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≪過去②≫
37 諦めろよ 後
しおりを挟む「あの糞餓鬼共には夢精してパンツびしょびしょになるよう呪いをかけたけど、やっぱりムカつきが消えないから木の洞にしか欲情しない変態にしてやった」
「健全な少年にそれは酷じゃないか?」
「期間限定だよ。呪いが解けたら黒歴史になるだけさ」
「そうか。それならいいか」
「まぁ、あの青いどころかアンモニア臭い餓鬼共はもうどうでもいいんだ。僕が問題にしているのはあの女の方だよ」
不機嫌は不機嫌でもちょっと質の違う不機嫌なオーラをもやもやと発散させながら、さくらはまるで出来の悪いペットに苦労している飼い主のような苦渋を滲ませていた。
「ちょっと目を離した隙に車に轢かれそうになったり、小石につまづいたり、食器割って怪我したり…… 階段で後ろから落ちそうになったり」
さくらは鳴海に話しながら、何度も舌打ちをし、溜息を吐き出し、延々とそれを繰り返している。
「あの女は、本当に面倒くさいんだよ。自覚がないところが特に厄介だ」
さくらの話を延々と聞いていた鳴海は素直に頷いた。
件の彼女は彼女で苦労しているようだが、話を聞くと二人の関係や生活は意外と複雑で、それでいて見事なバランス感覚で成り立っていることが分かる。
「ボールの件もそうだ。避けることができたのに、避けようとしない」
何度思い返しても腹が立つ。
ただ、ぽかーんとさくらを無防備に見上げる奴隷のあまりにもあまりなポンコツ加減、状況を理解し、動ける肉体を持っているくせに危険から回避しようという気がまるで無いようなあの姿。
家にいても無駄に怪我をするような女だ。
外に行けばふらふらと風に流されるがまま事故りそうな女を放置して、最悪死なれたら今までのさくらの苦労は全て水の泡である。
「もうあの女は僕の目の届く以外の場所には行かせないことにしてる」
危険に巻き込まれてもさくらはその全ての脅威から女を守り切る自信があった。
ただ、それとこれとは別に、毎回飽きもせずに危険な目に遭う、遭いそうな女の姿を見ると頑丈のはずの心臓が妙な動きをし、感情を制御するのが難しくなる。
瞬間的に爆発した怒りが一気に沈静化し、代わりにどっと疲れるような。
いつだって余裕ぶりたいさくらからすれば不本意極まりない。
この世で唯一信頼できる鳴海の前だからこそ、さくらは隠しもせずに溜まった鬱憤という名の精神的ストレスを吐露することができた。
淫魔であるさくらはストレスとはまったく無縁のはずだが、今はまるで小さな疲労が小さくしつこく降り積もり、一気に雪崩を起こしたような疲労感が残っている。
そんな弟の話を聞いた鳴海はしみじみと、または感心したように率直な感想を零した。
「さくらも苦労しているんだな」
鳴海の脳裏に教育現場で日々奮闘する同僚や保護者達の疲労に満ちた姿が浮かぶ。
さくらの場合は嘆きというよりも怒りや苛立ちの方が強いが、憂い、思う気持ちにそれほど違いはないだろう。
「ああいうのが一番厄介だよ」
第三者としてさくらの話を聞けば聞くほど、鳴海はなかなか面倒な彼女の現状をどうにかしてやりたいという気持ちと自分ではどうにもできないだろうなという諦めが浮かんだ。
きっと、その面倒な彼女をどうにかできるのは隣りで足をぶらぶらさせている美貌の弟か、もしくは面倒な彼女を更に面倒に仕立てる原因を作った男のどちらしかないのだろう。
もちろん、鳴海はいつだって可愛い弟の味方である。
「無自覚の、死にたがり屋なんて……」
自分が今どんな顔で、どんな声を出しているのか自覚もない弟が可愛くて仕方がない。
例の彼女を鈍感だと言う割に、その主人であるはずのさくらも相当鈍いと鳴海は思う。
「いいのか? そんな無自覚でコロッと死にそうな彼女を一人にして」
「あの女の血の匂いは覚えてるよ。あれの精気も独特だし、僕の匂いが相当沁み込んでいる。死にかけていたらすぐに分かるさ」
そこまで過保護にしてやる義理はないと鼻を鳴らすさくら。
「時間制限してあるからね。糞真面目な奴だから、そこは守るよ。終わったら連絡するように躾けてるし…… 電話はもうすぐかな」
どこか自慢気にポケットから携帯電話を取り出すさくらに鳴海は笑顔を浮かべたまま、特に何もつっこまなかった。
門限や連絡という単語に十分過保護ではないのかという疑問は無視する。
そして、タイミング良く着信音が鳴り響いた。
鳴海の目の前でさくらの表情がガラッと変わる。
分かっていたことだが、それをまざまざと見せられた鳴海は内心で酷く驚いた。
「遅い」
鳴海の視線など気にせず、むしろまったく気づかないままさくらはわざとらしく憮然とした不機嫌な声を出す。
ただ通話のみの機能しかないシンプルな携帯電話は一昔前の機種のはずなのにさくらが持つだけで今もっとも流行っている売り出し中の機種に見える。
「僕を待たせるなんて、本当いい度胸してるよね」
そんなことを思いながら鳴海の耳にはしっかりとさくらと例の彼女の会話が入っていた。
機械越しにさくらに理不尽に詰られながらも、慣れたように対応する彼女の冷静な声を聞けば聴くほど興味が湧いて来る。
さくらの話す彼女と今電話をかけて来た彼女はどこか微妙な差異があり、どうにもイメージが結びつかない。
少なくともボールが直撃して来るのを分かっていながら顔面で受け止めようとしたはた迷惑な女と、さくらに対してどこかクールな対応をする女が同じとは言われなければ気づかないだろうし想像も出来ないはずだ。
「用事を済ませたならさっさと帰れ。……別に。ただ、見たい番組があるから録画しといて」
『録画? なんの番組? 何時から?』
鳴海は堂々と二人の会話を盗み聞きしていた。
罪悪感はない。
聞こえて来たものは仕方がないからだ。
「あー…… そう。たぶん、それ。なんかわかんないけど、もうその番組でいいよ。適当に録画すればいいから」
『そんな曖昧な……』
「いいから、さっさと帰れ」
会話だけ聞くとさくらはまるで典型的なモラハラ男に思える。
しかし、その表情は口調と裏腹に甘い。
ただ、ただ甘い。
そんな甘ったるいさくらのオーラに鳴海は全裸のまま当てられていた。
「愚図。もういいよ。仕方ないから、本当に仕方がないけど僕が迎えに行ってやるよ」
『え』
「感謝してよね」
『え、あ、ちょ』
ぶちっと、何故か鼻高々に通話を強引に切ったさくらはくるくると手の中にある携帯電話を回す。
「……まったく、本当に世話が焼けるんだから」
「……」
「そういうことだから、兄弟。悪いけど、ちょっとあのポンコツ迎えに行くよ」
「……」
「兄弟?」
面倒臭そうに溜息を零しながら意気揚々とソファーから立ち上がったさくらはいつまでも反応しない鳴海に首を傾げる。
基本自由奔放な彼らは気まぐれに集まっては気まぐれに解散するのがいつもだ。
いきなり薄情なさくらに対して鳴海が怒るはずもないのだが、それにしては反応がない。
珍しくも体格の良すぎる兄弟を見下すさくらに鳴海はしげしげと珍獣、あるいは新種の生物を観察するようにじーっと見ていた。
「……お前、それで無自覚なのか?」
呆れたように、ちょっと困ったように笑う鳴海の視線はとても生温い。
「は?」
意味が分からないとばかりに盛大に眉を顰めるさくらに鳴海はやれやれ仕方ないなーとばかりにぽんぽんとその肩を叩く。
落ち着かせるようにそのままソファーに座らせ、宥めるようについでに頭もぽんぽんと優しく撫でた。
目を白黒させるさくらを気にせず、鳴海はいつものように歯をきらっと眩しく輝かせる。
「正直、そのままでいてくれた方が俺としては無駄に誰も傷つかず平和だと思うが……」
その爽やかで朗らかな笑みと裏腹に鳴海の声は低く、どこか重みがあった。
「俺達は人間じゃないからな」
あまりにも当たり前なことを今更確認するように呟く鳴海にさくらは怪訝な表情を浮かべた。
それでも反抗しないのは鳴海に対する信頼があるからだ。
そんなどこか純粋な弟の素直な態度に鳴海は更に笑みを深める。
「だが、彼女は人間だ。お前の言う通り、めちゃくちゃ脆い生き物だ」
ちょっとだけ困ったような、そんな笑みを鳴海は浮かべている。
「あまり、悠長なこともできんだろう」
「兄弟?」
勝手に一人で悩み、解決したらしい鳴海にさくらは戸惑った。
一体何を一人で納得しているのか。
何か決意したらしい鳴海の視線に、さくらは何故か妙な汗が蟀谷を流れるのが分かった。
さくらの本能が予感を告げている。
変化の予感だ。
けど、嫌な感じはしない。
「手遅れになった後に気づいてしまったら、それこそ地獄だ」
むしろ、その予感をさくらは待っていたような気がした。
それこそ、本能のように。
「いいか、さくら。よーく聴け」
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