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第弐念珠

#015『サイドブレーキ』

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 電気店を経営するまゆずみさんが、一念発起して若い頃から乗りたいと思っていた某国産高級車を購入したのは、今から5年ほど前のことだった。

 乗り心地は、思ったとおり抜群、快適。休みの度に洗車したり、近場を目的もなくドライブしたりするのが何よりの楽しみだったという。

 そんなある日。


「なぁなぁ親父!親父の車、貸してくれよ。今度の休み、彼女とデートなんだ」

「は?何言ってんだタカシ。自分の車があるだろ」

「あの車がいいんだって!わかるでしょ、軽自動車と高級車じゃ、女の子の反応がさぁ」

「・・・わかった、わかった。擦ったり事故ったりするんじゃないぞ。あと、自分の車だって嘘つくなよ」


 そういう次第で愛車を息子に貸し、自分は息子の車を運転して古い友人のところまでブラリと遊びに出ることにした。


「へぇ~。タカシくんも色気づいてきたなぁ」
「まったく困るよ。休日のドライブが俺の癒やしだったってのに」

 友人はニンニクなどを栽培している農家の人で、自分の畑の近くに住んでいた。
 季節は夏。庭先でスイカをご馳走になりながら話を弾ませていた黛さんであったが、ふと「車のサイドブレーキを引いたっけ」と思い当たり、会話を途切れさせてしまった。

「?どうした?」
「え、あ、いや。何でも無い」

 黛さんの新車はオートマ仕様であったが、シフトを『P』に入れると自動的にサイドブレーキがかかる仕組みになっている。「こりゃ便利だ」と喜んでいたのも良し悪し。それに身体が慣れてしまったが為、他の車を運転した時についうっかりサイドブレーキをかけ忘れることが今までしばしば、あったのだ。

(ちょっとヤバイ、かな・・・?)

 何でも無い、とは言ったものの、車は少し勾配のある脇道に停めている。
 もし、少しずつでも坂を下り降りてしまっていたら――

「や、やっぱ見てくる。ちょっと待っててくれ、な」

 そう言い残し、黛さんは友人宅を飛び出した。
 足早で、車を停めていた場所まで急ぐ。
 直ぐに息子・タカシくんの青い軽自動車の姿は見えた。と同時、「何てことだ?!」黛さんは、愕然として全身に沫が生じるのを感じた。


 車が、じわりじわり、動いている。

 やはりサイドブレーキをかけ忘れていたのだ。

 それはそれで大変だ。大変なのだが――


「う、うそだろ」


 車は、坂道をゆっくりといた。

 それこそ、歩くより更に鈍いスピードで。まるでナメクジのようにスローに、スローに、

 ――


 弾けたように、黛さんは走り出した。
 車の運転席側に取り付き、ドアを開けて乗り込んだ。相変わらず車体は動き続けているものの、あまりにゆっくりなスピードだった為、そう難しいアクションではなかった。

 とにかく止めなきゃ。サイドブレーキに手をかける。
 そして、気づく。
 ――

 ・・・どういうわけだ?と思った瞬間、車体が止まった。
 更に直後、すわ地震かと言わんばかりにゆっさ、ゆっさと車全体を揺り動かされた。

「わ、わ、わ、わ、わ?!」

 次から次に襲いかかるふざけた現実。
 誰だぁ、と叫びながら直ぐに外へ飛び出してみたが、周囲に人の姿は無かった。
 だが。


 ――車のいろんな箇所に、小さな動物の足跡のようなものがたくさん付いている。


 黛さんはしばし佇み、放心した。


  ※   ※   ※   ※

 友人宅に戻り、今し方の出来事を興奮のうちに説明すると、ああそれは多分、キツネにんだと言われた。

 雲仙普賢岳の噴火以来、山の高いところに棲んでいたキツネやタヌキがここいらまで降りてきた。昔からそういう四つ足は人間をこなかす(化かす)というから、それにやられたんだろう、と。

「キツネは、畑にもぐらを食べに来るんだ。俺もしょっちゅう見るもん。可哀想なくらい痩せてるくせに、尻尾はフサフサしてるんだな。キツネだ、うん。キツネ」

「キツネ・・・? お、お前もよく化かされるのか」

「うんにゃ。俺、利口だもの。百姓は騙されねぇよ、ハハハ」

「・・・・・・・・・・・・」



 それから30分ほど話し、友人宅をお暇した。

 またキツネめに何かされないか。車に乗り込んでエンジンをかけるまではヒヤヒヤさせられたが、幸運なことに(?)何も起こらなかったので、そのまま運転して家に帰った。

「タカシが車を貸してくれ、なんて言ったおかげで、えらい目にあったわけですよ。以前、自分の愛車を同じ所に停めた時には、何も無かったんですからっ!」


 ――むしょうに腹が立ったので。車の至る所に付いた獣の足跡は、そのまま洗い流さずに息子さんへ返したそうである。

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