奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

38 死んだって無駄なんだから

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 さくらの心は荒れに荒れていた。

 初めて敬愛する兄弟に反発したこと、またその兄弟から言われた言葉があまりにもショックだったこと。
 
 そんな荒れに荒れていたさくらの心が一瞬にして凪いだのは、目の前の光景を見たからだ。
 果たしてそのときのさくらを凪いだと表現していいのか、多大な疑問は残る。

 熱く燃え上がっていたさくらの魂は、その光景を見た瞬間、一気に沈静化された。
 いや、沈静化どころではなく、凍り付いたのだ。

 目の前の、ありえない光景。
 さくらの奴隷が、女が、まるで夢遊病者のように、ホームから落ちようとしている。
 迫り来る電車のライトがさくらの目を痛いほど刺した。

 考えるよりも前に、本能が動いた。
 頭からすっぽりと色んなものが転がり落ち、代わりに木霊したのは朗々とした兄弟の言葉だ。






「現実を認めろ」

 全裸のまま、がっしりとさくらの両肩を掴み、まるで逃がさないと言わんばかりの怪力でさくらをその場に留まらせた鳴海。

「お前は彼女に惚れている」

 初め、本気で兄弟の言っている意味が理解できなかった。
 ついに頭が可笑しくなったのかと、敬愛しているはずの兄弟にそんなことを思うぐらいには、さくらはパニックになった。

「惚れてる……? 惚れてるって、誰が? 何を?」

 認められるはずがない。
 それは、プライドの高いさくらにとってとんでもない侮辱だ。
 殺意すら滲ませるさくらの危険なオーラを前に、全裸の鳴海は陽気に笑うだけ。
 「ほらほら。そんな顔を真っ赤にして否定しても無駄だぞ~認めちまえよ~」と火に油どころではない火薬を注ぐ鳴海に気づけばさくらは拳を振り上げていた。

「ありえないよ! そんな…… 馬鹿なことがあるもんか!」 
 
 叫びというよりも、獣の絶叫、唸り声に近い。
 空気がビリビリと震え、さくらの怒りに近い混乱に巻き込まれ、千切れていくようだ。

 さくらの瞳は真っ赤に濡れていた。

「あいつに惚れてる……? この、僕が?」

 興奮し、頭を掻きむしるさくらは自慢の顔に赤い蚯蚓腫れが出来ることも構わず、また気づかずに爪で引っ掻ける。
 ヒステリックな仕草と裏腹に、その眼光は鋭く、唸る声はひたから獰猛だ。
 そんなさくらの怖ろしい姿を見ても、鳴海はのほほんとしていた。

「そんなわけないだろう? ははは、この僕が、なんであんな女を……」

 初めに言った通り、さくらの顔は真っ赤に、染まっていた。
 地獄の悪鬼さながらの形相をしていても、付き合いの長い鳴海には分かる。

「だって、あいつはただの人間どころか、そもそも色気もないし…… 僕のタイプじゃないし…… あいつはどっちかっていうと兄弟のタイプだし……」

 さくらが赤面する原因が怒りではないことを。

「面倒で厄介な奴だし……」

 ぶつぶつと混乱のまま呟くさくらは普段の優雅な王様オーラが嘘のように暗くじめじめしている。
 しかし、その湿っぽさは徐々に熱を帯びていく。
 鳴海にはしっかりとさくらの魂が沸騰していくのが分かった。

「頑固で、馬鹿みたいに糞真面目で、根暗で陰険で、無駄に自分に厳しくて…… 見てて、イライラするぐらいに。とにかく扱いづらい女なんだよ! ただの人間のくせに、僕の餌にもなれないポンコツのくせに、僕に迷惑ばかりかけて……」

 それだけ面倒な存在ならさっさと捨てればいいだろうという言葉が危うく口から出そうになったが、鳴海は賢明にも我慢した。
 今度は拳ではなく頭突きでも来そうなほど、さくらの纏うオーラは危険だ。
 
「自分を知らない。自分すら、愛せない。そんな枯れた女なんだ」

 鳴海は鏡でも持って来たい気分だ。
 今のさくらの赤く濡れた瞳がどれだけ艶やかに、そして切なげに揺れているのか、見せてやりたい。

「死ぬほど、不器用で、僕をイラつかせる…… 頑固で意地っ張りで、そのくせ死んだって治らないぐらい、馬鹿なんだ」

 一体、どの口が言うのだろう。

「料理下手だし…… 冗談一つも言えないし、真面目なだけで面白味もないし…… 僕とは何もかもが違う。僕は、あの女のことが理解できない。僕の奴隷のくせに、あの女は僕のことを理解できない。いつだって、的外れなこと考えて、勘違いして、僕に迷惑をかけてることにも無自覚だ」

 だんだんと俯くさくらの声はどこか不安気だ。
 傲慢で我儘。
 老若男女全てを魅了し、支配することを当然とするさくらを、あのさくらをここまで堕とした例の彼女を、鳴海は素直に感心した。

 それと同時に思う。
 そんな顔で、そんな声で、そんな眼差しで。
 
「そんな彼女を、お前は愛したんだな」

 愛していないなんて、よく言える。
 
「理由なんてどうでもいいだろう。惚れたなら、惚れた。欲しいのなら欲しい。それでいいじゃないか。難しく考えるな」
「……だって、そんな、あいつは人間で、餌だし」
「相手が人間だからこそ、下手に意地を張るのはやめなさい」

 未だ抵抗するさくらに鳴海は微笑ましいと思いながらも、口調を厳しくする。

「忘れるなよ、さくら。お前が大事にして、ただただ甘やかして堕とそうとしている女は人間だってことを。俺達とは違う、弱くて脆くて、すぐに死んでしまう人間だということを」


 
* *

 
 レストランから飛び出したさくらの美しい顔貌は禍々しく歪み、今にも憤死しそうなほど真っ赤になっていた。
 葛藤に葛藤、更に葛藤しながらもさくらは認めたくないが現状自分を悩ましている奴隷を迎えに行った。
 既にマーキングした奴隷の匂いを辿る合間も、さくらは鬱々と、そして妙に浮つく高揚感に翻弄された。
 
 思い返せば、あの女はただの人間のくせに、よくさくらを翻弄する。
 それなのに自覚がない。
 だからムカつくのだ。

 けど、今はそんなことを考えている余裕もなかった。

 ぽわぽわ~と脳みそが馬鹿になったような、妙な甘ったるさと居心地の悪さ。
 そして逸る心が求めるのはただ一人。
 奴隷の匂いが強くなればなるほど、距離が近づけば近づくほど、さくらは馬鹿になっていく。
 認めたくないと意地を張る隙間もないほど、気づけばさくらの頭の中、心の中、魂は求めていた。
 
 自分を制御することができない。

 さくらにとって、それはとても恐ろしいことだ。
 
 そんなパニックを引きずるさくらの前で、全ての元凶である女がホームから落ちようとしている。

 考える前に身体が動くというよりも、理解する前にさくらはキレた。

(ふざけるな……!)
 
 全てがスローモーションのように見えるのは、人外のさくらの力が肉体や脳への負荷を顧みずにリミッターを解除したせいだ。

(また、)

 さくらは手を伸ばす。
 あの夜とは違う。
 けど、思い出さずにはいられない。

 さくらの目の前で、さくらの手からすり抜けた女を。
 最期までさくらを見ずに、落ちた女の笑みが浮かぶ。
 忘れるはずがない。

(僕から、逃げるのか)

 女のことで、さくらが覚えていないことなど、ひとつもない。


 女はさくらに気づかない。
 さくらは腕を伸ばしたが、先に女に届いたのは腕ではなく、

「ふみか」

 信じられないほど切羽つまった、さくらの声だ。
 
 




 さくらとて万能ではない。
 魔法使いとは一番縁遠い存在のくせに、まるで魔法使いのような彼の兄弟とは違う。
 まだまださくらは未熟な存在だ。
 自分一人では人間の女一人修復できないぐらいには。

 そんな、さくらの精神を目の前の人間の女は容易く摩耗させる。
 
 さくらの方がずっと格が上の存在なのに。
 何故、どうして。

 どうして、さくらの腕の中にすっぽりと収まる女はこんなにも簡単にさくらを揺さぶるのだろう。
 何故なのか。
 
 何世紀も生きた鳴海は理屈などないと言った。
 理屈ではないのが恋だと。

 それなら、恋というのはとても理不尽で不条理だ。
 まるで全てを奪われ、痺れるようなままならさ。

 恋とは素晴らしく、愛は尊いと、兄弟は言っていた。
 けど、この胸の内で暴れまわる痛みや苛立ちが素晴らしいものだとはとても思えない。

 けど、鳴海の兄弟は嘘をつかない。

 酷い話だ。
 本当に、酷い話だ。

「さ、くら……?」

 兄弟の言っていた素晴らしいものが、こんなにも醜く爛れ、さくらを苦しめるのだ。
 原因は、この女にある。
 なんて、憎ったらしいんだろう。

 夜風に当たったせいか、文香の頬はとても冷えていた。
 熱く、火照たさくらからすれば、まるで氷のように。
 
 息を乱し、身体中信じられないほど熱くなっているさくらとは対照的だ。

 それがまた妙に憎ったらしい。

「さくら……?」

 腕の中に閉じ込めても、その髪を乱しても、首筋に、心臓に頬を摺り寄せても、足りない。
 認めたくない。
 認めたくないが、さくらは今、恐怖している。

「……何、やってんだよ」

 腕の中にいる、すぐに壊れてしまう不良品を必死に抱き潰さないように全神経を使うほど。
 冷たい文香の身体に自分の熱を伝えたい。
 自分と同じ熱を共有して欲しいと思った。

「本当、君って馬鹿」

 死んだって治らないほど、文香は馬鹿だ。
 電車が通り過ぎ、夜のホームには二人しかいない。
 冷たい風がより静けさを強調し、さくらは自分の心臓の音が文香に聞こえているのではないかと思った。

 強張った身体。
 以前よりも柔らかくなった肢体。
 
 それがどれだけ脆いのかをさくらは知っている。
 よく、知っている。

「……君なんてその内あっさり死ぬんだ」

 それなのに、どうして当の本人はそれが分からないのだろう。
 餌さえあれば半永久的に存在することができるさくら達と違い、文香はただの人間だ。

 悪魔に憑かれた不幸な人間でしかない。

「……馬鹿は死んだって治らない」

 何をしようとしていたのか、どうしてそうなったのか。
 理由なんて知らないし、聞いたところでさくらには理解できない。
 価値観も存在もさくらと文香はあまりにも違い過ぎる。
 分かり合えるはずもない。

「どうせ、死んだって無駄なんだから」

 それなのに、二人の熱はこうして混ざり合う。

「そのままで、いいだろう……?」



* * *


 鳴海はさくらの目を真っ直ぐ、まるで睨みつけるように捉えていた。
 
「人間はすぐに死ぬぞ」

 さくらは若い。

 多くの見目麗しく、忠実で、淫らな極上の奴隷を持ち、飼育し、餌としているが、さくらはまだまだ若く、幼い。
 さくらはまだ知らないのだ。
 その周りに侍る奴隷、餌、人間の最期を。

「お前が、愛する彼女を眷属にしたくない、魂を歪めたくないと思うのなら、彼女は永遠に、最期まで彼女のままだ。ただの人間のまま、死ぬということだ」 

 鳴海のそれは忠告だ。
 鳴海は目の前のさくらを愛しく思っている。
 人間に例えるのなら肉親への情に近い。

 だからこそ、迷いもした。
 残酷な現実を思えば、さくらにはこのまま無自覚でいて欲しいという気持ちもある。
 何も知らず、たまに例の彼女に翻弄され愚痴るぐらいがきっと平和だ。
 特別な想いなど気づかずにいれば、苦しむこともない。
 知らないからこそ、幸せなこともある。

 だが、鳴海は長く生き過ぎた身だ。

 人の社会に積極的に紛れ、人を長く見て来た。

「彼女の人生は俺達からすれば、瞬きにも等しい」

 だからこそ、自分達と人間はまったく違う生き物で、寄り添うようにはできていないことを知っている。
 隔たりがあるのだ。
 超えられない自然の摂理という壁がある。

 その生態や価値観。
 寿命も。

「躊躇うな。自覚しろ。お前と彼女は永遠にはいられない」

 鳴海は、さくらに後悔してほしくなかった。

 さくらの想像する以上に自分達と人間の生のスピードは違う。
  
 彼女は自分達よりも早く死ぬ。

 また、その肉体を修復したとして。
 結局、鳴海達も人間の寿命はどうすることもできない。
 精気を分け与え、その命や若さを延ばすことはできる。
 けど、それはもう人ではない。

 さくらは、そんな彼女が欲しいわけではないことを鳴海は知っていた。

 だからこそ、現実を突きつけることにしたのだ。

「彼女との時間は有効期限つきだ」
 
 鳴海はさくらに後悔してほしくない。

「一瞬の蜜月を無駄にするな」

 余計な意地を張って、どんな宝石よりも貴重な時間を無駄にしてほしくなかった。


 人間はすぐに死ぬのだから。

 鳴海やさくらを置いて。



* * * *


 鳴海はこれを恋と呼んだ。

 けど、さくらは思う。
 これは、そんな甘ったるいものではない。
 綺麗なものでもない。
 素晴らしいものではない。

 何故ならこの恋の始まりは恋とは呼べないほど冷たく、醜いものだからだ。

 始まりは恋というよりも恨みに近い執着だった。


 それなのに、今はこんなにも腕の中の存在が、愛しい。

「……ムカつく」

 愚かで矮小な、こんな面倒な生き物に振り回されるなんて。

「さ、さくら?」

 馬鹿の一つ覚えみたいに混乱しながらさくらの名前を呼び続ける文香。
 いつだって、ムカムカするような、イライラするような、妙な気持ちを抱いていた。
 
 いやらしいことを散々して来たのに、こうやってぎゅっと抱きしめるだけで赤面する所も、それでいて全てを拒絶して独りで冷たくなることしかできない愚かさも。
 なんて、面倒くさい生き物だろう。

「……あまり、僕に迷惑かけるなよ」

 さくらの零した言葉に、文香は睫毛を震わす。
 怯えに近い、今にも泣きそうな表情。
 そのくせ、涙が零れることはない。
 
 泣けばいいのに。
 泣いて、さくらに媚びを売ればいいのに。
 泣いて、縋り付けばいいのに。

「僕を、不安にさせるな」

 そうしたら、赦してやるのに。

「ふみか」

 そうしたら、慰めてやるのに。

「好きだ」





「僕は君が好きだ」

 死にたがりな君を、もう離さないのに。 
 
 
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