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≪過去②≫
30 君の周りってろくでもない奴しかいないよね 前
しおりを挟む帰宅してもいい。
その代わり、さくらが呼んだらすぐに来るように言われた。
そして、替えの下着を渡され、色んな意味で文香の顔は引き攣った。
意外だと言ったら失礼かもしれないが、デザインはどちらかというと可愛らしく、レースやフリルがふんだんにあしらわれた可憐な下着だ。
布面積はやけに小さい。
ファンシーなデザインのせいか、いやらしさはあまり感じられなかった。
(ちょっと、私には似合わないけど…… 卑猥な感じじゃなくて良かった……)
と、文香は安心していたのだ。
しかし、現実は違った。
胸の大きい文香がそれを着ると乙女チックな純白デザインが災いし、逆に卑猥に見えるのだ。
鏡の前で着替えさせられた文香は当然ながら絶句したし、背後で文香の着替えを見ていたさくらは自分の仕事ぶりを誇る様に頷いていた。
「うん。やっぱり僕の見立ては間違いじゃなかった」
デザイン云々は置いといて、文香が一番引いたのは下着が上下ともオーダーメイドしたようにサイズがピッタリだということだ。
よく、文香に合うサイズを見つけたなと感心するべきか、そもそも何故ジャストフィットに文香にピッタリの下着を用意できたのか。
(怖い……)
聞いてはいけないと文香の本能が囁く。
意外とあっさりと家に帰ることができた文香は、ぼろっちいアパートの一室でこれからの自分の未来を考えようとしたが、色々と疲れすぎてしまい気づけばそのまま寝てしまった。
翌日はシャワーを浴び、何故かピッタリサイズの下着を複雑そうに手洗いした。
いつもの癖で早く起きすぎてしまい、ついぽけーとしてしまう。
けど、まったく慣れない部屋は居心地が悪く、手持ち無沙汰だった。
仕事もまだ探していない。
今の文香は無職で、一時期的にお金だけは有り余っていた。
(……暇だ)
テレビもなく、DVDも見れない。
(あっても…… 特に見たいのないな……)
溜まった新聞を整理し、何気なくテレビ欄を見てそう思った。
二人で暮らしていたときもいつもテレビをつけるのは優の方だ。
文香は当たり前のように優の隣りに座り、二人で色んな番組を見て会話するのが日課だった。
ニュース、バラエティ、ドラマ、映画……
ぼうと見覚えのある番組名や一部抜粋された番組紹介を眺める。
いつも自分はどんなものを見ていたのかと考えた。
この番組は何度か録画を頼まれた奴だ。
このドラマは面白いと言われて見るようになった。
この映画は気になっていたからと新作を借りたから内容は知っている。
この時間帯はスポーツニュースをよく見ていた。
朝は決まって当たると信じている情報番組を見るのが習慣となっていた。
全部、優が見たがっていたから。
(……あれ?)
独り、静かな部屋で文香の呼吸が一瞬止まる。
訳も分からず、焦った。
(……見たい番組が、何一つない)
たった、それだけのことだ。
ずっと、日常の一つとして鑑賞していたテレビ。
休日に借りてたDVD。
いつも、優が見たいから文香も見ていた。
それが当たり前で、強制されたわけでもない。
文香は何か見たいのあるか?と、お決まりのように優に問われ、その度に文香は優の見たいのでいいと返した。
いつの間にかそれが当たり前となっていた。
不満などない。
だって、文香には好きなものが何一つないのだ。
この番組が面白そうだから、この芸能人が好きだから、このドラマが気になるとか。
考えたことも、なかった。
「……」
手からバサバサと落ちていく新聞紙。
見たいものがないのではなく、何を見ればいいのか、そもそも自分は何が好きなのか。
それすら知らなかったことに、漸く文香は気づいたのだ。
好きなものが分からない。
優柔不断なのは優の方だとずっと思っていた。
けど、優と離れた今、文香は何をするにも戸惑っていた。
なら、1ヵ月前提で離れて暮らしていた頃はどうしたのか。
あのときは、いつもの生活をただ真似して、近づけようと努力した。
だから朝は必ずサラダを用意して温かいスープを飲んだ。
あとは適当にトーストと卵料理を作る。
ローテーションでそれがご飯や焼き魚に代わるだけだ。
いつか元の生活に戻ることが前提だったため、文香はただ生活リズムが崩れないように一人でもいつも通りを意識していた。
夜のテレビの習慣は元からテレビが無いため悩む前に寝ていた。
別居の間の休日も優との買い出しを意識してマンションから離れた大型スーパーで買い物をして終わらせる。
それ以外は星田の穴埋めもあり、家に持ち帰った仕事をしていた。
だから、気づかなかった。
そもそもそんな些細なことを気にする余裕もないほど文香は優のことで頭がいっぱいだった。
今、文香は困っている。
引っ越したアパートは本当に何もなく、色々物を買い揃えなければならない。
引っ越しは初めてではないし、必要な物も分かっている。
けど、何を選び買えばいいのか分からない。
自分が必要な物、欲しい物が分からないのだ。
優と新居のマンションに引っ越す際はいつも文香の方が即断で買い物を決めていた。
二人で使うもの前提として、優が悩むものを、優の側で一緒に選ぶとき、文香はすぐにどっちがいいのか決めることができた。
優は寝相が悪いから、ベッドはこのサイズ。
枕も柔らかいものより、優は硬いのが好きだから。
家具も生活用品も、食器からインテリアまで全て。
文香は常に優を基準にして選んでいた。
だから、迷うこともなかった。
けど、今の文香は迷いっぱなしだ。
アパートを決めた際に冷蔵庫や洗濯機は既に購入した。
部屋の間取りが分かった時点で早めに家電量販店でサイズと値段が一番安い物を選んだ。
初めから条件が決まっており、性能もデザインも大して変わらないから困ることもない。
また、このとき文香は自覚していなかったせいもある。
自分の好きな物が分からないと気づいた途端、文香は途方に暮れてしまった。
家具や生活用品は後回しにしよう。
ひとまず、食事でも作ろうかと少し離れたスーパーに向かい、そこでまた困った。
スーパーで迷子になってしまったような気分だ。
(どうしよう……)
漸く、文香は自分が深刻な状況であることを認識した。
食品売り場を一通り巡り、またスタート地点の野菜コーナーに戻る。
そこで文香は立ち尽くす他なかった。
(食べたいものが…… ない)
正しくは、分からない。
お腹は空いている。
食欲もある。
何か食べたいという欲求が文香を急かしているのに、自分が何を食べたいのか分からない。
自分が何が好きなのか、好物が分からなくなっている。
いや、そもそも文香に好物などあっただろうか。
いつだって優の好き嫌いや栄養バランスだけ気にかけていた。
和食を作る機会が多く、文香はヘルシーな食事が好きだと思われている。
当の文香はただ肉や脂ぎった食べ物、健康のことを考えて和食を中心にしていただけだ。
嫌いではないけど、好きでもない。
優の健康を優先しただけだ。
なら、腹に溜まりさえすれば何でもいいのではないか。
何を作ればいいのか分からないなら、適当な弁当をレジに持って行けばいい。
商品を見ると途端にどれがいいのか分からず混乱する自分に辟易し、文香は本当に目を瞑ったまま手に触れた弁当をそのままレジに持って行った。
優と暮らしていたときにはありえなかっただろう。
必ず成分表示を見て細かく確認していたのだから。
アパートに戻り、そういえば電子レンジはまだ買っていなかったと気づいたが、そこまで弁当は冷えてはいなかった。
「いただきます……」
適当に選んだのり弁を食べる。
その表情は真剣で、むしろ焦っていた。
白身フライにちくわの天ぷら、唐揚げにポテトサラダ、漬物、海苔とおかか。
ゆっくり噛みしめ、米は一粒も残さなかった。
綺麗に完食し、お腹がいっぱいになり食欲が満たされる。
「……」
けど、どれが一番美味しかったのか。
全部食べても、自分が何が好きなのか分からなかった。
ただ、食欲があるから食べている。
食事とは、こんなにも単調な作業だったのか。
料理下手で、いつも文香は食事に気を遣い、優に美味しいと言ってもらうことに、一緒に食べることに幸せを感じていた。
そうだ。
優が美味しそうに食べるから、文香は嬉しくて心が満たされ、自分も美味しいと勘違いしていたのだ。
今更ながら、何が好きなのか。
何が食べたいのか。
そんな簡単なことすら知らない、分からない、むしろ忘れている自分に文香は愕然とした。
仕方がない。
だって文香の世界は優で完結していたのだ。
その優と離れた今、文香の世界には何もない。
*
そんな日々が数日続いた。
冷蔵庫は空っぽ、荷物だって段ボールのまま放置している。
何かしなければならない。
けど何をすればいいのか分からず、焦る。
時間が経つのが遅く、苦痛だ。
週末が近づき、漸くまともに息ができるようになった。
週に一度。
夜になったらさくらの所へ行く。
具体的な時間は指定されなかった。
「君が夜だと思ったら、来ればいい」
さくらはそんな曖昧なことしか言わなかったのだ。
不思議と文香を逃がさないと凄む割に、さくらは大雑把である。
夜がこんなにも待ち遠しいのは初めてだ。
あんな屈辱的な、破廉恥なことをされたのに。
それほどまでに時間を持て余していた。
やるべき事はいっぱいあるのに、何もやることがない。
こんなのは初めてで、不安になる。
文香は時間を持て余すという経験にも乏しかった。
(いんま…… 淫魔……)
まだ夜というには早い。
文香はスマホでさくらの言う「いんま」というものについて調べた。
(夢魔……?)
ネット内の百科事典に載っていた内容を文香は何度も読み返し、気づけば夜になっていた。
* *
ついネットに夢中になり、慌てて身支度した。
文香の感覚からすれば、もうとっくに「夜になっている」。
どんな服装で化粧でさくらに会うべきか悩んでいたのに、結局迷う暇もなく無難なパンツとブラウスといういつものコーディネートに落ち着いた。
下着は一瞬変えようかと悩んだが、派手でも地味でもどっちにしろ恥ずかしいのだからとそのままにした。
焦るあまり薄化粧どころかパウダーをぽんぽんぱんぱんっと叩いて他適当に色をつけた。
泣いて剥げたアイメイクを思い出し、違うメーカーのものを買うべきかとそんなことを玄関を出る瞬間に思った。
だらっとしていた空気が嘘のように消え去り、文香は暗くなった外に焦りながらもほっとした。
さくらから貰った名刺を取り出す。
不思議な名刺だ。
文香にはただの白い紙にしか見えないのに。
タクシーの運転手に見せればすぐに店まで運んでくれるというさくらを疑う気持ちは湧かない。
常識など無意味だ。
駅近くの繁華街まで走り、そこでタクシーを呼ぼうと手を上げた文香は背後から勢いよく肩を掴まれた。
「おい、フネっ!」
「は……?」
「さっきから呼んでのに、なんで無視してんだよ!?」
「…………は?」
誰だ、この男は。
文香は酔っているのか、顔の赤い男を前に警戒を露にする。
無遠慮に肩を掴んで来た手を振り解き、一歩後ずさった。
「すみません、人違いだと思います」
下手に関わり合いになりたくない。
硬く強張った表情と冷たい口調が文香の心情をよく表している。
目の前の、たぶん同世代ぐらいの男は文香の言葉に一瞬驚いたように目を丸くし、次いで顔を更に真っ赤にした。
「ふざけんな! 俺だよ、俺! 剛田、高校が一緒だった……」
今度は文香が驚く番だ。
「剛田……?」
あの、チャラくて軽くて、文香をあからさまに馬鹿にしていた同級生と目の前でスーツを着こなした一見真面目な男が同一人物だと本気で分からなかった。
そもそも文香の知る高校の剛田は場末のホストみたいな髪型で、ピアスして、毎回馬鹿みたいに生徒指導を受けても懲りず、優の友人だと紹介されても風紀委員を押し付けられた当時の文香とは徹底的に相性が悪かった。
記憶の中の高校の同級生を思い出そうとし、何故か学校の玄関でニヤニヤと文香達を待ち構えていたことを真っ先に思い出した。
『おっはよー 童貞君』
そうだ。
あのときのにやにやとした目の前の男に、文香は物凄くイラっとしたのだ。
「…………マジで、俺のこと覚えていないのか?」
信じられないと言わんばかりに呆然とする元同級生に文香はなんと答えるべきか分からず、先ほどの勢いは一体どこに消えたのか、二人の間に沈黙が落ちる。
「ちょっと、なんで突然走って行っちゃうのよ!」
剛田の後ろから不満気な女の声が上がった。
「あ、明美……」
剛田ははっとしたように肩を震わせて声のした方を振り向く。
「もう、一体なんな…………」
その女の口調、声色に見覚えがあった。
ちゃらんぽらんだった剛田の軽々しい声は成長して昔よりも低く、落ち着いたものになっていたが、夜道に響く女の声は昔と変わっていない。
「え、嘘…… フネ?」
「……」
ついでに文香は自分の高校の頃のあだ名を思い出した。
優と付き合った以降は表だっては呼ばれなくなったが、彼らが陰で文香の悪口を言うときにわざとらしく使っていることは知っていた。
今聞いてもダサい。
悪意前提なのだから、可愛くなりようもないが。
面倒な奴らに捕まったというのが文香の本音である。
応援ありがとうございます!
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