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第1章
(4)陛下の激務なる日常
しおりを挟む【お前それでも男か、女々しいんだよ!】
そう蔑んだあの少年は一体どうしているのだろう。
「陛下、李氷にございます」
扉のむこうから静かなる老相の声がする。
料紙の上でするすると踊る筆をとめ濡れた筆先を硯におく擱くと、物憂げに顔をあげた。
「入れ」
手元の墨痕あざやかに光武帝ときざまれた料紙はあとは玉璽がおされるばかり。
だが、どういうわけか今日は自らの筆跡を見るだけで気持ちが沈み、封印されたはずの過去へ意識を誘わんとする。
【弘法筆をえらばずだ、どうだ? 文字とは男らしく斯くあるべし!】
ニッと笑った前歯のかけた少年は顔中に墨を散らし、手本だといわんばかり料紙からはみ出して『天』と書きなぐってみせた。
嘗て皇太子のご学友として宮廷によばれたぐらいだ。いずれかの名家の子息には違いない。
重鎮たちは吾が子を挙って宮中にあげ皇太子の信頼をえたがるが、なのに今もってその者を見ないところをみると、今も書生としてくすぶっているのか、或いはーーーー
「…………」
視界の隅に執務室へと足をふみいれる李氷の姿をしかと捉えた。
(もう生きてはいまい)
この男の愛、粉うことなき忠誠心は玉鋼のごとく重く、硬い。
歪であるがゆえに目の上の瘤よろしく、この上もなく厄介である。
「結果は?」
「上々にございます。採点者を急かしましたところ、医官・官吏、双方ともに探花及第が確定いたしました。これならば申し分ありますまい」
探花といえば第三位。わずか五日漬けにしてまずまず、いゃ、予想以上の出来である。
(子皇にやられたな)
フッと微苦笑する。
遠い昔、官職を賜っていたとされる子皇のことだ。教育熱心さもあいまって琳榎にその手の教育も?
ま、子皇なら十分にありえることだ。理解する知識があらかじめほどこされていなければ丸暗記だけでは説明できない。
とはいえ、憶測にすぎぬが。
「ほぅ? よく小うるさい重鎮どもをだまらせたな、ひと悶着あるかとおもっていたが」
「黙らせ方というものもイロイロ。突けば埃もたちましょう。ほんの少し目こぼししてやれば頭の鋲も緩むというもの」
ほっほと李氷は空嗤う。
相当、陰質悪質極まりなくやりこめてやったのだろう様が目に浮かぶよう。
「虐めてやるのも大概にしておけ。いつか綻びも生じよう。芋づる式に李氷、お前の名があがりでもすれば目も当てられぬ。白日のもとにさらされた時、贔屓して助けてやることはできぬ」
念をおした。
やり手には違いないが、目的のためにはどんな悪どい手段であろうとも厭わない。
それがこの男の最大の瑕瑾であった。
「それでよいのです。陛下の武勲にキズをつけられますまい」
これまで武を重んじてきた代々の先帝がそうであったように碧京もまた文武両道を掲げ、儒学、朱子学、四書五経などありとあらゆる学問を網羅し、古今東西のありとあらゆる武術を習得。
結果、代々語り継がれた先帝の武勇伝さえもかすむほどだとされる。
幾度となく繰り返された戦禍のせいで荒廃がすすみ、焼土とかした荒れ地に妖怪どもが跋扈するような惨憺たる有り様であったものが、それが即位してから三年たらずで妖怪どもを追い払い、そこに街が復興し嘗ての繁栄ぶりを取り戻してみせた。
碧京の困難とされる改革が少しずつ実を結びはじめると光武帝の冠名につけられたのは美丈の賢帝なる称号だった。
その背景には李氷によるところも大きい。
「陛下。ご趣味までとやかくは言いますまい。ですがお張り子泣かせもほどほどになさりませ」
語尾に苦言がそえられた。
おそらくは目の下クマを指しているのだろう。
琳榎の科挙が決まってからというもの夜なべつづきだ。
人差し指にできた針タコを指でさすりあげるとこんもりとして痛む。
激務もそっちのけで楽しくてならない。
時の流れるのを忘れて何時間でも集中してできる。
「わかった。もう下がれ」
李氷は一礼してのち、では、と退さる。
そうして一人きりとなった執務室。碧京は再び料紙にむかう。
玉璽をとり、それを料紙に押しつけた。
「賢者は歴史に学び愚者は経験に従うという。琳榎、お前はどちらを選ぶ?」
ふっと細く笑む。
「登庁のはじまる三日後が楽しみだ」
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