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第1章

(3)我流天成は鼻に衝く

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それまでの科挙は、各州の予備試験に合格したのち、中央政府の礼部が実施する貢試を通過すれば官吏への道がひらかれるという仕組みだった。

しかし役職につくためには、吏部が実施する銓試を合格しなければならなかった。
これには先帝時代からの貴族制の名残があり、容貌、言動、書跡と判決文作成能力がためされ、つまりは能力以外の部分でしめだされることが多かった。

これらの弊害をなくすためにもうけられたのが今回の殿試であり、最終試験を天子みずからがおこなうことによって吏部の試験を有名無実化したのである。

ここに地方試験(郷試)、中央試験(会試)、最終試験(殿試)という三段階制が確立した。
その改革を断行したのが何をかくそう若き皇帝、碧京、光武帝その人だ。
その光武帝が認めた今回限りの特別な推薦状は、一次試験の郷試、二次試験の会試を免除し、本試である殿試を受けられるという。

しかしこの場に集いしものたちは試験を勝ち抜いてきた選りすぐり。
そんな人たちを押し退け郷試も会試も受けてない琳榎が合格できるのだろうか。

ぃゃ、何を今さら。人生なるようにしかならない。



「それにしても進まない」

ちぎれ雲の尾っぽにしがみつく仄白い残月を眺めながら、遅い暁光のさしはじめた辰の刻頃から琳榎は普段なら並ばないような行列の中ほどにいる。

はじめは宮殿へとつづく朱雀大街のすみっこから並び、澄みわたりだした蒼天に、いとそびらかゆくなるような開門をつげる太鼓がかき鳴らされると列はゆっくりと動き出し、そうして昔ながらの瀟洒な豪商ばかりが建ち並ぶ目抜き通りまでやっとこさ進んだところだ。

「それにしてもすごい行列。どれだけの人が受験するのやら」

途方もない数。未知数が押し込められる殿試とは、想像もしたくない。

まずは遅々として進まぬ前方を見、後方は目を疑うほどアリの行列さながら粛々とつづいている。

下は琳榎とそう年も違わなそうな神童とよばれる少年少女。上は孫の付き添いのようなお爺さんまでがいる。

その多くが琳榎と同じく喪にふくしているわけでもなしに真っ白な衣を纏っている。

あるものは一朶に髪を束ね、またあるものは樸頭でまとめたりと髪の有りようは一貫性にかけるが、皆一様に白い敷物に包まれた小さな手荷物を携えている。

持ち込みが許されているものは、着替えと筆、そして硯だけ。書物の類いの持ち込みは一切禁止で、不正行為防止のため手荷物検査までされるという。
多少の待ち時間はやむ無しだった。

(忘れ物はーーーー?)

筆をうっかり忘れでもしたら最悪髪でもきって自作の筆にーーーーだが、どうやって切るかが問題で、というかそこじゃない。

(確か筆入れに三本は予備で入れたはずだけど…………五本は用意しておくべきだった?)

五日にわたり朝から晩まで筆をすり減らしながらの試験になる。
一応軽食は出されるらしいが、食した人からの感想や後日談などはきかれなかったので羮と麦飯と漬物ぐらいだろうと推測され、期待はしていない。

琳榎がゴソゴソと手荷物を探り出すと列はゆっくりと進みだした。

「うわぁ」

突として琳榎の目の前に現れたのは煌びやかな朱塗り大門。煌明門きんめいもん
宝華宮ほうかきゅうの一角にもうけられた殿試場へとつづく最初の門扉である。

門扉の上部には極彩色の彩色のほどこされた彩雲と龍が彫られ、開かれた扉に緋鯉がいましも激流を昇らんとするさまが生き生きと画かれ、眼力の強さは点々とうがたれた金鋲によるものでまばゆく照り、魑魅魍魎、悪鬼などといった魔魅を打ち祓わんとしている。

その端を支える柱には巻きつく昇り龍と下り龍が一対づつ。

その指には宝珠がしかとにぎりしめられており、鋭い詰めは五本ある。最高位にして最強の龍。皇帝の証だ。

ここは科挙生がかならず通る門であることから別名、登竜門とも呼称されてるらしい。

ぼぅと見上げていると名を問われた。

「受験者名を述べよ」

いつの間にやら琳榎の番までめぐっていたらしい。

目の前には帯刀した武官らしき数名が名簿とおぼしき書簡を手にパラパラとめくる。

「李琳榎」

別に悪いことをしてないのに警羅する武官を前にするとどこか腰がひけ鼻白みたいたくなる。

でもはっきりと答えられたはずだ。

武官の背後のものにすっと手荷物を渡した。
手荷物を広げ、書物のたぐいがないかを確認されるとすぐに返却される。

すると武官は朱墨のしみこんだ筆で線をひく。

「入ってよし。このまま列に続け、次の者」

押し出されるようにして列に並び、後続も同じく続く。

まさしく第一関門。登竜門と呼ばれるに相応しい。

(ここが宝華宮?)

石畳がのび、その両脇に枝をのびのびと広げた唐紅色をまとう紅葉や青々としげる松葉が彩をそえる庭院をゆっくりと進み、また連山とは違う雅さに感嘆の息をもらしていると筆舌に尽くしがたい美しい宮殿があらわれた。

近づくとちょっとした彫り物の細部までがまっさに珠玉。ほぅ、とため息がもれる。


「ぉぃ!!」

どん、誰とも知れぬ懐へすっぽりとおさまった。
一瞬のことで呆けて思考が停止。
そうだ。見惚れて上ばかりに意識が集中しすぎて、おろそかになった靴底が湿気った石畳のうえを滑って体勢を崩してしまってーーーーそれから?

「ぇ!?」

誰だろう? ぃゃ、もしかして、助けてくれた?

慌てて体勢をたてなおして振り返り「すみません」と頭をたれた。

「上ばかり見て、次は踏み潰すぞ」

「…………」

高圧的な強い口調が降り注がれ、琳榎は薄く目線をあげる。

「おゃ?」

そう告げた壮年の方眉が跳ねた。
壮年は居ずまいをただして琳榎を見下ろすなり、ぅーん、とうなりながら琳榎の足先から頭天までを舐めまわすようにして見る。

「な、何です?」

声がうわずる。

確かに謝罪はのべた。なのにまだいちゃもんでもつけたがるのは何故?
まさか憂さ晴らしをしたいわけでもなかろうに。

「……ふぅむ」

今日は酒楼の給仕のお姉さんが見るにみかねて髪を団子に結い上げてくれ、着ているものは碧京があらかじめ用意してくれたもので、仕立てや白い布地も上等で、白糸で随所に花の刺繍があしらわれた手の込んだ造りで、それだけでなく中に綿が詰められとても温くい。

沓はいつものはきなれたくすんだ赤い沓。これは薬をはじめて卸したときの薬賃で購入したもの。これは誰に恥じることもない。
よって胸をそびやかせる。

すると壮年の口から、ほぅ、と感嘆と驚きのこめられた溜め息とともに、視線が琳榎の胸元へ一点集中する。

「!」

明け透けに失礼な、と憤慨をあらわにする。

礼を失したその態度もそうだが、その視線のやりようといい、どうにも鼻につく。

文句を言ってやろうかと琳榎が口を開きかけたその時、壮年は、ぽん、と掌を打った。

「中の上。いゃ、磨けば上の中ぐらいやってもいい」

「な!?」

値踏みされていたことに漸く気づく。怒り心頭の琳榎もまた壮年を見やった。

(そういうアナタは何ぼのもの?)

その容貌は壮年の言葉をかりると、よく見積もって中の下。

むしゃくしゃとするぐらいそれなりに整った細面の端正な顔立ちをして、薄く形のよい唇からは仄かに色香が漂う。
目の下にある小さな泣きぼくろが印象的。
長い黒髪は白い髪紐のようなものでゆるく一朶に束ねられ、着ているものは光沢のある濃紺の絹地で、長上衣にズボン。沓までお洒落で一分の隙もない着こなし。

よほどの自信家なのか、はたまた、ただいいところの御坊っちゃまなのか。
この場において濃紺の衣をまとうような輩はその二つに分けられるだろう。

白一色のなかにあって濃紺の絹地はいやが上にも悪目立ちすぎだ。
殿試にのぞむ受験生が好んで白をまとうのは、何色にも染まらない、といった趣旨のあらわれで、それが今から濃紺に染まってどうする。

(この人、我が道をゆく、場の空気を乱す人なのだわ)

見るからにこれ以上関わりあいたくない遠い星辰の人。
軽くいなそう、そう思って愛想笑いを浮かべると壮年はこの上もなく不機嫌極まりなく目縁を歪めた。

「お前もおべっかを遣う他の奴らと一緒か」

「!」

失礼ね、そう思って睨みをきかせたが、すぐに壮年から視線をはずし、重苦しい嘆息を吐いた。

「何だ、その溜め息は。反論があるなら聞こう、ってか聞いているのか?」

「…………」

頑として無視。次いで穹を仰いだ。

(変な人に絡まれ、試験前からあやがついた)

試験官が見る目のある人であることを願う。
まかり間違ってこの人が官吏になりでもしたらと思うと、この国の先行きがひどく案じられる。

「まさかお前も試験を受けるつもりか?」

何を藪から棒に。行列に並び、しかも殿試場を前にして訊ねるまでもなく一目瞭然だろう。

おそらく壮年は琳榎のかたく閉じた二枚貝を何としてもこじ開けたいのだ、そう察した。
だがこれから先のことを思えば邪険にするのもどうかと思い直し、琳榎は適当に相打つ。

「それが何?」

ぶっきらぼうに答えると壮年は眩暈でもおこしたかのように大仰なまでに頭をふった。

「おぃおぃ、いつからこんなお子ちゃままでもが受験資格をえられるようになったんだ? 随分とお若い皇帝ゆえ、科挙の品格までおとしめられるおつもりか? やれやれだ」

「はぁ!?」

周りには琳榎より幼そうな子供もいる。なのに琳榎だけを標的としたお子ちゃま発言は琳榎に対する明確な悪意。

何より試験が始まろうとしている大勢の前で碧京が悪し様に非難され、痛烈な怒りがこみあげる。

だからこれだけは言っておかなければならない。

「お子ちゃまじゃないわ。これでも私もうすぐ十五、いいこと? 。それに皇帝陛下はとても立派な方だとうかがったわ。アナタの言動こそよほど品性に欠けてる」

すると、フン、と鼻を鳴らした壮年は「こましゃっくれた生意気な女児だ」そう吐き捨て、お前、名は、と問う。

カチンとくるが、女児発言は今にはじまったことではない。お菓子をあげるからおいでなどと稚児趣味らしきおじさんに声をかけられたことも一度や二度ではなかった。
おそらく胸の大きさに比例して頭がゆるそうといった偏見の目がそういったものをあおるのだろう。
だがお生憎様。

「名のるほどの者ではないけど、李琳榎。そういうあなたは?」

栴天成せんてんせい、歳は十八。これでわかったか?」

くぃと顎先を突き上げた。

年長を敬い礼を尽くせといわんばかり。
十八といえば、先ほど愚弄してみせた碧京より一つ下。そう年齢も違わないというのに背負っているものの大きさ、品行方正さにおいても随分と違う。

「つまりは先を譲れと」

「…………」

沈黙をもって是とする。

なら思わず礼を尽くし平伏したくなるよう尊敬できる行いをすべき。

しかし琳榎にとって先を譲るぐらいどうとでもない。連山でなら何をするにもすべてが自然まかせ。穹をたゆたう曇のよう急ぐことはない。

琳榎は肩をそらし「どうぞ」と譲った。

すると天成なる壮年は驚いた風に目を見開く。

「ほぅ? 思っていたよりバカじゃないのか。名を覚えておこう」

カチンとくるがこれで二度目。耐性ならついている。
それより変なのに目をつけられた?

「李ーー琳榎」

復唱するように諳じる。

そうして天成なる壮年は後ろ手にくみ、先行する列につづいた。

一体なんだったのか。

呆然としていると「これより殿試場へ入場を開始する」高らかと告げられた。

(これから始まる)

琳榎は慌てて列に並びなおす。

「本日より三日間までを科挙とする。終わり次第速やかに退去せよ。その後続けて二日にわたる医官登用試験となる。今から名を呼ばれた者から入室するよう」

次々に名を呼ばれ、入場を開始した。


「…………」

琳榎の五日にわたる試験が始まった。





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