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≪現在③≫
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しおりを挟む初めてさくらとセックスしたその次の日。
文香は妙に気だるくも心地の良い微睡みから目覚め、すぐに寝惚けたまま布団の中を探る。
「さくら……?」
布団の中はまだぽかぽかと温かい。
けど、文香の求めている体温がなく、なんだか不安になる。
「おはよう、ふみちゃん」
そんな文香の一瞬の不安を掻き消すように、さくらが柔らかく文香の頭を撫でた。
「……さくら」
そのことに心の底から安堵する。
「ふみちゃんは甘えん坊だね」
ぎゅっと、さくらの服の裾を掴む文香はくすくすと自分が揶揄われていることに眉を寄せた。
文香も少し自分の反応が大げさすぎるという自覚があった。
どうしてだろう。
あんなにも愛し合い、確かめ合い、繋がったはずなのに。
今朝は妙に心がざわつき、寂しくて心細い。
いつもの文香ならさくらに揶揄われたらすぐに反論し、縋るような自分の手をぱっと放しただろう。
「……怖い夢でも見た?」
「ううん……」
そんな文香のいつもと少し違う様子に、さくらは首を傾げる。
子供に問いかけるような口調だ。
けど、今はそんなさくらに甘えたい。
今朝はいつもより冷えているせいか。
気づけばさくらの胸の中で強張った身体の力を抜いた文香は重たい下半身や、ちらっと視線を下に向けるだけで見える無数のキスマークに今更ながら頬を染めた。
「少し…… 肌寒くて……」
照れた顔をさくらに見られたくない。
「あったかい……」
ぎゅっと自分からさくらの胸に飛び込み、ぐりぐりと甘えるように額を擦りつける文香。
子猫が暖を求めるような仕草だ。
けど、数時間前までの情事の跡を色濃く残す最愛の妻にそんな風に無防備に甘えられた夫にとってはまったく微笑ましくない。
「……君って、本当、」
きょとんと見上げてくる文香にさくらは今にも舌打ちしたそうに顔を歪めた。
ギリギリで舌打ちは我慢し、代わりに重い溜息を吐き出す。
「……いや、分かってたよ。君があざとい女だってことは、僕が一番よく知っているからね。今更だよ、こんなの」
頭上でぶつぶつと何か呟くさくらに文香は首を傾げた。
「ああもう、その顔…… 今ここでぶち犯したい」
不穏なさくらの台詞に思わず身を放そうとする文香をさくらは逃がさないとばかりに抱きしめる。
「ごめんごめん。つい本音が出ただけだから。逃げないでよ。それよりも……」
固まる文香をよしよしと頭を撫でながら、さくらはその額にキスをする。
途端に文香の身体は風船が萎むように力が抜けていくのだから、まったくチョロイものだ。
そんなさくら限定でチョロイ文香を知りながら無茶なお願い事をするさくらはやっぱり悪魔だった。
「僕の勘違いでね。最後の仕上げがまだ終わってなかったんだ」
「……仕上げ?」
何のことかと、起き抜けでなんだかんだまだしっかりと目が覚めていない文香は困惑する。
さくらと過ごすようになってから妙に朝が気だるい。
「うん。最後は彼にも協力してもらわないといけないんだ」
温いさくらの腕の中で微睡みかける文香はやはり無防備に首を傾げた。
*
優はスマホの電源を切り、家の固定電話の配線も抜いた。
確認しなくとも分かる。
きっと大量のメッセージが届いているのだろう。
優は今日会社を辞めた。
正しくは退職することを一方的に電話で伝えただけだ。
自分でも随分と最低なやり方だと思う。
しかし、今の優には時間が惜しく、引き留められることを知った上でわざわざ会社に出向いて上司や同僚達に詫びる気持ちにはどうしてもなれなかった。
そもそもそんな気力もない。
何度かインターホンも鳴ったが、全て無視している。
今の優にとって外界と接する全てのものが煩わしい。
もう目的も終わった今の優にとってスマホも電話も何もかも必要ないのだ。
電話線を抜く前、優は久しぶりに実家に電話をかけた。
どうしてかけようと思ったのか分からない。
ただ、声を聞けば。
両親の声を聞けば、自然と言葉が出ると思った。
しかし、良かったのか悪かったのか。
結局電話に出る者はいなく、優はただ無機質な留守電のメッセージを入れた。
「もしもし? 父さん、母さん……」
そのとき自然と優の口から出た言葉が本当に優の本心だったの優本人にも分からない。
「……ごめん」
不思議なほど優の心は静かだ。
離婚以来ずっと塞ぎこみ、まともに会いにも行かなかった息子が突然こんな留守電を残せばきっと親は心配する。
(親父は…… 怒るかもな)
あれ以来どこか情緒不安定な母と違い、父は優を殴りつけ、勘当を言い渡した後から一度も顔も声も聴いていない。
あんなにも激しく怒り、優を怒鳴る父親は初めてだ。
初めて父親に殴られ呆然とする優よりも、母の方がずっと強いショックを受けていた。
その場で母が力なく倒れなければ、きっと優はもっと殴られていただろう。
(親父は……)
優の父はとても寡黙で、頑固で、不器用な男だ。
(知ってたのか……?)
似ていない父子だと、周囲に揶揄われるほどに。
果たして優の父と母であった二人はどこまで知っていたのか。
どこまでが嘘で、どこからが真実なのか。
そもそも、彼らが本当に愛し、慈しんでいたのは、本当に優自身だったのだろうか。
(……どうでも、いいか)
考えるのが億劫だった。
今更、何を考えたってもう遅い。
大事な両親との最期の別れすら、今の優には何の価値も見出せなかった。
優が求めているのは、ただ一つ。
ただ一人なのだから。
それはとてもシンプルで。
壊れそうなぐらい乱暴に掻き乱された優にとっては安堵に等しい。
暗闇の中の光明に似ている。
「……もう、いいんだ」
優は部屋のカーテンを閉めた。
ソファーに散らばる写真を丁寧に集める。
文香との思い出を、全て大事に大切に集めた。
「懐かしいな……」
まだ、時間はある。
久しぶりに昔の文香に会いたいと思った。
昔の、優と文香がまだ恋人で、夫婦だった頃の記憶を。
胸にしまうはずだった思い出を、優は部屋中からかき集めた。
* *
カーテンが閉められた部屋に笑い声が小さく響く。
優の笑い声であって優の声ではない。
それは液晶の画面向こうに広がる過去の優の声だ。
リビングのソファーを背もたれに、優はフローリングの上に座り込み、ただただ静かに、瞬きすら忘れて真っ白い過去の情景を脳みそに焼き付けようとしていた。
「……」
文香と優の結婚式。
ビデオカメラで撮影され、ひっそりと大事にDVDとして保管していた。
卒業式に友人達が撮ったものもある。
優を中心に撮られた動画の中には必然的に文香が映っている。
文香はちっとも変っていないと思っていた。
けど、こうして映像で見ると隔絶された年月の長さを実感する。
時は当たり前のように等しく皆に降り注いでいるのだ。
文香だけではなく、時折映る両親や友人達。
何よりも優自身に。
無邪気なまでに笑い、大勢の親しい人に囲まれ、何よりも最愛の人を隣りに抱く幸福に頬を紅潮させる青年はとても幼く、眩しく、愚かだ。
馬鹿らしいことに、優は画面に映る若き日の自分に嫉妬していた。
当たり前のように純白の衣装に身を包む文香を抱きしめる男に。
けど、その歪んだ嫉妬心は長く続かなかった。
すぐに優はどこか戸惑うように、そして不安気に。
幸福に戸惑う花嫁の美しさに夢中になった。
「文香……」
どんなに時が流れても、やはり文香は変わらない。
優の文香は、昔と何一つ変わらない。
「……綺麗だ」
無意識に口から零れた本音。
文香はいつだって、綺麗だ。
触れられるはずがないと知りながら、こうして画面に手を伸ばすぐらい。
文香は昔と変わらず優を魅了する。
画面に映る文香の手が過去の優の首に絡まる。
周囲からの歓声が上がり、抱きかかえられた文香が珍しくも無邪気に笑った。
薔薇色に色づいた頬。
潤んだ眼差しが一瞬、現実の優に向けられる。
けど、その視線はすぐに過去の優に向けられ、若い夫婦はお互いを見つめ合い、照れたようにはにかんでいる。
祝福の花びらが二人の間を舞い、キラキラと眩しく優の目を、心臓を突き刺した。
何もかもが懐かしく、遠く切ない。
優は何度も何度も画面に映る文香を、優の花嫁を撫でる。
その左手薬指に無垢なまでに光るシルバーのリング。
(指輪……)
別れた後も、優は大事に大事に指輪を保管している。
(文香は、もう……)
文香はもう、捨ててしまったのだろうか。
二人の愛の誓いを。
証を。
空っぽの左手が妙に冷たい。
* * *
妙な事になってしまったというのが文香の本音だ。
見慣れた玄関に何故か文香はさくらといる。
楽な恰好でいいと言われ、適当にジーンズを穿いて来たが、今まで頑張ってお洒落をして来た身としてはラフ過ぎて逆に落ち着かない。
もちろん、落ち着かない理由はそれだけではない。
説明は聞いた。
理解はできないが、納得はしている。
だから、文香はさくらと共にここにいるのだ。
ここに、優に会いに来た。
「……いらっしゃい」
文香とさくらを出迎える優。
会社帰りなのか。
シャツとスラックス姿で出迎える優の顔色は冴えない。
けど、その口元に浮かぶ笑顔は不気味なほど穏やかで、いつも通りだ。
「文香……」
文香を呼ぶ、柔らかな声も。
視線も。
「待ってたよ」
文香を見つめる優は、とても自然に微笑みかけて来る。
「ふみちゃん」
さくらの手が文香の肩を撫でる。
じっと優の様子を観察していた文香は突然のさくらの接触に過剰なほど肩を震わせた。
冷静に見える男二人の視線が文香に集中している。
自分だけが戸惑っているようで、恥ずかしい。
まるで、自分だけが意識しているみたいだ。
「……」
視線をどちらに向けるべきか一瞬分からなくなる。
だって、仕方がない。
目的が、目的だ。
優の目を見ることはできない。
(優は一体どこまで知ってるの……?)
協力してくれるとさくらは言った。
何がどうやってそういうことになったのか。
もちろん、文香はそれでさくらの言う仕上げが上手く行くなら何も文句はない。
ただ、自分の知らない合間にさくらと優が接触し、そして何かしらのやりとりをして今日のこの日程を決めたと考えると薄っすら寒いものを感じる。
文香によって繋がった歪な縁。
それなのに、文香だけが蚊帳の外にいるような、疎外感というよりもただただ居心地が悪い。
居た堪れないとは、このことだ。
「嫌だったら止めてもいいんだよ?」
最後の仕上げとさくらが言うのなら、きっとそのままの意味なのだろう。
いつだってさくらの言葉はストレートで、疑うことすら馬鹿らしいほど真正直なのだから。
「……優は、本当にいいの?」
文香の一番の懸念材料は不自然なほど自然な笑みを浮かべる元夫だ。
文香の口から出た言葉は必要以上に感情を削ぎ落してある。
「全部、もう知ってるのよね?」
文香が何故、離婚した元夫の前に現れたのか。
そして執拗なまでにセックスを強請った理由も。
文香が再婚し、その夫のために優を利用したことも。
「ああ…… 全部、聞いた」
だから、どうしてそんな風に文香に微笑むことができるのか。
文香には分からない。
優は、一体どこまで事情を知っているのか。
「そいつは全部知ってるよ。だから、ふみちゃんはもう何も気にすることはない」
さくらの指が文香の手の甲を撫で、含む様な笑いが耳を擽る。
「そうだろう?」
「……ああ、そうだな」
目の前で当たり前のように交わる会話に、正直文香はゾッとした。
「最期の仕上げは彼も手伝ってくれるって」
さくらの言う最後の仕上げ。
その意味するところはよく分からなくとも、何をする気なのかは分かる。
背後からぎゅっと抱きしめて来るさくらに、一瞬だけ優の笑みが凍ったように見えた。
「ふみちゃんは今まで僕にとても良く尽くしてくれた。僕のために……」
耳に、さくらの息がかかる。
そのぞくぞくする感覚に、さくらの吐息で感じる自分を優に見られているという事実に、拭い去れない現状の違和感に自然と文香の表情が歪む。
さくらの無邪気ともいえる言葉の数々が優に、そして文香に襲い掛かる。
「好きでもない君と、いっぱいセックスした」
言葉にすると途端に生々しくなるが、さくらの言うことは全て真実だ。
後悔はしていない。
けど、優の顔を見ることはできなかった。
「……それも、もう知ってる」
耳に降りかかる優の声が重く文香に圧し掛かる。
重くて、とてもすぐに顔を上げることはできない。
だから文香は気づかない。
気持ちがいっぱいいっぱいな文香は、自分の頭上でお互いを食い千切りそうな二人の視線の鋭さも、その燃え滾る熱情も。
優の瞳に映る見慣れた赤色も。
気づく余裕などなかった。
* * * *
文香はさくらと共に優に会いに来た。
さくらが言うには、あともうちょっと、ほんの少しだけ精気が足りない。
溜まった精気に蓋をし、肉体に留まらせるために、最後にどろっとした刺激的な精が必要だという。
だから。
文香は今、さくらと優に挟まれ、ベッドの上にいる。
応援ありがとうございます!
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