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≪現在③≫
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しおりを挟む剛田はとある同級生が苦手だ。
同い年とは思えないほど真面目でお堅い。
大人しいかと思えば、随分と率直な物言いをし、敵意を向けられても余裕の態度でいるところも。
剛田みたいな不真面目な男に、毎回毎回、真剣に、馬鹿みたいに注意して来るところも。
「うざいんだけど」
長く伸ばした髪の下に隠したピアス。
生徒指導の教師も他の風紀委員も、もう剛田を相手にするのが面倒なのか見て見ぬふりをしているのに。
目の前の女だけは舌打ちする剛田を真っ直ぐ睨みつける。
「規則は規則よ。学校にいる間だけ外せば誰も文句なんて言わないわ」
「……マジ、おフネのそういうとこ気持ちわりぃ」
悪意あるあだ名にも女は顔色一つ変えない。
「気持ち悪くて結構。嫌なら、せめて服装検査のときだけでも真面目にして」
「……本当、うぜぇ」
剛田は女のその目が苦手だ。
いつの頃からか、誰にも期待されず注意しても無駄だと思われるようになった剛田は、自分から望んでいた今の状況に無意識に焦っていた。
教師だけではなく、親にも何も言われない。
それは確かに自由だが、どこかそわそわするような、居心地の悪さと苛立ちを生んだ。
だが、目の前の女は変わらない。
「優等生気取って、馬鹿じゃない?」
また、自分から目を逸らしてしまったことに妙な悔しさが芽生え、なんの考えもなしに口から攻撃的な言葉が飛び出る。
「俺になんか言う前にさ、おフネは皆に嫌われてることを反省しろよ」
それに動揺する自分に剛田はまだ気づいていなかった。
ただ、イライラするのだ。
無性に。
「……逆に聞くけど」
その、真っ直ぐで、綺麗な瞳に映る自分が。
「私に好かれて、嬉しいわけ?」
剛田はおフネが苦手だ。
けど、嫌いではない。
「やっぱ、クラスで一番可愛いのは明美じゃね?」
「ああー 確かに」
悪友ともいえる友人達とつるみながら、剛田は気づけば教室のある一角に視線を向けていた。
「……そうか?」
剛田の視線の先には、いつも通り背筋を真っ直ぐ伸ばした女子の背中が必ずあった。
「明美が一位じゃなかったら誰だよ」
「俺は千佳」
「俺は相田かな?」
「は? 全部バラバラかよ」
がやがやと喧しいメンバーに囲まれて馬鹿笑いしながら、剛田は内心で奇妙な優越感をこのとき抱いた。
(俺は…… フネ)
友人達はまだ知らないのだ。
度々服装を注意され、間近でその苛立ったような、神経質な顔を見ている剛田だけが気づいている。
(顔だけは…… 結構可愛いんだよ)
マニアックだと思われたくないから、あえて言わないだけ。
そうやって自分を誤魔化した。
どこか擽ったいような優越感に気づかないふりをして。
そして、おフネはクラスの人気者で、唯一心の底から信頼できると思う友人の彼女になった。
「趣味わりぃよ」
友人がおフネに好意を抱いているという噂を聞いたとき、剛田は友人を説得しようとした。
だって、あんな根暗で頑固で、嫌われ者なおフネが目の前で困った様に笑う爽やかな友人と吊り合うはずがない。
「酷いこと言うな~」
「馬鹿、俺は本気で……」
剛田はこのとき初めて目の前の友人に苛立った。
何故か分からない。
ただ、焦りに似た苛立ちだ。
「悪いけど俺、本気なんだ」
いつも通りの友人の笑み。
けど、何故かそのときの剛田は絶望に似た何かを抱いた。
「悪い。邪魔しないでくれ」
穏やかな友人の声が酷く冷たく聞こえる。
その後は覚えていない。
ただ、何故か妙な寂しさを抱いた。
心にぽっかり穴が空いたような。
「優って趣味悪い」
「他に可愛い子いるのにな」
「なんで、あれなんだろう」
けど、その感覚はすぐに忘れた。
「本当、付き合うなら明美とかにすりゃいいのに」
「いやいや、ここは千佳だろ。明美性格わりぃもん」
「俺なら相田と付き合う」
剛田はもう全てを忘れた。
「剛田は?」
ただ、たまに夢を見る。
赤い目に覗き込まれるという悪夢だ。
「俺も付き合うなら明美だな。あいつエロそうじゃん」
「お前、最低」
ケラケラと友人達と笑う剛田は今朝見た悪夢のことも、もう忘れていた。
*
東は会社で初めて指導する後輩が当初苦手だった。
けど、それは初めの内である。
「お、香山はもう終わったのか。相変わらず仕事が早いなー さすが俺の後輩」
「……ありがとうございます」
「いや、お前だけの後輩じゃないだろう」
同期に揶揄われながら、東は目の前で出来上がった書類を持ったまま所在無さげに佇む後輩を労わる。
「本当、香山って優秀だな。新人の頃の俺と比べたら月とスッポンだよ」
自分でも過剰にほめ過ぎている自覚はあった。
しかし、いつもクールで落ち着いたこの後輩が唯一困った様に、照れたように微笑む瞬間はこのときしか見られない。
「……ほめ過ぎですよ、先輩」
誤魔化すように書類を突き出す後輩。
ちらっと見えたシルバーのリングに、つきんっと胸が痛みだしたのは結構最近だ。
流石にもう思春期のガキではない東は自分のその痛みの正体を知っていた。
一時期は相当頭を抱えたが。
「……相変わらずクールだね」
「そうか?」
同期は東とデスクが隣りのせいか、二人のやりとりを頻繁に見ている。
そのため付き合い辛いとか、気難しそうだとか、周囲に若干誤解されている後輩が意外と素直で、仕事ができるのにときたま妙なミスをしてしまうことを知っていた。
だが、東には敵わないだろう。
「皆、誤解してんだよ。香山はすっげぇ、いい奴だぞ? 素直だし、結構気が利いてるし、仕事の覚えも早いし」
「ふーん。まぁ、真面目ではあるよな」
初日の紹介のときに、自分が指導するのが緊張に震える可愛い新入社員ではなく、綺麗な顔立ちながら無表情を貫くプライドの高そうな隣りの方だと知ったとき、正直災難だと思った。
(頑張って声をかけ続けてよかった)
それでもポジティブな東は積極的に気難しそうな後輩に挨拶をしたり、休憩時間ぽつんとしているのを見てちょっとだけ声をかけたり、仕事のアドバイスをしたり、地道な努力を続けた。
あのときの東は必死で、人によっては鬱陶しい対応してしまったことを後になってから気づいて顔を青褪めさせた。
けど、過干渉を嫌がりそうな後輩は意外なほどそんな東に戸惑いながらも受け入れた。
そして、初めてはにかんだような笑顔を見たとき、東は自分が厄介な感情を持ってしまったことに気づいてしまったのだ。
「……あんま、のめり込むなよ」
勘のいい同期の忠告に東はしゅんと落ち込む。
「相手は人妻だからな。人妻。他人の奥さん」
「分かってるって…… マジで落ち込むから、そんな言わないでくれよ」
分かっていても、気持ちは止まらないから困る。
(……香山の旦那って、どんな奴なんだろう)
そんな東の疑問はその晩の飲み会で解消された。
人付き合いが苦手というよりも不器用な後輩を隣りに座らせ、東は酔い始めた周囲が自分達に関心を示さない状況に小さな幸せを感じた。
酒が苦手だという後輩を気遣うたびに、赤く染まった頬を小さく緩ませてくれる後輩の姿はいつもよりずっと無防備で。
酔い始めた東は改めて人妻である後輩の整った顔立ちに目を奪われた。
(やっぱ、好きだな……)
昼間の同期の忠告が浮かんでは消える。
誤魔化すように、東は囃し立てる周囲に笑顔を浮かべながら、心配する後輩の声を無視してジョッキを一気飲みした。
明日は二日酔いだなと思いながら。
そんなとき、場が奇妙にざわつくのを肌で感じた。
「優……?」
驚きに満ちた後輩の声に、東は顔を上げ、自分達を見下す男を見た。
「初めまして。妻を、迎えに来ました」
東の酔いは一気に醒めた。
場の視線が男に集まり、隣りの後輩が慌てたように声を上げるのを、東は静かに聞いていた。
こんな慌てた後輩の姿は初めてで、一人だけ場違いなはずなのに、のんびりと穏やかな雰囲気で周囲にすぐに馴染んだ男に東は敗北感を抱いた。
「妻がいつもお世話になっております」
敗北感に密かに打ちひしがれている間に何故か場に打ち解け、一杯どうかと誘われる男はとても上手く爽やかに交わしている。
後輩の不器用さを知っている東は素直に驚いた。
そして、家で後輩が自分の話をよくすることを知った。
東には大変世話になっていると、いつも頼りにしていると言う後輩の話を何故かその夫から聞かされている状況はとても複雑だ。
けど、酒のせいだけではなく顔を真っ赤にする後輩がとても可愛くて。
酔っていた東は素直に喜ぶことにした。
「そっか…… 俺、けっこう、香山にしたわれ、ってんだな……」
呂律が回らない情けなさすら気にならなかった。
「……東先輩には、いつも感謝していますよ」
恥ずかしそうに俯きながら、零す後輩。
それだけで、満足だ。
東はそれだけで報われた気がした。
「俺からもお礼を言わせてください」
やはり、無理をしすぎた。
「これからも妻をよろしくお願いします」
急激に回る酔い。
引きずり込まれるように、東は急激な眠気に成すすべもなかった。
満足したと思った。
けど、何故か心にぽっかり穴が空いた気がする。
「お前、羽柴さんと付き合ってるだろ」
「え……!?」
同期のその言葉に東は慌てて周囲を見やる。
つい昨日告白し、付き合ったばかりだと言うのに、何故知っているのかと小声で尋ねれば「誰でも分かる。分かりやすすぎ」と返された。
てっきり揶揄われるかと思ったが、同期は何故かほっとしたように笑った。
「まぁ、吹っ切れたみたいでよかったよ。社内恋愛と社内不倫だったら、社内恋愛の方がマシだもんな」
「は?」
同期のその台詞に東は眉を寄せる。
「一体、なんのことだよ」
しかし、その会話は近くを上司が通ったことで終わった。
何故かひっかかり、休憩時間に再度聞こうと思ったが、それはこっそりとお昼を一緒に食べようという彼女の誘いに浮かれ、忘れてしまった。
* *
泉は同期の香山優に複雑な気持ちを抱いていた。
チャラチャラしているように見せて、泉は人一倍負けん気が強く、プライドの高い男だ。
そんな泉よりも同期で入社した香山は仕事は出来る上、見た目も良く、何よりも人望があった。
初めは敵意すら抱いていたのに、その敵意が萎えるほど香山優という男は本当に良く出来た男だ。
知れば知るほど、敗北感よりも親しみが湧く。
呆れるほどいい男なのだ。
だが、その香山には唯一惜しいところがあると泉は思う。
「無理。合コンとか、無理だから」
「大丈夫だって。アリバイ工作なら手伝うからさー」
「アリバイって……」
苦笑いしながらも香山はきっぱりと告げる。
「何度誘われても無理」
「なんだよ。お前とこの奥さん、そんな怖いのかよ」
泉は香山の左手に光る指輪を呆れたように見る。
もったいないなと素直に思った。
香山はモテる。
既婚でも、いや、既婚だからか。
とにかく女好きの泉からすれば羨ましいほどモテるのだ。
「その歳で自由がないなんて、可哀相な奴」
人生の墓場というものに、この若さで突っ込む香山が理解できなかった。
「ばーか。墓場どころか、毎日天国だよ」
泉の嫌味にむしろ惚気るように返す香山にまた妙な敗北感が芽生えては消える。
(こいつと結婚した女って、どんだけハイスペックなんだよ……)
そんな泉の疑問は意外とあっさりと解決された。
嫁の存在だけではなく、酒が弱いところも香山の弱点だと知った頃には、もう泉の中で香山優というハイスペックな同期に対する敵対心はだいぶ沈んでいた。
仕方がない。
香山は良い奴すぎる。
泉みたいな性格の悪い男ですら自然とそう思うぐらいには
だが泉がプライドと嫉妬と出来の良い香山に対する親しみは未だに燻り合い、拗れている。
泉は頑固でしつこい男なのだ。
そのときは酒のせいもあり、泉は酔い潰れた香山を見て、唐突にこいつの嫁を見てやろうという好奇心が湧いた。
正直、下心は初めからあった。
元々泉は女好きの男嫌いで、プライドが高い。
それなのに、何故か香山にはここ最近生温かいような友情めいたものを抱いていることに気づいていた。
香山だから仕方がない、と受け入れる自分になんとなく反発したくなるのだ。
だから、酔っぱらった香山を支える泉を見て、驚き目を丸くする女に、香山が惚れている奥さんとやらを少し揶揄ってやりたいと思った。
(あー まぁ、美人っちゃ、美人?)
泉に謝りながら、迷惑をかけた夫を叱り、お茶を出してくれた同僚の妻は確かに整った顔をしていたし、胸もあった。
ただ、想像していたのとはちょっと違う。
勝手に香山の妻は小柄で癒し系、可愛いタイプだと思っていた。
しかし、そんな泉の考えは少しずつ薄れていく。
とても同年代とは思えない丁寧な言葉遣いや、気遣い。
その合間合間に酔い潰れた香山を心底心配し、困った様に、怒ったように叱りながらも愛しそうに介抱する姿は見ているだけで妙に胸の奥がくすぐったくなる。
何よりも、仕方がないなと言わんばかりに香山に小さく微笑むのを見たとき、泉は酔っていたせいもあるのか、その笑みが自分に向けられたような錯覚を抱いた。
胸がざわつく。
(……え、マジ?)
泉はありえないだろうと、誤作動を起こした自分の胸をとんとん叩いた。
そんな泉に体調が悪いのかと心配する同僚の妻。
「夫が、ご迷惑をおかけしました」
「あ、い、いや…… ははは」
「泉さんには、本当に感謝しています。……お酒が弱いのに、あんなになるまで飲むなんて」
「いやいや…… よくあることですから。俺も、以前あいつに介抱してもらったし…… お互いさまですよ。はははっ」
泉を親切な夫の同僚と認識し、無防備な笑みを見せる女に泉は戸惑った。
元々、目の前の同僚の妻をちょっと口説いてみたり、香山が浮気していると匂わせてみたり、それこそ、あわよくば……なんて、なかなかにゲスなことを考えていた。
「泉さんは、優しいんですね」
泉に感謝し、ほっとする女に心臓がざわつく。
泉の良心が痛むはずがない。
それなら、この感覚は、ヤバいものだ。
洒落にならない。
「……それは、奥さんの方、」
そのとき、香山が起きた。
ふらふらと、リビングに現れ、まだ酔っているのか満面の笑みで自分の妻に抱き着く。
「ふみか~」
焦り、慌てて、泉の視線を気にして顔を真っ赤にする女は初めて見たときに抱いた印象を裏切り、なんだか可愛らしかった。
「すき、ふみか、あいしてる」
「っ、もう……」
もう一度ソファーに寝かせようと香山を支え、女は困った様に微笑む。
「本当に、仕方がないんだから」
柔らかなその声は愛情に満ちていて。
泉の心を貫いた。
だが、翌朝自分の部屋で目が覚めた泉はもうそのことを忘れていた。
迷惑をかけたと、菓子折りを持って来た香山に笑いながら、泉はあの夜見た醜態を揶揄う。
「お前、あの後奥さんに随分と叱られただろう」
「な、なんで知ってるんだよ」
ケラケラと笑いながら、泉は香山に同情する。
「だって、お前の奥さん、めっちゃ怖そうだったし」
まぁ、いい奥さんだとは思うけど。
* * *
男は出かけるときに不安そうな表情を見せる妻に気づかないふりをした。
タクシーに乗りながら男は思い出す。
何年も音信不通のまま会わなかった親戚から届いた電話。
その後送られて来た招待状。
一度は握りつぶしたそれを、男は今手に取ってまじまじと見ていた。
捨てるはずだった。
男にはこの招待状を受け取る資格がない。
(結婚か…… そうか、もう、そんな歳か)
きっと、これを用意し送って来た者は何も知らないのだろう。
知っていたら、男を招待しようとはしないはずだ。
それにのこのこと出向く自分の厚顔無恥さに、男は拳を握りしめた。
それでも、会いたかった。
一目でいい。
成長したその姿が、見たかった。
今日、娘が結婚する。
一目だけ。
晴れ姿を見るだけでいい。
自分の存在を今日の主役に知らせるつもりはなかった。
せっかくの晴れの日だ。
泥を塗りたくない。
だが、気づけば男の足は控室を探そうとしている。
ここに来て、謝りたいという衝動に駆られる自分に男は焦り、それでも止まらなかった。
だから、きっと良かったのだ。
男の前に現れた、真っ白なタキシード姿の青年。
青年が無表情で自分を睨み、自分がその狂気的な赤に囚われたことは。
きっと、それで良かったのだ。
それで、きっと。
「駄目だ。せっかく、忘れたのに」
青年の口が淡々と動く。
まるで操り人形のように。
実際に青年、優の意識は淀み、本能が顕著していた。
もちろん、男がそれを知るはずもない。
くらくらと眩暈に襲われ、その場に膝つく男。
それを見下す優の赤い瞳はただただ冷たい。
「忘れろ。忘れるんだ。文香は忘れた。俺も忘れる」
男は苦し気に何かを言おうとしていたが、優には関係のないことだ。
例え、その口が哀し気に娘の名前を呼んでも。
「今更、父親面するなよ」
むしろ不快なだけである。
「お前はもう、いらない。文香には俺がいる」
優は忘れていた。
文香が忘れたことを優は覚えてはいけないから。
しかし、魂は覚えている。
初めて、文香を抱いた日。
文香は泣いた。
泣いて、優を拒み、そんな自分に絶望し、また更に泣いていた。
初めてそのとき優は、文香の弱った姿を見た。
痛々しく、今にも壊れそうな姿を。
「……やだ、やだやだっ、お願い、ゆるしてっ」
「文香……?」
「おねがい、触らないでっ やめて!」
あのとき、文香はパニックになっていた。
優を突き飛ばし、虚ろな目で、文香の口が動いたのを、あのときの優は見たのだ。
「おとうさん」
たった五文字。
それに込められた意味を、優をあのとき強く拒絶した意味を。
まだ高校生だった香山優は理解し、頭から水をぶちまけられたような衝撃を受けた。
だから優は知った。
祖母の通夜で。
文香が数年ぶりに再会した父に犯されそうになったことを。
未遂だと知っている。
そのときの文香の父は酷く酔っていたとも。
しかし、だからといって赦されるはずがない。
文香の過去を知った優は、全身の血管が沸騰するような、そんな怒りを覚えた。
初めて、殺意が湧いた。
「ご、めん…… 優、ごめん、私……っ」
「文香……」
文香の口から、ずっと今まで彼女が耐えていた苦しみを知った。
自分を傷つけ、優を拒絶する文香を強く抱きしめながら、優はただ顔を強張らせ、目を見開きながら、決してその顔を文香に見せないように必死に必死に文香を慰めた。
「ありがとう、優」
優は何もしていない。
ただ、馬鹿な理由で文香を抱こうとし、そして文香のトラウマを掘り起こした。
そんな優を責めず、文香は謝る。
「大丈夫よ、私は…… 平気、だから」
必死に笑顔を浮かべ、強がる文香に優は何かしてやりたいと思った。
「私は…… 負けたくないの」
何を、どうやって。
「ただの強がりだって分かってる…… こんなこと、優に話すつもりはなかった。私のことで悩んでほしくなかった」
ただ、哀しく痛々しい文香が可哀相で、どうにかその傷を癒してやりたい。
「ごめんね…… えっち、できなくて」
怯えないで欲しいと思った。
まだ幼い少年の優は、心の底から文香を助けたいと思ったのだ。
「……私は、きっと優に相応しくないよ」
「……文香」
そのとき、初めて優の目は燃えるように赤くなった。
「忘れよう」
そして、それがきっかけでもあった。
初めて開花した異能。
「忘れよう、全部。俺が、忘れさせてやる。文香を傷つける記憶なんて…… もう、思い出さなくていい」
ただ、好きな女の子の涙を止めたかった。
しかし、それが全ての始まり、崩壊への始まりでもあった。
その頃からだ。
優の、もう一つの血が騒めきだしたのは。
「あれ? 俺、何して……」
優は控室の前に立つ自分を不思議に思った。
そこへきょろきょろと不安気に周囲を見渡す母がやって来る。
「母さん?」
「あ、優……」
何故か、慌てたように優の視線から目を逸らす母に、優は首を傾げた。
「どうしたんだよ」
無邪気に問いかける息子に、母は結局曖昧な笑みを返した。
家に帰ると当たり前のように男の家族が出迎えてくれた。
「パパ、おかえり~」
「おかえりなさい、あなた」
可愛い息子に献身的な妻。
「ただいま」
当たり前の幸せ。
幸福な家族の姿。
自分にじゃれつく息子の頭を撫でる。
すると、きょとんと目を丸くして息子は男の顔を見上げた。
「パパ?」
何故だろう。
いつもの通り、大切な家族が、温かく男を迎えてくれるのに。
「なんで泣いてるの?」
心にぽっかりと、永遠に埋まらない穴が空いている。
男によく似た息子。
誰よりもよく知る息子の顔を、それからずっと、男は誰かの面影を探し続けた。
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