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第1章
(1)知らぬは琳榎ばかり
しおりを挟む「いつ来てもここは変わらないな」
ふ、と目を細めた碧京はひとりのこされた室でポツリと呟く。
初めてここを訪れた十数年前のあの日のまま、時が止まっている。
ツゥーンとして鼻の奥が痛いのも懐かしい。
簡素なしつらいの室は嗅いだだけで頭の芯が痺れ腹の底が疼くような薬臭が充満している。
古めかしいわずかな家具と使い勝手のよさそうな薬棚などが壁面に配置され、そのどれも角ばった箇所の黒い漆が剥がれ落ち、木目があらわになったそれもきにならぬほどに味わいがある。
ギシギシと軋む椎木を敷き詰めただけの黒ずんだ床に目を落とすと、小さな子供が描いたであろう意味不明な落書きがあって、それが所帯じみて心がなごむ。
暮らし向きは決して楽そうではなかったが、ここにはたしかな家族団欒とした温かみがあった。
「……碧京?」
ふいに気遣わしげな少年の声に背をうたれた。
ゆっくり振りかえると見目麗しい少年の柔和な笑みで視界がいっぱいになった。
「お前は李氷か? 子皇よ、無邪気に忍び寄るな。少しでも殺気を感じていたなら今ごろは胴体と首が一瞬にしてバラバラになっていただろう」
カチ、と拇指で刀身を鞘へ押し戻して碧京は微苦笑を浮かべた。
「碧京もあいかわらずだね」
碧京の腰にはいた刀剣は龍の彫り物があしらわれ、それは一介の武官が所持しかねる国宝級のものであると誰の目にもわかる。
碧京はいたって軽装で、房のついた耳飾りをして、紺青の最高級の絹の上衣とズボン姿。
どれもこんな片田舎ではとんとお目にかかれないような美しい仕立てで、華やかな面差しのせいもあいまって男装の麗人とみまちがわんばかり。
黙って立っているだけで画になる男、それが碧京だ。
「何かいいことでもあった?」
すると怪訝ながらも碧京はゆっくりと首をふる。
「……ない、こともないな、朝議をサボれた、しかも二日も」
眸の奥を嬉々として耀かせたのに対し、子皇は肩をすくめる。
「サボれることが君にとっていいことって、それはどうなの」
「平和な証拠だ。俺だって全能じゃない。そこのところが重鎮たちには理解できないらしい。俺の息抜きである縫い物もろくにさせてはくれぬのだ、信じられるか?」
思いの丈を力説するわりに、あまりにも的はずれ。
「だってそれは皇帝のすべきことではないからね」
ささ、と告げた子皇の手には茶器一式をのせた盆がしかとにぎられており、それを卓子の上に置くと子皇の口からあられもない失言があびせられた。
「李氷って君のいい人?」
するととんでもなくまのぬけた声で「は?」とかえし、「アホぬかせ! 爺だ!! 大体からして男のものだろう!」と声を荒げる。
「それでも君にとっていい人には違いないね」
ニッコリとして言い、子皇は茶を淹れはじめた。
「い、いい人? 善い人ではないな、むしろ悪人?」
「君とは長い付き合いだけど、碧京の口から誰かの名をきくなんて初めて。何だかんだ悪びれて言ったって、君にとってはいい人ってことだよ」
「いい人って」
ふと碧京はなんの裏表のない無欲な人間を久方ぶりに見たと思った。
誰にへつらうでもなくおべっかを言うわけでなし、思ったままをのびのびと語る。
まだこんな人間が絶滅していなかったことに心から感謝した。
昔から見た目こそ椎けない美童、そのくせどこか大人びた眼差しが印象的だった。
長く陽を浴びていないその肌は雪のように白く、身体の線も細く顔立ちも少女と見まごうせいもあって、どこかしら清雅な雰囲気がただよう。
身の丈にあわぬ灰色の長上衣の上をゆるやかにながれる一朶に束ねられた黒髪には人掬いの白糸もなく、顔にも一本の皴もない。
それどころかずっと若返ってみえる。
推定九百歳とは思えない。
「…………」
子皇は碧京や琳榎、みなが大人になっていく姿をどんな気持ちで見つめてきたのだろう。
一人だけ子供の姿で取り残されて。
「何?」
「いいゃ。ときに子皇よ、これは琳榎の見立てか?」
ズズ、と子皇が淹れたそれをあおった碧京は茶杯を覗き込む。
色味は薄緑で、緑茶とも菊花茶とも違い馥郁たる薫りだち、クセや苦味はなく口あたりがよい。
連山のみ自生する苔から抽出したその茶をゆるくまわせば、てんでに朱がちらばり、点を結ぶと紅梅を形づくる。
「そ。街におりたときに骨董市で見つけてきたらしい。山外の者の飲食は連山では禁じられているから碧京用にって。あ、ちなみにこの苔むし茶は薬草だから飲食にはあたらないから安心して。おかわりは?」
碧京は一滴のこらず飲み干し「ん」と言って茶杯を盆の上においた。
「歓待されているのにそれを無碍に断るような教育はされておらぬのでな」
茶の効能のほどは子皇を見れば一目瞭然。ここで断りでもすれば損をする。
「碧京、君っていい性格をしているよね」
「人聞きの悪い、育ちがいいと言え。残したりしたら淹れてくれた人に悪いだろうが」
「碧京は妙に所帯じみているよね、どうぞ」
子皇の手によって丁寧に淹れられたそれを碧京は恐縮ぎみにとりそわそわとしだす。
「子皇よ、琳榎はどうした、姿が見えないが?」
「小屋だよ。採集してきた薬草を干したり蒸したりして効能の変化を一つ一つ研究して。あの娘はいい意味でとにかくバカっ丁寧だから」
「てことは例の薬はまだ未完成ということか。かれこれ十年は研究してきたんだろ」
「ぅーん。わたしの見立てではいい線まできてーーーーというか。まさか碧京が琳榎と一緒に現れるとは思いもしなかったよ」
「たまたまだ。ここに来る途中で山颪にあい、道に迷いかけていた時に偶然琳榎の姿をみかけてな」
ところで、小屋はどこだ、と続けて窓の外を見やる。
「そんなに窓の外が気になる?」
「そういうお前は気にならぬのか。連山は妖怪やらがわらわらといて、さっきなどは肝を潰しかけたぞ」
傲咽だぞ!? とその時の様子を語りだすと子皇は茶杯を静かにおいた。
「誰であろうとあの娘の髪の毛一本すら傷つけることなんてできやしないよ」
意味深な一言に「ほぅ」と方眉をあげてみせた碧京は卓子の前の椅子をとり、おもむろに腰をおろすと「聞かせろ」とすごむ。
「俺をわざわざ呼びつけてまで頼みごととやらがあったんだろ?」
「…………」
しばし言葉を選ぶように沈黙した子皇は、実は、と語りだした。
「なるほど。つまりはこういうことか。俺の国で琳榎を預かってほしい、と?」
「ざっくりと言うとね」
「なぜ急に手放そうとする? 何かあるのか?」
「急ーーーーってこともない。琳榎に薬師として技法を伝授すると決めた時からの約束事だったし。琳榎はここしか知らないがゆえに世事にうとい。もっと広い世界に出ればあの娘念願の例の薬の完成の役にもたつだろうと思って」
「建前か。ならば俺がお前の本心を語ってやろうか。琳榎に一言こう言えばいい。ここまで育ててやったお礼に俺のものになれと。何より男ならそうすべきだ」
「呆れた! あのね、君じゃないんだから。そりゃ養父として欲目なしに琳榎は気だてもよく本当に真面目で優しい娘だよ」
それに賛同するように碧京も「うんうん」とうなづいた。
「確かにいい娘に成長した。そこは褒めてやってもいい。それはひとえに手塩にかけて育て上げたお前の手柄だ。実に聡明な娘だ」
はたからみると子供が子供を育てているようで奇妙この上もなかったが、教育熱心だったことは確かだ。
愛情をかけた分、怒りも喜びも一緒くた。死ぬまで側においておきたい、そう願ってしかりで。
が、そうもできない親心。自らがこの世を去ったのちをおもえば、親心など身勝手な願望にすぎぬ、そう想っての子皇が下した決断だと理解はする。
するがーーーー
「だがそういうお前を見ているとつくづく娘はいらんな。手塩にかけてそうして育て上げたあげく、いづれどこぞの男に、かっさらわれてしまうのだから」
「…………だねぇ、ホント」
「俺を見るな! そしてしみじみと言うな。俺こそ女の理想が服着て歩いているようなものだぞ? 俺はこの世の全てを手にする皇帝だ」
「君さ、贅沢な暮らしだけが女性を幸福にできると思っている? 全てを手にしているからこそ満たされない不幸というものもあるのだよ」
「うるさいヤツめ。チッこい版の李氷めっ」
「そうむくれないの。仮にも君はこの国が誇る美丈夫と名高き賢君なんだから」
「顔の下りは果てしなくどうでもいい。だが賢君ってとこだけは頂戴しておこう」
はいはい。話しを戻すよ、と子皇は仕切りなおした。
「琳榎は連山から発っせられ続ける神気にあてられ、著しい変調をきたしていてね」
ぁぁ、と賛同する碧京。
「あれは男の浪漫のカタマりだな。夜毎あれを自由にできる男が実にうらやましい」
コホン、と咳をはらう子皇。色目で見られ養父としてはおもしろくなかったらしい。
「そんな顔をするなよ。子皇だって小さいよりデカイほうがいいだろう?」
「…………!!」
む、と眉根をよせる子皇に碧京はたじろぐ。
「悪い。今のは明らかな失言だった。続けてくれ」
でね、と話しを続ける。
「このままここに置いておくのは如何なものか。そこで頼れる昔馴染みの君になら安心して託せる。せめて薬が完成するまででいい。あの娘を預かってくれないか」
一年、いや数年、最悪数十年。薬がいつ完成するかもわからない。長期にわたる預かりもの。
だが子皇と琳榎が交わしていた約束事を出会った当初から聞かされていた碧京はいつかこんな日がくるかもしれないと思っていた。
だからーーーー
「言いたいことはよくわかった」
「じゃ…………」
「条件がある。折よく一週間後に科挙がある。それに合格できたなら王宮おかかえの薬師として迎えてやろう。それなら重鎮たちも文句を言うまい。待遇もそれなりのものを約束しよう」
「それなら心配ない。どんな条件をつきつけられるかと焦ったよ」
子皇は即答してみせた。
碧京の右眉がはねる。
「すごい自信だな。俺も鬼ではない。が、一週間後といってもここから王都までは二日。となると試験の準備期間はせいぜい5日だ」
「また急だね、でも大丈夫。あの娘は暗記力が半端ないからね」
「軽く言ってくれる。俺の国の国試は超難関。何せこの俺直々に出題していてな。いかな神童ともてはやされた者とて本試にすらのぞめぬまま老いさばらえていく。たとえ昔馴染みの、ましてや心腹の友のたのみとはいえただの丸暗記だけでは及第点はやれぬぞ」
そう凄んだ碧京に対して子皇はにっこり笑って首を傾ける。
それはある人物を彷彿とさせる。李氷だ。
いつの間にか手の内で転がされている手玉の取り方といいよく似てしゃくにさわる。
「そうだね、状元、及第こそ無理でも探花ぐらいなら? 君こそ金ぴかの玉座でひっくりかえらないように」
状元は首席、第二位は榜眼、第三位が探花。いづれも上位三名に与えられる称号のようなもの。
この三名は高位官僚への昇進が確約されたも同然。
かつては子皇もそうだった。
今から遡ること千年近く前。この蓬藍国の建国の祖、天武帝の時代。
子皇は医官・管吏登用試験において状元で及第し、いまだ子皇を超える天才は現れない。伝説の人。
その子皇がこれほど太鼓判をおすのだから同等かあるいはそれ以上?
皇帝としては申し分ない。有能なればなおさらだ。
「琳榎にはいつ言うつもりだ?」
「すぐにでも!! ほら」
子皇は頤を扉へむける。すると、ぎぃと軋む。
「ただ今戻りました」
扉を開け放つとそこに疲れをにじませる娘の姿が。
小さな身体に似つかわしくない二つの大きな果実を胸合わせに詰めこんだ少女、琳榎だ。
「行くぞ」
「ぇ? あの、碧京様?」
困惑顔の琳榎を碧京は手をひく。
「ほら、善は急げだ!」
「ーーぇっと?」
どこへ、と問い返す暇すら碧京は与えようとはしなかった。
むしろ思考させまいとしていたのやも。
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