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パート4:浸食

第70話 大海を知った蛙

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 ハイドリートの西方の地下に位置するオーガズゲートは、その日の夜も野蛮な本性を剥き出しにした観客達でごった返していた。眩しい照明の先ではリングが用意され、止める者もいない中で前座試合を行っている選手たちがいる。自ら負けを認めるか、打ちのめされるか、死ぬか。それ以外に決着をつける方法など無い。人々はその猛々しい欲望を満たすパフォーマンスによって歓喜し、恍惚とした表情を浮かべていた。

「うわあ、お粗末」

 トーナメント出場者としての登録が終わり、上着を脱いでタンクトップ姿になっていたリリスが控室を見て口走った。女性しかいないとはいえ、やはりこの手の催しに名乗りを上げるだけあってか選手たちは非常に威圧感のある見た目をしている。ごく一部例外はいたが、おおよそ借金のカタに出場させられたのだろうとリリスは推測した。そして、少し目立つ場所にある大きめのウイングチェアへと座り込む。すると不思議な事に周囲がざわつき始めた。

「誰も使わないわけだ。あんま座り心地良くないね、コレ」

 近くの壁にもたれ掛かっている選手へリリスが笑いながら話しかけたが、なぜか無視されてしまう。

「そこのチビ、何やってんの ?」

 無視された事で少し不機嫌そうにしていたリリスへ何者かが話しかける。声のする方を見てみれば、頭一つ抜き出ているかなり大柄な体の女性が自分を睨みつけていた。

「何って、休憩中 ?」
「新入り…覚えときな。そこは私の席。さっさとどいて」
「あ、それはどうも。次から張り紙しといた方が良いよ」

 周りが不自然に距離を置いている事から、よっぽど嫌われているかこの部屋のボス、つまりチャンピオンといった所なのだろう。リリスは予想をしつつ、すぐにでも殴りかかってきそうな彼女に対して笑いながら忠告をした。

「虚しいもんだね、お山の大将」

 そのまま立ち上がって他の選手も使用しているベンチを向かおうとした時、リリスは口元の笑みを消すことなく呟いた。随分と見下した態度を取って来る彼女を、少し揶揄いたくなったのである。

「今、何か言った ?」

 座ろうとしていた女性も思わず反応する。ドスを利かせているつもりなのか、若干声のトーンが低くなっている。しめしめ釣れたぞとリリスはさらに口角を上げ、彼女を方へとゆっくり振り向いた。

「耳糞が詰まってるのか、言葉を理解出来るだけのオツムが無いのか…たぶん、どっちもだよね。アンタの場合」

 リリスが堪え切れなかったかのような笑いを見せて喋った瞬間、女性は一気に歩き詰めて来ると首を掴んで来た。

「お、やるか ?」

 場外乱闘もバッチ来いとリリスが煽り続けようとした頃には、外で待機していたボディーガードも含めて引き離そうと関係者達が必死になっていた。厳密に言えばチャンピオンであるらしい女性の方をだが。

「試合で会ったらぶっ殺してやる…」
「オッケー、覚えたぞ~その言葉」

 周りに諭されながら、女性は唸る様に宣告を言い渡す。リリスも中指を立てながら応えていると、男性部門の第一試合が始まると報せが入った。古びたモニターに映し出される映像には、優勝候補とされるコーディー・タングストンと対戦者である人物が映し出されていた。なんでも今回が初出場という事らしい。

「お、いきなり優勝候補とやらせてもらえるんだ」

 ベンチに腰かけたリリスが中継を見ながら呟く。何を隠そう、そこに映し出されていたのは他ならぬイフリートであった。

「あのエドワーズって選手…知り合い ?」
「そうそう、私のおと…じゃなくて友達」

 隣に座っていた選手がリリスへ話しかけてくる。リリスが肯定すると、彼女は同情するように溜息をついて首を横に振った。

「ついて無いわね。相手のコーディー・タングストンって奴、もうリングで四人殺してるんだよ。ここは保安局も介入できないからお咎めなし…アンタのダチ、殺されちゃうかも」

 選手は不安げに説明をしてくるが、リリスはどう思うわけでも無く試合が始まりそうになっている映像をただ眺めていた。

「そっか。それはご愁傷さまだ」

 酷く落ち着き払った様子で言い放つリリスだったが、イフリートに向けて放った言葉では無いという点以外は本心から出た同情によるものだった。大物相手に喧嘩を売り、自分の友人が見せしめに痛めつけられるかもしれないというのに平然としている姿を見て、他の選手たちも少しづつ彼女の異常性に気づき始めていく。

 一方、間もなく試合が始まろうとしていたリングでは、イフリートと対戦相手のコーディーに対してスタッフが最後の説明をしていた。

「ルールはベアナックル制、試合が始まれば武器の使用以外は全ての手段が許可されます…それでは構えを」

 さっさと試合を始めて欲しいと昂るコーディーに対して、イフリートは慣れない状況で戦うせいか周囲を物珍しそうに見まわしていた。

「降参するなら今の内だぜオッサン」

 縛った黒い長髪を弄りながらコーディーが話しかける。

「俺は大丈夫だ。それよりウォーミングアップは入念にしておけ。 怪我するぞ」

 イフリートは平静を保って彼に言い返す。

「安心しろよ、今からやるのさ…アンタをサンドバッグに使ってな」

 もう我慢が出来ないとコーディーも体を震わせながら言い返す。やがて構えを取らないイフリートに向かって「準備をしてくれ」とスタッフが忠告を入れるが、このままで良いから始めろとイフリートは催促した。何のつもりだと思いながらもリングから降りたスタッフは合図を送り、間もなくゴングが鳴り響いた。歓声に囲まれる中でコーディーは一気に距離を詰めると、拳を振るってイフリートの頬にぶち当てる。

「早くも一発入ったぁー‼」

 実況の声と共にコーディーは次々とみぞおちや腹にも攻撃を決める。猛攻を前にイフリートは成す術無しで突っ立ているばかりだと実況は煽り、人々もそのまま殺してしまえと言わんばかりに煽り立てる。

「ほほー凄い凄い」

 控室で呑気に足を組んでリリスは観戦を続けるが、その表情は明らかに余裕があった。最初こそ猛攻の凄まじさに度肝を抜かれていた観衆であったが、試合が少し過ぎたあたりで異変を察知し始める。攻撃に疲れが見えているコーディーに対して、イフリートは逃げるどころか倒れる気配すらない。この辺りで何も出来ないのではなく、何もしてないだけなのだと勘の良い者達は既に気づいてしまっていた。

「ハァ…ハァ…」

 二分を経過した辺りで、手応えの無さ故かコーディーも疲弊し始めていた。拳が肉にめり込む瞬間や、骨が砕ける感触が一切腕に伝わって来ない。試合が始まる前は無かった筈の不安が、急速な勢いで広がって精神を蝕んでいく。そして落胆しているかのようなイフリートの視線と目が合った瞬間、喧嘩を売る相手を間違えたと確信した。

「体は温まったか ?」

 ここからが本番だぞ。イフリートは遠回しにそう伝えると、首を鳴らしながら後ずさりするコーディーの方へ歩き出す。この後に待ち受けているであろう無様な自分の宿命を悟り、心も思考もかき乱されたままコーディーは拳を突き出すが、アッサリと拳を掴まれてしまう。やはりこの男は敢えて打たせてくれていたのだ。逃れられなくなってしまった事を実感し、コーディーは藻掻きながらイフリートが猶予を与えていくれていたのだと理解する。

「…根性に関しては、まだアイツの方がマシだな」

 ここ最近、打たれ強さを鍛えたいという理由から腹打ちをして欲しいなどと言い出したムラセの事をイフリートは思いだした。一方的に殴るのも釈然としないため、一発耐えられれば一発やり返しても構わないという条件の下、ベクターとリリスに半ば押し付けられる形で付き合わされたのである。だが、少なくとも現在行われている試合よりは暇潰しになったとして、イフリートは彼女を再評価していた。

「…っ ! ぎゃあああああああ !」

 意識をコーディーの方へ戻したイフリートは、そのまま掴んでいた彼の拳に握力を込める。いかに鍛え抜かれたといっても、所詮は人間の肉体である。イフリートにとっては熟れたトマトを潰す事と同様に造作も無かった。何か固い物がゴリゴリとすり潰され、折られていく音と共に拳から血が流れ始める。そしてイフリートが手を放す頃には完全に破壊され、指や手の甲が原形を留めることなく破壊されていた。所々千切れ掛かっており、肉も裂けている。

「手が…俺の手が…」

 コーディーは跪いて項垂れるが、イフリートは彼の前で構えると遂に拳を握った。当然だが全力ではない。

「三…」

 小さな声でイフリートはカウントを始める。

「二…」

 残り少ない時間の中、彼の構える拳の高さが自分の目線と同じ位置にある事から、顔面が狙われているとコーディーは気づいた。

「一…」

 いとも容易く拳を片手で破壊するパワー、そんな物で殴られればどうなるかなど目に見えていた。命乞いをしようとするが苦痛のあまり声が出ない。降伏さえも許してくれない状況に追い詰めた上でやっているのであれば、これほど残酷な加虐趣味は無いだろう。もっと早いうちに負けを認めていればと必死に後悔しながら、せめてもの抵抗としてコーディーは両腕を顔の前で構えて防御する姿勢を見せる。泣き顔であった。

 そしてイフリートがパンチを放つと、腕をへし折りながら拳がコーディーの顔面へめり込む。そのまま叩きつける要領で拳を振り抜いた瞬間、勢いのままに背骨を破壊してコーディーはマットへ叩きつけられた。そこから起き上がる事も無く、折れた腕で凹んでしまった顔面を隠したまま、コーディーは痙攣し続ける。

「ゴ…ゴングを鳴らせ !」

 もう試合の続行は不可能だと判断されたのか、決着を告げるゴングが鳴り響く。しかし歓声はおろか、拍手の一つさえもイフリートを出迎えてはくれなかった。何でもありな血みどろの死闘が名物とはいえ、見たいのはあくまでもショーであり一方的な狩りでは無いのだ。そういったメッセージを観客は無言を貫く事で伝えようとしたのかもしれない。

「つまらん」

 担架で慎重に運ばれるコーディーを尻目にイフリートは呟き、リングを降りて控室へと戻って行った。

「ハハ、いきなり殺っちゃったか」

 試合を見ていたリリスが苦笑いを浮かべつつも嬉々として口に出していると、先程まで一触即発となりかけていた例の女性が部屋を飛び出して行った。心なしか周りの選手たちも動揺している。

「あー…これ、笑っちゃいけない感じのやつね」

 空気を読まなかったせいで何だか居づらくなってしまったとリリスは思いつつ、どうなる事やらと他人事な心持のまま控室で過ごす羽目になっていた。
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