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第5話 悠々自適な囚われの身生活
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「大丈夫かしら……」
男、という希有な生態についてをめぐらせていた。
麗凜の知る男とは、兄たちと一部の宦官ぐらいのもので、知る、といえるほど親しくもなく、子供の頃に少し遊んでもらった程度。
宦官にいたっては女官たちからの口利きなどで小金を巻き上げたりして私腹を肥やすくせに、やけに口うるさい、との認識があるためか、麗凜の中では男の分類にさえ値しない。
よって結果比べ物にもならない。
何なのだろう、男とは。
突然、顔色を赤やら青く変色させる謎の奇病を患うであろう憬麟王。
その兄で、かつての婚約者だった今は亡き翔禿も謎の病を長く患っていたという。
やはりあの時、人を呼ぶべきだった?
「姫様?」
伎玉がおずおずと遠慮がちに顔をのぞきこむ。
「な、何?」
「何やらうかなげです」
「そう見える?」
コクコクと激しくうなづいて肯定してみせる伎玉。
彼女の手のうちで大波をたてる小さな茶杯から白濁の湯気がゆらぎ、なくなりかけのそれに茶を注す。
「あれよ、もうすぐ使者がみえるから緊張しているのかしらね」
もっともそうな体のいい言い訳を口にし、麗凜は小さく微笑みながら茶器をおく。
特段、殷禿との偶然の出会いについてを秘密にしているわけではないが、何やら言い出しにくいと感じていた。
風鈴に言えばおそらく不敬だったと非難は必至で、出会いかたからしてあまり好印象とはいかなかったことは言うまでもない。というよりムッとすることばかりだった。
しいていえば、王族特有にある傲岸不遜的な印象が甚だもってはなもちならないというか、引きこもり姫にとっては懐かしい因習に鼻で嗤うしかなかった。
「姫様?」
「な、何かしら」
よそ事に気をとられ目の前の伎玉に気をくばる余裕すら希薄になっていたようだ。
伎玉にはただでさえ麗凜の替え玉姫として気の抜けない毎日をしいている。その負担はいかばかりか、おどおどしている本来の彼女を想うと気の毒になる。
一日も早くその負担を軽減させてやらねば。
「やはり何か………」
伎玉の言葉をさえぎるように麗凜は急ぎばやに言葉をつづる。
「大丈夫よ。それにしても風鈴ったら遅いわね」
とはいえ、今の麗凜にできることといえば、ただ安堵させるセリフを繰り返すだけ。
「何かあったのでしょうか」
「アレかしら。そろそろ謁見が開始される頃よね。きっと影から様子を探っているのかもしれないわ。酷いと思わない?」
「はぁ。どの辺がでしょう」
「私が興味をもつと、はしたないだ、宮中は見ざる聞かざる言わざるだと散々に言うのに。それなのに風鈴たら、謁見の様子を遠くから盗み見ているかもしれないのよ?」
実際にそうかは定かではなく憶測にすぎないが。
「ですが風鈴様は侍女たる信条をおすてになれられてでも姫様の目となり耳となっておられるのやもしれません」
「伎玉……あなたってホント良いこね」
きっと伎玉のような無垢な心根は人の救いになる。
誰に対しても忘れてならないもの。それは思いやりと優しさだ。
誰かのために一生懸命になれるのも、気づかえる優しさも、後宮の最奥にあっては感じることのなかった感情で、そういった至極当たり前の感情が麗凜の中に育まれつつある。
それらを当然のごとく与えてくれる風鈴と伎玉の存在が麗凜のなかで大きく、勇気づけてくれていていた。
「紫耀からの使者がもうすぐ来るわ」
もうすぐ帰れるかもしれない、そう想うと気持ちが浮上してくる。
あぁ、あの住み心地のよかった後宮の最奥の宮に帰りたい。
一日中誰とも会わず、誰とも口をきかず。ただ書架に没頭していれば一日が終わる。麗凜にとって最良の毎日がもどってくる。
やっぱり住み慣れた我が家一番!
それは、もうすぐどころかすぐに訪れた。パタンと勢いよく扉が開かれる。
「ひ、姫様ぁぁぁ!?」
「どうしたの」
「お、王様がお越しになられると」
「ぇぇ!? だって今がちょうど正午よ? というよりこれから紫耀からの使者と謁見するはずでは?」
「何でも憬麟王が午後の予定をすべてキャンセルされたそうで、謁見できなかったとか」
「じゃあ後日に持ち越されたってことね。で、何で、どうしたらそうなるわけ?」
さぁ、と云いたげに首をかしげる風鈴。
「ど、どうしましょう」
風鈴が珍しく蒼白気味だ。こっちまで風鈴の混乱ぶりが伝播しそうになる。
まずは皇女である自身がしっかりせねば。
「急ぎ茶の用意を、茶菓子なんてあるかしら?」
甘いもの、あまり好きそうじゃなかったけど、見た目で判断したらいけない。
甘党気取りの男は、本人いわく、僕は一度も他人に怒ったことはない、を口癖とする。
おもに官吏のものにみられるが、その多くが実は内々に血気盛んさを秘めた、沈黙の怒り型だった。
つまりは、毎日大量の糖分を摂取し、その糖分でもって脳内の怒り物質を鎮めているというわけだ。
顔色もやたら赤かった殷禿を思えば、たかが菓子、されど菓子。なごやかにやり過ごすためにも欠かせないだろう。
「今から厨房へ行ってくるわ」
「姫様にそのようなことをさせられません」
「背に腹はかえられぬって言うでしょ? 伎玉が行くわけにもいかないし、皇女付き筆頭侍女の風鈴が伎玉の側を離れ王との謁見の席に同行しないのもおかしいし、ね? いま自由に動けるとしたら私しかいないわ」
「……確かに」
そう納得しながらも風鈴は否定的だ。
眉根をよせ、シワがきざまれた。
「風鈴、眉間」
指摘された風鈴は、緊張をゆるめ、眉間のシワをなでつける。
「私たちは運命共同体でしょ? 風鈴が言ったのよ。できることは、その時にできる人がやればいいし、足りないぶんは補いあい、助け合うと約束したじゃない」
「はぁ」
「風鈴はまず伎玉のしたくの手伝いをお願い。今のままでも十分皇女らしいけど、王と会うならもう少し着飾ったほうがそれっぽくていいわ」
「かしこまりました」
「伎玉は想定される当たり障りのない会話の反芻目録に目を通し、心を落ち着けて。突然のことだから難しいだろうけど」
意を決したのか伎玉の眸に力強い意志がやどる。
「承知いたしました」
「じゃあ私は厨房へ行ってくる」
円卓上の茶杯を手早く盆の上にまとめると麗凜は立ちあがった。
王の来訪の知らせが届いてから時間が経っている。あるいは既にこの迎賓館のすぐ近くにまできているかもしれなかった。
「あとを頼むわ」
目と目を介して麗凜は室をあとにした。
厨房へと向かう道々。長い回廊の先で輿に揺られてやってくる殷禿の姿が見えた。
「もう? お茶の手配さえまだだっていうのに!?」
はぁ、と短い嘆息を吐く。
伎玉の支度、心の準備さえ整ったかもわからないというのに。
憬麟王はおそろしくせっかちなのだろうか。
それとも人の都合を無視する無作法な人?
いずれにせよ、避けては通れそうにない。なにせ一本道なのだから。
逃げるに逃げられず、麗凜は道の端により、頭をたれる。
じっと沓先を見ていると、ふいに輿がとめられた。
「待て」
威厳あふれる声に従い、輿がおろされる。
長靴が地につき、輿をおりると手にした羽扇でヒラヒラとあおぎ、音をたててパチンと閉じられる。
すると輿やそのお付きの者たちが一斉に後退。遠く離れた場所でうつむき加減で待機している。
「そこの侍女。おもてをあげよ」
なかなか顔を上げずにいると、苛立った風でもない穏やかな声音で「遠慮するでない」と告げられた。
つっと顔をあげると殷禿の顔を直視せず、目線は下げたまま、かしこまってます風をふかせる。
「どうだ憬麟は」
「おそれながら、どう、とは?」
「紫耀の王宮とはだいぶ違うだろう。何か困っていることはないか?」
今です、とは言えず、困惑しつつもどう答えたものか。思案して、なぜこの王はこうも自分に絡んでくるのかと不思議に思う。
「皆さんよくしてくれますし、皇女様もつつがなくお過ごしのご様子です」
「そうか。もう少し待ってから姫に会うつもりだったが早計だったようだ」
「というと?」
「姫の気持ちが落ち着くまで会うべきでないと思ってな。だが思えば婚約者といっても一度も会ったことさえないのだから、それほど気にやむことも憂いる必要もなかったのかもしれないが」
おそらく殷禿なりに気を遣ってくれていたのだろう。
だが悲しんでいないと思われたままでは癪にさわる。
「誰よりもお悲しみになられておりますよ。ただこういう状況下でしもじもの私どもにはお見せになりませんが。ひと目だけでもお会いしたかった、そうおっしゃられておりました」
それだけ姫の心情をくんでくれていたのなら、どうして葬儀にさえ参列させてくれなかったのだろう。
「さぞ恨んでいるだろうな」
「なぜ、とお訊きしても?」
「何より兄がそう望んだからだ。信じてはもらえぬだろうが、自分の死に顔を姫に見られたくはなかったのだろう。綺麗な記憶のままの自分を覚えていてほしい。そう願ったのやも」
兄上らしい、そう言って殷禿はククッと小さく笑ってみせた。
清廉潔白でありながら公平盛大なる聖人のような生きざま。執政五年の間に彼は数々の伝説的偉業をなしとげた。
その間、自らも病に臥しつつも沢山の慈愛に満ちた励ましの言葉を送りつづけてくれた。
そんな初めて知る翔禿の想いに、麗凜のまぶちに熱をおびる。
長い患いもののせいで、きっと最後の瞬間まで苦しみぬき、疲れはてたその姿を麗凜には見せるには偲びないと思っての配慮か。最後まで優しさと思いやりの心を忘れなかった翔禿。
それでも、あなたにひと目なりと会いたかった。
「泣いてくれるのか」
「ぇ? あれれ??」
頬を温かなものがいく筋もつたう。
「ありがとう。異国の者に心から悲しんでもらえ、兄もうかばれるだろう」
そう言って殷禿は、後方からは見えないよう立ち位置をずらし、すっぽりと覆うと、あろうことか麗凜は殷禿の胸にうずもれる。
「…………ぇ!?」
唐突な行為に、麗凜はおどろいてあおぐ。
「心から礼を申す」
ぎゅと力がこめられる。
これではまるで抱き締められているようではないか。
「あ、あの!」
もしかしたら義理の弟になったかもしれないひと。そう思うだけで不貞をはたらくような罪の意識にさいなまれる。
「これも何かの縁。余の名は殷禿と申す。そなたは?」
バッと胸からひきはがすと殷禿は驚いたように瞬く。
「そんな畏れ多い」
距離をおくと、殷禿はひどく傷ついたような顔をしてうなだれた。
「待ってくれ。名も知らなければよびようがないではないか、不都合であろう」
一介の侍女風情、名を呼ばれる必要もないはずであるが。
「名のれぬわけでもあるのか?」
そう問われれば、訳がありありと告げたも同然だ。
しかもいま名のれるとしたらこの名をおいて他にはない。
「ーー伎玉、伎玉にございます、王様」
伎玉、そう殷禿は口の内で復唱するように何度も呟き、ニッと口元をほころばせる。
「伎玉か、いい名だ」
この上もなく悦びにうち震えた様子の殷禿の背後から「陛下」と呼びすくめられる。
「何だ」
「そろそろ紫耀の皇女様とのお約束が」
申し訳なさげに声がかかる。
「そうだな。また会おうぞ伎玉よ」
立ち去り際、殷禿は思い出したようにふりかえる。
「伎玉よ。そなたの府庫への立ち入りをゆるす。いつでも好きな時に参るがよい」
ぱぁと麗凜はこぼれんばかりに破顔する。
「ありがとうございます!」
今日一番の喜ばしい出来事だ。また書架を好きなだけ読みふけることができる。
「案外、いい人なのかも?」
輿に揺られる殷禿をみおくると麗凜は意気揚々と厨房へとむかった。
「で、すぐに帰ったわけ? あの人は一体何をしにきたわけ」
「さぁ」
茶器一式を手にして取り急ぎ戻ってみれば、そこに殷禿の姿はすでになかった。
殷禿は挨拶もそこそこのうちに帰っていったという。
「ただ挨拶をしただけ?」
「はぁ。名のるだけ名のると、すぐに踵をかえされまして」
「用事とか何かを伝えに来たとかではなく?」
「特には。ね?」
「はぃ。びっくりするほど急いておられまして。こちらが名のる隙もなく」
「すぐに?」
「ぇぇ」
よくわからないが、無事に挨拶だけはすませた、ということでよしとする。
「せっかくのお茶とお菓子が無駄になったわね」
「でしたら私たちで片付けましょうか。喉もカラカラですし」
「そうね、慌ただしくて忘れていたけどお昼もまだだったわ」
「でしたらすぐに昼の手配をしてまいります」
「うん。お願い」
「伎玉も疲れたでしょう? それまでの間、ゆっくりお茶でもしましょう」
「はい」
その日の夜。
麗凜は俯庫にこもり、小さな灯火のもと静かに頁をめくる。
思うように寝付けずにいた麗凜は、人知れず俯庫に足を運んでいた。
深夜だというのに王宮殿の方は慌ただしい。
急患だろうか、医官をともなった宦官が騒々しくもせきたてる。
「早くせよ、早よう、早よう」
一大事だと言わんばかりだ。
「…………」
麗凜は頁をめくる。
どの王室も大変なようだ。
一方、その頃。王宮殿では、年若い王が悶々とした眠れぬ夜を過ごしていた。
「なぜ余は肝心なことを聞きそびれてしまったのだ!? 己はそれでも男か? 」
八つ当たりに枕を放る。
伎玉なる侍女に、おもいびとがいるか否か、言い交わした者はおるのか、肝心なことを訊けず仕舞いだった。
「陛下」
戸のむこうから慣れ親しんだ爺のこえがする。
「爺か? 入れ」
「夜分失礼いたします」
「どうした、このような夜更けに」
「朝から陛下のご様子がおかしい、との報告を受け今宵は陛下のお側に待機しておりましたが」
「が、なんだ。言ってみよ」
「言うより早いかと思いまして医官を呼びました」
「な、なに?」
「ささ、陛下、横になりませ」
赤子を寝かしつけるように布団にくみふせられる。
「余はどこも悪くはないぞ!?」
布団に身を沈めると医官がそっと手首をにぎる。
納得のいかない殷禿はじっと爺を見据え、怒りをあらわにしつつも呼吸をととのえる。
「ふぅむ。なるほど」
「どうじゃ、何の病だ、治る見込みは?」
「治りません。不治の病ですから。ある意味兄上、先王様と同じ病かと」
「して病名は?」
「俗に言うところの恋わずらいにございますな」
「は??」
その間の抜けた疑問符をともなう奇声は闇夜に溶けて消えた。
男、という希有な生態についてをめぐらせていた。
麗凜の知る男とは、兄たちと一部の宦官ぐらいのもので、知る、といえるほど親しくもなく、子供の頃に少し遊んでもらった程度。
宦官にいたっては女官たちからの口利きなどで小金を巻き上げたりして私腹を肥やすくせに、やけに口うるさい、との認識があるためか、麗凜の中では男の分類にさえ値しない。
よって結果比べ物にもならない。
何なのだろう、男とは。
突然、顔色を赤やら青く変色させる謎の奇病を患うであろう憬麟王。
その兄で、かつての婚約者だった今は亡き翔禿も謎の病を長く患っていたという。
やはりあの時、人を呼ぶべきだった?
「姫様?」
伎玉がおずおずと遠慮がちに顔をのぞきこむ。
「な、何?」
「何やらうかなげです」
「そう見える?」
コクコクと激しくうなづいて肯定してみせる伎玉。
彼女の手のうちで大波をたてる小さな茶杯から白濁の湯気がゆらぎ、なくなりかけのそれに茶を注す。
「あれよ、もうすぐ使者がみえるから緊張しているのかしらね」
もっともそうな体のいい言い訳を口にし、麗凜は小さく微笑みながら茶器をおく。
特段、殷禿との偶然の出会いについてを秘密にしているわけではないが、何やら言い出しにくいと感じていた。
風鈴に言えばおそらく不敬だったと非難は必至で、出会いかたからしてあまり好印象とはいかなかったことは言うまでもない。というよりムッとすることばかりだった。
しいていえば、王族特有にある傲岸不遜的な印象が甚だもってはなもちならないというか、引きこもり姫にとっては懐かしい因習に鼻で嗤うしかなかった。
「姫様?」
「な、何かしら」
よそ事に気をとられ目の前の伎玉に気をくばる余裕すら希薄になっていたようだ。
伎玉にはただでさえ麗凜の替え玉姫として気の抜けない毎日をしいている。その負担はいかばかりか、おどおどしている本来の彼女を想うと気の毒になる。
一日も早くその負担を軽減させてやらねば。
「やはり何か………」
伎玉の言葉をさえぎるように麗凜は急ぎばやに言葉をつづる。
「大丈夫よ。それにしても風鈴ったら遅いわね」
とはいえ、今の麗凜にできることといえば、ただ安堵させるセリフを繰り返すだけ。
「何かあったのでしょうか」
「アレかしら。そろそろ謁見が開始される頃よね。きっと影から様子を探っているのかもしれないわ。酷いと思わない?」
「はぁ。どの辺がでしょう」
「私が興味をもつと、はしたないだ、宮中は見ざる聞かざる言わざるだと散々に言うのに。それなのに風鈴たら、謁見の様子を遠くから盗み見ているかもしれないのよ?」
実際にそうかは定かではなく憶測にすぎないが。
「ですが風鈴様は侍女たる信条をおすてになれられてでも姫様の目となり耳となっておられるのやもしれません」
「伎玉……あなたってホント良いこね」
きっと伎玉のような無垢な心根は人の救いになる。
誰に対しても忘れてならないもの。それは思いやりと優しさだ。
誰かのために一生懸命になれるのも、気づかえる優しさも、後宮の最奥にあっては感じることのなかった感情で、そういった至極当たり前の感情が麗凜の中に育まれつつある。
それらを当然のごとく与えてくれる風鈴と伎玉の存在が麗凜のなかで大きく、勇気づけてくれていていた。
「紫耀からの使者がもうすぐ来るわ」
もうすぐ帰れるかもしれない、そう想うと気持ちが浮上してくる。
あぁ、あの住み心地のよかった後宮の最奥の宮に帰りたい。
一日中誰とも会わず、誰とも口をきかず。ただ書架に没頭していれば一日が終わる。麗凜にとって最良の毎日がもどってくる。
やっぱり住み慣れた我が家一番!
それは、もうすぐどころかすぐに訪れた。パタンと勢いよく扉が開かれる。
「ひ、姫様ぁぁぁ!?」
「どうしたの」
「お、王様がお越しになられると」
「ぇぇ!? だって今がちょうど正午よ? というよりこれから紫耀からの使者と謁見するはずでは?」
「何でも憬麟王が午後の予定をすべてキャンセルされたそうで、謁見できなかったとか」
「じゃあ後日に持ち越されたってことね。で、何で、どうしたらそうなるわけ?」
さぁ、と云いたげに首をかしげる風鈴。
「ど、どうしましょう」
風鈴が珍しく蒼白気味だ。こっちまで風鈴の混乱ぶりが伝播しそうになる。
まずは皇女である自身がしっかりせねば。
「急ぎ茶の用意を、茶菓子なんてあるかしら?」
甘いもの、あまり好きそうじゃなかったけど、見た目で判断したらいけない。
甘党気取りの男は、本人いわく、僕は一度も他人に怒ったことはない、を口癖とする。
おもに官吏のものにみられるが、その多くが実は内々に血気盛んさを秘めた、沈黙の怒り型だった。
つまりは、毎日大量の糖分を摂取し、その糖分でもって脳内の怒り物質を鎮めているというわけだ。
顔色もやたら赤かった殷禿を思えば、たかが菓子、されど菓子。なごやかにやり過ごすためにも欠かせないだろう。
「今から厨房へ行ってくるわ」
「姫様にそのようなことをさせられません」
「背に腹はかえられぬって言うでしょ? 伎玉が行くわけにもいかないし、皇女付き筆頭侍女の風鈴が伎玉の側を離れ王との謁見の席に同行しないのもおかしいし、ね? いま自由に動けるとしたら私しかいないわ」
「……確かに」
そう納得しながらも風鈴は否定的だ。
眉根をよせ、シワがきざまれた。
「風鈴、眉間」
指摘された風鈴は、緊張をゆるめ、眉間のシワをなでつける。
「私たちは運命共同体でしょ? 風鈴が言ったのよ。できることは、その時にできる人がやればいいし、足りないぶんは補いあい、助け合うと約束したじゃない」
「はぁ」
「風鈴はまず伎玉のしたくの手伝いをお願い。今のままでも十分皇女らしいけど、王と会うならもう少し着飾ったほうがそれっぽくていいわ」
「かしこまりました」
「伎玉は想定される当たり障りのない会話の反芻目録に目を通し、心を落ち着けて。突然のことだから難しいだろうけど」
意を決したのか伎玉の眸に力強い意志がやどる。
「承知いたしました」
「じゃあ私は厨房へ行ってくる」
円卓上の茶杯を手早く盆の上にまとめると麗凜は立ちあがった。
王の来訪の知らせが届いてから時間が経っている。あるいは既にこの迎賓館のすぐ近くにまできているかもしれなかった。
「あとを頼むわ」
目と目を介して麗凜は室をあとにした。
厨房へと向かう道々。長い回廊の先で輿に揺られてやってくる殷禿の姿が見えた。
「もう? お茶の手配さえまだだっていうのに!?」
はぁ、と短い嘆息を吐く。
伎玉の支度、心の準備さえ整ったかもわからないというのに。
憬麟王はおそろしくせっかちなのだろうか。
それとも人の都合を無視する無作法な人?
いずれにせよ、避けては通れそうにない。なにせ一本道なのだから。
逃げるに逃げられず、麗凜は道の端により、頭をたれる。
じっと沓先を見ていると、ふいに輿がとめられた。
「待て」
威厳あふれる声に従い、輿がおろされる。
長靴が地につき、輿をおりると手にした羽扇でヒラヒラとあおぎ、音をたててパチンと閉じられる。
すると輿やそのお付きの者たちが一斉に後退。遠く離れた場所でうつむき加減で待機している。
「そこの侍女。おもてをあげよ」
なかなか顔を上げずにいると、苛立った風でもない穏やかな声音で「遠慮するでない」と告げられた。
つっと顔をあげると殷禿の顔を直視せず、目線は下げたまま、かしこまってます風をふかせる。
「どうだ憬麟は」
「おそれながら、どう、とは?」
「紫耀の王宮とはだいぶ違うだろう。何か困っていることはないか?」
今です、とは言えず、困惑しつつもどう答えたものか。思案して、なぜこの王はこうも自分に絡んでくるのかと不思議に思う。
「皆さんよくしてくれますし、皇女様もつつがなくお過ごしのご様子です」
「そうか。もう少し待ってから姫に会うつもりだったが早計だったようだ」
「というと?」
「姫の気持ちが落ち着くまで会うべきでないと思ってな。だが思えば婚約者といっても一度も会ったことさえないのだから、それほど気にやむことも憂いる必要もなかったのかもしれないが」
おそらく殷禿なりに気を遣ってくれていたのだろう。
だが悲しんでいないと思われたままでは癪にさわる。
「誰よりもお悲しみになられておりますよ。ただこういう状況下でしもじもの私どもにはお見せになりませんが。ひと目だけでもお会いしたかった、そうおっしゃられておりました」
それだけ姫の心情をくんでくれていたのなら、どうして葬儀にさえ参列させてくれなかったのだろう。
「さぞ恨んでいるだろうな」
「なぜ、とお訊きしても?」
「何より兄がそう望んだからだ。信じてはもらえぬだろうが、自分の死に顔を姫に見られたくはなかったのだろう。綺麗な記憶のままの自分を覚えていてほしい。そう願ったのやも」
兄上らしい、そう言って殷禿はククッと小さく笑ってみせた。
清廉潔白でありながら公平盛大なる聖人のような生きざま。執政五年の間に彼は数々の伝説的偉業をなしとげた。
その間、自らも病に臥しつつも沢山の慈愛に満ちた励ましの言葉を送りつづけてくれた。
そんな初めて知る翔禿の想いに、麗凜のまぶちに熱をおびる。
長い患いもののせいで、きっと最後の瞬間まで苦しみぬき、疲れはてたその姿を麗凜には見せるには偲びないと思っての配慮か。最後まで優しさと思いやりの心を忘れなかった翔禿。
それでも、あなたにひと目なりと会いたかった。
「泣いてくれるのか」
「ぇ? あれれ??」
頬を温かなものがいく筋もつたう。
「ありがとう。異国の者に心から悲しんでもらえ、兄もうかばれるだろう」
そう言って殷禿は、後方からは見えないよう立ち位置をずらし、すっぽりと覆うと、あろうことか麗凜は殷禿の胸にうずもれる。
「…………ぇ!?」
唐突な行為に、麗凜はおどろいてあおぐ。
「心から礼を申す」
ぎゅと力がこめられる。
これではまるで抱き締められているようではないか。
「あ、あの!」
もしかしたら義理の弟になったかもしれないひと。そう思うだけで不貞をはたらくような罪の意識にさいなまれる。
「これも何かの縁。余の名は殷禿と申す。そなたは?」
バッと胸からひきはがすと殷禿は驚いたように瞬く。
「そんな畏れ多い」
距離をおくと、殷禿はひどく傷ついたような顔をしてうなだれた。
「待ってくれ。名も知らなければよびようがないではないか、不都合であろう」
一介の侍女風情、名を呼ばれる必要もないはずであるが。
「名のれぬわけでもあるのか?」
そう問われれば、訳がありありと告げたも同然だ。
しかもいま名のれるとしたらこの名をおいて他にはない。
「ーー伎玉、伎玉にございます、王様」
伎玉、そう殷禿は口の内で復唱するように何度も呟き、ニッと口元をほころばせる。
「伎玉か、いい名だ」
この上もなく悦びにうち震えた様子の殷禿の背後から「陛下」と呼びすくめられる。
「何だ」
「そろそろ紫耀の皇女様とのお約束が」
申し訳なさげに声がかかる。
「そうだな。また会おうぞ伎玉よ」
立ち去り際、殷禿は思い出したようにふりかえる。
「伎玉よ。そなたの府庫への立ち入りをゆるす。いつでも好きな時に参るがよい」
ぱぁと麗凜はこぼれんばかりに破顔する。
「ありがとうございます!」
今日一番の喜ばしい出来事だ。また書架を好きなだけ読みふけることができる。
「案外、いい人なのかも?」
輿に揺られる殷禿をみおくると麗凜は意気揚々と厨房へとむかった。
「で、すぐに帰ったわけ? あの人は一体何をしにきたわけ」
「さぁ」
茶器一式を手にして取り急ぎ戻ってみれば、そこに殷禿の姿はすでになかった。
殷禿は挨拶もそこそこのうちに帰っていったという。
「ただ挨拶をしただけ?」
「はぁ。名のるだけ名のると、すぐに踵をかえされまして」
「用事とか何かを伝えに来たとかではなく?」
「特には。ね?」
「はぃ。びっくりするほど急いておられまして。こちらが名のる隙もなく」
「すぐに?」
「ぇぇ」
よくわからないが、無事に挨拶だけはすませた、ということでよしとする。
「せっかくのお茶とお菓子が無駄になったわね」
「でしたら私たちで片付けましょうか。喉もカラカラですし」
「そうね、慌ただしくて忘れていたけどお昼もまだだったわ」
「でしたらすぐに昼の手配をしてまいります」
「うん。お願い」
「伎玉も疲れたでしょう? それまでの間、ゆっくりお茶でもしましょう」
「はい」
その日の夜。
麗凜は俯庫にこもり、小さな灯火のもと静かに頁をめくる。
思うように寝付けずにいた麗凜は、人知れず俯庫に足を運んでいた。
深夜だというのに王宮殿の方は慌ただしい。
急患だろうか、医官をともなった宦官が騒々しくもせきたてる。
「早くせよ、早よう、早よう」
一大事だと言わんばかりだ。
「…………」
麗凜は頁をめくる。
どの王室も大変なようだ。
一方、その頃。王宮殿では、年若い王が悶々とした眠れぬ夜を過ごしていた。
「なぜ余は肝心なことを聞きそびれてしまったのだ!? 己はそれでも男か? 」
八つ当たりに枕を放る。
伎玉なる侍女に、おもいびとがいるか否か、言い交わした者はおるのか、肝心なことを訊けず仕舞いだった。
「陛下」
戸のむこうから慣れ親しんだ爺のこえがする。
「爺か? 入れ」
「夜分失礼いたします」
「どうした、このような夜更けに」
「朝から陛下のご様子がおかしい、との報告を受け今宵は陛下のお側に待機しておりましたが」
「が、なんだ。言ってみよ」
「言うより早いかと思いまして医官を呼びました」
「な、なに?」
「ささ、陛下、横になりませ」
赤子を寝かしつけるように布団にくみふせられる。
「余はどこも悪くはないぞ!?」
布団に身を沈めると医官がそっと手首をにぎる。
納得のいかない殷禿はじっと爺を見据え、怒りをあらわにしつつも呼吸をととのえる。
「ふぅむ。なるほど」
「どうじゃ、何の病だ、治る見込みは?」
「治りません。不治の病ですから。ある意味兄上、先王様と同じ病かと」
「して病名は?」
「俗に言うところの恋わずらいにございますな」
「は??」
その間の抜けた疑問符をともなう奇声は闇夜に溶けて消えた。
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