奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在③≫

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 留守電が入っていたことに男は気づいた。
 しかし、メッセージらしきものは何一つなく、男はただの悪戯かと怪しんだ。
 相手先の電話番号も表示されている。
 確認のためにその番号にかけてみたが、使われていないというメッセージが無機質に流れた。

「あなた、どうしたの?」
「いや…… ただの悪戯電話だ」
「あら、いやだ」

 露骨に顔を顰める妻に小さく笑いながら、男は気を取り直してソファーに腰かける。
 妻がタイミング良く淹れてくれた茶を啜りながら、なんとなく男は部屋を見回した。

 本当に、なんとなくだ。

「この家…… こんなに広かったか?」
「突然何よ? ずっと前からこんな感じでしょ?」
「そうか…… いや、そうだな」

 そうだ。
 ずっと前から、男は妻と二人っきりでこの家に住んでいる。
 老いた夫婦二人には広すぎる家だ。

 広くて、寂しくて、いつからか、冷たく感じられるようになった。

 昔は、こんな感じではなかったのに。

(昔? いや、昔からこうだ)

 湯呑で冷えた指先を温め、男なんとなく利き手をじっと見つめる。

「右手がどうしたの?」
「いや…… こんな傷、いつ出来たのか思い出せなくてな」
「傷?」

 指の関節部分に薄っすらと傷が残っている。
 硬いものを殴ったような、掠ったような傷だ。
 けど、記憶はまったくない。

「まさか…… あなた、酔っぱらって誰か殴ったんじゃ……」
「そんなわけないだろう。俺は酒は一滴も呑めないんだぞ?」
「まぁ、そうよね」

 妻の冗談に男は苦笑いを浮かべる。

「酔っぱらったとしても、あなたが誰かを殴るはずがないわ」

 妻の朗らかな笑い声に、どうしてか冷たく色褪せたように感じた部屋に温もりが戻った気がした。
 そのことに男はほっとする。

 妻の笑顔は男にとって何よりの宝物だ。
 広く、冷たい家でも妻と二人でいれば寂しくはない。
 
 二人は決めたのだ。
 夫婦二人で生きていくことを。

 例え、子供がいなくとも。
 愛する人さえ隣りにいれば幸せだと。

 ずっと昔に、二人は覚悟したのだ。

(今更寂しいなんて……)

 年は取りたくないものだと、男は自分の胸に芽生えた違和感を投げ捨てた。



* 


 高橋はいつも通りのはずの会社に違和感を抱いたが、それを誰かに話すほど暇ではなかった。
 ずっと前から分かっていたはずなのに、何故か回り切らない業務がある。
 高橋はきちんと計算し、部下の能力も考えた上で仕事を分配していた。
 それなのに、残っている仕事があるのだ。

(よりによって、こんな重要な仕事を……)

 イライラが積もる。
 そして何よりもなかなか集中ができない。

(ここに、がいれば……)

 ふと、高橋の手が止まる。
 あいつとは誰だと自分で自分の思考に引っかかった。

(あいつ……?)

 高橋は疲れたせいで自分がついには妄想に憑りつかれたと思った。
 怪訝な部下の視線を無視し、額を何度か小突く。

 高橋が誰かを当てにすることなどない。
 そんな優秀な部下がいれば、もっと楽なはずだ。

 高橋の思考にそれ以降「あいつ」は出なかった。
 ただ、それでもその日一日中目の前にある書類置き場と化したデスクが目に入るたびに妙な違和感、寂寥感を抱いたという。

 しかしそれは後数日もすれば忘れてしまうような些細なものだ。



* * 


 鳴海は高層ビルの屋上から忙しなく走る車の列を見た。
 鳴海の目的は向かい先のビルにある。
 もう既に中の様子を見た鳴海はなんとも言えない気持ちのまま溜息を零す。
 
「お前、どこまで計算していたんだ?」

 隣りで上機嫌に微笑むさくらを見下し、呆れた視線を投げかけた。

「えー? 全部運だよ。運。僕はただ運命に流されるまま立ち回っていただけさ」
「……」

 はぐらかすわけではないが、それでも真面目に答える気のないさくらに鳴海は頭痛がすると言わんばかりに額を抑える。
 いつも楽天的で陽気な鳴海には珍しい。

 運といえば確かに運なのだろう。
 運命がさくらに味方したといえる。

「兄弟は気にし過ぎなんだよ。今の僕は絶好調で、むしろ今までよりもずっとエネルギーに満ちてる」
「……当たり前だ。同胞を食らったんだからな」
「そんな怒るなよ、兄弟」

 さくらは自身に厳しい眼差しを向ける鳴海に笑う。

「同胞殺し、共食いは禁忌だけどさ。所詮、この世は弱肉強食だろう?」
「……」
「それに、は自分から僕に提案したんだ。僕に長生きして欲しいからって」
「文香さんのためか」

 既に消滅したの名前を憶えている者はいない。
 鳴海はさくらよりも上位の存在だからこそ、まだと認識できる。
 名前を憶えているのはさくらぐらいだが、さくらのことだからいずれ忘れるだろう。

「兄弟も言ってたじゃないか。ふみちゃんは人間だって。僕らと違って、すぐに寿命が来ちゃう脆い生き物だって」

 さくらの長い黒髪が風に吹かれる。
 それはどこか神秘的な光景だ。

「しかも、僕がふみちゃんの精気を吸い続けたら、その寿命は普通の人間の半分以下になる」

 青空の下で黒に染まるさくらを見ることができる人間がいたら、死神かと見間違えるかもしれない。

「僕もふみちゃんも別にそれでも構わなかったんだ」

 考えれば当たり前の話である。
 精気が人間の生命エネルギーで、それをずっと摂取されてしまえば寿命が縮むのは当然だ。
 
 文香もそれを知っている。
 さくらが倒れ、それから鳴海にたくさんの知識を授かった。

「ふみちゃんは自分が死んだ後、普通に僕はそのまま独りで生きていくんだって思ってるけど」

 しかし、それはさくらの誓約で不可能になった。
 鳴海の言うさくらの計算、企みはもしかしたらこの時点から始まっていたのかもしれない。

「ありえないよ。ふみちゃんを知った後に、ふみちゃんを忘れて他の餌を食って生きるなんて…… それこそ最悪だ」

 上機嫌なさくらの顔に苦いものが走る。
 心底嫌そうな表情に、鳴海は自分の考えが甘かったことを覚った。

 あのとき、さくらに自覚を促した鳴海は本当にたださくらに後悔してほしくなかったのだ。
 自分達よりも先に死んでしまう文香に恋しているのに、それを自覚せずに無為に時間を潰すさくらを哀れだと思った。
 死んだ後に恋心に気づいてしまうなんて、それこそ悲劇だ。 
 それなら短い文香の人生に悔いなく寄り添った方がさくらにとってはいいだろうという親心だった。
 くだらない意地を張って貴重な時間を潰してほしくなかったのだ。

 しかし、その考えは甘かった。

 鳴海はあくまで文香が先に死ぬことを前提にしている。

「ふみちゃんが枯れたときは僕も一緒に枯れる。死ぬときは一緒だよ」

 だが、さくらは違った。

「だって、それが夫婦だろう?」

 さくらの思考や覚悟を見抜けなかった自身の落ち度に鳴海は一番落ち込んでいる。

「……死が二人を別つまで、とも言うだろう?」
「いやだよ。僕ら夫婦は来世もそのまた来世もずっと一緒にいるから」
「……」

 曇りのない、さくらにしては珍しいぐらい純真な眼差しに鳴海はため息を止めることができなかった。

「例え今回はあっさり死んでも、僕らは魂で繋がってる。来世を待てばいいからね。正直、今世にはそこまで執着していないよ」

 そして、さくらが遠くに行ってしまった寂しさも感じている。

「けど、くれるって言うんだったら、有難く貰うべきだろう?」

 間の子であれ、半端物であれ、淫魔は淫魔。
 そして、誓約である文香の味を持ち、純血の淫魔ほどの力もなく格下の存在。

 なるほど。
 丸ごと食らうには、共食いにはぴったりの相手だ。
 おかげでさくらは鳴海から見て非常に分かりやすいほど肌艶が良くなっている。
 その身から立ち上るオーラも上質のものへと進化した。

 これで、さくらは文香の寿命をことができる。
 文香が老いて死ぬまで、餌としてではなく文香を抱きながら共に朽ちることができるのだ。
 
 短命でもよかった。
 だが、長生きできるのなら、文香の老いた姿を見ることができる。
 それはとても楽しみなことで。
 これから先もずっと文香と今世を生きる幸せにさくらの顔は自然と緩む。

 そんな浮かれたさくらに鳴海は厳しい視線を向ける。

「しかし、お前が逆に奪われる危険もあったんだぞ?」

 
 
「まさか。あんな雑魚に噛まれるほど僕は落ちぶれていないよ」

 鳴海の心配をさくらは笑う。

「兄弟は僕を疑うけど、僕は本当にただふみちゃんの誠実な夫でいたかっただけだよ」

 ただ、それがあんな事態になって、最後はこんな風になった。

「ちょこちょこ、嘘はついたけどね」

 文香はあのとき言った。
 ただ一つだけ、さくらに約束させた。
 そして、その約束以外はどんな嘘をついてもいいとしたのだ。

「いいじゃないか。全部、上手くいったんだ。僕らはハッピーエンド。これからもずっと、永遠にめでたしめでたしってわけさ」
「……消えてしまった者以外はな」

 鳴海はさくららしいと諦めたように、それでも複雑な顔で向こうのビルを見る。
 もう既にの気配が消えかかっていた。
 これからどんどん、かつて文香の夫だった者の痕跡が消滅する。

「可哀相に」

 鳴海は同情する。
 それの生まれた経緯も、その生き様も、最期も。
 中途半端な存在だからこそのジレンマに最期にもがき苦しんだだろう存在を。

「勝手に消滅してくれるんだ。これで、ふみちゃんが泣くことも哀しむこともない。精神に影響が出ることも、魂が歪むこともない。ゆっくり、少しずつ、ふみちゃんの中からあれが薄まり、消えていくのを気長に待てばいい」

 鳴海と違い、さくらはあれの最期を心底馬鹿にしてる。

 文香に自身の痕跡を残したいと願っていたかもしれないが。
 誰も死ぬとは言っていない。
 消えると、確かにさくらは言ったのだ。

 文字通り、それは消えた。

 可哀相だと思わない。
 自分を卑怯だとも卑劣だとも思わない。

 そいつが愚かだっただけだ。

 
「だって、僕は悪魔だ」


 悪魔を信用するなんて、本当に愚かだ。

 むしろ同情する鳴海の方が異常だ。
 忘れてはいけない。
 自分達は悪魔だ。

「悪魔と簡単に契約する方が馬鹿なんだよ」

 悪魔とは、どういう存在かを決して忘れてはいけない。

「そういえば兄弟」

 鳴海の隣りに立ち上がり、光る何かを取り出すさくら。
 その横顔は美しく、醜い笑みに歪んでる。

 悪魔とは、美しい。
 美しい面の皮を被っている。

「知ってるかい?」

 その面の下に潜み、隠れているのは。
 醜悪で悍ましい、欲望に支配された、自己愛の塊だ。

 今の、さくらのように。


「ライオンは、ハイエナの獲物を横取りするんだ」


 そう言って、親愛の情を寄せる鳴海ですら一瞬凍り付くような。
 嫌悪感を掻き立てるような、完璧で醜悪な笑みをさくらは浮かべた。

 ぽいっと。

 その手の中のゴミを屋上から投げ捨てながら。

「……いいのか?」
「何が?」

 鳴海にはしっかりとそれが何か視認できた。
 シルバーのリングの内側に彫られた字も、そのこびり付く切ない想いも。

「ただの安物だろう?」

 それに、だ。
 


* * * 


 マンションの一室。
 その部屋はいつからか空き室となっていた。

 だが、家具も全てまだ残っている。

 その内、それらも少々強引な世界の摂理でそれらしい理由付けをされて誰かに処分されるか誰かの手に渡るだろう。
 箪笥の中にしまわれたアルバムにDVD、写真立て。

 その写真に写るのは真っ白いウエディングドレスを着た女性だ。



* * * *


 さくらと過ごす、何度目の夏だろう。

 今年も相変わらずの猛暑で、文香は少しでも涼しくなろうとDVDを借りに来た。
 夏といえばやはりゾッとする映画に限る。
 そう熱弁する文香だが、オカルトそのものであるさくらにはいまいちその感覚が分からない。
 さくらにとっての夏の定番は文香にアイスキャンディーを舐めさめながら、自分は文香の下をキャンディーのようにじっとり汗の味を堪能しながら舐めることだ。

 だが、怯える文香を見るのは最高に楽しい。

「これなんてどう? 死体が動く奴」
「ゾンビか……」

 さくらが手に取ったDVD。
 夏にお勧めだと店の一角にまとめられているゾンビ特集なラインナップを文香はしげしげと眺める。

「それ…… 確か続き物が出たけどいまいちだったのよね」
「ふーん。なら、こっちは?」
「それも確か見たわ」

 さくらの手に取ったDVDの裏の表記を眺める。

「そうそう…… このゾンビ映画の監督さん、一時期嵌まって視てたの」
「ふーん」
「でも、もうこの人亡くなっちゃって……」

 どことなく古臭いゾンビの群れが撮られたパッケージを文香は懐かしそうに眺める。

、絶対に見れなかったわ」

 無意識に零れた文香の言葉はさくらにだけ届いた。


「あの頃は、まだ『 』と一緒だったから」


 さくらはやんわりと文香の手からDVDを取り、元の場所に戻す。

「なら、ゾンビは止めて別のにする?」

 にっこりと微笑むさくらに、文香は特に違和感も抱かずに頷いた。

「じゃあ…… サメとか?」
「なんでサメ?」
「なんでって…… 夏の定番でしょう?」

 柔らかく、さくらに微笑み返す文香は幸福に満ちていた。

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