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第二章

7 借家暮らしの終わりの日 その3

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 今日はクマモドキを目標数討伐できたし、武器の損耗も想定範囲内で済んだ。
 問題なく換金もできた。
 これで夕食がまともだったら良い一日だ。

「普通の野菜と普通の肉の温かい煮込み料理が食べたいですねぇ」

 妹がまた無理なことを口にしている。
 けれど、ここにシシャルはいないし、いる気配もないから、口を慎めとは言わない。

 ここは冒険者組合から借家に戻る途中にある屋台街だ。

 見た目からおいしそうな料理を眺めながら食欲をそそる香りをかいでいると、そんな言葉が口をついてしまうのも分かるのだ。

 カユシィーは超がつくほど名門の貴族の生まれで、全粒粉やふすま増量のパンはおろか、白いパンの周りの色がついた皮部分さえ食べたことのないような身分だった。
 パンといったら文字通り真っ白なふわふわの塊と思っているようなお嬢様だったのだ。

 野菜は食べ頃でなおかつ完璧に規格通りだけ、肉は最高級の霜降りかとろけるようなやわらかさの赤身しか出てこなかった。
 ヒトガタ野菜やモツどころか、わずかな規格外やスジやスネ肉だって口にしたことがなかった。
 しかも、盛りつけはいつだって芸術品のように整えられていた。

 ドレは彼女ほどの名門の生まれではないし、彼女が食べていたものほど上等ではなく芸術的でもなかったが、中堅貴族と同等以上のものは食べていた。

 だから、不平不満は理解できる。
 町の庶民の食事に違和感や拒否感を覚えたのも無理はない。
 昔はだいぶ無理をして、カユシィーの分だけでも実家で食べていたものに近い品質を求めていたが、さすがにずっとは無理だった。

 今では見た目が美味しそうなら果敢に挑戦するようになっているが、庶民の味覚にも慣れ親しんでいるが、お世辞にも見た目が美味しそうとは言えないシシャルの料理は味が良くとも見た目が拒否感をと時々つぶやいている。
 ならば見た目も良くしてもらおうと言えないのは、我が家の財政事情の問題だ。

「なんでわたしの邪霊視を無効化できる唯一の存在が闇属性なのでしょう」

 その発言に、きっと他意はない。
 先日の塩の店の看板が見えたから、つい連想で思い浮かんだ言葉がこぼれ落ちただけなのだろう。
 二人で魔物討伐をするようになってからは、別段珍しいことでもない。

 けれど、この日は、きっと、決して言ってはいけなかった。

「あれ……? 邪霊が消えない……」

 いつもであれば安堵の息をつくところで発せられたつぶやきが、不穏を予感させた。



 借家の姿が目に映ると同時、持ち運び用の椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせながらつまらなそうに分厚い皮表紙の本を読む勇者の姿が見えた。
 すでに夕方なのに借家の中からは明かりが一切漏れていなくて、美味しそうな香りも漂っていなかった。

「おかえりー。あ、俺? 俺は不届き者が借家に何かしないか見張ってた」

「そんなことしなくてもシシャルちゃんの防犯魔術が――」

 途中でカユシィーは絶句した。
 防犯魔術が一切消えていた。

「シシャルちゃんに何かあったのですか!」

「大家の命令で追い出された。年末の器物損壊事件で反感を買ったから、近いうちに追い出されるって分かってただろ?」

 昨日、大家に家賃を支払いに行った時は特に違和感がなかった。
 いや、違和感がなかったことに違和感を覚えるべきだった。
 あの事件後初の家賃支払いなのだ、闇属性だけでも追い出してもらえないかとか、もうこれ以上迷惑かけないでおくれよとか、そういった言葉をぶつけられてもおかしくなかったのだ。
 理不尽な罵倒も覚悟して、住み続けたいならもっと払いなと言われる可能性も考慮して、いつもより多くの金を持って向かったのだ。

 カユシィーは呆然と固まり、ドレはまっすぐに勇者を見据えた。

 荒事にしていないかも気にかかるが、ぱっと見、被害らしいものが出た様子はない。

「俺たちも出ていけばいいのか? 荷造りする時間は――」

「いや、二人は住み続けていいそうだ。だが、闇属性を家の中に入れたら即刻追い出すそうだ。あの子は、二人が住み続けられるならそれで良いっておとなしく出てった」

 殴りかからんばかりの勢いで前に出ようとしたカユシィーを、右手で押しとどめる。

「勇者が決めたことじゃない。あいつに怒りをぶつけてもどうにもならない」

「でも! シシャルちゃんがいないと邪霊が! 安眠が!」

 シシャルが心配だとかかわいそうだとかの前に、そう叫ぶ。

 たとえ雨風しのげなくなろうと三人一緒の方がカユシィーにとって負担が小さいとシシャルだって分かっていただろうに、一人だけ別れたのは、きっと、こういうところに嫌気がさしたからだ。

 それでも、カユシィーの立場を擁護はできる。

 邪霊が見えている状態だとそちらに意識を持って行かれてしまって物事を深く考えられないとか、この子にとって邪霊が見え続ける恐怖とそれによる睡眠不足の苦痛は想像を絶するものであるとか。

 この子は産まれながらに上に立つ者として育てられたから、五歳からは貴族社会と無縁ではあったが邪霊視や年齢やドレの労働のこともあって家の中にずっといたから、シシャルと引き合わせてからも十歳までは家の中だったから、魔物討伐を始めてからも人の輪の中に入ることはなかったから、人付き合いの経験が圧倒的に足りず、感情の機微に疎く、共感性や思いやりをいまいち育めていないのだ……とか。

「わ、わたしは、これからどうすれば。い、いえ、すぐに探しに行って連れ戻せば!」

 今まではそれでとりあえず事が収まっていた。
 しかし今回はそうもいかない。

「あー、カユシィーちゃん。俺がしばらくはカユシィーちゃんから邪霊遠ざける協力するから、落ち着いて、な? 三人でまた暮らせるように新居探し手伝うって約束もしてあるんだ。何日か、ほんと何日かだけ、がんばって耐えてもらえないかね?」

 カユシィーはすでに涙目で、地団太を踏んでいる。

「カユ。今、邪霊は見えているのか?」

「見えてますよぅっ。……あ、でも、いつもよりは遠いです。手が届かないくらいのところにいます。勇者様の光と神聖の力でしょうか」

「か、かもな? とりあえず、耐えられそうか? 一応、仲間に頼んで、光属性と神聖属性の魔力結晶をもってきてもらってあるから、魔力放出魔導具も使えるが」

「魔導具ですか……。シシャルちゃんほど効果ないのですけど……ないよりはマシです」

「魔力結晶なんて高価なもの、いいのか?」

「あの子が暴れるのと比べたら安上がりじゃね?」

 勇者は何か見たことがあるのか。
 どうにもシシャルを恐れているフシがある。

「ないよりマシって言われると、なんかきついけどな。いくらカユシィーちゃんのためとはいえ、けっこう痛い出費だし。でもずっと近くにいられるわけじゃねえし」

「あ。あの! 今夜わたしはどうしたら安眠できるのでしょうかっ」

「泊まってっていいなら邪霊除けでそばにいてもいいけど、無理ならカユシィーちゃんに俺らの拠点まで来てもらって泊まってもらうとか、かね? 光とか神聖とかけっこういるから、もしかしたら快適に過ごせるかもよ?」

「それは、ちょっと気になりますけど、今夜は家で休みたいです」

「じゃ、俺は椅子か何かで寝られりゃいいから泊まってっていいか」

「横になれるほど大きい椅子はない。寝袋持ってきて床に寝てくれ」

「マジか。いや、今のは俺のが浅はかだったか。りょーかいっす……」

 勇者の寝袋なら寝心地は良さそうだが、普通に寝るのとはやはり違うらしい。

「あ、一応言っとくけど、カユシィーちゃんが拠点に来るならお客様用の部屋貸すから、ふわっふわのベッドもあるぞ」

「ふわっふわっ? い、行きたい! けど、今日はやめときます……」

 カユシィー、金があったらかわいい服が欲しいと常々言っているが、体質的には服より寝具の方を優先した方がいいと本人だけ気付いていない。

「じゃ、じゃあ、俺は泊まりの準備してくるから。もしかしたら姫さんとかも来るかもしれないんでよろしく」

「よろしくされても……。狭いから、ろくな寝床用意できないぞ」

「野営は慣れてるからちょっと過酷くらいなんてことないぜ」

 借家が野営と同等扱いされたことを怒るべきか否か迷う間に、勇者は椅子と本を置いたまま去っていった。

 なんとなく何を話せばいいか分からず無言で家の中に入った二人が、暗くて食べ物の匂いも皆無な家の中で「夕食どうしよう」と頭を抱えるのは、その十数秒後のことだった。
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