ドラゴンズ・ヴァイス

シノヤン

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壱ノ章:災いを継ぐ者

第10話 不穏

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「えっと…あの子のロッカーは…ここだな」

 龍人が夏奈と会っている間、店長はコッソリと従業員が使っているロッカールームへと忍び込む。あまり掃除をしていないのか、埃や汗や様々な体臭が混ざった臭いがする。通気性も悪いお陰で猶更空気が淀んでいた。

「雪女でも雇おうかな…それかエアコン買おう、絶対」

 店の管理が杜撰だったことを悔やみながら、店長はロッカーを開ける。そして粗末で所々が痛んでいるナイロンのリュックサックを掴み、側面に備わっているドリンクホルダーの部分に小瓶から取り出した肉分虫を塗り付けた。



 ――――龍人はただ硬直していた。貧困が原因で、このような店に足を踏み入れた事など生まれてこの方ある筈も無い。ましてや初心なのだ。故に指示待ち人間の如く棒立ちのまま、バスローブを自身の体からはだけさせベッドに静かにおいて見せる夏奈の姿を眺める他なかった。

「ほら、服脱いで !」

 彼女に言われるがまま羽織っていたフード付きのジャージを脱ぎ捨て、地味な紺色のTシャツやズボンも脱ぎ出す。パンツを脱ぎ捨て、ほんの僅かに硬くなり出している自分の一物を恥ずかしそうに隠した。

「大丈夫だよ~、そういうお店だから」

 夏奈がくすくす笑った。そして龍人の手を引き、綺麗に掃除のされたシャワールームへと向かう。シャワーの隣にはジャグジーも設置されていた。

「そうそう。ここに座って…ちょっと待っててね。ボディソープ用意するから」

 真ん中に凹みのある椅子に座らせられ、龍人は生唾を飲んでから喋りたい話題を整理しようとする。だが、思考を回す前に夏奈の仄かに冷たい手が背中を撫でてきた。

「うおっ…」
「冷たかったかな ? ごめんね~、昔から体温低くて」

 ソープのぬめりも合わさったお陰で背中が少し寒くなった。

「でも凄い体…何か格闘技とかやってる ? それとも人間って皆こんな感じ ?」
「一応まあ…その様子だとやっぱり人間って少ないんだね。この町」
「うん。老師様以外では初めてかも人間見たの。大体は幽霊になった後この町に来るから。昔は他にも何人か住んでたって聞いた事あるかな」

 老師の知名度に改めて龍人は驚くが、その直後に彼女の冷たい手が椅子の凹みに滑り込んで来る。

「あっ…んっ…でも、大変でしょ ? こういう仕事」

 情けない声を一瞬上げながら龍人は質問をどうにか続行する。

「うん覚える事多くて大変。でもお金も稼げるし、何よりおしゃべり好きだから !」
「慣れるまではそうだよね。俺もこっちに住み始めてからずっとそんな感じ。慣れない事多いし、治安もあんまりよくないからさ」
「確かにね。でも老師様もいるし、風巡組もいるから何かあった時は大丈夫だよ。最近は悪く言う人もいるけど、私も昔助けてもらったんだ」

 体を洗われながら夏奈は龍人に明るく話しかけてくれた。次第に体も密着させ、彼女の息遣いが耳をくすぐってくる。髪の匂いもした。生花の香りである。その際の会話に少し違和感を抱くが、それを掻き消すかのように囁き声がした。

「話にはこの辺にしよ。洗い流してから…早速、やろっか」

 情報収集をしなければならないのは分かっていた。だがその誘惑を聞いた瞬間、龍人は使命や自制心といったものがバカバカしくなり、遂には理性を捨て去る決意をあっさりと固めてしまう。今はただひと時の快楽に溺れ、酔いしれていたいのだ。



 ――――そろそろ次の客が来る頃かもしれないと受付の幽霊がぼんやり玄関を見つめていた時、事が済んだ龍人が戻って来た。心ここにあらずといった具合に間抜けな面をしている。尽き果てた様な具合だった。

「おかえりなさい。どうでした ?」

 こりゃ相当骨抜きにされたに違いない。そう見抜いた受付はにやけながら尋ねる。

「いやもうホント…ごちそうさまでした」

 龍人は一礼をして店を出る。そしてすぐに店の裏に回り、印を結び出した。やがて建物の上方へ手をかざすと、光る糸が手から何本か現れる。糸たちは生き物のように動きながら店の屋上へと到達し、やがて給水塔の骨組みに絡みついてピンと強く張った。

「よし」

 手から伸びている糸を掴んでから、龍人は勢いよくそれを引っ張る。するとたちまち建物の屋上まで体が飛び上がった。糸が体の内側に戻って行くのを見ながら、龍人は屋上に着地をする。

「マー〇ルに訴えられそうだな、これ」

 伸縮自在且つ変幻自在。肉体から生み出す事の出来る生命エネルギーで構成された糸。通称”霊糸”と呼ばれるこの糸を使いこなす事が幽生繋伐流の基本である。佐那がそう言っていた。慣れない術のせいで体に異変が生じていないか念入りに龍人が確認していた折に、ポケットに入れていたスマホが震えだす。

「龍人くん、少ししたら夏奈ちゃんが店から出るよ。所で会ってみてどうだった ? 何か分かったかい ?」

 風俗店の店長が小声で電話を寄越してきた。

「オッサンごめん。ヤるのに夢中でそれどころじゃなかった。だけど少し聞きたい事があってさ。あの子、前に風巡組に助けられたって言ってたんだけど、それについては何か知ってる ?」
「ああそれか…昔、友達と夜歩いていた時に暴漢に襲われそうになったらしいんだよ。その時に風巡組に助けてもらったとか。と言っても今みたいに組織ぐるみでやってたわけじゃない。一人で自警団ごっこしてる様なもんだったとか」
「活動し始めた頃の風巡組って事か。少なくともその頃の風巡組はまともだったってわけだ」
「うん、きっとまだ風巡組は正義の味方なんだって思ってるんじゃないかな。だからそれに所属してる彼氏さんの事も信じてるんだと思う」

 そうやって話している最中、裏口が開く音が聞こえた。龍人が恐る恐る顔を出して下を確認すると、夏奈が裏口から出て行っている光景を目の当たりにする。ラフなパンツを履き、灰色のパーカーを着ている。そしてリュックサックを背負って少し急ぐように早歩きをしていた。

「今彼女が店を出たのを見た。とりあえずその辺について探ってみるよオッサン」
「気を付けてね。さっき別のシフトの子がロッカールームで会ったらしいんだけど、スマホを見ながら凄い焦っている顔をしてたって。何かマズい事が起きてるかも」
「マジかよ…分かった、警戒しとく」

 店長から不穏な動きがあると知らされた龍人は、面倒事になりそうな予感を感じながら憂鬱そうに駆け出す。そして追跡を開始した。
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