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第二章

5 借家暮らしの終わりの日 その1

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 荷造りを始めてから数日が経った。

 この間に、三人で出て行った方がいいと思わせる出来事はなく、シシャルから言い出すこともなければ隊長と副隊長にバレることもなかった。

 疲れて帰ってくる二人は家の中の掃除状況なんて気にする気力もなかったし、シシャルの顔色や倉庫の荷物の減りを気にする様子もなかった。

 モツや訳あり野菜を使った料理を出すと毎度のように嫌そうな顔をされるが、いつものことだ。
 すぐに取り繕って「いつもありがとう」とか「温かいうちに食べよう」とか言われる。
 元は貴族という兄妹には食べ物に見えないと分かっていたから、住む世界が違う方々なのだから仕方ないと納得してきた。

 食べ始めれば完食してくれるし、時々おかわりもしてくれるから、口に合わないわけじゃないのは救いだ。

 それでも、分かり合えないもどかしさが壁になっているのは事実だった。



 本日も隊長と副隊長は魔物討伐に向かい、シシャルは家事をしつつ勉学に励んでいる。
 ニクスは本を読んだりシシャルの勉強を見たり、完全に保護者だ。

「マスター。そこ、間違ってる」

 ニクスに指摘され、本日何度目かの頭抱え。

「この課題難しすぎるよ」

「マスター……。その問題集、平民でも七歳の子がやるものだよ。貴族ならもっと小さいうちに習うらしいよ」

「ちっちゃい子以下の学力で悪かったねっ」

 目の前にあるのは、初等学校の学生向け教本だ。

 何年何十年も持たせる本に使う紙は非常に高価だが、基本的に数ヶ月から一年間使えればいい教本や問題集は、ぺらぺら紙や雑紙と呼ばれる作りやすいが劣化もしやすい紙で作ることで費用を抑えている。

 一冊一冊手書き写本ではなく、版画の技術の応用で大量生産されていて、しかし版画ほどきれいに印刷する気がないのか、ところどころかすれていて読みづらい。

 かすれが多いほど安くなるため、副隊長が買ってきてくれたのは不適格寸前の品だ。

 教科書と問題集が一体になった作りで、今は問題集部分をやっている。

「自分では買い物できないからって勉強さぼってたから、隊長さんに『え、シシャルちゃん一桁の足し算もできないんですかっ?』って悪意ゼロでバカにする気もないのにそうとしか思えないことを言われちゃったんだよ」

「足し算引き算できなくても生きるのに苦労しなかったんだもの。そんな時間あるなら魔術理論勉強する方が役立つんだもん」

 今回だって、苦労したから勉強しているわけじゃない。
 借家から追い出されたら必要になるかもしれないという動機ではあるが、どうせ闇属性相手の商売なんてしてくれないだろうしと、本気にはなれていない。

「ひたすら「あ」とか「い」とか書き続ける?」

「それも嫌ぁー……」

 やはり必要性がなくてやってこなかった筆記も悲惨だ。
 読めるのに書けないのだ。
 シシャルと名前を書くくらいはできるが、覚えた模様を書き写しているような感覚だ。

 あんな高度な魔導書読めるのに高度な魔術も使えるのになんでさと不思議がられることしばしばだが、自分でも理由は分からない。

「そもそも、どうしてニクスは何も勉強してないのに私より賢いのよ」

「僕は前世でちゃんと勉強してるから。勉強なしで知識を得たわけじゃないの」

 精霊の産まれ方にはいろいろある。
 微精霊状態すっ飛ばして最初から自我ある精霊となる場合、死者の魂を核としていることが多いのだとか。

 幽霊と精霊の違いは、身体の構成物質とか術の使用可不可とか、人からの見え方とか、いろいろあるらしいが、シシャルにはいまいち分からない。

 ニクスはぐうっと伸びをすると、隅に干してあった洗濯物をてきぱきたたんでいく。
 そんなに量はないからすぐに終わり、ひまつぶしと称した魔力糸作りをしつつ、シシャルの勉強風景を観察し始める。

 見た目はシシャルより幼いのに、なんだろうこの大人の余裕。

「ニクスぅ。ここの計算もわかんないー」

「ここはね、こう……」

 ニクス君は賢い。
 勉強面では非常に頼りになる。

 精霊術を使うための相棒にはなれないが、いろんな意味で欠かせない存在だった。





 昼食を取った後は、退屈な書き取り練習の予定だった。
 が、来客があった。

(誰だろ。こんな貧しいところに強盗? いや強盗は呼び鈴鳴らさないよね。変な人だと困るなぁ……。あ、ま、まさか、大家さん?)

 大家さんだとしたら、シシャル追い出しの決行に違いない。
 家賃支払い日の翌日なのは、一ヶ月分徴収できない可能性を潰しておきたかったからだろうか。

 ニクスに目配せしてから、玄関に向かう。

「どちらさまでしょうか」

「勇者だ」

 扉を開ける。
 勇者を名乗る不届き者ではなく、本当に勇者だった。

 その後ろには大家さんとその息子と、初めて見るが服装で役人と分かる男がいる。

「(わ、わりぃな。穏便に頼むわー……)」

「(分かってるけど、もうちょっと立派そうに振る舞ったら? 演技下手なの……?)」

 居並ぶ面子の中で、完全装備なのに勇者が一番頼りなさそうだった。



 勇者とは何か。

 世界は広いので勇者の定義もいろいろあるらしいが、現在のこの国では神殿が選んで任命する存在だけを指す。
 なので神殿認定。

 神に選ばれた特別な存在ではないし、世界に選ばれた特別な存在でもないし、たった一人にしかない特別な才能を持つわけでもないし、最強の称号でもない。

 先代勇者は神に選ばれたとか、聖女への神託すっ飛ばして直接神託を受けられるとか、選ばれし者感を盛大に出していたらしいが、真偽は疑わしい。
 先々代もそれ以前も、今の勇者と同じく神殿認定と公言される人物だったという。

 なんにせよ、勇者は表向き『神託によって発生を予言された邪悪を葬る者』と定義されているが、神から最高聖女への神託で選ばれることになっているが、実際には神殿のお偉いさんが議論して決めるものだ。

 政敵に利益を与えず、自陣営の不利益にならず、神殿の価値を落とさず、徹底的に神殿に都合の良い存在の中で最強の戦士。

 それが勇者(神殿認定)なのである。



 今代の勇者は、神殿でそこそこの役職にあるがどこの派閥にも属さず出世の見込みもなく特に権力欲もない中堅貴族神官の息子であるらしい。

 たしか、十五歳で勇者になり、現在二十代だったか。

 何度見てもぱっとしない容姿の青年だが、身につけた装備はたしかに勇者のものだ。
 勇者の聖剣もある。
 鞘に収まっていても完全には消えない輝きっぷりが肌にぴりぴり来る。

「隊長は不在です」

 追い出しの話は事前に聞いているが、知らない振りをして見当違いのことを言う。

「だよなー。昼間は魔物討伐行っちゃうもんな。分かってる分かってる」

「会いたくてわざわざ家に押しかけるなんて何考えてるんです。勇者じゃなかったら不審者ですよ。いや、勇者でもどうかとは思うけど」

「ちげえよカユシィーちゃん目当てじゃねえよ後ろの面子見ろよっ?」

 本気で焦られ叫ばれた。

「(追い出しの件を事前に知ってると気付かれたら面倒でしょ)」

「(あー……。けどよぅ、言葉は選んでくれよなぁ。ただでさえ微妙な勇者の威厳が)」

 即興念話でやりとりしつつ、シシャルは大家さんたちを見渡す。

 誤解されても仕方ないくらい勇者のカユシィー好きは有名なようで、大家の息子は笑いをこらえていた。
 あの人もカユシィー好きで、家賃高くはするけど住めるようにしてくれた立役者の一人である。
 カユシィーちゃんのためなら多少迷惑被ってもかまわないがやっぱり闇属性は気に食わないという主義だから、闇属性だけ追い出せて勇者のおかげでカユシィーちゃんの苦痛も取り除けるなら万々歳なのだろう。

「ここに来たのは仕事だよ。……恐ろしい闇属性が暴走しても誰も傷つけねえようにって護衛命じられたんだよ。アホかとは思うけど権力には逆らえねえんだよ」

 勇者がちらりと後ろを見ると、苦々しい顔をした中年女性こと大家さんと役人仕様の立派な服を着た無表情の老年男性が歩いてきた。

 が、口を開かせるつもりはない。
 どうせ出てくるのは罵倒と命令だけだ。

「あー、はいはい。私に出てけと。それとも全員ですか?」

「いや、お前さえ出てってくれるなら他の人は暮らしてていいとさ」

「なるほど。そっちで来たか。考え得る中では一番穏当ね。あの二人に迷惑がかからないなら、まぁいいでしょう」

「え? いいの? いやよくねえだろ?」

 なぜ勇者が慌てるのか。
 演技にしては慌てすぎではなかろうか。

「勇者様は隊長にものすごく恨まれるでしょうけど、知ったこっちゃありません」

「何、その不穏すぎる笑顔。怖いよ。ほんとに十歳?」

「誕生日が分からないので本当に十歳かは分からないけど、十歳前後なのは確かですね」

「ま、まじめに返さないでくれよぉ」

 勇者が後ずさっている。
 装備だけ立派な小心者に見えてしまう。

「勇者様は、隊長の邪霊恐怖症から来る深刻な睡眠不足を軽減するため奔走した方がいいですよ。市販品頼りだとものすごくお金かかるので隊長副隊長だけだと実用出来ませんでしたが、勇者様なら出来ますよね?」

「い、いや、まあ、出来なかないけどそういう問題じゃなくて」

「では、荷造りをしてきます。まさか着の身着のままで出てけなんて言いませんよね?」

「いいい言えるわけねえだろっ? そんな外道にはなりたかねえよっ!」

 慌てふためく勇者を置き去りに、シシャルは家の中に戻っていく。

「ニクスー、家出るよー。準備してー」

「準備はできてるけど、ほんとに大丈夫? 隊長さん暴れるよ? 副隊長さん心労で胃に穴開くよ? あと、冷凍庫魔導具なくなると食糧事情も悪化するよ?」

 シシャルが冷凍庫魔導具を背負い、その他の荷物をニクスが背負うことは決めてある。
 どちらもシシャルの魔術で重量軽減をするので、持ち運びの苦労はほとんどない。

「勇者に対処任せてあるから大丈夫。だって勇者だし」

 前代勇者の横暴の件があり、勇者は特権を持てないが、その分、金はすごい。

「マスターは、実は外道じゃない?」

「闇属性がまっとうな人間なわけあるか。産まれた時はまっとうでもあんな目に遭い続けりゃ性根の一つや二つ歪むわよ」

 しまい込むわけにいかなかった冬物の着替えと日用品もまとめてあるのを確認し、ニクスの仕事の早さに少々嫉妬する。

「マスター、今回は何日で連れ戻されるかなぁ」

「何回もそんな無様に見つかって引きずられるつもりないから。今回は公的権力絡んでいるし、二人だって私情じゃ動けないでしょ」

「ほんとに大丈夫かなぁ」

 不安そうなニクスに元使い魔を抱えさせ、荷物を背負って外に出る。

「準備早すぎないか?」

「出て行けと言われる可能性はあの事件起こってからずっと予測してあったから」

「……シシャルちゃん。お前に俺が出来ることは」

「何もしないで見届けることと、あの二人にちゃんと報告することと、隊長さんのための邪霊対策と睡眠不足対策だけね」

「あ、ま、待てよっ」

 すれ違う瞬間、腕をつかまれた。

「お、お前! どうしてそこまで自暴自棄なんだよ! あの兄妹がどれだけお前を大事にしてるか分からないほど――」

 これが演技とは、勇者を侮りすぎていたかもしれない。
 もしやこの勇者、役者志望か何かだったのだろうか。

「分かるから、そばにいたくないの」

 嘘ではないが、本当でもない。

 幼い頃は、優しくされるたび、ここにいてくれと言われるたび、怖かった。
 彼らも傷つけられて消されてしまうのではと、不安になっていた。

 ディールクおじさんが失踪してから、まだ、それほど時間が経っていない頃のことだ。

 あんな想いをまたするのは、罪悪感にさいなまれ続けるのは、耐えられない、と。

 けれど、今、彼らと一緒にいたくない理由は、そういうものではない。

「下手に騒いでこれ以上迷惑かけるのは嫌なの」

「だ、だが、お前いなくなると、この家の防御が」

 勇者の一言に、すっかり忘れていた事実を思い出す。

「私が追い出されても張りっぱなし、というのは」

「いや無理だろ。近くうろつかれるのも嫌だって話だし、いらぬ疑いかけられたらカユシィーちゃんも追い出されちまう」

「では、防犯魔術一切消えますので、早めに闇属性の不在公表しないと大変なことになりますよ。……いなくなった後まで私のせいにされたら許しませんから、対応よろしく」

「お、おう。カユシィーちゃんの心の平穏のためだもんな。引き受けた」

 まだなにか言いたげな勇者を残し、去っていく。

 大家の保身にとやかく言うつもりはない。

 闇属性は存在するだけで不幸を呼ぶのだ。
 事実かはともかく、人々はそう信じている。

 発見次第問答無用で捕らえて処刑なんて過激な論理に走っていないだけ、まだマシだ。
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