ドラゴンズ・ヴァイス

シノヤン

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弐ノ章:生きる意味

第61話 ヘマ

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 汚水の臭いが充満した下水道の歩道を、龍人はひたすらに疾走していた。ゴールがあるのか、あったとしてどうにかなる物なのかは分からない。だが、立ち止まって休める程呑気にしてはいられなかった。自分の足音が虚しく響く度、お返しのように大量の呻き声と足音が背中と耳にぶつけられるのだ。後ろに、暗逢者たちが迫っている。

 執拗に追いかけてくる理由は知らないが、とにかく龍人は逃げるしかなかった。侵入する際はマンホールから入って来たのだが、悠長に梯子を上って蓋をもう一度開ける手間が惜しい。故に走って逃亡するしかない。生活排水と雨水を合流させるための共同溝とか言っていたが、とにかく下水道が広くて助かった。

 暫くすると、僅かに外部からの物と思わしき光が見えた。龍人は少し顔をほころばせて走る速度を上げていくが、すぐに舌打ちをしくなる様な気分に陥る。堅牢そうな鉄格子が嵌められていたからだ。水が流れ出ている事から、先にあるのは恐らく河川だろう。考えている暇はない。龍人は武装錬成によってすぐさま刀を作り、それで鉄格子を切断してから出口をこじ開ける。そして間髪入れずに飛び込んだ。

 臭い。水に体がぶつかる直前に思い浮かんだ感想がそれであった。着水後には、それを掻き消すような冷たさが服越しに全身へ伝わり、あまり言い表したくない何かしらの物体が手や顔に当たってくる。目は開けなくて正解だったかもしれない。逃げるべき方角は、水に入る寸前に確認をしたから迷う事は無かった。そのまま深く潜った上で、左側へ体をくねらせて龍人は泳ぎ出す。とにかく全速力である。濁り方と臭いからして、恐らく暗逢者たちも少しの間くらいは見失うだろう。その間に遠くへ逃げなければ。今はまだ顔を出さない方が良い。

 必死の思いで手足を動かし、龍人は河川の流れに逆らう事なく前へと藻掻き進む。やがて息が苦しくなり始め、そろそろ顔を水面から出そうかという頃に異変が起きた。

「…っ !」

 何かが後方から自分の足に纏わりつき始めた。気のせいではない。確かに絡もうとしてきたのだ。吟味するように撫でて来るかのような、優しい感触が汚水に侵されたズボン越しに伝わって来る。慌てて足をバタつかせて振り払った直後、気を取られた隙に同じような感触が今度は首元に襲い掛かる。服ごと引っ張られるような感覚が次に来た。何者かに掴まれている。そして、自分が進もうとしていた方角へ急速に引っ張り続けている。暗逢者か ? それとも別の何かか ? 原因は分からない。だが、下手に暴れて余計なエネルギーを使うわけにはいかなかった。もはや、身を任せるしかない。



 ――――葦が丘地区の東南の端にあるスクラップ置き場は、今日も管理と運営を任されている河童たちでにぎわっていた。亜空穴から落ちてきたスクラップや粗大ごみを集めてバラし、使えそうな素材を売りさばく。ここはそのための集荷場であった。

「今日はやけに金属が採れねえな…」
「おいっ、このフィギュアって掃除したら売れそうか ?」
「無理だな。このバージョン、確かに昔は人気あったが数が出回りすぎてる…掃除したとしても大した値段つかんぞ」
「何だ…この趣味の悪いリボルバー ? 口径デカすぎんだろ。誰が使うんだこんなの」

 河童たちがへらへらと馴れ合いながらゴミ漁りをしている側には、汚水に満たされた河川がある。そこから河童が這い出てきた。片手で龍人を引きずっている。何の縁かは知らないが、夏奈の父であった。

「社長 ! どうしたんですかそいつ⁉」

 一匹の河童が、目を丸くしながら寄ってくる。

「いやいや、日課のゴミ拾いまだしてないなと思って川に潜ってたらね、見つけちゃった。たぶん溺れてたんだよ」

 夏奈の父は顔に垂れている水滴を拭っていたが、足元で引き摺られていた龍人は突如として吐いた。空気のある地上に顔を出した途端、意識する必要が無かった汚水の臭いと味が自分の鼻と口を含め、あらゆる五感を犯してくる。えづき、吐しゃ物を口から零し、それが汚水の臭いと混ざった事で更なる悪臭に昇華される。そして再び自分で自分に貰いゲロをする。いくらでも繰り返せそうだった。

「おーい ! 水か何か持ってきてくれ ! もしかして川の水飲んじゃったのかい ? 龍人さん。あんな所になんか入っちゃだめだよ。僕だっていつも辛いのに」

 龍人を跪かせ、隙に吐かせながら夏奈の父は背中を擦る。部下の一人が水と牛乳…そしてなぜか知らないがヤクルトを持ってきていた。

「さあ飲んで飲んで。下手に吐きすぎると喉を痛めるからね。ヤクルトなら菌の力でどうにかするだろうし」

 たかが乳酸菌飲料にそんな効果があるかはいささか疑問だが、龍人は指示に従いながら口の中を洗うように飲み干し、服もついでに脱いだ。この生暖かく濡れてしまった服の感触と、纏わりつく臭いに耐えられないのだ。

「俺も驚きだよ。まさかアンタが川にいたなんて。カミさんと夏奈ちゃんは元気 ?」
「ボランティアをしてるんだよ。この川ってよく汚れるから。たまにゴミ拾いに行ってるんだ。皆、紹介するよ ! この人は龍人さん。私の娘の恩人でね…それと言い忘れたけど、妻とは最近離婚したんだ」
「あ~…なんかゴメン」

 夏奈の父に導かれるがまま、彼の部下らしい河童たちの下へと連れて行かれる龍人だが、頭の中は自分のしでかしたミスによって引き起こされるであろう今後の事態であった。少なくとも、あのビルの中にいた暗逢者たちは間違いなく解き放たれたままである。どうなっているのか状況を知りたいが、そこは遅かれ早かれニュースが流してくれるだろう。そして兼智を連れて行った颯真の様子も気になる。何より相談しなければならない。自分はよりにもよって裂田亜弐香に顔を覚えられてしまったのだから。

 焦燥の欠片も感じない自分に対する態度からして、彼女はまだ底を見せてはいない。その程度の存在として相手にされなくなればいいのだが、鬱陶しいコバエ程度には考えているだろう。そうなれば、今度こそ潰しにかかる筈である。元はと言えば完全に自分のせいではあるが、急いで対策を練らなければ。

 ”鮎沼興業”と書かれた看板付きの家屋へ連れて行かれながら、龍人は状況を調べるためにポケットから携帯電話を取り出す。ところが、ここに来て別のヘマがある事に気が付いた。

「…あれ ?」

 どのボタンを押そうが、いくらスクリーンを指で叩こうが、携帯電話は何の反応を示す事も無く、真っ黒な画面を龍人に晒すばかりであった。壊れてしまっている。

「嘘だろ、防水つったのに!!」
「防水って言っても限度はあるからね~。ましてや、あんな川に浸かってたんじゃ…」
「どうすんだよ。分割払い終わってねえんだぞ… ! しかも先月買ったばっか ! 老師に殺される…!!」

 クサいまま項垂れる龍人を憐れむように見ていた夏奈の父だったが、あの玄招院佐那が思いのほかケチだという事実が端的に分かり、少々彼女に対する羨望が薄れていた。
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