奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

28 君ほど世話の焼ける女はいないね 中

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 なかなか動かない文香に傍で給仕していた奴隷が何か言おうとするのをさくらは遮った。
 さくらの命令を聞かない文香に、さくらに忠実な奴隷は苛立っているのだ。
 しかし、当のさくらは下手に今の文香に触れて欲しくなかった。
 焦れる気持ちもあるが、不思議とさくらは葛藤している文香を見ても苛立たない。
 思い悩み、追い詰められる文香。
 泣きそうなくせに、元来の気の強さで必死に我慢しようとしている姿や、懸命にさくらの命令に従おうと服を脱いでいく姿は想像以上にさくらの心を満たした。

 文香を苛めるのは愉しい。
 愉しくて、そして興奮する。

(おかしいな……)

 下半身が緩やかに昂るのが分かった。
 自分自身のフェロモンが自然と文香に向けられるのも。
 しかし、当の文香はまだその匂いに気づいていない。
 そして、さくらもまた文香のフェロモンを、精気を感じ取れなかった。
 ここまでさくらを興奮させたくせに、肝心の餌となる精気が一向に来ない。
 代わりにさくらのフェロモンに当てられた奴隷が必死に欲望に堪え、悶々としたさくら好みの精気を溢れさせている。
 さくらに早く食べて欲しいとばかりに纏わりつく奴隷の精気を今だけは鬱陶しく思う。

 文香の精気が奴隷に掻き消されたわけでもない。
 
(あれだけ、注いだのに……)

 危うく文香のせいで干からびるところだった。
 兄弟の助けが無ければとっくにさくらは消滅していただろう。
 ただの人間の女一人。
 まったく、割に合わない。

 淫魔であるさくらの餌は人間の精気だ。
 詳しく言えば精気の一種である「性的欲望」によって溢れるフェロモンに近いエネルギーのことである。
 ようするにエロく、悶々としたときに溢れる人間の性欲フェロモンだ。
 さくらの尊敬する兄弟である鳴海はこれを「エロナジー(エロいエナジー)」と呼び、淫魔界に広めようとしているが、たぶんまったく広まっていない。
 横も縦も繋がりが薄く、究極の超個人主義である淫魔が素直に聞くはずがない上、そもそも同胞に遭遇することは滅多にないのだから。
 ただ、一人淫魔がいれば他にも何人かいるという法則がある。
 今のところさくらがまとも・・・に関わったことがあるのは兄だけだ。
 必然的にさくらの知識は兄であり名付け親である鳴海に寄る。

 色々考えたが、ようするに文香は圧倒的にエロさが足りないのだ。

(どこの修行僧だよ)

 エロが足りない=色気がない=エロナジーが発生しない。
 そんな単純すぎる法則でしか説明がつかないが、さくらとしては認めたくない事実である。

 こうしてフェロモンを少しずつ文香に向け、性欲を煽ろうとしているのに、当の文香はまったく反応していないという事実。

 屈辱である。

(これだから枯れた女は困る。……いや、枯れた女の方がもっと濃いものを出すはずだ。なんだこの女。なんで発情しない? 僕に欲情しない?)

 さくらは、文香に興奮しているのに。

 思わず、舌打ちが出た。
 さくらの舌打ちに文香がぴくっと肩を震わす。
 手が止まったままの自分に向けられたものだと思ったのだ。
 ある意味では文香に向けられていたが、それは文香の行動よりも文香の枯れ井戸のような底なしに何も湧いてこないカラカラの性欲に向けたのである。
 あとは、そんな旨味どころか味も何もしない文香に何故か興奮している自分の不可解さに対してさくらは戸惑い、苛立っていた。

「……ご、ごめんなさい」

 文香の小さすぎる声がさくらの耳に入る。
 聴覚が優れたさくらにしか聞こえないほど小さい。

 青白かった顔が少しずつ熟れていく。
 さくらの目の前にあるステージ上のベッド。
 天蓋のカーテンがまるでオペラカーテンのように垂れ、一人舞台の上で色気のまったくない女がはらはらと涙を零している。
 
「わ、からなくて…… じ、い…… なんて、したこと、なくて」

 情けないとばかりに、顔を歪め、文香はごしごしと目を擦る。
 なんとも意地っ張りな仕草だ。
 それなのに、その声は弱弱しく擦れ、さくらに助けを求めていた。

「やり方が…… わからない、の」

 まるで自分自身の無知や経験不足を責めるように文香は唇をきつく噛む。
 さくらの視線から逃げるように顔を俯かせた。
 
「は……?」

 文香の言っていることが最初さくらにはよく分からなかった。

「……自慰を、したことがない?」

 その歳で、というよりも。
 その姿で?という方が近い。

 文香は色気がない。
 しかし、素材はこのレストランでも一級品に入る。
 冷たく整った美貌に男を誘う豊満な肉体。
 さくらはどちらかといえば見た目清楚で華奢な女の方が好きだ。
 文香はどちらかといえば「大人な女」好みの鳴海の餌に相応しい。
 見た目だけの話でいえばだが。

「……君って人妻じゃなかったっけ?」
「……元、だけど」

 離婚したことはなんとなくわかっていた。
 この女は身持ちが堅いことをさくらはよく知っている。

 さくらとて何もこの世の全ての女が日常的に自慰をするとは思っていない。
 どちらかといえば幼気な泣き言を洩らす文香に、何故か焦ってしまったのだ。

(焦る? なんで焦ってるんだ?)

 考えれば当たり前だ。
 これだけ性欲がないのだから、したことが無いと言うのも当たり前の話である。
 世の中にはそういうタイプもいるのだと、いつだったか兄弟にも言われたじゃないか。
 その枯れ井戸に眠る水脈を掘り起こし、潤させてびちょびちょ大洪水にすることこそ淫魔の本領、高尚な趣味だとも言っていた。

(うん。この女が自慰したことがなくても全然不思議じゃない。焦る必要なんてない)

 うるうると目を潤ませ、ごめんなさいと小さく謝る文香。
 扇情的な恰好で、男を知っているくせに性的なことに疎く、自慰もしたことがなく、そのことをさくらに泣いて謝る文香。

 ぞわぞわっとした。
 あるいはぞくぞくっと。
 思わず口元を押さえ、顔を隠す。
 
 不思議な感覚にさくらは戸惑った。

(くそっ、なんなんだよ…… こいつ……)

 けど、死んでも戸惑っている自分を文香に見せたくなかった。
 そもそもあんなに意地っ張りで可愛くなかったくせに。
 今の文香はさくらに素直すぎる。
 奴隷になれ、自分に尽くせとは言ったが。
 それにしては順従すぎるのではないか?

 例えるのなら、汚く傷だらけの野良猫を手懐けようとし、散々引っ掻かれ逃げられたのに、気づけばおずおずと足元にすり寄って来て、みぁーと小さく鳴かれたような。

 もしもさくらの敬愛する兄弟ブラザーがここにいれば、今のさくらの心境をそう分析しただろう。

(む、ムカつく…… 今までも散々ムカつくって思ったけど…… 今は違う意味で、ムカつく……! ああ、なんなんだろう…… この、ムカつくもやもや感!)

 それは「もやもや」というよりも「もんもん」だろう。
 もしもこの場にさくらの兄弟こと鳴海がいれば、そう訂正していたかもしれない。



* 


 文香は自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。
 自慰など、保健体育でほんの少し齧った程度でまったく未知のものだ。

(そんな、皆…… やってるものなの?)

 勉強は人並みにできると思っていたが、文香はそういった知識が極端に少ない。
 そもそも親しい同性の友人も高校を境にぱったりいなくなり、後は彼氏であり元夫となった優としか親密な関係を築けなかった。
 文香は優としかセックス経験がなく、また夫婦揃って性欲が薄く、月に二回やればいい方だ。
 二十代という盛りの歳で考えるとだいぶ淡泊である。
 レス気味かと言えば、それもまた違う。
 夫婦一緒のベッドで手を繋いで寝たり、身を寄せ合ったり、キスするだけで二人は満足していたのだ。

 そんな自分と同じく淡泊だと思っていた夫をあっさり他の女に寝取られたわけだが。

 深く考えると悪夢が再び蘇りそうで、文香は悍ましい記憶を振り切るように首を振った。

「わかった」

 そんな文香に、さくらが平坦な声をかける。
 泣き腫らした目でさくらを見れば、前のめりになって真剣な表情で文香を見ていた。

「僕が教えてやる」
「え……?」
「自慰、オナニー、マスターベーション。ようは、やり方が分からないんだろう?」

 名画として残したいほど、真剣な顔をしたさくらは美しく、また男らしい。

「そんなの、簡単じゃないか」

 息を呑むほど美しいさくらが、低く、なんだか少し擦れた声で文香に命令する。
 今のさくらに逆らえる者はそうそういない。

「僕の言う通りに、弄れ」

 それほどまでに、逆らってはいけない威圧感があった。

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