夢の渚

高松忠史

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17 与那国島のDr.紀藤

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「まだかねぇ?…あんた?」

「心配すんな もうすぐ来るさ…」

呉屋亜久里とその妻とし子はジリジリしていた。
ここは美波間島の港の埠頭である。
与那国島からの連絡フェリーが到着する時間にはまだ2時間も早い。
二人が今や遅しと待っているのは与那国島を出港した一艘の観光用モーターボートである。
夫婦は観光客を待っているのか?
いや、そうではない。 
モーターボートに乗船しているのは与那国島唯一の診療所の医師 紀藤賢介である。
紀藤は普段 隣の与那国島の小さな診療所で働くたった一人の医師である。紀藤は月に一度、美波間島の分校の保健室を使って美波間島民のため出前診療を行うため海を渡ってやってくる。
 しかし今日はその定期診察の日ではない。
急患の連絡を受けた紀藤はフェリーの時間まで待たず、普段懇意にしている与那国観光船の社長に頼み込み観光用レジャーモーターボートで海を渡ってくるというのである。 
呉屋夫婦はこちらに向かっている紀藤の到着を待っていた。


医師 紀藤賢介の生き方は普通の医師とは少々異なる。
現在36歳になる紀藤は最高学府の東京帝国大学医学部を優秀な成績で卒業し、その後帝国大学病院で外科医として勤務した。頭脳明晰で手先が器用な彼は外科医としてたちまち頭角を現し、僅か数年で帝国大学病院でトップクラスの外科医として名を馳せるようになった。
その正確無比な執刀の腕は周囲から「神の腕を持つ医師」と呼ばれ、やがて紀藤に執刀してほしいと希望する患者が日本中から集まるほどになった。正に紀藤は医師の中でもエリート中のエリートであったのだ。

当時の紀藤は医師として天狗になっていた。
有力な政治家や経済界の重鎮から直接指名で執刀を依頼されることもざらで、受け取る報酬もかなりの額に達し、都内に月に数百万もする家賃のマンションに一人で住み、紀藤が執刀した裕福な会社社長から贈与された外国製高級車を乗り回した。
紀藤は誰も手を出したがらない難しい開腹手術のタイムレコードをだすことだけに医師としてのアイデンティティを感じ、自らの技量に酔った。患者の名前やその家族など興味もなく、彼にとってはあくまでいちクランケであり、紀藤が向き合っていたのは病気で苦しむ人ではなく、病症そのものであった。

そんな紀藤に人生が一変することが起こった。

それは一人の少年との出会いであった…

2011年3月、東日本大震災で大きな被害が出た岩手県釜石市に紀藤は医師として派遣されることになった。
これは赤十字が帝国大学病院へ現場で不足する医師の応援の派遣要請をしてきたためであった。 当初紀藤は東京を離れることに難色を示し、被災現場へ行くことを拒絶した。
大学病院側もいっときでも紀藤が抜けることは痛手であったが、赤十字との関係を慮った院長のたっての頼みについに紀藤は折れた。
だが釜石までの移動は困難を極めた。車に医薬品や燃料などを満載し紀藤ら医師や看護師四人を乗せた自家用車であったが、通常ルートは災害の影響で既に通行が出来ず、大きく迂回して釜石に到着したのは東京を出発して実に18時間後のことであった。
到着した釜石の街は酷い惨状で地震と津波の被害が広範囲に渡っていた。 そんな中、指示により紀藤らが行き着いたのは釜石郊外の中規模の病院であった。
紀藤らが到着した段階でも病院の中には被災し怪我を負った人々がロビーや廊下にまで溢れかえり、それはまるで野戦病院のようで街は戦場の中のような有様であった。
怪我人の呻き声があちこちから聞こえ、その中に混じって泣き声も聞こえた。現場の医師や看護師たちは何十時間も休むこともなく必死で患者の手当てにあたっていた。
郊外とはいえこの病院でも震災の影響は大きく、病院に貯蔵していた重油が底をついたせいもあり、自家発電機が停止し断続的な停電が続いていた。
そんな中で紀藤ら応援の医療関係者も早速怪我人の治療にあたった。
運び込まれる怪我人も裂傷し血を流しているもの、捻挫しているもの、腕や脚を骨折しているもの、油の浮いた水が目に入って目が見えなくなっているものなど症状は様々であったが、これらはまだ軽いほうで、頭蓋や内臓に損傷を受けているものなど重傷者も数多くいた。
それらの症状別に患者の腕に色別のリボンが巻かれ治療の優先順位が決められた。その中でも特に怪我の程度が重い患者の治療に紀藤はあたった。 普段と違い停電のため満足な検査が出来ない状態であったため、次から次へと運び込まれる患者を紀藤は持ち得る医療機器で対応する他はなかった。 
そして持参した医薬品は瞬く間になくなった。
何人にも及ぶ長時間連続した手術で紀藤の体力も限界に達しようとした時、30代後半くらいの一人の女性が運び込まれた。
女性は内臓を損傷をしていて腹部に血が溜まっていた。このまま開腹すれば出血過多で助からないことは紀藤の触診でも明らかであり、別の病院に女性を搬送するにももう手がなく、運び込まれた時点で もはや手遅れの状態であった。
これがもし東京の大学病院なら万に一つでもこの女性を救えた可能性があったかもしれないが、ここの設備と今のこの状況下ではさすがの紀藤でもどうすることも出来なかった。
 痛みに苦しむ女性に鎮痛剤を打つことくらいしか紀藤に出来ることはもう残っていなかったのである。

それから数時間後…女性は静かに息を引き取った。
紀藤が看護師から女性の病室に呼び出された時には既に心電図はフラットの波に変わっていた。
紀藤はその時はじめて気づいたのだが、女性のベッドの傍には一人の少年が佇んでいた。
紀藤の見たところ少年は中学一年生といったところか… 
少年は涙を流すでもなく、女性にすがりつくでもなく、ただ直立不動で静かに眠る女性の顔を見つめていた。
ただ拳を握りしめて…

そして少年は紀藤の正面に立ちハッキリとした口調で言った。

「母がお世話になりました
ありがとうございました」 …と

(え…? ありがとう?)
紀藤は少年の言葉に呆然と立ち尽くした。

そして少年は紀藤に深々とお辞儀をすると病室を出て行こうとした。

「あっ…  君…どこに行くの…?」

紀藤の問いかけに少年は

「妹を探しに行ってきます
まだ見つからないんです」

少年は気丈に一言だけ言うと顔を上げ歩き出した。
災害にみまわれたためか全身埃にまみれ ところどころ破けた服を着た少年のその背中は小さく震えていた。
他の人も大変な思いをしているのに自分だけ泣いてなんかいられない…
気丈に立つ少年の背中はそう語っていた…


僕は…無力だ…
その瞬間紀藤の頰に涙が溢れ落ちた…


この出来事が紀藤を変えた ー
患者には患者を想う家族がいる…
患者には病院に治療に来るまでに長い人生の物語があり、その後も長い人生の物語があるということ。
そして一人の人生が周りの多くの人に影響を与えているということ。
 その命の灯火が消えたとき悲しむ人が大勢いるということ。
医術とは病症を取り除くことではなく、病気や怪我で苦しんでいる人を待ってくれている家族の元へ無事に帰すことが使命だということ。

紀藤には医師として見失っていたことが今はっきりと見えたのであった。
東京に帰ってきてから紀藤は所詮自分の腕など最新医療機器に囲まれ、高価な薬品の力に助けられていただけのものであったと痛感した。
また、痛みに苦しんでる患者が診察室に入ってきてもパソコンの画面ばかり見て患者の顔を診ようともしない現場の医師や再診に患者が訪れてもカルテを見ないと患者の名前すら覚えていない医師ばかりの今の病院の現状に紀藤は憂いを覚えた。

その後、紀藤は周囲が止めるのも聞かず全てを投げ捨て与那国島に渡る決意をした。
当時、離島医療は慢性的に医師が不足し、離島へ転勤希望する医師がなく、そのため多くの離島は該当する都道府県の県立病院から医師が一定期間当番で診療所に派遣される形を取らざるを得ない状況にあった。
その時たまたま医師不在となっていた与那国島の医師求人募集を目にした紀藤は満足な医療機器など望めない離島の小さな診療所の現場で医師として患者と真正面から向き合う覚悟をしたのだった。
与那国島に移住した紀藤は島で購入した愛用の白いママチャリで島中を走り周り、名前を覚えてもらうため行きあう人に積極的に声をかけた。
また、紀藤は診療所にこもることなく、話しの中でお年寄りなどが体の調子が悪いと聞くと自ら精力的に自宅に訪問し診療を実施した。
紀藤にとってかつてクランケと呼んだ患者の呼び方は一人一人尊厳ある名前に変わった。
与那国島の島民も最初はどうせ直ぐに東京に帰るものだと紀藤をみていたが、紀藤の真正直な性格と本気で島に定住する覚悟の彼を見て次第に心を許すようになっていった。
紀藤は島で暮らす島民の生き方と考え方に敬意を持っていた。
自宅の畳の上で最期を迎えたいというお年寄りには何時間でも布団の側に座りこみ最期の瞬間までともに付き添い、幸せそうな表情で息を引き取っていくお年寄りの手をしっかりと握りしめ周りの目も気にせずその家族とともに涙を流し死を看取った。

紀藤の心の中にはいつもあの少年がいる…
母親を救ってあげることができなかったことへの贖罪…
いや…自らの驕りに対する戒めなのであろうか…
紀藤は生涯あの名も知らぬ少年と
ともに生きていく道を選んだ。

あれから七年経った今、あの時少年だった彼は成人しているはずだ。
今どんな風に暮らしているのか?
元気にしているのだろうか?
その後妹は見つかったのだろうか? 


いや…
それを調べても詮無きことだと紀藤は認識している。
今の紀藤はこの先もしあの少年に偶然会ったとき医師として恥ずかしくない生き方をしていたいと思うだけなのである。

医師 紀藤賢介はそんな想いを胸に抱き今、海を渡り美波間島に向かっている…



「来たよ!あんた!」

コバルトブルーの海を白く波を切り裂きながら純白のモーターボートがこちらに向かって来るのが見える。
ボートは波の上をまるで飛び跳ねるように疾走してくる。

「あんた…なんかおかしいよ…」

モーターボートの舷側から上半身を海に突っ伏している人の姿が見て取れた。
ボートが近づくにつれその様子がはっきりと呉屋夫婦に見て取れるようになった。

「あちゃー 先生まただよ」
亜久里は頭を抱えた。

紀藤は船酔いで吐いていた。
紀藤の乗り物に酔いやすい体質は与那国島や美波間島でももう有名だ。
大きなフェリーでも酔ってしまうのに今日のような小さなモーターボートでは尚更である。ボートが接岸するとヘロヘロになった紀藤がいくつも荷物を持って島に上陸した。

「徳さんありがとう…」

「先生頑張れよー!」
徳さんと呼ばれたボートの操舵手は手を振ってボートを離岸させた。


「大丈夫かい先生⁉︎」
呉屋夫婦は紀藤に駆け寄った。

「あ、呉屋さん… 
だ、大丈夫で  … ウッ…」
紀藤は手で口を押さえた。

亜久里ととし子は顔を見合わせた。

紀藤は医師としての腕は超一流なのだが、外見に気を配ることを知らない。 黒縁眼鏡に放ったらかしの寝ぐせのついた髪、ヨレヨレになった白衣と知らない人が見たら医師というより時代遅れの学者に見えるかもしれない。 与那国島に移り住んでからその洒落っ気のない様は更に磨きがかかったようだ。


その頃、分校には千鶴や居酒屋「海人」の女主人 寛子、源一の妻 鐘子、今ベッドで苦しんでいる金城亜矢子の愛娘で小学校一年生の真奈美らが集まり紀藤の到着を待っていた。

「亜矢子さんの具合はどう?」
車で駆けつけ保健室のドアを開けた諒太は千鶴に尋ねた。チーリンも諒太の後に続き保健室に入った。

「あ、諒太さん、チーリンさん…
それがだいぶ辛そうなの…」
千鶴は見るに忍びなさそうな表情で亜矢子の姿を見ながら答えた。

ベッドで横になっている亜矢子はあぶら汗を浮かべ息も荒く痛みに耐えている様子だった。

「今、港に呉屋さん夫婦が紀藤先生を迎えに行っているから多分もう少しでここに着くはずよ」
寛子が答えた。

「そう…ところで浩司さんとは連絡はとれているの?」

「携帯の電波が届かない外海にいるみたいでさっき私から漁協の無線でうちのに話しといたよ」
源一の妻 鐘子は心配そうにベッドの上の母親を見つめる真奈美の手を取りながら答えた。
源一の漁船に亜矢子の夫であり、真奈美の父親の浩司は乗っている。

お互いこの時が初対面の鐘子とチーリンは挨拶を交わした。

「うちの旦那がいつも迷惑かけているみたいで悪いわねチーリンさん」

60代で肝っ玉母ちゃんの雰囲気が滲み出ている鐘子は頭を下げた。
実際、鐘子は美波間島の漁師の良き母親役で気性の荒いあの源一ですら頭が上がらない存在であった。

「とんでもないです…私の方こそお世話になっているばかりで」
チーリンも頭を下げた。

「鐘子さん、源さんの船は今どこにいるんです?」
諒太は尋ねた。

「与那国の漁船と船団を組んで島から200キロも離れた海にいてどんなに急いで帰っても5時間はかかるみたいなのよ…」
溜息混じりに鐘子は答えた。

「そうですか…」

その時、エンジン音が聞こえ呉屋の車が校舎の外に到着した。

「大変遅くなりました!」
医療セットなど荷物を肩にかけた紀藤医師がまだ船酔いの抜けぬ青い顔をして呉屋夫妻とともに保健室に入ってきた。

「先生!」
そこにいる皆が紀藤の元に駆け寄った。

「皆さんご無沙汰しております」
律儀な性格な紀藤は一人一人の目を見て会釈しながら挨拶を交わした。

「はじめましてサイチーリンといいます」

「どうも…紀藤で…

紀藤は自分より背の高いどこか見覚えのある美しい女性の顔を二度見した。

「えっ!サ、サ、サイチーリンさん⁈」

「はい…」

紀藤は後ろを向くとおもむろに白衣の内ポケットからくしを取り出しペタペタ寝ぐせのついた髪を撫で回した。

「い、医師をしております き、紀藤と申します!」
紀藤はチーリンに向き直ると照れと緊張で吃りながら自己紹介をしだした。顔は赤く上気し眼鏡は白く曇っている。

「この部屋なんか曇ってますねぇ
チーリンさん… ハハハ…」

「ちょっと先生!早く亜矢子さんの具合を診てやってくんな」
鐘子は紀藤の様子を見かねて声を出した。

「そ、そうですね」
紀藤は我に返って答えた。

「それではこれから亜矢子さんの診察をしますので皆さんは隣の教室の方で待っていてもらえますか?」
紀藤は医師の真剣な目に戻って移動を促した。
カーテンを閉め、痛みに耐える妊婦の亜矢子の横に立つと紀藤は亜矢子に声をかけた。

「亜矢子さん、紀藤です。わかりますか? 辛いでしょうけど頑張りましょうね」

しかし紀藤の励ましにも亜矢子は汗だくになり呻き声を上げるだけで言葉で返すことはできない状況であった。
早速紀藤は持参した医療セットを駆使して亜矢子の診察を開始した。

うぅ…
亜矢子は陣痛の痛みのあまり声を上げた。

検査する紀藤の顔が曇った…
(これはまずいな…)
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