奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

40 ごちゃごちゃ煩いんだよ 前

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 文香は駅のホームに立っていた。

 色々と思い出が残る場所でもある。
 あのときと同じように人はほとんどいない。
 薄っすらと見える星を眺めながら、文香は一年前に馬鹿なことをしようとした自分を思い出していた。

 そして、初めてさくらに告白されたときのことも。






 文香は混乱していた。

 何がどうして、何故こんな状況になったのかも分からない。
 心臓がバクバクと激しく鳴り響き、気づけば全身が微かに震えている。

 いや、違う。
 この震えは文香のではない。

「ふみか」

 火傷しそうなほど熱い、さくらの身体が震えているのだ。

「ふみか」

 低くくて甘い声。
 もう既に耳に馴染んだ男の声が紡ぐ名前は一体誰のものか。
 言い慣れないせいか、幼く舌足らずなその名前に心臓がざわつく。

「好きだ」

 さくらは、誰に言っているのだろう。

「……いい加減、返事してよ」
「ひっ」
「…………何、その反応」

 ぐりぐりと旋毛に顎を載せられた文香はまるで逃げられないように抱き締めて来るさくらに焦った。
 ぐにっと頬を摘ままれ、近すぎるさくらの顔に挙動不審になるしかない。
 さくらのそのキラキラ輝く琥珀の瞳が妙に甘ったるく、その頬が赤く染まっているように見えるのはただの幻覚なのか。
 
「僕は君が好きだって言ってるんだよ? 僕に抱き着いて泣いて喜ぶべきだろう?」

 すりすりとさくらの頬が文香の頬を撫でる。
 その頬の熱に文香は現実を覚った。

「……なんで」

 さくらの首筋が間近にある。
 太く男らしい血管、形の良い顎と喉仏。
 さくらの唇が震えるのを、文香はまだ現状がよく分からないまま呆然と見つめた。

「そんなの、分かるわけないだろう」

 吐き捨てるように、それでいて苦しそうに呻くさくら。
 切なげに揺れる瞳は赤く輝いていた。

「僕が聞きたいぐらいだ…… くそ、」

 その赤に息を呑む。

「こんなの、僕は知らない……」

 さくらの胸の痛みが伝わって来る。
 冷たく凍えていた文香の身体にさくらの熱が移り、全身がまるで燃えるような錯覚を抱いた。
 熱くて、痛くて、苦しい。

「苦しくて、堪らない。可笑しくなりそうだ」

 熱のせいだけではない。

「なんで僕が…… こんな無様で惨めな思いをしなきゃいけないんだ」

 骨が軋むほど強く抱きしめられているせいだ。

「全部、君のせいだ」

 二人は今この瞬間全てを共有していた。

「僕をこんなにしたのは、君だ。僕の奴隷で、餌で…… ただの人間の君が僕を狂わせたんだ」

 わからない。
 何も分からず、ただ苦しくて、息もできない。

「責任とれよ……」

 二人しかいない、静まり返った駅のホームにさくらの小さくか細い、擦れた声が落ちて消えた。
 文香の耳に、心臓に、それは沁み込むというよりもじくじく爛れさせるような、そんな痛みに満ちた懇願だ。

「なんで、僕だけがこんなに熱くならなきゃいけないんだ」

 けど、その弱弱しさはほんの一瞬で。
 文香の髪をぐちゃぐちゃに掻き乱しながら、さくらは乱暴に文香の両頬を包み込む。
 鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけ、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
 文香には見慣れた表情だ。

「ムカつく。僕がこんなに苦しいのに、君は馬鹿なことをしようとするし。僕がこんなに熱くなっているのに、君の身体はまだ冷たい。僕だけが君に振り回されている。ずるいよ。僕だけが……」

 けど、その目尻はやはり赤く染まり、手も震えている。

「僕だけが、君を好きなんて」
「っ、」

 文香は必死に首を横に振って否定したかった。
 まだ文香は混乱している。
 さくらの言っていることを正しく理解することはできない。
 理解することを拒んでいる。

「違う……」

 けど、さくらの真っ直ぐな赤い揺らめきに、違うのだと伝えたかった。

「わたし、私……」 

 何も分かっていない。
 自分の気持ちすら、文香はまだ分かっていない。
 把握できていない。
 この返答がどういう意味を齎すのか。
 文香はまったく理解していなかった。

 ただ、今にも泣きそうに歪むさくらの顔を見ると堪らなく切なくて、胸がぎゅっと絞られる。

「私、も」

 文香は気づかない。 
 さくらの赤い宝石に映る文香は文香の潤んだ瞳に映るさくらとまったく同じであることを。

「わたし、も…… 好き」

 文香の瞳から静かに涙が一滴零れ、さくらの手を濡らす。

「さくらのことが…… 好きなの」

 爛々と輝く星空に照らされたその涙はどんな宝石よりも眩しく、さくらにとっては何よりも高価なものに思えた。

「……ごめんなさい」
「……なんで、そこで謝るんだよ」
「っ、だって……」

 何故文香が謝るのか、さくらには分からなかった。

「私は、最低だ…… さくらを好きになるなんて…… そんな資格ないのに……っ」

 謝る文香はやはり理解できない生き物だと思いながら、だからこそ面白くて見ていて飽きないのかもしれないと思うさくらは、きっともうどうにもならないぐらいに文香に惚れていた。
 今、この一瞬だけ価値観も世界観も倫理観も生態も、全てが全て噛み合わない二人が確かに繋がったことを。

「なんだよ、それ」

 けど、それはやはり一瞬の出来事だ。
 二人の心は容易くすれ違う。
 さくらには文香の絶望が分からないし、文香にはさくらの執着が分からない。

「考えれば、君が僕を好きなのは当たり前だ」

 ついさっきまであんなにも切ない眼差しで文香に懇願していた男は一体どこに行ったのか。

「僕を好きにならない女なんて、この世にいないからね」

 傲慢で艶やかな笑みを浮かべ、さくらは文香の手を自分の頬に摺り寄せ、その手首に今までで一番優しいキスをした。
 文香の頬が一気に火照り、またぽろっと涙が零れる。
 そんな文香を見たさくらは堪らずにその涙に濡れた眼球を舐めた。
 文香が驚き、口から間抜けな声が上がったことに更にむずむずして、腹の底、勃起するのとはまた違う、けどよく似た熱い塊が重く溜まる。

 今すぐにでも、文香の一番恥ずかしいところを。
 さくらが丁寧に処理してやったところにしゃぶりつき、泣かせてやりたい。

「……その中で、君だけが僕の寵愛を得られたんだ。これ以上の幸運はないだろう?」

 もう、今のさくらには欲望しかない。
 淫魔の衝動とは違う。
 それは馴染みのある性欲に似て、また違うものだ。

 このときさくらは初めて自身がたびたび感じていた不可解な衝動の正体を知った。
 
 人の精気を糧とする淫魔にとって性欲はつまり食欲である。
 だからこそ性に対する執着が強い。

 しかし、今のさくらが文香にだけ芽生える欲はそのどちらとも近く、まったく違うものだ。

 快楽のためでも、生きるためでもない。

 言葉にするとしたら、それは性愛、愛欲だろう。
 愛しているから湧き上がる衝動に、さくらは自分がとても間抜けに思えたし、それ以上に文香が怖ろしいとも思った。

(僕に惚れさせて、跪かせるはずだったのに……)

 文香はさくらを好きだと言った。
 さくらに惚れている。

 けど、きっと文香はさくらを簡単に捨てられる女だ。
 薄情ではなく、情が厚いからこそ。
 情が強く、だからこそ文香を逃がしたくないと思うさくらとは対照的かもしれない。

「君は、ただただ喜べばいい」

 けど、今はそんなことどうでもいい。
 さくらは今、文香に自分の熱を、匂いを、苦しい胸の内、狂喜する鼓動を伝えたくて堪らないのだ。
 文香と同化し、同じもの全てを共有したい。

「笑えよ。僕に愛される幸運に笑えばいいんだ」

 当たり前のことを言っただけなのに、ぽろぽろと子供みたいに泣く文香がさくらには不思議でならなかった。
 ただ、そんな文香にまた愛しさが湧く自分に少しだけ困った。

 このままではいつか文香に殺されてしまう。






 過去を思い出し、危うく乗り過ごすところだった。

(色々、あったな……)

 あのとき、文香は自分の不義理さに絶望し、箍が外れてしまった。
 一度は自殺しようとしていたせいか、どこかで文香の死に対する価値観、倫理観が歪んでしまったのかもしれない。
 ふらふらと死に誘われながら、まったく抵抗する気が起きなかった。
 二年前は死のうと必死だったが、一年前はまるで誘われるように自分の意思というものがなかった。
 それは二度も自分を救ったさくらも同じ意見だ。

「 あのときの君は死ぬことに必死だったのに、今の君はただ無気力だ。無気力のまま死のうとしている。ムカつく。どっちも甲乙つけがたいほどムカつく。今もムカムカするよ 」

 駅の改札口を出た文香は確かにそうだと納得する。

 少なくとも、二年前に屋上に上った文香はギリギリでマンションの周りに人がいないか確認しようとしていた。
 それでもあの嵐の夜では万が一のこともあっただろうし、マンションの所有者や近隣住民のことを考えれば迷惑でしかない。
 あのときもやはり文香は冷静ではなかったのだろう。

 しかし、ふらふらと電車の前に飛び出ようとする文香よりはマシだとも思う。
 損害など考えると果てしない。

(いや、どっちも駄目よ)

 文香はそんな過去を思い返しながら自分自身にツッコミを入れる。
 
 常識人だと散々言われてきたが、過去の文香はだいぶ非常識だ。

「 糞真面目な奴ほど、とち狂うときは酷いもんだよ 」

 さくらの言う通りである。
 やれやれとわざとらしく肩を竦めながら小馬鹿にされたが、文香はむしろ納得したし、感心もした。

「 人間の気持ちなんて淫魔(仮)の僕に分かるわけないだろう。そもそも考えたりもしないね。……君はいちいち今日食べたトマトの気持ちを考えるの? 君が喜々として食ってるそいつだって本当は砂糖がけじゃなくてマヨネーズと絡まって白濁に濡れたかったかもしれないじゃん。デザートじゃなくてサラダとして最期を迎えたかったかもしれないだろう? 」

 さくらは文香にとっては運命的なあの夜以降、会話にやたらと妙な理論を振りかざして来ることが増えた。
 
「 だって、僕と君って基本話が通じないじゃないか。仕方ないから、わざわざ君のために分かりやすく例えてるんだよ」

 正直、さくらはあのときから変わった。
 変わったことは知っていたが、まさかあの横暴なさくらにこんな気遣い精神があるとは思わなかった。
 詳しく聞くとさくらの兄弟からの助言らしい。
 人間と上手く付き合うためのコツだと聞いたが、そもそも文香はさくらに兄弟がいることに衝撃を受けた。

 思えばさくらは謎だらけだ。
 さくらの文香に対する執着のきっかけもよく知らないし、そもそもさくらはどれぐらい文香のことを知っているのか。

(名前呼ばれたときは…… びっくりしたな)

 まず、さくらが自分の名前を知っていたことに純粋に驚いた。
 初めて呼ばれたときは聞き間違いか、空耳か、都合の良い幻聴、幽霊でも憑いてるのかと思ったぐらいだ。

 好きな男に名前を呼ばれたことにときめかない女はいない。
 文香も初めはときめいた。
 しかし、そのときめきは長く続かなかった。



* *
  

 気づけばいつものアパートにいた。
 そして裸に剥かれていることに気づき、慌てる文香をさくらは一言だけで黙らせたのだ。

「ふみか」
「っ……!」

 たった、三文字。
 文香の耳に熱い吐息を零し、甘く擦れた声で愛撫するさくらはいつもと同じく強引で傲慢で、そのくせ例えようもなく甘い。
 
「ふみか、文香……」 
「っぁ、や、それ……」

 ちゅっちゅっと耳にキスされ、そんなこと今までしたこともなかったくせに急に頭まで撫でて来る。
 それだけで涙がじんわりと滲む。

 さくらの甘やかすような態度に戸惑い、そして混乱する。

 だって、それは。
 その仕草、その呼び名は、いけない。

 文香は必死にぞわぞわと震える自分を隠そうとした。
 けど、強張る文香に何を思ったのか、さくらはどこか照れ臭そうに文香の頭を撫でながら、心底愛し気に囁く。

「……好きだよ、文香」
「ぁ…… さ、さくら」
「文香……♡」

 さくらはこのとき腕の中にすっぽりと収まる裸の文香が愛しくて愛しくて、今まで無自覚に気づかないふりをして我慢していた分、もう脳内花畑状態だった。
 いつもなら文香のために制御するフェロモンもここぞとばかりに文香に迫る。
 傲慢で強引、狂暴なフェロモンが今は甘えた子犬のように文香の全身に纏わりつき、愛撫するようにねっとりと絡めとろうとしていた。

 くらりとする濃厚な匂い。

 だが、文香もまた無意識に蓋をしていたさくらへの好意を認識したせいか、それは悪臭ではなくなっていた。
 ただ、その濃すぎる愛のフェロモンに意識を揺さぶられ、喘ぐような吐息が自然と漏れる。
 さくらに処理された下半身もまた無防備なほど濡れ始めている。

「好き、俺の文香…… 可愛い」

 人格が変わったのかと疑いたくなるほどの熱っぽい愛の告白は、なんとも幼稚でストレートだ。
 さくらもまた余裕などないのだ。
 本当なら、もっとスマートに文香を口説きたいと思っていても、初恋に浮かれる男には難しい。
 何せ、今夜二人は初めて互いの気持ちを知ったのだ。

「君が僕の最初で最後の女だ」

 普通なら盛りに盛り上がる。 

「ぁ……っ」

 だが、タイミングが悪かった。

 さくらの強烈なまでのフェロモンは文香の意識を朦朧とさせ、天性の美声で囁かれる愛は文香の理性を奪う。
 この一年間。
 いや、高校を卒業してからというもの、文香の名前を呼ぶ者は一人しかいなかった。

 文香、と。

 たった三文字の名前を呼ぶのは、愛を囁き、セックスするときに名前を呼ぶ男は一人しかいなかった。

 くらくらする。
 さくらの毒に等しい愛の香りに、文香の理性が掻き消される。

「好きだよ、文香」

 今、自分を抱きしめ、唇にキスしようとしている男が誰か分からなくなる。

「い、や……」
「文香……?」

 そこからの記憶は正直あやふやである。

「お願い、やめて……っ」

 ただ、涙で歪んだ視界に最後に映ったさくらの目は丸く見開かれ、途轍もない罪悪感だけは悪夢のように残った。

「触らないで……」

 優。

 その名前が自分の口から飛び出たとき、文香は自分を呪った。

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