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≪過去②≫
35 何かを成したいのなら、それなりの犠牲が必要だ 前
しおりを挟む恭一と別れ、その視線を感じなくなるぐらい離れてから文香は漸く心の底からほっとした。
(よかった……)
無事に終わって良かった。
果たして何が始まり終わったのかもよく分からないが、とにかく無事に切り抜けることができて良かった。
恭一の鉄仮面のような無表情は相変わらずで、特に文香を見ても不審には思っていないらしい。
一年ぶりの再会だ。
違和感を抱くほど二人は親しくもないのだから当たり前である。
(気づかれなくて、よかった……)
気持ち的にへなへなとその場に崩れそうなぐらいに文香は脱力していた。
頬に熱が集まり、無意識に唇を噛み締める。
バレるはずがないと分かっていた。
それでも心情的、また我慢できずについもぞもぞしてしまう下半身に何度も冷や汗をかいたのだ。
ドキドキと今更動悸が止まらず、じんわりと内ももに汗が伝う。
それが妙に気持ち悪くて、文香は近くにあるコンビニのトイレに駆け込んだ。
「……」
しかし、勢いよくトイレに駆け込んだくせに文香はパンツを下すことを躊躇っていた。
文香の顔は真っ赤で、眉間の皺も険しく、唇は悔しそうに羞恥で赤く腫れていた。
薄っすらと涙まで浮かんでいる。
「……さくらの、ばか」
苦々しく、それでいて情けないぐらいに弱弱しく。
瞬きに等しい一年を共に過ごした美貌の男を詰りながら、文香は震える手でストッキングを、パンティーを下した。
涙が若干滲んだ自分の声に、文香はこっそり鼻を啜る。
違和感しかない下半身。
なるべくそこを見ないようにしながら文香は震える手で汗を拭った。
(すーすー…… する)
この一年、文香はさくらに翻弄されまくっていた。
他愛ない日常のあれこれや、性格の違いどころではない根本的な価値観の相違。
「 君は、本気でムカつくぐらい、時々真剣に絞め殺したくなるぐらい変わらない。変わっていないよ 」
何よりも文香にとっては未だ慣れず、まさに嵐に襲われるような、荒々しく精神を揺さぶる「調教」の数々……
「 肉体以外は、ね 」
文香を変わらないと称するその口で、吐息を吹きかけられただけで一気に全身が桃色に染まってゆくようになった文香の肉体をさくらは嗤った。
その嘲るような熱の籠った笑みにぞくぞくと反応してしまう。
そんな文香を見ても変わらない、変わっていないと称する男二人が酷く不思議だった。
文香ともっとも付き合いの長いかつての夫はどう思うだろう。
そんなことを一瞬でも思い浮かんだのは、きっと一年ぶりに再会した恭一に過去の幻影を見たせいだ。
もしくはただの現実逃避である。
*
その日のさくらは朝からずっと落ち着かなかった。
浮いたり沈んだり、とにかく忙しない。
さくらの誕生から今現在まで浅くない付き合いをしている鳴海にはすぐに分かった。
元々唯我独尊なさくらはわざわざ自分の気持ちを取り繕ったり誤魔化すということがないせいもある。
久しぶりに会う鳴海にぱっと華やいだ笑みを見せ、しばらくは上機嫌に会話をしていた。
しかし、今は何か考えごとをしているのか、眉間に皺を寄せ、全身から不穏なオーラを放っている。
「どうしたんだ? そんなブスくれた顔をして」
さくらは、ある意味では分かりやすく単純な男なのだ。
ただ人間離れしたその美貌のせいで、どんなことをしてもどんな表情を浮かべても絵になり過ぎてしまい、勝手に周囲が都合の良い方向に美化してしまうことが多々ある。
だが、鳴海には通用しない。
「何かあるのなら我慢せずに吐き出してしまえ」
大らかに笑い、鳴海はさくらの背中をばしばし叩く。
鳴海からすればさくらは細すぎる。
突然の衝撃に驚いたように目を丸くするさくらはやはり幼いなと思った。
「っ、突然なんだよ、兄弟……」
持っていたグラスからワインが零れ、さくらの膝を濡らす。
いつもならすぐに給仕の者がやって来るが、残念ながらこの場でまともに動ける者は鳴海とさくらの二人しかいない。
おもてなしと称して、さくらは今回も張り切って鳴海のためにご馳走を用意した。
その鳴海に食い尽くされた裸の男女が力尽きたように、あるいは魂を奪われたようにそこかしこに散乱している。
汗と粘液をアクセサリーにし、恍惚の笑みで涎を垂らした肉体。
男も女も、その緩んだ股から垂れるものは同じだ。
中にはおもちゃで栓をした者もいるが、二人にとってはよく見る光景である。
「なんだか不貞腐れているようだからな。悩み事があるのなら、いつものように話してみなさい」
「別に不貞腐れてなんて……」
「そうか?」
キラキラとした全身の汗をタオルで拭きつつ、鳴海は爽やかな満面の笑みを浮かべる。
満足気に艶めく浅黒い肌からは熱気のようなフェロモンが漂っていた。
同胞であるさくらにはばっちりと鳴海のフェロモンが見える。
そしてその独特のフェロモンの香りはさくらからすれば濃厚なムスクの香りと同じだ。
そんな、甘く濃厚な雄の残滓を緩く漂わせる鳴海は実に爽やかで朗らかな笑みをさくらに向けている。
キラっと光る白い歯がとにかく眩しい。
「俺には、何か鬱憤が溜まっているように見えるが?」
「……」
「何か、悩んでいるんだろう?」
「……別に」
ふいっと顔を逸らし、アンニュイな表情を浮かべて脚を組み替えるさくらは鳴海からすれば非常に分かりやすい。
鳴海が担任として日々暑苦しく向き合っている思春期の少年少女達よりもずっと、何倍も分かりやすかった。
むすっと唇を尖らせ、据わった目で何かを思い返している様子のさくらは素直なくせに、妙に頑固だ。
「いい加減、素直になれ」
手触りの良すぎるさくらの髪を堪能しながら、鳴海はここ最近会う機会がめっきり減ってしまったさくらに何があったのかと頭の中で考えた。
そこまで過保護にするつもりはないが、鳴海はさくらの名付け親であり、半兄弟だ。
今のご時世では珍しいぐらい純粋培養で育った淫魔のサラブレッド的なさくらはとにかく若い。
鳴海からすれば若いというよりも幼すぎた。
だから、つい甘やかしてしまう。
「せっかくのお前の可愛い顔が台無しじゃないか」
仕方がない。
人間からすればさくらは色気ムンムンな美丈夫かもしれないが、鳴海から見れば幼気な赤ん坊に等しいのだから。
「ほら、全部話してみろ。不貞腐れた顔も可愛いが、そろそろお前の笑顔を見せておくれ」
なんせ、この半淫魔兄弟は数世紀もの隔たりがある。
そのせいか、鳴海は時折さくらとのジェネレーションギャップに地味に落ち込むこともあった。
「…………別に、大したことじゃない」
暫くして、全裸のまま慈悲深い笑みを浮かべる鳴海にさくらはむすっと口を尖らせ宙を睨んだままぽつぽつと話出した。
その琥珀の瞳は何か、誰かを思い出しているようだ。
「あの女が……」
苦々しく口を歪めるさくらに鳴海は一切動揺しなかった。
むしろ、納得したぐらいだ。
「ふむふむ。例の彼女がどうしたんだ?」
さくらの美貌がここまでぶすっと潰れたように歪む原因は今のところ一つしかない。
というよりも鳴海は今までさくらがこんな不細工な顔を曝け出すのを見たことがなかった。
だいたい一年ぐらい前から時々イライラしたり、いじけたり、愚痴を鳴海に零すようになったが、その原因はいつだって例の彼女だ。
時折呆れたりもするが、基本的に微笑ましく二人の関係を見守るというスタンスを取っている。
それなりの年月を共にしたが、ここ一年のさくらは鳴海の知るさくらではない。
正しく言えば知らなかった一面だ。
それは本人にとってもそうであろう。
若いというよりも鳴海から見ればまだまだ子供なさくらが時に苛立ち、怒り、たかだか人間の女一人に振り回されている姿は見物である。
そんな自分の感想を隠す気はないが、不本意に表に出すこともない鳴海はごく自然に不機嫌な可愛い弟の口を懐柔した。
そういえば今日会う約束をしたとき、妙に張り切っていたのを思い出す。
電話口のみでもさくらを生まれたてほやほやな頃から知っている鳴海はすぐに違和感を抱き、そして今日をいつも以上に楽しみにしていたのだ。
とうとう、ついに。
鳴海が膨大な魔力と気力を注いで修正した人間の女。
力なく閉ざされた瞼が上がるところを鳴海はまだ見たことが無いのだ。
漸くその機会が訪れるのかと期待しない方がおかしい。
電話口のさくらのわくわくが乗り移ったように、鳴海も何故か心が痒くなるような、擽ったいような、そんな奇妙な期待を抱きながら今日を迎えたのだ。
しかし、残念ながらご馳走のメニューに鳴海の期待するデザートはなかった。
(なんだ…… 漸く会えると思ったんだがな……)
一瞬の落胆。
もちろん、それを表に出すことはしない。
(まぁ、気長に待てばいいか。どうせ、その内会えるだろう)
再会の酒をさくらと交わし、本日のメニューを紹介されながら鳴海は暢気に考えていた。
自意識過剰でもなく、鳴海は事実としてさくらにだいぶ慕われていることを知っている。
電話での近況報告という名の愚痴、あるいは愚痴という名の惚気話を散々聞いていた。
その内必ず自慢して来ると思っている。
(長生きはしてみるもんだな)
数世紀を生きて来た由緒正しい淫魔(仮)の鳴海は大いに現状を、振り回されるさくらを愉しんでいた。
もちろん鳴海に悪気も悪意もない。
ただ純粋に苛立ち、怒り、散々小馬鹿にしていたただの人間の女一人をいちいち気にして動揺したり発狂したり振り回されている姿が面白いのだ。
常識の範囲でちょっかいを出しつつ、適度な匙加減でさくらがやり過ぎないように助言する。
さくらと例の彼女の関係を下手に刺激して歪ませたり、それこそさくらが暴走してせっかく鳴海が時間をかけて修復した例の彼女を壊したりしないように宥めたりもした。
「…………あの女は、ちっとも自覚がないんだ」
「ふむ」
「僕の奴隷だっていう自覚が、まったく、一切…… ない!」
「む……? この前は随分と順従で素直な奴隷だとかなんとかと言ってなかったか?」
進路相談をする学生を相手にするように真面目な顔で聞いていた鳴海は小さく首を傾げる。
丸太のような首がごきっと動く様はちょっと怖い。
ただ、鳴海の言う常識と、やり過ぎか否かの判断基準はとても緩く適当である。
人間社会に散々揉まれた鳴海だが、彼はやっぱり根っからの淫魔だった。
「あのときは珍しくも褒めていただろう」
確か、去年のクリスマスだったか。
毎年聖夜は二人で乱交パーティーを開いていたが、去年のさくらは参加せずに例の彼女を苛めることに夢中になっていた。
喜々として電話であれやこれやの恰好させた、クリスマスプレゼントとして玩具を初めて使ったとかと随分と浮かれていた記憶がある。
下手くそだとか、人妻のくせに初心だなんだと貶しているのか褒めているのか正直微妙な内容だったが、さくらがとても愉しそうにしていたのは確かだ。
鳴海の脳裏に真っ白い人形が浮かぶ。
潰れた赤いトマトのような惨状よりも寝台の上で寝かせられた青白い死人色の彼女の方が強く印象に残っていた。
直接言葉を交わしたことは一度もないが、あれ以来さくらとの電話の話題は彼女の話から始まって終わる。
そのせいか鳴海は一方的にさくらと例の彼女の関係のあれやそれやを把握していた。
クリスマスに全身タイツトナカイにして挿入型尻尾を彼女に嵌めようとしていたさくらを冷静に宥めて全裸首輪を提案したのは鳴海だ。
若くせっかちなさくらを時折宥めながら、鳴海は愚痴やらなんやら分からなくなってきている同胞と修復した元自殺志願者な例の彼女のことを微笑ましく見守っていた。
淫魔である鳴海やさくらにとってクリスマスは欠かすことのできない行事である。
何故ならどこもかしこもムンムンと美味しそうなご馳走の匂いがするからだ。
そう、まさに性夜。
そんな特別な夜に例の彼女をいじめまくっていたというのだから、よっぽど気に入ったのだなと鳴海は性夜を思う存分楽しみながら、さくら達のことを想った。
「喧嘩でもしたのか?」
そう尋ねながらも鳴海はきっとさくらがまた何か我儘を言ったのか、あるいは例の彼女が無意識に地雷を踏んだのかのどっちかだと確信している。
さくらのことだ。
きっととっくにお仕置き済みなのだろう。
ただ、それでもこうも尾を引くのは珍しい。
(また意地を張ったのか)
でもきっと原因はさくらにある。
鳴海は生温い眼差しを弟に向けた。
「まさか」
自然と表情が柔らかくなる鳴海に気づかず、さくらはふてぶてしく鼻で嗤う。
「喧嘩って言うのは対等な立場でしか成立しないって言ったのは兄弟だろう?」
なんとも傲慢な仕草だが、鳴海には思春期でちょっと生意気な発言をしてしまった少年にしか見えない。
大らかというか、寛容というか、とにかく鳴海はさくらを微笑ましく見ていた。
今もうんうんと相槌を打ちながら、少しずつ熱を帯びて来るさくらの主張、例の彼女への愚痴を穏やかな表情で聞いている。
「……僕がせっかく兄弟に会わせてやろうと思ったのに」
ぶすくれたさくらの顔に、鳴海は自分の勘が半ば当たっていたことを知って満足気に頷き、次いで結局デザートがなかったことにちょっぴり落ち込んだ。
無いと知るとより食べたくなる。
「それなのに、今日は予定があるなんて言って断ったんだ」
「そうか…… それは残念だな」
心底残念である。
会ってどうこうするわけではないが、とりあえず会ってみたいというのが鳴海の率直な気持ちだ。
だが、鳴海はさくらと違い基本的に心の広い男だ。
分別も悪魔にしてはある方だ。
「そうは言っても、向こうにも都合があるんだろう」
まあまあとさくらを宥めつつ、鳴海はさくらの不機嫌の原因を察した。
自惚れでもなくさくらにとって尊敬するべき兄にせっかく会わせてやろうと寛大な心を見せたのに、それを断りやがったあの女……という理不尽なあれやこれがあったのだろう。
「そんなものないよ」
さくらが軽薄な表情を浮かべて鳴海を一瞥する。
これは相当苛立っているようだ。
「僕以上に優先するべき都合なんて、あるわけないだろう?」
バッサリ切って捨てたさくらにも鳴海は動じない。
さくらは話している内に当時のイライラがぶり返したのか、目を座らせて恨み事をぶつぶつ呟いた。
鳴海に聞かせるというよりも、幻の例の彼女にぶつけているようだ。
「奴隷のくせに…… 僕がせっかく兄弟に会わせてやろうって淫魔心(※仏心)を出したのに…… この僕の寛大な気持ちを踏み滲みやがって…… 糞が」
今にも爪を噛みそうな形相でさくらは妖しく目を細める。
燻る怒りに染まった瞳がゆらゆらと揺れていた。
「よりによって、男と会いに……」
「男?」
俯き、髪に隠れたさくらの表情を伺うことはできない。
「そう、男…… しかもただの人間の男だよ?」
さくらの声は凍ったように冷たく、それでいてじりじりと焦げつくような苛立ちが滲んでいた。
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