奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

39 観念しろ

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 一年ぶりに会う恭一は一年前と同じように堅苦しいスーツ姿だ。
 紅茶を頼む姿も変わらない。
 あまりにも変わらない姿、光景に文香は強い既視感を抱いた。

「久しぶりだな」
「……あまり久しぶりという感じもしませんけど」

 以前も似たようなやりとりをした気がする。
 そのせいか、恭一と一年ぶりにこうして再会しているという自覚や実感が薄かった。

「渡辺さんは、ちっとも変わらないですね」
「……そう見えるか?」
「ええ。少なくとも、表面上は」

 一年前と違い、こうして自分で話題を振ることに文香は違和感を覚えたが、それはきっと過去の自分を知る恭一の冷静な眼差しに落ち着かないからだ。
 気恥ずかしいような、それでいて居た堪れないような。

 過去をなぞった、軽い世間話のつもりだった。

 けど、その一瞬だけ二人に漂っていた不気味なほどの穏やかさが一瞬だけ揺れたような気がした。
 凪いだ水面に花びらが落ちたような。
 それは本当に些細な揺れであり、それほど悪いものでもなかった。

「そうか…… そう見えるのなら、俺もまだまだ自覚が足りないのかもしれんな」

 恭一の顔がどこか皮肉気に歪む。
 だが、その口調は穏やかだ。

「『自覚』……?」
「ああ。父親としての自覚だ」

 文香は、目の前の冷静沈着に見える、悪く言えば冷血そうに見える男は意外と不器用なのかもしれないと唐突に思った。

「子供が産まれた」

 淡々と答える恭一の表情は文香が一番よく見る無機質なものへと戻っていた。
 恭一の声は低く、ついつい耳を傾けたくなる。
 人の上に立ち、命令することに慣れた男の声だ。
 甘く絡めとるような、文香のよく知りよく馴染んでいる男とはまた違う引力があった。
 
「俺の子だ」

 ふいに浮かんだ恋人の姿に一瞬だけ文香の反応は遅れたが、すぐにすとんっと頭の中、心の中で整理する。

「おめでとうございます」

 不思議なほど動揺はしなかった。 
 誰の子だと、咄嗟に不躾な質問もしなかった。
 ただ、自然と苦笑いが浮かぶ。
 恭一を責めるつもりはないが、随分と唐突な報告だ。
 今の文香なら冷静に受け止められるが、これがもしも二年前の自分、または一年前の自分が聞いたらどう思うか。
 
 恭一と文香の関係はデリケートだ。
 その繊細な関係に随分と危ういものを放り込んだなと文香は率直に思った。

 恭一らしくない、なんて。
 よく知りもしないのに、文香はそんな違和感を抱いた。

 過去のいざこざを考えれば、恭一なら黙っていそうなことなのに。

「…………」

 再会した早々、妙な沈黙が二人の間に降り積もる。
 互いに飲み物にゆっくりと口をつける二人は傍から見ると似た者同士だ。
 どんな関係だと聞かれても、きっと永遠に答えが見つからない。






 娘が生まれた。
 
 赤ん坊に接したことなどほとんどない恭一はミルクの香りに包まれ、ふにゃふにゃと柔らかく、今にも崩れそうな軟弱な手触りの生き物に未だ戸惑っている。
 戸惑い、そして葛藤を抱えていた。

 娘、桜は志穂によく似た面差しのとても愛らしい子だ。
 けど意思の強い眉や好奇心旺盛な性格は昔の恭一にそっくりだと使用人達は言う。
 恭一はそう言われるたびに、父親扱いされるたびに、無表情の顔の下で葛藤した。
 そして恭一の顔を見るたびにくずり、母親を求めて泣く娘の眩しいほどの本能を、命の温もりと熱を感じるたびに強い罪悪感が芽生える。

 恭一は桜と、そして文香に対して罪の意識を抱き、後ろめたさを感じていた。
 そして、そんな感情を抱く自分に強い嫌悪も抱いている。
 
 志穂が恭一の子を身籠った事実を受け入れたとき、恭一は中絶を考えた。
 
 それは残酷だが、ごく自然な発想でもあった。
 志穂がいくら望んだとしても、恭一の同意なしに子供を産むことを認めるわけにはいかない。
 恭一には拒絶する権利がある。
 いくら志穂が嘆き悲しんだとしても、恭一にも父親になるならないの選択の自由があるのだ。

 だが、それと同時に自分自身の迂闊さに自責の念もあった。

 志穂を抱かなかった。
 しかし、性処理には使った。
 志穂が強請ったからだと言って、それを受け入れたのは恭一である。
 志穂の手の中に精を出したのは恭一自身だ。

 結局、恭一も男としての性に負けたに過ぎない。

 避妊したとしても、失敗することもある。
 本当に子を望まないのなら、性的な交わりなど一切しなければいい。
 どんなに言い訳しても、志穂を娼婦のように扱った恭一は心のどこかで自分を裏切り、自分が一番毛嫌いしている女に成り下がった妻を見下し、責めていたのだ。
 そして、まんまと志穂に踊らされた。

 拘束され、あるいは脅されてレイプされたわけでもない。
 最終的に恭一は自分の意思で、自分の油断のせいで志穂の罠に嵌りに行ったのだ。

 そんな愚かな男のせいで生まれてしまった命。
 
 恭一には拒絶する権利がある。
 しかし、恭一がもっと徹底的に志穂を拒み、甘い顔さえ見せなければそもそも妊娠することもなかった。
 
 恭一は真面目過ぎた。
 自分に厳しすぎたのだ。

「恭一さんは、この子が嫌い?」

 恭一の葛藤、そして迷いを知りながらも志穂の笑みは変わらない。
 むしろ日々薔薇色に色づく頬やとろんとした瞳は夢見る乙女のように可憐であった。
 
 中絶を考える夫を警戒することもなく、その手を取った。
 そして、自身の胎に当てる。

 恭一はその手を振り払うことができなかった。
 万が一腹に手が強く当たる危険性を考えたからだ。

 咄嗟に、そんなことを考えたことに恭一は内心で愕然とした。
 もう、答えなど出ているではないか。
 
 初めから分かっていたことだ。
 ただ気づくのが遅すぎた。

「恭一さんは、この子を殺すの?」 

 初めから、恭一は志穂の掌で転がされていたのだ。

「この子、殺すの?」

 刻一刻と時間は過ぎ、早く決断しなければならない。
 しかし、志穂が大事に大事に撫でる腹はそれからも膨らみ続け、そしてもう後戻りできなくなっていた。

 そして、子供が産まれた。
  
 

* *


 恭一は一年ぶりに会う文香を静かに眺めた。
 子供が産まれたなど、実に愚かな話をしたと恭一の胸に苦い気持ちが沸き上がる。

 言うつもりなどなかった。

 文香にとってはまったくおめでたいことではない。
 それでも不快な感情一つ見せずに祝いの言葉を贈る文香に恭一は自分のどうしようもなさにただただ呆れた。

 何故、文香に娘のことを伝えたのか。

 あんなにも戸惑い、葛藤し。
 その誕生を阻止しようとしていた我が子を、今の恭一は心の底から愛しいと思っている。
 それは父親としての本能か。
 最低限の義務は果たし、後は関わらないつもりでいた。
 それなのに、泣かれると分かっていながらなんとかあやそうと必死な自分がいる。
 穏やかな寝息を感じてほっとする自分がいる。
 どんどん重くなる体、人らしくなってくる表情、恭一を認識してぐずるところまで可愛いなんて思っている自分がいるのだ。

 自分にこんな父性があるなんて今でも信じられない。

 だからこそ、強い罪悪感が湧く。
 娘を愛しいと自覚すればするほど、その成長を喜ぶたびに、恭一は自分が初めこの子の存在を疎い、拒絶し、嫌悪していた事実を思い出す。
 そんな自分に娘を愛する資格などないのではないか。
 愛しく思い、その寝顔に気持ちが穏やかになるのを自覚するたびに苦い気持ちが沸き上がる。
 それでも、もう恭一には我が子を知らなかった頃の自分、懸命に泣き、乳を飲む小さな命を愛すことを知らなかった頃の自分には戻れなかった。
 戻りたくないと思った。

 もう、今の恭一には桜なしの人生など考えられなかった。

 決して不幸にしたくない。
 何不自由なく、健やかに成長して欲しい。
 身勝手な両親など知らず、ただ当たり前のように誕生を望まれ、愛されていると、そう疑わないように大事に大事に、恭一の人生をかけて大事に守ってやりたいと思った。
 
 志穂への確執はもう永遠に溶けないと思った。
 だが、恭一は桜を愛することを誓ったのだ。
 
 娘のために母親は必要だ。

 恭一は自分の胸の奥にある葛藤や感情、嫌悪を全て押し隠すことに決めた。 
 身勝手な恭一と志穂のエゴで生まれ、何も知らず当たり前のようにぷくぷくと肥えていく娘の頬をこっそりと撫でながら、恭一はただの親としてこれから生きていこうと誓った。

 そう、誓ったのに。

 恭一はまだ男としての自分を捨てきれなかったのかもしれない。
 振り切るためにこうして文香と会い、また娘の存在を告げたのかもしれない。
 もしかしたら、娘の成長を喜び、母となった志穂を受け入れようとしていることが後ろめたかったのかもしれない。

「もしも……」

 いや、これはただの未練だ。
 どうしようもなく情けない男の。

「もしも、子供が産まれなかったら、」

 恭一の唐突な話し出しに文香は戸惑うように眉を寄せる。
 表情筋はいつもの通り動かない。
 別に好きで無表情なわけではなく、これはもうくせだ。

「妻が妊娠しなかったら、」

 自分を取り繕うことには慣れている。


「俺は、君を口説きたかった」


 恭一は自分が最低なことを言っている自覚があったが、文香には嫌われてもいいからどうしても聞いておきたかった。

「……そう言ったら、どうする?」

 所詮、ただの未練である。
 しかし恭一にとっては一つのケジメでもあった。

「……は?」

 眉間の皺を険しくさせ、徐々に言葉の意味を理解したのか、顔を歪ませる文香に恭一は内心で笑った。

「……そういう冗談は悪趣味だと思います」

 文香には本当に申し訳ないと思うが、恭一は気づかない内に追い詰められていた。
 
「冗談、か」

 このときの恭一は父親であろうと決意し、全てに堪えようと誓った。
 それでも、恭一もまた人であり、初めて父親になる。
 始まりは望まない形での、最悪のスタートだ。
 簡単に割り切れるはずもない。

 また、恭一には見本となる父親がいなかった。
 そして、自分の中には自分が最も嫌悪する男の血が流れている。
 それは恭一にとっての恐怖だ。
 恭一は自分に厳しい。
 自分を戒めようとする。
 
 それはとても苦しく、息が詰まるものだ。
 恭一の心は常に張りつめている。

 だからこそ、二年前と変わらない文香に安心し、暴走してしまった。
 つい、その真っ直ぐな瞳に救いを求めてしまった。

 斬り捨てて欲しかった。

「なら、ただの冗談だと思って、答えてくれないか?」

 変わらない文香に、花開く前の一つの感情を摘み取って欲しかった。
 恭一とは違う道を、恭一の知らない道を選んだ文香に。

 、という馬鹿な男の未練をどうか許して欲しい。

「……仮に、それが冗談だとして」

 冷めた表情で文香は呆れたように、また軽蔑したように恭一を見据える。
 
「そんな冗談を言うような人に口説かれても迷惑なだけです」

 文香という女は怒りに満ちたときの表情が一番艶やかだと恭一はこっそり思っている。
 最も恭一の目を引くのはその真っ直ぐな瞳だ。

「……女一人で勝手に子供が出来たような、そんな無責任なことを考えているような男は嫌いです」

 何よりも恭一を安心させるのは、文香のその愚直なまでの心の持ちようだ。
 
「……そうだな。君の言う通り、そんな男は最低だ」

 初めは、似ていると思った。
 母の面影、境遇を重ねていた。

 けど、知れば知るほど、今は自分と似たその価値観や思考、どうしようもなく目につく不器用さに、惹かれずにはいられなかった。



 文香の軽蔑を込めた眼差しに、恭一は安堵した。
 
 恭一は誰かに責めて欲しかったのかもしれない。
 文香にとっては迷惑極まりない、随分と自分勝手な衝動だという自覚はある。

 やはり、自分はエゴの塊である。

(……志穂と似合いかもしれんな)

 それなら、耐えられるはずだ。
 皮肉に歪む口元を恭一は紅茶で誤魔化した。

 これ以上文香に不愉快な思いをしてほしくなかった。



* * *


 去り際の文香は一年前と違い、不愉快そうなオーラを漂わせていた。
 間違いなく恭一の「冗談」のせいである。

 文香の性格からすれば気分は良くないだろう。
 また、あの志穂との子供というデリケートな話題のせいもある。

 ただ、それにしては文香の反応は少し極端な気もした。
 彼女らしくないなどと、恭一が思ってしまう程度には。

 もしかしたら、文香も恭一に似た何かを抱えているのもしれない。

「すまない。今日は不愉快な思いをさせてしまった」
「……いえ、ただの冗談なのに上手く流せない私がいけないんです」

 そう言いながらも文香の表情は険しい。

「……また、次も会ってくれるか?」

 対する恭一はいつもの通り無表情だ。
 しかし、その声は少しだけ哀願に似た響きが宿っている。
 当の文香は時間を気にしている風で気づいてはいないが。

「……次になってみないと、わかりません」

 短い逢瀬。
 意味もなく、生産性もない。
 文香にとってはただ不愉快に終わった再会だろう。

 それでも否定しなかったことに恭一は内心でほっとした。

 恭一自身、一体いつまでこんなことを続けるのか分からない。
 ただ、文香のことが心配だ。
 安アパートに住み、まともに定職に就いていない女を心配するのは当たり前である。

(いや…… 所詮言い訳だな)

 送るという恭一の言葉を拒否し、夕暮れの中消えていく文香の背中。
 結局、恭一は文香との繋がりを失いたくないのだ。

 可能性は自分から潰した。
 けど、見守るだけなら、許して欲しいと身勝手な言い訳をしている。
 
(だが、こんな気持ちでは駄目だ)

 次に会うのは、また来年か。
 それまでにこの気持ちをどうにかしなければ。

 淡い、この想いを。


 
 そんなことを恭一が考えていると、唐突に背後から低く、妙に心臓に悪い甘い声が投げかけられた。

「ねぇ」

 鼻腔を刺激する甘い香りに、恭一は反射的に振り向く。

「君、あの子に惚れてるの?」

 そこにいたのは絶世と称してもいいほどの禍々しい笑みを浮かべた美男子だ。
 
「……誰だ?」

 恭一よりも若く、それでいて圧倒されるような、意識を保たないと呑み込まれそうな異質な雰囲気を纏う男。
 夕焼けを呑み込む紫色の空。
 それを背景にする男。

「君に教える名前なんてないよ」

 魅惑的な声。
 魅惑的な笑み。

 同性の恭一ですら意識を持って行かれそうな、怖ろしいぐらいの色気にその男は満ちていた。

 しかし、次の男の台詞に恭一は目を見開く。
 男の色気とか美しさとかに意識を奪われている暇もなかった。

「僕はあの子の恋人さ。君が物欲しそうに見ていた女の、ね」

 あの子とは誰のことだと聞き返す必要はなかった。
 恭一は直感的に覚った。
 しかし、目の前の男は優越感に満ちた笑みを浮かべ、なんとも厭らしく口元を歪める。

 人を小馬鹿にしたような笑みに、恭一は眉を顰めた。

「君がさっきから物欲しそうに見ていた女は僕のものだ」
「君が……?」

 名前を出さずとも、互いの眼差しがぶつかり合うだけで十分だ。
 恭一の胸にじわじわと、懐かしい感情が忍び寄る。
 いつだってそうだ。
 文香と出会ってから、恭一は時折懐かしい感情に振り回される。
 辛いながらも希望を持つことができた若い頃の青春が蘇るのだ。

 それを決して表に出さずに、文香に迷惑にならないようにずっと内に秘めていた。

 しかし、恭一はその禁を破り、歪んだ不器用な形でその欠片を文香に見せてしまった。
 その直後のことだ。

「そうさ。僕は優しいからね。君がこれ以上哀れな期待を抱かないよう、忠告してやろうと思ったんだ」
「……」
「あとは牽制かな?」
「……なるほどな」

 恭一は名前も知らない男の言葉を何故か信じた。
 男の醸し出すオーラ、また初めて嗅ぐ極上の香水に、直感めいたものを抱いたのだ。

 理屈ではない確信だというのに、猜疑心はまったく湧かない。
 そのことに薄気味悪さも感じた。

「そうか、恋人…… 恋人、」

 恭一は動揺を隠し、次いで文香の周りを調べたときに恋人らしき存在はなかったことを思い出す。
 しかし、そこまで詳細に調べたわけでもない。

「……恋人なら、仕方ないか」

 これがもしも文香が再婚したという話ならすぐに分かるのに。
 嫌味でもなく、恭一は素で呟いた。
 他意はなく、それだけ恭一は内心でショックを受け、そしてケジメをつけたと思っていた自分がまったくケジメがついていなことに頭を抱えたくなった。

「……は?」

 だからこそ、目の前で余裕ぶっこいていた男の美貌がぴくっと歪んだことに気づかなかった。
 悍ましいほどの低い声にも。

 気づかず、恭一はショックを引きずりながらも頭を下げた。

「すまない。君達の間に妙な波風を立てるつもりはない。誤解しないでくれ。俺と彼女の関係はクリーンそのものだ。やましいことは一つもない」
「……」
「既婚の俺と、君という恋人がいる彼女がこうして二人で会うのは世間体としても良くない。俺の配慮不足のせいだ。どうか、彼女を責めないで欲しい」

 深々と頭を下げる恭一に男はあからさまに舌打ちする。

 恭一は迂闊な自分を呪った。
 そして知らなかったとはいえ恋人がいる文香にあんな試すような冗談(という名を被った本気)を投げてしまった自分を恥じた。

「……君、悔しくないわけ? 惚れた女がもう他の男のものだったんだ。もっと怒り狂えよ」

 頭を下げたままの恭一に男の声が頭上に降り注ぐ。

「……俺にその資格はない」

 文香に対して疚しい気持ちなどないと否定すればいい。
 しかし目の前の男には嘘が通じないと思ったし、恭一にはそんな嘘はつけられなかった。

「妻子がいる身で不相応な感情を抱いた不誠実な男だ。こうして、未練がましく律儀な彼女を誘い、一目会いたいと、話がしたいだけの愚かな男でしかない」

 もちろん、それだけではない。
 文香の呼吸を確かめるという、義務に似た使命感があった。

 それを男に話す気はないし、永遠に恭一の中の秘密にする気だ。

「君に、そして彼女にも不愉快な思いをさせてしまったことは…… 本当に申し訳ないと思っている。どうか、彼女を疑わないで欲しい。責めないでやってくれ」

 恭一はたぶん焦っていた。
 自分のせいで文香にいらぬ疑いがかかる事、また文香に恋人がいたこと。
 何よりも目の前の男の雰囲気に呑み込まれそうになる理性に本能が焦っていた。

「……ふみちゃんと同じタイプか」

 ぼそっと呟かれた男の台詞に恭一は苦しみに堪えながら、怪訝な表情を浮かべる。

「まったく似てないけど、妙に共通点があるところがムカつく」

 恭一に近づき、男は誰もが羨み、見惚れるような美貌を苦々しく歪ませた。
 同じぐらいの高さの目線。
 宝石のような琥珀の瞳が妖しく揺らめき、思わず息が止まった。

 じろじろと恭一の全身を眺め、嗅ぐような仕草を見せる男は野生の豹のようである。
 それなら恭一は猛獣に睨みつけられた獲物か。
 何故かその想像が一番しっくり来る。

「つまんない男だ」

 一瞬、その瞳が赤く見えたのは気のせいか。

「……それなのに、君はふみちゃんを理解できるんだね」

 切なげに揺れたように見えたのはただの錯覚なのか。

「下心のないプラトニックな愛なんて僕には永遠に理解できないけど、一番性質が悪いってことは分かるよ。物凄く目障りだ。出来ることなら、今ここで君を消しちゃいたいぐらい」

 不穏な台詞を吐き捨てる男に恐怖心は湧かなかった。

「……そうすると、ふみちゃんが悲しむからね」

 先ほどまでの本能的な警戒心が徐々に薄れているのは、この怪しい男の目が恭一ではない何かを映し、仕方がないなと、甘やかすように微笑んでいるからだろう。

「ふみちゃんの泣き顔は大好物だけど、君なんかのために泣いたりしたら最悪だからね」

 見逃してやるよと、男は傲慢に言った。

「僕は寛大だからね。妻のちょっとした息抜きぐらい大目に見るさ」
「……妻?」

 急に晴れ晴れとした笑みを浮かべた男に見惚れない恭一の精神力は相当強い。
 呑み込まれずに正常を保つだけでも凄いことだ。
 もちろん恭一はそんなことを知らない。

 ただ当たり前のように男の口から飛び出た台詞に動揺する自分の若さに驚いた。

「ただの恋人だとでも思った? 残念だね。ふみちゃんは僕の奥さんだから」

 もちろん恭一は知らない。
 男の台詞の後に「予定」と入る事を。

 ついでに自分が妙な後押しをしてしまったことも知らない。
 
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