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第三章

7 彼が「マスター」と一線を引くわけ

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 隊長と副隊長の二人で隣町まで一泊二日の調べ物すると口にして出かけていったのは、闇の神霊が帰っていって十日ほどしたある日のことだった。

 隊長の邪霊視は時も場所も選ばないが、シシャルは「ついてきて」と言われなかった。
 闇属性がいるとこんがらがる案件なのだろう、付き添いは勇者パーティの隊長好きで光か神聖持ちがするという。

「久々に羽が伸ばせるぅー」

 いったい何を調べに行くのか、シシャルは気にならないらしい。

 自分には関係ないと思っているのか、隊長の実家関係だと思っているのか。
 どちらにしても、蚊帳の外なことに不満を感じている様子はなかった。

「ニクス。あの二人が帰ってくるまで野営地で過ごそっか。新しいお蚕様も手に入れたいでしょ? 久しぶりにゆったり眠れるし」

「そうだね。マスター」

 シシャルのことは大好きだ。
 けれど、マスターと呼ぶ時、常に一線を引く感覚がある。





 ニクスは前世持ちの精霊だ。

 前世では四十まで生きた。

 前世の自分は遅くに産まれた子だったから、両親は事件以前に天寿を全うして亡くなっていた。

 事件直前にいた家族は、妻と娘。

 妻とは政略結婚に近いものだったが、相思相愛だった。
 なのになかなか子宝に恵まれないことで心労をかけてしまっていた。
 口さがない連中の陰口に心を痛めながらも立派な織り手として日々を過ごしていた。
 ようやく懐妊した時、涙を流して喜んでいた。

 お腹の子は女の子だと分かった時、彼女は少し申し訳なさそうにしていた。
 長を継ぐのは男子なんて決まりはないが、ここ五代ほどの長は全員男性だった。
 長の家に産まれた女子は成人前後の数年間を神の御子として過ごす風習も、小さくない負担だ。

 それでもまだ見ぬ我が子の成長は喜ばしかったし、男女関係なく愛せると思っていた。

 けれど。
 あの事件が起きた。

 娘の顔は、見たことがない。
 あの事件の時、まだ産まれていなかった。

 何事もなければ、一月も待たずに会えていただろうに。

 娘はどんな顔だったのか、どんな髪色でどんな瞳色で、どんな属性で、どんな風に泣いて笑って、最初にどんな言葉を覚えるのか、好きな食べ物が何になるのか、一族の誇りであり一族の仕事たる糸紡ぎと機織りを愛してくれるのか。

 なによりも、健やかに幸せに育ってくれるのか。

 大きくなっていくお腹をなでながら、様々な期待と不安を抱えながらも、暖かく幸せな未来を想像していた。

 未来自体が存在しないなんて、想像もしていなかった。



 一族は特別な存在ではあったが戦闘能力は皆無に等しく、その力の性質上から強引に従わせても真価を発揮できないと知れていた。

 一族は清廉潔白であることを是とし、一族の誇りを磨きながら次代に繋げることを喜びとしていた。

 魔族にだって権力闘争は存在するから、利用されないように、悪用されないように、神が生きていた時代から様々な制約の中で生きてきた。

 だから、悪の手先の一族なんて理由で滅ぼされるいわれはない。

 時々盗人が貴重な布を求めて忍び込むことはあっても、盗人対策で様々な守りを張り巡らせていても、人間の大軍勢が問答無用で皆殺しにかかるなんて想定外も甚だしかった。

 一族も、一族の生み出す品々も、戦闘能力に直結はしない。

 防戦一方だった。
 いや、防戦と呼べる行為さえできていたかどうか。

 一族は戦闘向きではないから、様々な民族が警備に人員を提供する慣例だった。

 一族の警備に配されることはとても名誉なことだったから、実力者が選出されていたはずだ。守りに長けた戦士が数多くいたはずだ。
 けれど、暴力的手段で一族を狙う者などいないと慢心し、いつしか名誉職扱いになっていたのは否定しがたい。

 民を逃がす時間どころか、妻子を逃がす時間さえも存在しなかった。

 妻は目の前で殺された。

 長の心を傷つける目的のためだけに散々いたぶられた末の死だった。

 絶叫した。
 それしかできなかった。

 手が届かないどころか、身動き一つ許されなかった。

 どうしてこんなことになったか分からなかったから、妻が命を落としてなお疑問が一番上にあって、人間が憎いと思うことさえできなかった。

 勇者を名乗る男の持つ、まばゆいばかりに輝く聖剣から、黒いもやが漂っていた。

 光と神聖の複合属性なのにどうしてそこまで悪しき力をまとっているのか。

 きらめく刃を呆然と見つめたまま浮かんだそんな疑問が、最期の感情だった。





 暗闇の中で目を覚ます。
 遠くで獣の声や虫の声がしている。

 また、最期に関わる夢を見た。

 最初のように、心が引き裂かれるようなどす黒い何かに塗りつぶされるような痛みや激情は存在しない。
 けれど、悪夢を見た時特有のじっとりと嫌な感覚は残っている。

(今の僕は、闇の精霊のニクスだ。マスターの幸せを第一に考える精霊だ)

 身体を起こし、隣を見る。

 もふもふでもちもちとした抱き枕を抱えるシシャルの無防備すぎる寝顔に毒気を抜いてもらいながら、心の中で言い聞かせる。

 復讐は考えない。
 考えてはいけないと思考停止しているわけではなく、そこに至ることさえもいまだにできていない。

 あの日、どうして自分たちは皆殺しにされたのか。

 あの日、どうして自分たちは悪の一族だなどと呼ばれたのか。

 隊長と副隊長が実家の件を探っているように、ニクスも独自に事件の真相を探ってはいる。
 だが、ニクスの人脈は魔族が主だから、人間側の事情には踏み込めていない。

 森の中で繭探しをしつつ情報収集をしても、納得できる回答は出てこないまま。

 どうして? の先に進めていない。

(この子は、僕の娘じゃない。この子を、産まれられなかった娘と重ねちゃいけない)

 娘の顔は分からない。
 名前はまだ付けていなかった。

 けれど、この子は娘じゃないし、生まれ変わりでもない。

 前世の記憶が戻ってから、娘が生きていたらこの子より少し年上だろうとか、もう少し大人びているだろうとか、想像することはある。
 けれど、そこで止めている。

(この子を娘のように見守るのはかまわない。けれど、娘の代用品にしちゃだめだ)

 愛情を注ぐのも、保護者として接するのもかまわない。
 けれど、娘と同一視しないように、身代わりにしないように、心を律する。

 意図的に線を引かなくては、甘い夢を見てしまう。
 もしもを夢見てしまう。

 この子は、あの日の娘より年下だから。
 あり得ない話じゃないと思ってしまう。

 シシャルをシシャルと呼ばないのは、そんな、こちらの事情。

 魔族にとって、『マスター』という言葉は自身より上の立場でなんらかの契約関係にある相手を意味する。
 自称移民船団の故国の言葉ではご主人様を意味するらしい。

 今の関係を考えると、間違ってはいないし、線引きをするのに都合がいい。

 物心つく前のニクスにマスター呼びを教えた誰かさんにも、シシャルにマスターという言葉の正しい意味を教えなかった誰かさんにも、思うところがないわけではないが。
 他に都合のいい呼称が思いつくわけでもなし、まあいいかと流している。

(僕は闇の精霊ニクスで、この子は僕のマスター。それで、いい)

 この子を前世の事情に巻き込む気はない。

 背中合わせに横になりながら、目を閉じる。

(前世で何があったのかは、僕とフルト君と……当事者だった魔族たちで調べればいい)
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