに行こう」

「はい!急ぎましょう」

車は崖の上の草っ原に停まった。
そこから下へは人の手で造られた岩をそのまま利用した荒削りな階段が下の岩場まで続いている。
まだこの時間、崖の上から岩場が見ることができたが、低気圧が近づいているため沖の海の波は高く白波がたっているのが見える。
二人は急いで階段を駆け下りた。

「唯ー!」
「唯ちゃーん!」

二人大きな声で呼びかけるが唯の返事はなく岩場に唯の姿は見えない。

長い年月をかけ波によって浸食されたこの場所はまさに洗濯板のようなギザギザの紋様が岩に記され、至る所に窪地があり、海水が溜まったところには干潮のため小さな海棲生物が取り残されていた。沖の100メートル程先にはまるで筍かゴジラのような奇岩が海からいくつも突き出している。そして崖下には大小8つの洞窟群が暗い口を開けていた。
小さなもので大人が屈んでやっと入れる程度の大きさで、最大のもので大型トラックがそのまま入れるくらいの大きなものまであった。
島の言い伝えによるとこの洞窟にはこの地域の海を荒らし回った大昔の海賊の財宝が隠されているという話しがあるが、実際にはその様な証拠は見つかってはいない。
洞窟の奥行きも3メートルくらいのものから長い洞窟で50メートルくらいと様々であった。
岩場にいない以上、もし唯がこの場所にいるとしたらあとは洞窟の中であった。

諒太は唯がここにいない事を祈った。

「手分けして探しましょう!」
チーリンが言った。

「わかった、ただしあと10分もすれば潮が満ちてくる。
絶対に無理はしないで時間になったら階段を上るんだぞ」

「はい!」

「俺は奥の方から探すから手前の方を頼む!」
そう言うと諒太は一番遠い洞窟に向かって駆け出した。

「唯ー!」

諒太は洞窟の中に入り唯の名前を叫んだ。湿ったひんやりとした空気が諒太を包み込んだ。西に位置するこの島は夏の日の入り時間が遅い。
幸い洞窟の中が真っ暗ということはなかった。

いない…
諒太は次の洞窟に移った。

チーリンも足場の良くない洞窟の中を進むのに苦労していた。

「唯ちゃーん!」

洞窟の中に声が反響するが返事はなかった。こうしている間にも水位が上昇していった。チーリンが次の洞窟に入るころにはとうとう海水がチーリンの膝の高さにまで達していた。その時、僅かだが波の音に混ざって子供の泣き声がチーリンの耳に聞こえたような気がした。

「唯ちゃーん!いるのー⁈」

「おねーちゃーん!」

奥の方からはっきりと唯の泣き声混じりの声がチーリンに聞こえてきた。水の中をチーリンは進むと洞窟の行き止まりで唯が動くことも出来ずに泣いていた。

「唯ちゃん!」
チーリンが近寄ると唯はチーリンに抱きついてきた。
足元には貝が入った透明な虫かごの箱が転がっていた。

「もう大丈夫よ…
怖かったね…」

唯はチーリンにしがみついて震えながら泣いていた。チーリンが唯を抱き抱えて戻ろうとしたとき洞窟の中に入ってくる波は勢いを増してチーリンの腰の辺りまで達していた。
進もうにも勢いのある波の力に前に進むことが出来ない。

チーリンは思いっきり叫んだ。

「真田さーん!」


岩場に出た諒太も増えた海水に行く手を遮られてなかなか前に進むことが出来なかった。
どこからかチーリンの自分の名を呼ぶ声が波の音の間から聞こえてきた。

「チーリン! いま行く!」

連続してチーリンの呼ぶ声が聞こえる洞窟に諒太は飛び込んでいった。
水は諒太のへその辺りを越えようとしている。

「チーリン! チーリン‼︎」

「真田さん! 唯ちゃんも一緒よ!」

十数メートル程進むと洞窟の奥でチーリンに抱き抱えられた唯を諒太は見つけた。

「諒太おじちゃん!」

一度は泣き止んだ唯が諒太の顔を見た瞬間また泣き出した。

「唯! 心配させやがって…」
諒太は泣く唯の頰を両手でさすった。

「さあ、チーリン急ごう!」

しかし後ろを振り向いた諒太は愕然とした。この洞窟は奥に進むにつれて緩やかに上っている。つまり引き返す出口の方向は下りとなり、海水は諒太が入った時よりかなり増えていた。諒太一人ならなんとか抜ける事も出来るかもしれないが、チーリンと唯を連れてこの高い水位の中を進む事は自殺行為に等しい。
しかも洞窟に入る押し寄せる波と強い引き波に体がさらわれる可能性が高く、この波で子供を連れて十数メートルも泳ぎきることなど不可能に近い。

遅かったか…!
目の前の光景に諒太はほぞを噛んだ。諒太は他に出口がないか周りを隈無く見渡した。しかしこの洞窟には横穴や縦穴もなく、目の前には行き止まりのほぼ垂直の壁があるだけだった。このまま時が過ぎれば間も無くここも海水に飲み込まれてしまうだろう。
諒太は諦めずに洞窟内を観察していると壁に黒く残されたライン状の水の跡に気づいた。
これは過去の満潮で海水が入って来たときに残されたものだ。

そうか! 

諒太は気づいた。
つまり海水が入ってきてもこの水の跡より上に水が満ちることはなく、この洞窟が完全に水没することはないということだ。
そしてチーリンの足元の行き止まりの壁には人ひとりが乗れる高さ30センチ程の段差があった。
これなら何とかしのげるかもしれない…

「チーリン、唯と一緒にその段差に乗るんだ!」

「でもそれじゃあ真田さんが!」
チーリンは泣きそうな顔をして諒太を見つめた。

「議論している暇はないんだ!
早く!」

チーリンは諒太に言われるがまま仕方なく両親に似て小柄な唯を抱き抱え段差に上がった。諒太は背中で押し寄せる波から二人を守るように防波堤となりチーリンと唯に向き合うと両手の塞がったチーリンの体をしっかりと支えた。

そして…
海水が諒太のみぞおちの辺りに達したとき、諒太の脳裏にあの日の光景がまざまざと浮かんでくるのだった…


あの日ー

街中に響き渡るサイレン…
石巻の空には雪が舞っていた。
3月の未だ春の遠い東北の鉛色の空だった…

通信網は遮断され諒太は妻の絵美と連絡が取ることが出来なかった。
もうさすがに避難所に避難しているだろうと思ったが諒太は嫌な胸騒ぎにとらわれた。
緊急対応マニュアルに従って業務を閉鎖した後に会社の研究室から飛び出した諒太は2キロ離れた社宅に向かって走った。街には既に車が溢れ大渋滞を起こしていた。
街はところどころ大きな揺れで破壊されたブロック塀や落ちた看板などで道が塞がっていた。いつも以上に時間がかかる道のりをやっとのことで社宅に辿りついた諒太はちょうど保育所から娘の愛を連れ帰ったばかりの絵美と出会した。

「絵美!
何で避難しない!」

「だってあなたと愛が写った思い出のアルバムが!」

「いいから早く高台に避難するんだ!」

娘の愛を抱っこひもで抱えたままの妻、絵美の手を引っ張って諒太は高台に向かって走り出した。
津波の接近を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響き、至る所で車のクラクションが鳴っていた。
遠くに見える港には空に向かって黒い煙と火炎の炎が立ち上っている。

そしてそれはやってきた…

逃げてー! 
キャー! 
助けてー!

悲鳴と怒号…
人々の阿鼻叫喚が渦巻いていた…

ゴォーという轟音とともにどす黒い水が街をのみこんでいく。

バリバリという凄まじい音をあげて昼まで幸せに過ごしていた人々の家々が白い煙をあげ倒壊し呆気なく濁流に流される。
車もまるでおもちゃのように軽々と水に浮かぶと人を乗せたまま黒い水に流されていった。
倒壊した木々、さっきまで建物だったであろうと思われる木材や瓦礫、船、看板、そして動物、屋根の上に上った人まで…すべてが飲み込まれ流されていく…
それはまさに地獄の光景であった…

諒太は高台を目指して絵美の腕を引っ張って必死で駆けた。
後ろの横道から黒い水が流れこむのが見えた。この先のお寺の脇の細い路地の先には山に続く階段がある。そこを登れば助かる!

しかし…
諒太の希望は絶望へと変わった。
古い民家が倒壊し路がなくなっていた。

「あなた…」
絵美は哀しい顔を諒太に向けた。

絵美の胸で愛は泣き出した。

濁流はすぐそこまで迫っていた。


もう…
どうすることもできなかった…

諒太は街灯の支柱に掴まると愛と絵美を抱き寄せた。

あなた…ごめんなさい…
私… 

今まで…ありがとう…

絵美の声にならない声だった…


「馬鹿!最後まで諦めるな!」

涙を流す絵美を諒太は叱った。


「パパ…」

愛がか細い声で諒太を呼んだ。

「愛…」

諒太は愛の頭を優しく撫でた。
諒太の瞳からも涙が流れ落ちた。

そして黒い濁流が三人を襲った…

必死に支柱にしがみつきながら諒太は絵美を抱き寄せた。
水の勢いは圧倒的で愛を抱いた絵美は諒太から離れそうになった。
諒太は左手で支柱を掴むと右手で辛うじて絵美の手を掴んだ。

「絵美! 手を離すな!」

首まで水に浸かった諒太は叫んだ。
更に濁流の勢いは増す。

諒太の手を握る絵美の手はもう指がかかるだけとなった。

絵美は諒太に首を横に振った。

そして諒太に笑いかけた…

そんな…だめだ!
諒太は指に必死に力を入れた。
その瞬間、流されてきた先端の尖った木の枝が諒太の左肩を貫いた。

グァ!

諒太は支柱を離した。

無情にも掴んだ手は離れ絵美と愛は流されていった…


絵美…

愛…


諒太の意識は遠のいていった。
皮肉にも諒太の肩を貫いた枝が漂流物に引っかかり諒太だけ引き波に海まで流れず救助された。


諒太は全てを失った
海に全てを奪われた

妻の絵美も…

娘の愛も…

苦楽を共にした同僚も…

明日を生きる力も…

そして誇りも…




「怖いよぅ…」

唯の怯える声で諒太は我に返った。

「唯… おじちゃんが必ずお母さんとお父さんのところに唯を還してあげるからな…」

諒太は唯の髪を優しく撫でた。

「本当?  諒太おじちゃん?」

「ああ、本当だ。
少しの辛抱だからな…  唯は強い子だから我慢できるよな?」

「うん…」

唯は安心したように頷いた。


諒太はチーリンを見上げた。

「チーリン…君もだ…
俺が必ず君を守る…」

諒太はゆっくりと大きく頷くと爽やかに笑った。


…え?

真田さんのこんな笑顔初めて見た…
諒太のチーリンの瞳を見つめ続ける目はどこまでも透き通っていた。

チーリンは体の中が熱くなっていくのがわかった。

そして…
チーリンは諒太の小さく呟いた声を聞いた。

俺は二度と離さない…



その頃、唯を探しに出ている島民で結成された捜索隊は真栄田からの情報をもとに唯が向かった方向にある雑木林と海に分かれて捜索を続けていた。
海に捜索に出ていたグループが崖の上に停まる諒太の赤いピックアップトラックを発見した。
真栄田から諒太とチーリンがすでにこちら方面に捜索に出ていることも皆に伝えられていた。
周りに人影はない。

「真田君たちは唯ちゃんを探しに崖下に降りたのか⁈」

津嘉山正雄は雑木林に向かったグループに急いで海に来るよう携帯で連絡した。

「おじさん!俺、下に見に行ってみるよ!」
アントニーが叫んだ。

「だめだアントニー!
お前一人だけじゃ無謀すぎる!」
津嘉山は止めた。

「だって…真田さんとチーリンさんが!…」

「気持ちはわかるけど皆んなが来るまで待ちましょう…」
国吉 節子がアントニーに声をかけた。
他の島民も頷いた。

日頃諒太に面倒を見てもらっているアントニーだけに男として何も出来ないことが悔しく唇を噛んだ。


洞窟の中では押し寄せる波と諒太は格闘していた。すでに水は諒太の胸に達し、背中で強い波を盾となり受けチーリンと唯を守っていた。
波は諒太の背中にぶつかると今度は引き波となって諒太たちを海に引きずり込もうと強い力で引っ張った。
諒太は足を踏ん張り必死で耐えていた。

雑木林から千鶴をはじめ唯の捜索隊が合流し、役場からも瞳がかけつけた。

「唯! 唯はどこに⁈」
千鶴は泣き叫ぶように辺りを見渡し津嘉山に問い詰めた。

「わからない…
ただ、真田君の車がここにあっただけなんだ…」

「そんな…   唯! 唯!」
千鶴は血まなこになって崖の階段を下りようとようとした。

「だめだ、千鶴さん!
危険過ぎる!」
普段大人しい海人の主人 平仲 篤が千鶴を遮った。

「嫌!離して!」
千鶴は平仲の腕を振り解こうと暴れた。

「僕が階段を下りて見てくるから千鶴さんは動かないでください!」
平仲は階段に向かった。

「あんた気をつけるんだよ!」
常に勝ち気の海人の女主人 寛子が夫の篤に声をかけた。

平仲は慎重に階段を下っていった。
左手に見える海はゴーゴーと唸りをあげて白波をたてていた。
右にカーブしながら崖沿いに下りながら続く階段は先が見えなかった。
10メートルも下ったところで平仲の足が止まった。

平仲はその場に立ちすくんだ。

(なんてこった…)



ドーンと崖に波が当たる大きな音が外からして数秒後にザーッと洞窟の中に白く泡立った海水が勢いよく押し寄せた。そして波は次の波の助走のように一気に引き波となっていく。とうとう押し寄せる海水は諒太の首の高さまで達し、否応なしに諒太の体力を奪っていった。
震えながら唯はチーリンにしがみついていた。

「諒太さん!」

チーリンは眼下の諒太に声をかけた。

「チーリン…  唯を…しっ…かり
抱い…て …いて…くれ…」

諒太は頭に波をかぶりながら必死に言葉をつないだ。

「はい!」

諒太のチーリンを支える腕に力が入った。


平仲が階段から上がってきた。
その場に集まる全員が平仲の言葉を待った。

平仲は沈んだ声で言った。

「階段の下の方は海にのまれてしまって下ることが出来なかった…
唯ちゃんも真田君もチーリンさんもいなかった…」

その言葉を聞いた千鶴は失心したようにその場にうずくまった。
つい先程役場から来たばかりの瞳も呆然と立ち尽くした。
誰もが三人の無事を祈っていたが、平仲からの状況を聞いて絶望感がこの場を支配した。

「洞窟は?  洞窟はどうだった?」
リタイヤして近所でもずく漁をしている喜久山という老人が聞いた。

「いや、階段からは洞窟までは見えなかったよ喜久山さん…」
平仲は下を向いて答えた。

「そうだよ!真田さんたち洞窟にいればもしかして助かるんじゃないの⁈」
アントニーが声を弾ませた。

「いや、アントニー…満潮の時は洞窟も海の中だよ…」
真栄田が沈んだ声で呟いた。

「そんなのわからないじゃないか!
誰か船を出して真田さんたちを助けに行ってよ!」
アントニーは声を張り上げた。

「無茶を言うんじゃない、あんな岩場で船を出したらすぐ座礁してしまう。それに源さんたち漁師が出払っている今、こんな荒れた海に船を出して船を操れる人間がいないじゃないか?
今は真田君を信じて潮が引くまで待つしかない…」
津嘉山はアントニーを諭した。

「おじさん!…」
アントニーは苦虫を噛み潰したような顔を津嘉山に見せたあと強く両手の拳を握って海を睨んだ。



満潮の時間帯がやってきた。
押し寄せる波はついに諒太の頭を超えた。諒太は引き波の時に息をする他はなかった。
174センチの長身のチーリンとチーリンに抱き抱えられる唯も首から上が水面から出るのみで全身が水の中に没した。押し寄せる波より引くときの波のほうが諒太の力を奪ってく。足をしっかり地面に踏ん張らないと後ろにもっていかれてしまう。さらにチーリンと唯を壁に押し込む力も必要だった。
尚且つ諒太はこの力がいる瞬間に呼吸もしなければならない状況になった。

浮力で体が浮く…
諒太の体力はみるみる奪われていく…
次々に押し寄せる波に諒太はついに水を飲みこんでしまった。
むせびこむ諒太はいよいよ呼吸が出来なくなった。

「諒太さん!」
「おじちゃん!」

諒太は全身が完全に水中に没した。
肺の中の空気が全部気泡となって口から出ていった。


苦しい…

踏ん張れない…


諒太の体が水中でぐらついた。


ここまでなのか…

俺は…

また…


意識が遠退いていく…

水中なのにまるで木漏れ日の中のように暖かい…

気持ちが良かった…

諒太は抗うことも出来ず身を任せた…

引き波に引っ張られ諒太は水中をまるでスローモーションのようにゆっくりと後ろに倒れていった。



その瞬間…後ろに倒れゆく諒太の背中を押し返す力が働いた…



だ…れ…?

諒太は薄れゆく意識の中、はっきりと自分の背中を押す温かい人の手の温もり感じたのだった…

そして…
諒太には絵美が愛を抱き、二人の笑う顔が見えた…
優しく諒太に微笑みかける絵美は右手をそっと差し出した…

絵美…

諒太は絵美の差し出された右手を掴もうと自らの右手を出した…



次の瞬間、諒太の耳に声が聞こえた…

「立って! 諒太さん!」

水中で倒れかける諒太の右手をチーリンが左腕に唯を抱えたまま右手を必死に伸ばして握っていた…


諒太はチーリンに引っ張られ顔を水上に上げると胸いっぱい息を吸い込んだ。
そしてはっきりと覚醒した。

「チーリン⁈」

「諒太さん!…」

しばし二人は見つめ合った…
無事で戻った諒太を見てチーリンの瞳には涙が溢れていた…

もう諒太に怖れはなかった。

その後、諒太は潮が引きはじめるまで実に3時間もの間二人を波から守り続けた…



崖上では皆言葉もなく絶望感が拡がっていた。
どうする事もできずにうずくまる千鶴の肩を瞳は抱いている。
陽はすでに水平線の下に沈み、波の音だけが黄昏時のこの時間を支配していた。

「お母さーん!」

階段から唯がずぶ濡れのまま元気に駆け上がってきた。
皆一斉に階段の方に顔を向けた。

「唯!  」

突然の娘の姿に千鶴は泣きながら駆け寄って唯をしっかりと抱き締めた。

「唯ちゃん⁈」
「奇跡だ!   奇跡が起こった!」
皆一斉に駆け寄った。

フラフラの諒太とチーリンもずぶ濡れの姿で階段から上がってきた。

「諒太さん!  」「真田君! 」
「チーリンさん!  」「諒太おじさん!」

皆思い思いに二人に駆け寄った。
三人の無事の帰還に皆安堵の表情を浮かべた。
涙を流すものもいる。

唯を抱き抱えた千鶴が涙を流しながら諒太とチーリンに歩み寄ってきた。

「諒太さん… チーリンさん…
ありがとう… 本当にありがとう…」

諒太は微笑みながら唯の顔を撫でた。唯は母親の胸に抱かれて安心した表情を浮かべていた。
同時に周りの人たちから歓声と拍手が起こった。

諒太は唯とチーリンの安堵した表情を見て万感の思いで微笑えんだ…


良かった… 

二人とも無事で本当に良かった…

俺は…これで…


ドサ!

その場に諒太は倒れた。
一瞬の出来事だった。
満身創痍の諒太はとうに限界を超えていた。

「諒太さん?」

「諒太さん‼︎」

チーリンが地面に倒れた諒太に駆け寄った。

諒太はピクリとも動かなかった。


嫌ァー!
茜色に染まる陽の沈んだ空にチーリンの悲鳴が響き渡った…















































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