怨嗟の誓約

シノヤン

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4章:果てなき焔

第114話 憩いと言う名の憂慮

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 ジェトワ皇国への出発はその酒場での会合から五日後であった。ルーファンとしてはすぐにでも出発して良かったのだが、せめて自分が担当している記事を書きあげておきたいというジョナサンの意向によってかなりの期間を浪費する事になってしまった。

 レイヴンズ・アイ社の売り上げが旅費にも影響する点、そしてそこから度に必要な物資を賄わなければならないという点もある故に仕方が無かったのだが、それでも不安を抱えずにはいられない。もし着いた頃には手遅れで、国の人々から石を投げられるような事態になってしまったらどうすればいいのだろうか。

 だがそんな不安は南南西へと向かう道中で意識から消え失せた。厳密に言えば意識がぼやけ、考える余裕がなくなった。

「…クソ」
「……ぁ~…」
「無理…」

 燃え盛る炎の様な紅い空が頭上一杯に広がっている下で、ルーファン達一行は悪態をついていた。周りをは励ます余裕はおろか、仲間達の具合を見て気遣う事すら出来ない。もしかすればこれが本性なのではないかという程に皆が苛ついていた。辺りは地表から白濁とした煙が噴き出しており、硫黄の強烈な臭いが四六時中嗅覚を攻撃し続ける。

「サラザール、水を…取ってくれ」
「いいけど、先に一口飲んでいい ?」
「…どうせ一口で全部飲む気だろ、すぐに渡せ」
「チッ」

 良からぬ企みを阻止されたサラザールは不貞腐れながら投げるように水筒をルーファンへ渡す。ルーファンが一口付けたのを皮切りに、全員がその水筒を共有して少しではあるが口内を潤した。何もないよりはマシである。

「完全な偏見で物を語るがアトゥーイ、君は大丈夫か ? 暑さには凄く弱そうだが」
「その代わり湿気があります…皮肉な事に、体から出た水分をまた空気中から吸収できる」
「便利で良いな、半魚人の体質と<水の流派>は」

 心配していたジョナサンを余所に、アトゥーイは空気中の蒸気から抽出したと思われる水を自らの体に纏わせていた。汗だくになり、それによって濡れた衣類も重い枷になってしまっている人間達とは違って大した苦しみだと思っていない。

「すまない、ここまでとは思ってなかった…」
「かき氷…食べたいなあ。ジェトワ皇国にあるのかなあ」
「期待しない方がいいぞ」

 ルーファンも弱音も吐きだし、まだ遥か先の目的地へ着いた際の妄想をフォルトは始める始末だった。しかしそれほどまでに過酷な環境であるのは確かである。火山地帯の中にあるというジェトワ皇国だが、そこへ向かうには火山やそこから溢れている溶岩が流れる河川を始めとした灼熱の危険地帯を通り過ぎねばならない。だからこそ辛いのだ。

 気温だけで言えばリゴト砂漠よりも低いが、それはあくまで日中の話である。夜も含めた平均気温で言えば当然こちらが高くなるうえ、砂漠にはほとんどない強烈な湿気によって長袖を着ようものなら蒸し焼きにされてしまいかねない。かといって少なすぎる衣類では外傷の危険性も高まる。おまけに硫黄だけならまだしも、地域によっては有毒なガスが噴き出している箇所も存在する。自殺をするのであれば至れり尽くせりな環境と言えよう。

「さっさと歩いてー、誰かさんたちの鎧と荷物が重くて肩が凝るんですけどー」

 熱すぎて耐えられないからという理由で脱ぎ捨てられた鎧や服、そして旅の荷物を担がされていたサラザールが後ろから急かす。相変わらず人とのコミュニケーションが下手な奴だとガロステルは呆れながら見ていた。タナは休憩できる場所は無いかと、しきりに辺りを見回している。そろそろ一息ついて皆で冷静さを取り戻すべきだと考えていたのだ。

「…黙れよ人外」
「今なんか言った ? 蛆虫新聞ナルシスト野郎」
「誰が蛆虫新聞だ。世界で一番売れてるんだぞ」
「おっ、名指ししてないのに反応した。自覚あるんだ」
「いけしゃあしゃあとほざきやがってタダ飯ぐらいが。この間贅肉付いたせいで鏡の前で落ち込んでたってフォルトが言ってたぞ。いつも馬鹿みたいに食うからだデブ」
「…このチビ…!!」

 ジョナサンとサラザールが口喧嘩を始めた。この男はなぜ勝てもしない相手に喧嘩を売るのかてんで理解できないが、およそ暑さで頭をやられてまともな思考が出来ていないのだろう。だがここで余計な時間を食うわけにもいかないとルーファンが制止しかけた時、タナの声がどこかから聞こえた。

「み、みなさーん!ここに泉がありますよー ! 凄く熱い温泉ですけど、よかったら休みましょー !」

 前に比べると少し明るくなったタナの声がする方を向くと、確かに滾々と温泉が湧き出ている泉が一行から見て右手の方にあった。熱いのならあまり意味がないのではないかと思ったが、何か閃いたようにルーファンはハッとした。

「行こう皆」

 そしてすぐに指示を出して全員の返事を待つことも無く歩いて行った。到着するや否や、ルーファンは普段料理に使っている鍋をタナに差し出し、彼女が温泉を汲んでいる間に荷物からラム酒と塩を取り出す。予備の飲み物を酒にしたのは水では長旅になると腐るかもしれないと判断したからだった。

 汲んできた温泉をサラザールに嘗めさせ、毒性がないと判断した後に塩とほんの少しのラム酒を加えてかき混ぜる。本当は砂糖が欲しかった所だが、費用の都合で手に入らなかったのと汗をかいた際には塩が良いというどこかの本で聞いた知識もあってか塩を選んだ。

 そしてある程度混ぜた所でタナの体から生やした触手を鍋の上に垂らす。鍋の水をスプーンで掛けつつ、触手にかかった水をタナが自身の魔力で凍らせていくとあっという間に塩水で作ったツララが触手の先端で完成した。ある程度の太さになった所で触手から折ってツララを採取すると、それをルーファンは一同に配っていく。ゆっくり舐めても良し、齧っても良しな即席の氷菓子である。味自体は褒められたものでは無いが、こんな物さえも安堵したような表情で舐めるしかない程度に彼らは追い詰められていた。

「さっきはごめんな。いいすぎた」

 ツララを齧って少し機嫌が良くなったらしいジョナサンが言った。

「…それはお互い様」

 サラザールも今になって恥ずかしくなったのか顔を見ずに返す。フォルトとガロステル、アトゥーイはタナの便利さを誉めており、「いずれは一家に一タナの時代が来るかもしれない」などと誇張した称賛をしていた。タナも満更ではないのか照れくさそうにしながら顔のベール越しに笑い声を小さく発する。

 のどかだった。決して気楽な状況ではないが、そこには確かに気を抜ける安心感があった。甘苦く、おまけにしょっぱいツララを齧りながら、ルーファンは彼らとの今後について思いを馳せる。サラザール、ガロステル、タナの三人については<幻神>達の化身という点からあまり過剰な心配をしていないが、それ以外の者達が気がかりだった。こうして間の抜けた会話を繰り広げてはいるが、いずれ別れる時が来るのだろうか。戦場かそれ以外で。

 孤独さを恋しがるどころか、それを自分が恐れ始めている事に気付いてしまった。ただ他人と馴れ合うだけでは得られない結束感や信頼を彼らと培えている証左でもあるが、それこそが自分の弱点になってしまっているのではないかという分析が彼を団欒に入る事を躊躇させる。親しみも覚えすぎると別れが来た時に付けられる傷も深い物になってしまうのだ。かつて義父の亡骸を見た時と同じように。
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