超絶寵愛王妃 ~後宮の華~

冰響カイチ

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第4話 君の名もしらぬ

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「失礼いたします」

反射的に、やられた、そう思った。

昨日の反抗的な態度とはうってかわって、予想の斜め上をいく彼女は、あたかも昨日のあれは夢か幻であるかのように礼儀をわきまえ、かつ従順な姿勢で完璧なる侍女として目の前に現れた。

昨日のあれやこれやを根にもつ自分が恥ずかしく思える。

権力をかさにきて報復てき処置を行使し、屈服くっぷくさせてやる、そう息巻いて捜しだした彼女に茶を所望しょもうした。

ある意味、それは間違いではなかった。

何故そこまで彼女に固執したのか。その理由にこの時はまだ気づきもせず。




詩を口ずさむかのように、そっと押し開いた唇から「茶をお持ちしました」そう紡がれる。

その姿を確認した瞬間、口腔のものをごくりと嚥下した。

「入れ」

少女は執務机の手前にある小さな方卓ほうたくを見、しずしず歩みよっておもむろに盆をおくと、手慣れた様子で茶を淹れはじめた。

ほぅ、と嘆息がもれる。

あらゆる所作が洗練され、そそとして美しい。

それは一朝一夕には身につくことのできない修練の賜物といえよう。

盆の上の、何の飾り気もない素焼きの茶器は、蓋を開けた瞬間、茶葉がほのかに馨る。

いい薫りだ。まるで身内でどろどろしていたものが洗い浄められるように癒される。

あらかじめ湯を一端べつの器に移し、待つことしばし。適温にまで冷めた湯を茶器に注げば馥いくたる花のが匂いたつ。菊花茶だ。
あとは緑茶とジャスミンなどが絶妙に調合され、まるで押し花のようなそれは、茶器のなかでどっぷりと湯に浸かりながらのびのび花弁をひろげる。

茶杯に注ぐしぐさも、また息のしかたひとつ、表情のささいな変化にいたるまで、終始息を押し殺し、その流麗なる美しい様をじっとなやましげに眺める以外、脳が許さなかった。

やがて茶托の上にのせられたそれは、少女の手によって運ばれる。

コトリと目の前におかれた。

「どうぞ」

その、か細い白磁のような滑らかな指先にゾクリとする。

すぐに引っ込められたそれに名残惜しいとさえ感じていた。

それは期せずして、執務机よりやや距離をたもつ位置で、白い手と手がそえられるようにして前に組まれる。

あの手を取りたい、あますことなく網羅する勢いでにぎにぎしたい!

そう変態的衝動にかられるも、頭の片隅でわずかに息をひそめていた理性が根性をふりしぼって欲求を退けた。

「他にご用は?」

「用?  そうだな…………用というまでのものでもないが……」

気のない返答で語尾をにごらせる。

まだ帰したくはない、帰してなるものか。

だが、ひきとめられるだけの理由さえ浮かばず。けれど、ここにいろ、といえるだけの名分さえもない。

さて、どうしたものかーーそう思案にふけりながら、出された茶杯に手をのばす。

「が、なんでしょう?  遠慮なくお申し付けくださりませ」

小首をかしげつつ、のんびりと告げられる。

「……グフッ」

含んだものをふきだしかけた殷禿は、茶托の上に戻し、口の端を滴るものを手の甲でぬぐいさる。

瞬間、嫌が上にも目の端にうつりこむ、ぷっくりとふくらみのおびた口唇にやわらかな笑みが上書きされた。

ーー悪魔だ。

少女のものとは思えぬ艶然たるその姿に、苦悶。紅化粧っけのないありのままの美しさにクラクラとした。

嗚呼ーーついに、このおかしくなってしまった頭を気がすむまで殴打して、のたうち回りたい。

「…………」

だが本能だけはあらがいようもない。
人に身分の差はあれど、王とてそこいらの男と同じく、あれやこれやとめくりめく妄想にかられるなど俗っぽさと繊細さをあわせもつ。それこそが男であり、時に女々しいとさげすまされる打たれ弱さに通ずる。
その弱さあまって憎さ百倍のよこしまなるものが少女を映せと催促する。

抗えず少しだけ瞼をあげると、色素のうすい明眸なる茶ばんだ瞳と重なった。

その瞬間、フィッと無理にそらせる。

嗚呼…………もぅ、何なんだコレは!?  

 己は乙女か!?    不自然きわまりないだろうが。

いや、それより首の筋を痛めたかもしれない。首がもげるように痛いぞ。爺、爺はどこだ!?

いゃいゃ、待て。そこじゃない。問題はこのあとどうやってごまかすかだろ!

「王様?」

仙女のごとき麗しい少女の、気遣わしげな眸が細められる。

「……もしや、お気に召されませんでしたか?」

もぅ、十分、眼福がんぷくさせてもらったとも。余は満足だ。

「どこか御加減でも?」

ぁぁ、大変悪い。胸はばくばくして、痛いし、息もあがる。熱にうかされたようにボゥーとするし、頭はきりきりと痛むわで最悪だとも。

そう心の内をとろすれば、彼女は看病してくれるだろうか?  命令ではなく。一人の女性として。

「……医官をよびましょうか?」

困り顔で戸惑う素振りもまた、何だかんだで愛おしい。

ーーって、ちょ、ちょっと待てぇぇ! 愛おしいだ!?  どの口が滑らせたらそうなる?  一体俺は何を考えて…………?

「…………もう下がれ」

疲れた。

そう声を絞り出すだけで一杯一杯だった。

すっかり気力はないでいる。顔さえ上げる気力すらもない。

「……でも」

「下がれと申した」

声調子を強めると、あっさり引き下がる。

一礼し、すさりつつも気遣わしげに何度も振り返りながら執務室をあとにした。

「…………」

心配させてしまっただろうか。

あとで不手際があったと気にしやしないだろうか。

ククッと喉を鳴らした。

どうせなら、少しでも彼女の心に爪痕を残し、わずかな隙間に殷禿という存在を植えつけてしまえ。

いつかあの胸全部を占めるほど、熱く、この殷禿だけで埋めつくされるように…………そう身内で何者かがささやくのだ。

「…………」

少女が消えた扉へ意識をはせる。

すでに気配は遠ざかったあとだ。

もうすでに淋しさと、あっさり下がらせてしまったことへの後悔の念にさらされ、自身をなじるほど咎めている。

とくん、といまだに痛む胸。

「……はぁ」

殷禿は一年分ぐらいの重い嘆息を吐く。

椅子の背もたれに重心をおくことで、背が丸くなる。

誰にも見せられぬ姿。だが時おりこうして肩肘の力をぬいて脱力することで気持ちが落ち着く。

それまでの異様な緊張感が嘘のように消え去り、肺は息をふきかえしたように大きく息を吸い込む。

紫耀からやってきた若草の侍女は、魅惑がだだもれで、嫣然として艶かしい。
というか、語録の少ない殷禿ではそれを言い表わす表現力に乏しすぎる。

これが末弟の煌禿こうとくなら、どもることもなく、うまいこと会話を弾ませ、彼女を楽しませることもできただろう。

この不可思議な気持ちは何だ?

勝負に負けるよりも悔しい。もしや、嫉妬?  なわけない。

彼女は、どこをどう見ても美しい。

紫耀の者はみな、なのだろうか。それとも彼女が特別なだけだろうか。

「余はどうしてしまったのだ?」

自問自答し、少しして、かぶりを振る。

「  そうか!  兄上の逝去につづき昨今の激務で疲れておるのだ、そうに違いない。でなければ…………」

異国からやってきた、たかが侍女ごときをあんな雄まるだしで、舐めるように視姦するはずがない。

「爺、爺はそこにおるか」

扉口にむかって声をはる。少しして腰を丸めた老人がほてほてと現れた。

「どうされましたか。切羽詰まったようなお声をなされ」

幼少期から側役として殷禿の世話をしてきた老人だ。

宦官かんがんなため髯もはやさず、体毛も薄い。名を唯心ゆいしんといい、心神耗弱した殷禿の並々ならぬ様子にたちつくす。

「どうも余はとても疲れているらしい。午後の予定はすべてキャンセルせよ」

「ですが紫耀から使者が参る予定でしたが?  これも?」

「ぁぁ全部だ、余は休む。室に医官をよべ、すぐにだ」

「はぃ、わかりました、すぐにそのように手配を」

鬼の霍乱か?

この五年、病気らしい病気もせず、風邪すらもひいたこともないというのに。


布団に沈めた身体はうずくかのようにしっとりと汗ばんでいた。

「陛下。医官が参りました」

「ぉぉ。待ちかねたぞ、すぐに通せ」

爺こと唯心のあとを緑の袍をまとった老齢の医官が風呂敷をかかえるようにしてつづく。

出された椅子へおもむろに腰をおろし、そっと布団からさしだされた手首をやんわり握ると脈を測りだした。

「どうだ、重症であろう。よもや余も翔禿兄上と同じ病か?  どきどきと胸が痛むうえ苦しい。それに目もおかしいようなのだ」

頭もだが。それを一国の君主の口から発せられるには不適切であると判断を下して、症状の目録からは排除された。

「今も痛みますか?」

「いや?  先程よりはマシだ。安静にしておるからだろう」

「では、先程まで何をされておられましたか?」

「茶を…………」

と言ったところで殷禿は固まった。そうだ、あの侍女に茶を淹れさせた、あの時からすでにおかしくなっていた。

昨日のあれやこれやを深く根にもつ殷禿は、ねちっこく嫌味の一つもいってやろうと、胸のすくおもいで宮殿を歩きまわりながらやっとこさ見つけた彼女に茶を所望した。

だが寸分の隙もない美しい所作を前に、あろことか見惚れてしまった。それは殷禿の心に大きな風穴をあける形となった。

普段の殷禿からはおよそ考えられない彼女を褒め称える行為も、ましてや変態的な発想をいだくなど有り得ないことばかりだった。

あの、首をかしげてみせる素振りがたまらなくいい。

あの小鳥が囀ずるような美声で名を呼んでもらいたい。

…………嗚呼…………人はこうやって壊れていくのか。

「ぁ、脈が乱れだしました。しかも、もの凄い速さです。限界値を越えました!  陛下!?」

脈の乱れは心の乱れ。

「む、胸が……」

うめいた。手で胸をかきむしる。
呼吸をととのえながら殷禿は藁にも縋る想いで医官の手をとる。

「どうだ、そなたの見立てを申してみよ」

「重症です」

「!?」

「重度の過労からくるものでしょう。お若い陛下ならしばらく安静になれば回復されるかと」

そうか。やはり過労かと得心がいった。

人は正体不明な病にただ病名がつくだけでストンと重荷をおける。病の正体を知ることで安心感をえられるためだろう。
適切な治療をほどこせ、なおかつ完治にむけた明確なる目標設定がさだめられるため前向きな姿勢になれる。

やっと府に落ちる病名がハッキリしたことで心安さをえられた殷禿は、微かな微笑をうかべる。

「そうか。よい、下がれ。余は少し休む」

人払いをして、身体を休める。


人気のなくなった広すぎる寝室は怖いぐらい静寂で、患いもののせいか不安感をあおる。

思えば、即位後この王宮殿へ屋うつりをし、激務におわれる日々のなかゆっくり身体を休めたためしがなかった。

天井すら眺める余裕もなかったことに愕然とする。
碁盤のように精緻に組まれた天板には巨大な鳳凰が鵬翼を広げ、それは今にもとびだちそうだ。

わずかに影を落とす頭頂部にある天蓋からは薄紫のしゃがひかれ、それが四方でひと括りにまとめられている。

その室の中央を大人が五人寝そびれそうな大きすぎる寝台が陣どり、きらびやかな装飾のほどこされた贅沢な飾り棚や、最高級の黒檀造りのテーブルと椅子一式。螺鈿細工の小箱など。ありとあらゆるものが国宝級で埋めつくされている。

なのに胸に込み上げるこのむなしさは何だ?

この光景をあの病床だった翔禿兄上はどんな気持ちで見続けていたのだろう。

床に縛りつけられたように起きあがることもままならず歩行すら困難だった脆弱なる兄上。
食事と事務以外の政務の折りにはつねに宦官をはべらせ、彼らの手をかりてやっとこさ王としての威厳をたもっていた。

そんないつ果てるともわからない謎の病を患いながら、いつしか執務が滞るようになると殷禿が王太子となって重鎮たちをまとめあげ翔禿の治世を支え続けた。

そんな病床の兄は、たった一つだけ譲らないものがあった。

それは婚姻だ。王座に就いてもなお王妃を娶らなかったわけは、紫耀の姫を得んがため。

何事にも執着心をみせたことのない兄が、生涯において一度きりの最大の我儘は、叶えられる寸前のところで旅立たれてしまわれた。

決して仲がよかったわけではない。

けれど腹違いの兄は、優しすぎた。読書家であり、知識も豊富で、どの皇子たちよりも賢く、優秀でありながら、病に臥すまでは武術をこよなく愛する人だった。

騎乗すればこの国の誰よりも速く、手綱さばきがたくみで馬をいかようにも従わせられる。弓の名手でもあった。

そんな2つうえの兄は病と懸命に向き合い、姫ただ一人を十九年という短い生涯にわたり愛しつづけた。

容態が急変したのは、紫耀の姫がこの憬麟にむけ旅立つ直前のことだった。
知らせる間もなく、兄は婚礼前夜の真夜中、くしくも姫が到着してすぐ逝去された。

まるで姫が到着するまで待っていたかのように。

その顔は苦しみから解放され、安らかに眠るようだった。

その一途さといい、頑固さといい。たしかに自分の中にも同じものが流れている。

「失礼しますぞ」

水桶を持ってやってきた爺は、てぬぐいをしぼる。

「そういえば紫耀からの使者の件。あれはどうなった」

兄があれほど執着した姫はいま、どんな気持ちで過ごしているのだろう。輿入れ早々、婚約者をうしなって。

「後日あらためて、と伝えました」

どれどれ、と言って爺は軽く額に手をそわせる。

医官に微熱の有無を告げられたのだろう。

爺は手際よく殷禿の額にてぬぐいをのせ、それがひんやりとして心地いい。

「そうか。ご苦労であった」

「陛下。知恵熱とは、まるでお子ちゃまですな」

ふほふほと笑声をあげる。

「笑い事ではない!  というか嗤うな」

「そう言えば、昨日弟君が紫耀の姫に謁見されたそうですよ」

ガバッと布団を跳ね、上体をあげる。

「はぁ!?  余は聞いてないぞ!  ましてや煌禿こうとくに許可した覚えもない」

アイツ…………勝手な真似ばかりしおって。いつかしばく! 俺と同じ顔をへちゃむくれになるまでボコる。

いや、待てよ?

てことは、紫耀の姫付きの若草のあの侍女とも顔を合わせた?

あの小生意気な侍女のことだ、きっと流石の弟も、彼女の前ではあまたに馳せた浮き名も形無しで、一蹴され相手にもされなかったはず。

「…………」

ーーーー本当に、そうか?

アイツは社交的で人当たりもよく人好きされるたちである。昔からよく無愛想な殷禿と比較の対象とされてきた。

そんなおしゃべり上手で女受けもいい弟が、もし本気で女を口説いたとしたら、どうなる?

堕ちぬわけがない。そもそも余と同じ顔だ。見た目もいい。

「なぁ、そこに侍女も同席していたか」

「さぁ」

「十四・五の少女だ。若草色の侍女の衣装をまとった、名を……?」

アレ、と思い思考が停止する。

名を口にする段になってようやく彼女の名すら知らなかったことに気づいた。

「存じません。が、弟君は手がお早いと評判です。もしや我々の感知せぬところ、

で?  でとは何だ!?  不吉な。すでに狼の魔の手にかかったかのようないいっぷり。
とはいえ、目にとめられたぐらいはあるかもしれない。

可能性だけなら他にもある。

十四・五いえば婚姻可能。

国もとに言い交わした者がいるかもしれない。

百歩ゆずって、心をよせる相手がいたとしても何ら不思議ではない。

「こうしてはおれぬ。行くぞ」

病もどこへやら、一瞬のうちに冴え渡る。

「どこへ」

「そんなのは決まっておる」

いよいよ殷禿はねっころがってなどいられなくなった。布団をはぐ。

ふと、なぜ自分はこんなにもあの侍女にこだわるのだろう、と疑問符がつく。たかが他国からやってきた、昨日初めて会ったばかりの侍女に、だ。

「紫耀の姫と謁見する」

「今からですか?  ご加減はもうよろしいので?」

「んなもの一瞬ですこぶる良くなったわ!  支度をする。グズグズするな」

「は、はぃ」

また、あらがいようのない何かに突き動かされ、殷禿はそれに振り回されるのだった。









   
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