奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

34 正直者が馬鹿を見るって、ありがちだよね 前

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 渡辺恭一から連絡が来たとき、文香は出るか出ないかでまず迷った。
 無視しても構わなかったが、そこで無視できないのが文香の性格である。
 恭一の誘いを断ることが出来ず、こうして会っているわけだ。

 以前にも利用した喫茶店。
 変わらない店内の奥の禁煙席で恭一が待っていた。
 店員に案内されて来た文香を見て顔上げる恭一は相変わらずの無表情である。
 文香も決して愛想は良くない。
 男女が深刻な顔で向き合っているように見えるが、二人共それが地顔であった。

「久しぶりだな」

 スーツや時計、革靴、ネクタイにタイピン。
 さり気なく香る爽やかなコロンの香りまで、以前とまったく同じである。 

「お久しぶりです。お変わり……ないみたいですね」
「そう見えるか」

 白々しい会話から始まるのは仕方がない。
 それだけ二人の関係は複雑であり、本来なら嫌厭すべきもので、こうして会うのは不自然だ。

「君の方こそ、まったく変わっていないように見える」

 けど、実際に二人はこうして会っている。
 夏の終わりかけ、肌寒さが目立つこの季節に。

「そうそう一年で人は変わりませんから」

 恭一がどう思っている知らないが、文香にとって夏から秋の季節は色々と感慨深いものがある。
 緑の葉が生き生きと色づき、そして枯れ始める頃。
 夏の陽射しの強さも、それらを枯らす秋の寂しさも。
 なんとなくだが、きっと文香は死ぬまで夏と秋が来るたびに感慨に耽ると思った。

(変わってないのか……)

 恭一は文香が変わっていないと言う。
 軽くそのことを流したが、文香はそれは見た目だけの話であると思っている。
 少なくとも、文香の見ている世界は大きく変わった。
 
 けど、そう思うのは本人だけらしい。
 恭一だけではなく、さくらにも同じようなことを言われた。


「 君は、まったく変わらないね 」


 どこか呆れたように、あるいは苛立つように、そして揶揄うように。
 そんな風にさくらは文香を評する。

(ようは、まったく成長していないってことよね……)

 目の前で紅茶を啜る男もまるで時が止まったように最後に見たのとまったく変わらない。
 そう、見えるだけなのか。
 恭一といると、まるで一年前に戻ったようで、ひたすら奇妙だ。

「その後、生活の方はどうだ?」
「その後の生活、ですか…………」

 生真面目な文香は恭一からの問いにただの話の繋ぎの世間話だと理解しながらも律儀にその後の「生活」を振り返った。
 
「……色々と、未知のことに挑戦して………… 様々な価値観に触れ、この歳で色んな知識が増えて……」

 もしもこの場にさくらがいれば生活というより性活・・だよね、と茶々を入れてただろう。
 さくらは見た目と違い、たまにどこで覚えたのか分からない親父ギャグやエグい下ネタを言って来る。

「……毎日新鮮な驚きを体験していますね」
「ほぅ…… 仕事で?」

 果たしてさくらへの奉仕活動が仕事に当たるのか疑問である。
 意外にも興味を示したらしい恭一の追究に文香は一瞬真剣に考えた。

「いえ…… どちらかといえば…… プライベート、だと思います」

 珍しくも歯切れの悪い文香。
 対する恭一は以前と変わらず落ち着き払っていた。

「そうか。私生活が充実しているようで何よりだ」

 恭一に悪気はないのかもしれないが、何気ないその返しに文香はこっそり胃を押さえた。
 それと同時に思い出してしまった下腹部の違和感に顔が青くなる。
 恭一にバレる・・・はずがないと思いながら、文香はもぞもぞと太ももを閉じる。


 そんな文香に恭一は考えるようにじっと静かな眼差しを向けていたが、文香はその視線に気づかなかった。






 恭一は無意識に何かを探ろうとする自分の指を戒める。
 禁煙というのは思いのほか辛いものだなと思った。
 気を紛らすために吸い、それほど依存はしていないと思っていが、いざ禁煙しようとすると途端に口寂しさを覚える。

 軽く、内心で苦笑いをする。

 文香とは実に一年ぶりだ。
 恭一は変わっていないようで変わった文香に安堵していた。
 自分にそんな資格はないと思いながら。

(よかった……)

 以前と同じくきつい眼差し。
 何か考え事をしているのか、険しい顔で珈琲を飲む。

 やはり、似ていると思った。
 初めて文香と直接会ったときから、恭一は妙な既視感を覚えていた。

 文香は、恭一の亡くなった母に似ている。
 姿形はもちろん別物だ。
 けど、気が強く、一人で何もかも抱え込む性格や、どこか自罰的な内面。
 真面目で、見ている方が痛々しく思うほど真っ直ぐで薄幸なところが。

 初めは夫に不倫された文香の境遇に母を重ねただけだと思った。
 しかし、残酷な真実を突きつけられ、傷つきながらも気丈に耐え、強い自分を装うとする滑稽で哀れな姿は恭一のよく知る記憶の中の母そっくりだ。
 どこまでも愚直で、不幸に取り憑かれた女。
 
 驚きよりも、恭一は恐怖を抱いた。

 文香との関係は複雑である。
 近いようで、誰よりも遠い。
 妻の不倫相手の男の妻。
 二人の関係性は歪なものだ。
 良くないものだ。
 結んではいけない類の縁である。 

 けど、目を離すことができない。

 必死に理不尽に堪えようとする文香を見ていると、嫌でも恭一は自分の罪を思い出す。
 だが、恭一はむしろ自分の罪を永遠と記憶に刻み、欠片も忘れず、死ぬまで自分自身を責めることを望む男であった。
 恭一が初めて恐怖を覚えたのは、文香と初めて対面した後に、生々しい夢を見たからだ。

 久しぶりに見た首を吊る母の夢。
 それは恭一の罪であり、罰だ。
 自分を戒める悪夢である。

 しかし、そのとき首を吊っているのは母ではなかった。
 恭一は、母の夢の代わりに文香の夢を見た。
 文香が自殺する夢を見たのだ。 

 文香の悪夢はその一度きりだ。
 一度だけで恭一の心を蝕むには十分過ぎた。

 
 ティーカップに口をつけながら、恭一はゆっくりと過去を思い出していた。






 志穂は詰めが甘い。
 一時帰国した際に彼女が奇妙な依頼をした興信所の者から「告げ口」が入ったときは信じられなかった。
 馬鹿馬鹿しく、初めは相手にもしなかった。
 しかし、あんな証拠を見せられては信じるしかない。
 ショックはなかった。
 別に志穂に対する愛情がなかったわけではない。
 ただ、元より恭一は夫婦という関係性に懐疑的だった。
 志穂と結婚したのも、その境遇に少しだけ同情したからだ。
 志穂の実家と何かトラブルでもあったのか、証拠を持って来た興信所の者は得意気に過去に彼らがもみ消した、あるいは掴んでいた志穂の過去を恭一に説明する。
 あの父親が恭一の見合い相手に選ぶような女だ。
 志穂の男履歴を知っても恭一は驚かなかった。
 元より志穂の過去に興味がなく、だからこそ結婚を決めたときも特に何も調べなかったのだ。
 
 恭一は今回の一連の出来事で自分自身の詰めの甘さを痛感した。

 何事も誤算はある。
 早めに志穂を咎め、その不倫相手を秘密裏に罰すればいい。
 志穂と離婚するかはそのとき次第だと冷めたことを考えていた。

 最初の誤算は文香の存在を知ってしまったことだ。

 文香に直接接触したのは、その境遇に自分の母を重ねたからだ。
 いずれ志穂の不倫相手である香山優にそれ相応の罰を与えるつもりだった。
 そうすれば文香も夫の不貞に気づく。
 しかし恭一は文香一人が蚊帳の外にいるのはフェアではないと思った。 
 これは、二組の夫婦の問題であるのだから。

 今思えば、それは恭一のエゴだ。

 結局のところ、恭一は志穂とその不倫相手二人の行為を嫌悪し、許せなかった。
 そのせいで割りを食うであろう文香を思うと必然的に母を思い出す。
 どんな理由や理屈、正義を捏ねても、結局は恭一の身勝手なエゴでしかない。

 そして、文香に会った恭一は無表情に保たれた顔の下で酷く動揺していた。
 必死に虚勢を張る文香は傍から見れば夫の不倫にも動じない冷めた女、強い女に見える。
 しかし、恭一には通じない。
 恭一は、文香のような・・・女を既に知っていたからだ。

 志穂と文香の夫の不倫。
 初めは簡単に解決できると思っていた。
 赤の他人でしかない文香は同情に値しても最後にどんな選択をするのかは彼女自身である。
 文香は母と似た境遇に陥っているが、それは一部でしかない。
 逃げられなかった、逃げる力がなかった母と違い、文香は外で働き収入があり、子供もいない。
 まだまだ若く、見た目も整っている。
 離婚しようと思えば容易い。

 事前に文香の情報を軽く仕入れていた恭一はそう、思っていた。

 しかし、傷つき壊れそうな目で真っ直ぐ恭一を見返す文香を見たとき。
 恭一は自分が手段を間違えたこと、自分のしていることはただの自己満足でしかないと覚った。

 
 文香と、香山優。
 恭一にはこの二人の関係が理解できなかった。
 初めて香山優と対峙したとき。
 恭一は冷静に優を、文香を、志穂を観察していた。

 恋や愛をくだらないと思っている恭一でも、はっきりわかった。
 香山優は、自分の妻を本気で愛している。
 飽きたわけでも、興味がなくなったわけでも、邪魔だとも思っていない。
 それなのに、不倫をした。
 恭一は香山優が心底理解できず、またそんな男を憎みながらも愛している文香が哀れだった。

 この夫婦は悪い意味で互いしか見ていない。

 恭一は二組の夫婦の問題で初めは文香だけが蚊帳の外にいると思っていたが、それは間違いだと気づいた。
 そして四人の中で一番状況を理解していないのが自分の妻である志穂だと気づいた。
 少なくとも傍観に徹していた恭一にはそう見えた。

 
 話し合いは結局何一つ解決せずに終わった。
 その中で文香は結局自分を裏切った男を赦すと恭一は思った。
 離婚できるのに、離婚しない。
 初めはそんな文香に理不尽な苛立ちすら感じていた。
 文香には自由になる権利と手段がある。
 それを不倫するような男のために捨てるなど愚かとしか言いようがない。
 
 子を想いずっと地獄で耐えるしかなかった母とは違う。
 文香には自由に羽ばたける翼があり、枷などないのだと。
 そう思っていた。

 だが、間近で文香とその夫のやりとりを見て恭一は自分の見識が間違っていたことに気づいた。

 文香もまた、枷に囚われた女だ。
 文香の枷は、彼女の夫だ。
 母が恭一を見捨てられなかったように、情けなく文香に縋り付く男を文香は捨てられない。
 愛しているから。
 夫を愛しているから離婚できない。

 そんな単純な答えに、恭一はまったく気づかなかった。
 愛しているから結婚する。
 そんな当たり前の前提を、恭一は知らずに生きて来た。


 恭一は初め、志穂と離婚しようと思っていた。
 彼女を実家に帰し、恭一に逆らえない彼女の家族に監視するよう命じた。
 単純にお互いの気持ちだけで離婚できないほど恭一と志穂を取り巻く環境は複雑だ。
 また、恭一はどうしても冷酷になれない男だった。
 このまま志穂と離婚すれば、嫌でも醜聞を嗅ぎ取られる。
 家のために嫁がされた志穂には帰る場所もなくなるだろう。 
 離婚をするにも色々慎重にやらなければならない。

 しかし、当の志穂は何一つ危機感を抱いていない。
 彼女はむしろ離婚したがっている恭一に喜び、夢すら見ていた。
 恭一は志穂にとっての枷でしかなく、その枷がなくなれば自分は自由に羽ばたけると本気で思っているのだ。
 愛する男のもとへ。

 恭一は理解できなかった。
 志穂が無邪気に離婚さえ成立すれば香山優の妻になれると喜ぶのが。

 香山優は自分の妻である文香を愛している。

 それなのに妻を裏切る男の心理もまた理解不能であるが、少なくともその心が志穂に向いていないことは短い話し合いで十分理解できた。
 
 志穂とその不倫相手。
 どちらも恭一には理解できない人種であり、理解できないからこそ疲れる。
 またこのときの恭一は多忙の一言に尽きた。
 無理矢理予定に穴を入れ、もうそれ以上国内に待機することはできなかった。
 そして残念ながら恭一の実家では未だ彼の父の影響力が強い。
 志穂の実家を脅迫し、無理矢理娘の監視をさせた。
 特に、悪い手だとは思わない。
 あと一月もすれば恭一は国内の仕事に専念できる。
 そのときに本格的に志穂との離婚を進めるつもりだった。
 
 詰めが甘いと言われればそれまでだ。
 だが、恭一にはやはりどうしても理解できなかった。
 この時点で志穂が何か仕出かすメリットなど、まったくないのだから。
 理屈ではないものに追い詰められる男女の危うさを、恭一は何一つ理解できなかったのだ。


 志穂がどんな手を使って実家を抜け出したのかは詳しくは知らない。
 ただ、彼女には不思議な魅力があり、その儚くも幼い容姿をとても有効的に使うことができる。
 彼女の周りには彼女を盲目的に愛し、味方する者が多かった。

 結局、恭一もまた志穂に甘かったのだ。

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