奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在③≫

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 当たり前の話だが、淫魔は性欲が強い者を好む。
 精気が濃厚で、しぶとくて、淫らで貪欲。
 誰だって美味しくて栄養価の高い、物珍しいものが食べたい。
 嗜好すら超越した極上の餌がいれば食べたくなるのは当然だ。

「そんなに美味そうな女だったのか?」

 ビジネスホテルの一室で文香を待つ間、二人はそんな会話をしていた。

「凄かったよ。僕が会った中では最高級の餌だ」
「ほぅー」
「前に兄弟が言っていた通りだ。あれは相当男慣れしている。生まれ持っての男好き、色情狂の類だね」
「ほうほう。それは素晴らしいな」
「ああ、そうさ。僕らからすれば最高だよ」
 
 セックスすればするほど、誰かに愛され、欲情されればされるほど情が纏わりつき、また更にフェロモンが濃厚になる。

「僕らからすれば最高に都合のいい餌だ」

 この世には文香のように無意識下に性愛というものにトラウマを持ち、男に拒否反応を示す女もいれば、男無しでは生きていけない女もいる。
 文香のようにフェロモンが皆無で、精気が薄い者もいれば、逆に匂い立つほど濃厚で、周囲を誘うような女もいる。

「飼い殺しにしてやりたかったよ。純血種の僕でもあれ一人で相当保てるね。全部食ったらあの女の寿命まるまる増えそうだ」
「そういうのは冗談でも止めろ。俺達と違って人間は死んでも遺る。下手に世間に勘づかれたら面倒だ」
「はーい」

 ぷくっとした幼く、それこそ天使のような頬をした美少年が無垢な笑みを浮かべたままベッドから足をぶらぶらさせる。
 しかし、そのさくらんぼ色の唇から紡がれる悪意は毒々しい。

「そういえば兄弟。今、ふみちゃんを抱いてる男はもう見た?」

 薄っすらと冷たく、潤んださくらの瞳。
 
 今、愛する妻が他の男に抱かれている。
 もしもこの未熟な身体ではなかったらとっくに勃起していただろう。

 だからこその省エネモードである。
 無駄に勃起したり射精したりしないように。
 未精通の肉体年齢がもっとも省エネに適していた。

「ああ。彼か……」

 万が一文香が危険な目に遭わないよう実は鳴海はこっそりと後を付いて行った。
 遠目からでも分かる衰弱したような男は物腰も柔らかく、誠実そうに見える。
 
「彼のような存在は俺も久しぶりに見た。昔ならともかく、今は危険や面倒を冒してまで種付けしたり種を貰ったりする酔狂な奴もいないからな。どっかの馬鹿が油断したんだろう」

 そうでなければ、あんな中途半端で危うい男が野放しにされているはずがない。

「可哀相にな」

 鳴海は常にさくらに言っていることがある。
 人間を侮ってはいけないと。
 それは何も自分達が人間の精気、性欲に生かされているからという理由だけではない。
 もちろん家畜がいなければ人は生きていけないように淫魔ももっと人を大事にしなければならない。
 だが、鳴海はさくらのような若い淫魔が人間をただの餌だと、下等の生き物だと見下す心理も分からなくなかった。
 人の食事とはつまり何かの命を奪うということだ。
 しかし、オカルトな存在である自分達は人間の精気を奪うが命まで奪わない。
 むしろ餌である人間の方が泣いて縋り、みっともなく自分を食ってくれと懇願してくる。
 姿形が一緒で、意思疎通もできる生き物が自ら食ってくれと身を差出してくるのだ。
 驕るのも無理はない。

 しかし、鳴海は人間の怖さを知っている。
 いや、正しくは自分達淫魔が結局人ありきで存在していることをよく知っていたのだ。

「だが、あれは危険過ぎる」

 そして、そんな人間との間の子である男を。
 鳴海はさくら以上に男、香山優を危険視していた。
 
 彼は危う過ぎる。

「獅子の子が己の正体を知らず猫に育てられたようなものだ。本人はまだ自分を可愛い猫だと思っている。危険な牙を持つことに気づいていないからこそ、加減を知らない」

 時代は変わった。
 今のこのご時世、鳴海達のような曖昧な存在がどんどん消えていく世の中で自重もせずに力を垂れ流す優は危険そのものだ。

「牙が抜かれたままであれば良かったんだがな」

 悪魔の力が目覚めれば、肉体も魂も精神も、全てが染まってく。
 気づかない内に優は人では無くなっていった。

「仕方がないさ。あんないい肉が目の前にあったら、理性なんてぶっ飛ぶ」

 さくらの言う極上の餌。
 最高の栄養、糧さえ食わなければ、ここまで淫魔の本能が顕著することも、また力が覚醒することもなかっただろう。

 より強い飢餓に、乾きに理性を失うことも。

「初めから自分の正体を知っていれば選択の余地もあったかもね」

 優は知らない。
 
 一目見たときから、またその肌に触れたときから、その匂いを嗅いだときから、共にいる時間が長くなればなるほど、女がより魅力的に美しく、何よりの至高の存在だと、手に入れたいと思う自分の意味を。
 渡辺志穂という、淫魔にとって目の色を変えて飛びつき、むしゃぶりつきたくなる女に欲情する意味を知らない。
 初めての衝動。

 それこそが長年誤魔化し続けた本能。

「あのまま偽りの茶番…… 人生を続けたかったなら、初めからあの女に近づかなければいい」


 食欲、である。


「まぁ、何も知らないんじゃ…… 無理か」
「そりゃそうだ。人間だと思ってる奴が同じ人間を見てセックスしたいと思ったら好意を持ってるからだと思うだろう。ただの食い気なんて思いつく方が異常だ」

 鳴海はこの件に関しては非常に同情的だ。

「……つくづく文香さんは運がないな」
「本当だよね~ ふみちゃんって薄幸でトラブル体質だから。あんな半端物と結婚するなんてさ。初めから上手く行くはずが無かったんだ」

 もしも、香山優が最高の餌に出会わなかったとして。
 その本能を抉じ開けるほどの存在を永遠に知らず、飢えを誤魔化し水みたいな精気しか持たない文香とセックスし続けていれば。

 理由も分からずにその内衰弱死したはずだ。

「ああ、でも未亡人のふみちゃんを慰めるのはちょっと魅力的かも」

 文香に可愛い可愛いと猫可愛がりされていた姿で恍惚の笑みを浮かべるさくらを無言で見た鳴海は深々と頷く。

「本当に文香さんは運がないな」

 鳴海は心底、義妹である文香に同情していた。

「それにしても、僕が言うまで兄弟が気づかなかったのは意外だよ」

 首を傾げると艶のある黒髪が絹のように揺れる。
 相変わらず無意識にしろ意識的にしろ、仕草の一つ一つが意味深く色っぽいさくらに鳴海を感心した。
 幼い容姿がより妖しく見える。

「魂から細胞まで、あんなに密に接していたのに。てっきり兄弟ならとっくに感づいていると思ってた」
「まぁ、俺は直接動いて生きてる彼女に接したわけじゃないからな」

 面目ないと、苦笑いを浮かべながら鳴海は頬を掻く。

「さすがの俺もあれを見て気づくのは無理だ」

 ただ、鳴海にも言い分はある。

「齧りかけのトマトは目立つ。だが、」

 嵐の夜、さくらの彫刻のような真っ白い手から差し出された肉と骨の欠片を思い出す。

、分からないだろう?」






 さくらは優を軽蔑し、見下していた。

「まぁ、でも君のふみちゃんへの愛はそこそこ評価するよ」

 唯一、文香への想いは認めている。

「僕ほどではないけど」

 そう得意気に笑うさくらに対して優はなんの反応もしなかった。
 息すらしていないような、さくらの挑発にも沈黙しか返さない。

「……」
「ねぇ、」

 その思考を覗き込もうと、俯く優の頭をわし掴んだ。
 容赦なくその髪を引っ張り、顔を強制的に上げさせる。

「今さ、どんな気持ち?」






 今、優はどんな気持ちなのか。
 それは優本人にも分からない。

 ただ、ぽっかりと大切何かを。
 香山優という人間が死んだのを空虚な気持ちで眺めている。

 そんな感じだ。

 今まで自分が生きて来た二十数年間。
 それが木っ端みじんに砕かれ、踏み潰されたような。

 正直、何も考えられない。
 まだ、上手く整理できないのだ。

 ここは優の夢の中のはずなのに、どこよりも何よりも現実で、その現実が優を追い詰めた。
 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 目の前の男が優の全てぶっ壊したこと。

「……お前、文香のなんなんだよ」
「夫」

 乾いた優の問いに、さくらはニヤニヤと僅かに上気した頬を見せつけ、まるで猫のように笑う。
 
「……そうか」

 優は動揺しなかった。
 なんとなく、分かっていた。
 ただ、もう十分に壊れたはずの自分の心がまたズキズキと痛みだしたことに、つい笑みが浮かぶ。

 ぽたぽたと、自分の頬を流れる涙にまた笑う。

 さくらに頭を掴まれたまま、優は引き攣った笑いを口から漏らし、静かに泣いて笑った。
 怪訝な視線が頭上から降り注ぐ。
 優とて可笑しいと思う。
 どうして、こんなときに笑えるのか。

 胸が苦しくて、痛くて、辛くて仕方がない。
 分からない。
 ただ、優は文香のことだけを考えていた。

「文香……」
 
 文香に、謝りたかった。

「ごめん、文香」

 さくらの存在など、どうでも良かった。
 恨みも憎しみも怒りも恐れもない。

 優は離れたさくらの気配にも気づかず、顔を両手で覆い、静かに静かに泣いて謝った。
 笑みはいつの間にか剥がれ、惨めな男の泣き顔だけがそこにある。
 
「ごめん、ごめん、な…… 文香、俺が、俺のせいで……っ」

 ここは優の夢であり、そしてさくらに支配された夢でもある。
 優のぐちゃぐちゃに狂い乱れた思考も全てさくらの手の中だ。

 だからこそ、優越感に微笑んでいたさくらの顔が徐々に歪む。
 今にも死にそうな形相で、この世全ての苦痛を与えられたように、文香の名を呼び、謝り続ける男をさくらは気づけば凝視していた。

「……は?」

 さくらには理解できなかった。
 何故なら、香山優は今この瞬間、確かに死んだ。
 今、さくらの目の前にいるのは人でなくなり、それでも悪魔になり切れない哀れな生き物だ。
 
「なんで、君が謝ってるわけ?」

 さくらには優の心が理解できない。
 文香の心が理解できないように。






 優は全てを思い出した。

 自分が何も知らず、無意識のまま、あるいは意図して忘れていた全てのことを。
 自分が、自分のような穢れた者が文香を愛し、彼女を呪っていた事実に吐きそうなほど嫌悪している。

 優は自分が文香から遠ざけた男達を思う。
 自分が遠ざけた文香の可能性を。

 もしも、高校のときに文香が優に出会わなければ。
 もしかしたら文香は他の男と付き合ったかもしれない。
 優にさえ出会わなければ、文香は愛する男に裏切られる絶望、屈辱を知らずにすんだかもしれない。

「俺は、最低だ」

 何よりも優が許せないのは、その中で文香の父を奪ったことだ。

「文香から、色んなものを奪った…… 全部、俺の勝手で、文香の未来を潰して行った…… 文香の可能性を、父親を……」
「意味が分からない」

 優の思考を読み取り、そのあまりにもぐちゃぐちゃとした濁流にさくらは顔を歪ませる。
 それは、優の考え、その罪悪の心がまったく分からないせいでもあった。

「惚れてる女に余計な虫をつけないようにするのは当然だ。マーキングまでしてるのに手を出そうとする馬鹿がいるならそれ相応の罰を与えなければならない」

 さくらには優が無意識かつ無自覚のまま文香のフェロモンを奪い、近づこうとする男に細工をしていたことを知っている。
 純粋な淫魔であるさくら達ならもっとスマートに綺麗に記憶を改竄したりするが、半端物であり、本能のまま制御できない優のそれはとても雑で粗のあるものだ。
 そして、無駄に強力であることも。
 加減を知らないからこそ、優達のような輩は厄介なのだ。
 世の表舞台に存在がバレないように夜の世界で隠れて生きる現在の悪魔であるさくら達にとって。
 力の制御もできずに痕跡を残しまくる優のような存在はとにかく目障りである。
 数が少ないせいでより目立つのもあるが。

「訳が分からないよ。君は一体何に泣いてるんだ? 五月蠅くて、気分が悪い……」

 ガンガン頭の中で鳴り響くような優の叫び。
 実際の音ではない。
 優の夢の中だからこそ、それは生々しく空間に皹を入れる。

 さくらには理解できない。
 一体、優は文香に何を謝っているのか。

「俺は、文香を信じてやれなかった……」

 優の頬には涙の跡がいくつも見える。
 さくらではなく、この場にいない文香に懺悔するように優は自分の罪を見つめ直していた。

「他の男が文香を好きになっても、文香は靡いたりしない。分かっていた。文香はそういう女だ。分かっている振りをしていた」

 優は思う。
 文香に惹かれていた男達。
 どうしてその記憶、感情を消したのか。
 例え、彼らが文香に告白したとしても。
 もう、既にあのとき文香は優の恋人だった。
 
「俺は、卑怯だ」

 何を、恐れる必要があったのか。
 優はただ文香を信じればいい。

 たとえ、それで文香が心変わりしたとしても、それもまた文香の選択である。

「人の心を無理矢理変えるなんて、最低だ」
 
 そして、優は自分が変えてしまった男達にも謝罪がしたかった。
 優は文香だけではなく、彼らの心を無理矢理変えた。
 優にとっては恋敵だ。
 けど、その前に彼らもまた一人の人間であり、何よりも文香に一瞬でも好意を持った男達だ。
 横恋慕の形であれ、優は彼らの選択、資格を奪ったことになる。
 
 優は卑怯だ。

 文香を信じられず、また恋敵になるはずだった男達と戦わずに殺してしまった。

 そして、何よりも。

「文香から父親を奪った」

 文香の記憶を初めて奪ったあの日。
 震える文香が可哀相で、怖くて。
 このまま文香が消えてしまうのではないかという恐怖に怯え、忌まわしい記憶を消した。

「娘を強姦しようとする父親なんて初めからいらないじゃないか」

 さくらのそれは正論だ。
 
 けど、優は違う。

「それは、文香が決めることだ」

 人として生まれ、生きてきた優は香山優としての価値観を持っていた。
 それは確かに人間の価値観であり、淫魔であるさくらには理解できないものだ。

 そして、かつての文香はさくらの理解できない人間の香山優に惚れた。
 このときさくらは初めて優本人に嫉妬を抱いた。

「文香の人生は、文香のものだ…… その選択を奪っていい権利なんて、誰にもない」

 苦し気に呻きながら、優はさくらを見上げる。
 赤い瞳は奇妙なまでに輝き、悲哀に満ちていた。

「……あのとき、文香は泣いていた。泣きながら強がって、本当は怖いくせに、笑おうとしてた」

 それはとても痛々しい笑みだ。

「文香が可哀相で、痛々しくて…… なんで、文香がこんな辛い目に遭わなきゃいけないんだよ? そんなの可笑しい、理不尽だ…… 文香を、守ってやりたいって、思った」

 あのときの優はただ文香を守りたくて、悍ましい男の記憶を忘れて欲しいと思った。
 辛い記憶なんてない方がいい。
 無理して笑わないで欲しい。
 泣かないで欲しい。

 だから、消した。

 そして、二度と父親だったその男が文香を傷つけないよう、近づかないようにした。

「全部、俺自身のためだ」

 けど、記憶が戻った優は、大人になった優は思う。

「綺麗事言って…… 結局、俺は文香から逃げたんだ」

 まだ子供だった。
 例え、優が人間でなくとも、間違いなく優は人間として生き、当時はただの一人の少年だった。
 恋に浮かれ、その恋人の辛い過去を聞いてしまった当時の優は幼いからこそどうすればよかったのか分からなかった。
 どうしたら文香を励ますことができるのか、何をすれば正解なのか。
 そして好きな子を苦しめる男が憎くく、怒りが止まらなかった。

「文香にとって、どれだけ辛い記憶でも……」

 初めての憎悪に燃えたそのとき、皮肉にも優の血は目覚めてしまった。

「あのとき文香は、それでも必死に戦ってたんだ…… ずっと、独りで抱えて、誰にも言えないまま……」

 それを、文香が優に話してくれたのは。
 優を、信頼していたからだ。

「それを、俺は受け止められなかった」

 必死に、笑おうとしていた文香をただ痛々しいと思った。
 もう二度と、取り返しのつかない過ちだ。

 どんなに泣いて悔やんでも。
 あのときの文香を優は消してしまった。

 健気に、強がって。
 自分独りだけでボロボロになりながらも歩いていた文香を。
 優に凭れようとしていた文香を。

「俺に…… 文香の人生を歪める権利なんてないんだ。そんなもの、誰にもない。誰かが誰かの人生を勝手に変えるなんて…… 全部、ただのエゴだ」

 硝子細工のような文香の意思を。
 優は壊した。

「俺は、卑怯で、傲慢で…… 最低の屑野郎だッ」

 優は壊してしまったのだ。

 文香の今までの努力も。
 辛い現実に向き合おうとし、必死に守ろうとした小さなプライドも。
 権利も。

「俺は自分が恥ずかしい……」

 文香の権利。
 という事実。
 罪をなかったことにしようと、してしまった現実。

「消えて、無くなってしまいたい……」

 中途半端なのだ。
 さくらの言う通り、優はあまりにも中途半端だ。

 人ではないくせに人だと思い込み、人として生き、人に愛されて。
 だからこそ、人に優しく甘い。 

 初め、優の本能は囁いた。

 幸せの鐘がなる式場で直感でその男の正体を知ったときから。
 怒りと憎悪で目の前の男を殺そうと思った。
 優にならできる。
 人並以上の肉体と周囲を隠蔽する持って生まれた能力を使えば、きっと全てを無かったことにできると。

 しかし、香山優にはできなかった。

 人を殺すことなど、優には出来なかったのだ。
 殺してしまえと吠える本能と、人としての理性が暴れまわった。

 結局、本能が引き下がった。
 その理由は単純だ。

 優は見てしまったのだ。
 文香の記憶の中で見たときよりもずっと老けた男に。
 優に意識を奪われ、呆然とする男の中に見えた幼い文香の無邪気な笑顔を。

 できなかった。
 男の記憶の中に残るキラキラと眩しい思い出があまりにも綺麗で。
 ただ、それを奪うことしかできなかった。

 優は優しい男だ。

 だからこそ、苦しい。
 だからこそ、残酷だ。

 初めから、無理だったのだ。
 香山優に人を傷つけることなどできない。
 人を傷つけるぐらいなら、自分を傷つける。
 どんな悪人にすら芥子粒のような宝石の欠片を見つける、そんな男だ。

「文香…… ふみか……」

 そんな男に文香は心を奪われた。

「ごめん、ごめんな……っ」

 こんな男に。
 こんな悪魔の形損ないが。

「それでも…… 俺は、」

 それでも優は文香が好きだ。
 文香のためだったらなんでもできる。
 全部、あげたい。

 こんな屑を貰ってもきっと文香にとっては迷惑でしかない。
 害悪だと分かっていても、文香に自分の全てをあげたいと思っていた。

 だって、好きなのだ。

「文香に…… 幸せに、なってほしい」

 文香の可能性を奪っておきながら。
 それでも優は、文香に幸せになって欲しかった。



 嗚咽はやがて慟哭に変わる。
 優は狂ったように泣き叫んだ。
 獣のように荒々しく、子供みたいに泣き続けた。

 それを、さくらだけが見ていた。


* 


 優は、さくらを見つめる。
 ふらふらと倒れそうになりながら立ち上がり、その目を正面から静かに見据えた。

 互いの目に映るのは、宝石のように赤く、血のように欲望に揺らめく悪魔の証だ。

「……お前は、」

 優は、さくらが文香の夫だという事実を受け入れた。
 しかし、その経緯を知らない。 
 そして、今までどうして文香が優とセックスしていたのか。
 その理由も知らない。

 知らないはずだ。

 だが、今の優はまるで全てを知り、受け止めているかのように静かだ。
 だから優はあえてそのことに触れなかった。

 ただ、一つだけ確かめたいことがあった。 

「文香を…… 幸せにして、くれるの、か?」

 優の声はまるで今にも死にそうなぐらいにカラカラに干からびていた。
 それなのに、妙に重く、絡みつく。

「……幸せにする?」

 さくらはそれを煩わしそうに振り切る。

「馬鹿らしい」

 ぶてぶてしく、優を鼻で嗤う。

「永遠に僕に愛される。それ以上の幸せがあるはずないだろう?」

 それを聞いた優は小さく、微かに。

 とても穏やかに笑った。

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