奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

27 薄情な女は大っ嫌いだ 後

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 先輩の背中が消えたのを確認した文香は、近くのベンチに座り、後輩からの贈り物の中身をいそいそと確認した。
 後輩が文香に贈ってくれたのはボールペンだ。
 箱の形でなんとなく想像はしていた。
 予想以上に上品な光沢の、綺麗なボールペンだ。
 さり気ないブランド名を見れば随分と無理して買ったことが分かる。
 ローマ字で彫られた自分の名前を見つけたときは妙に気恥ずかしくなった。

(良かった…… 離婚したことが、早めに広まって)

 華やかな桜色は、文香には少し可愛すぎる気もする。
 握ってみると、確かに使いやすそうだ。

 メモ帳に試し書きしようとして、結局文香はそのボールペンを丁寧に元の箱に戻す。

 勿体なくて、まだしばらくは使えそうにない。

(……綺麗な色)

 蓋を閉める前に、文香はキラキラ輝く桜色をじっと見つめる。

 背中をぽんっと押された気がした。
 穴底にではなく、空に向かって。

「……」

 なんだか、このまま帰るのが惜しい気がした。
 文香は重たい荷物と花束を大事に抱え、タクシーに乗り込んだ。



* * * * * *


 星田と以前飲んだ居酒屋の名前を文香は覚えていた。

「ここから口で言うので、その通りに走ってもらっていいですか?」
「はぁ……」

 指定の店に着いた途端そんなことを言い出す客に運転手は戸惑っているようだが、ぽつぽつと話す文香の指示通りに走ってくれた。
 素直に星田に連絡すればいいのだが、あまり深く追究されたくない。
 星田にあの破廉恥な「レストラン」のことを聞くのは最終手段だと心密かに文香は決めていた。

 文香はあの夜の記憶を探り、窓から見覚えのある建物や看板に沿ってタクシーを走らせる。
 酔っていたせいか、記憶は正確ではない。
 こんな感じで店に辿り着けるとは思えなかったが、今こうして探さないともう一生さくらに会おうという気が起きない気がした。

(そもそも会ってどうするの……?)

 それは文香にも分からない。

 ただ、さくらはなんらかの手段で文香を助け、運命を捻じ曲げたのだ。
 一体どうやつて飛び降りた文香を助けたのか。
 考えれば考えるほど、尋常ではない。

 けど、不思議と恐怖はなかった。


「本当にここでいいんですか?」

 運転手が心配そうに文香に声をかける。
 繁華街の路地裏にスーツ姿に何故か紙袋や花束を持っている文香は悪目立ちしていた。
 女の夜道の一人歩きは危険だと言われたが、文香は気持ちだけ受け取った。

 果たしてここが以前星田と来た路地裏なのかは分からない。
 記憶も曖昧で、あのときのタクシーはぐにゃぐにゃと悪酔いしそうなほど曲がっていた気もするし、真っ直ぐ走っていた気もする。
 ただ、雰囲気は近いと思った。

「……」

 コツコツとパンプスのヒール音が響く。
 遠くからは明るいネオンが見え、電灯もある。
 真っ暗というほど暗くはないし、店らしき建物や人の気配も微かに感じられた。

 ただ、妙に心がざわつく。
 こんな治安の悪そうな路地裏など文香にはほとんど縁が無かった。
 そんなことを言えば文香が探している店にはもっと縁が無い。
 あの店を思い出すと、途端に胸がムカムカする。

「うっ……」

 食欲がここの所なかった。
 今日はせっかくの送別会ということでなんとか気持ちだけで食べて飲んだりしていたが、ついあのときの「匂い」を思い出し、気持ち悪くなる。

 あの、脳髄が溶けそうなほど、甘い匂い。
 熟れ過ぎて腐ったような匂いは思い出すだけで吐きそうになる。

「っぁ、」

 よろよろと、その場にしゃがみこんだ文香は自分の口を必死に抑えた。
 こんな所で吐くわけにはいかず、けど一度思い出すと止まらない。
 一度嗅げば二度と忘れられない。

「は、はっ…… さ、くら」

 さくらの匂い、香り。
 この間見かけたときに感じた香りはうっとりするほど心地よかったのに。
 無理矢理さくらに囚われたときに感じた匂いは文香にとっては悪臭でしかない。
 手に持っていた花束に鼻を埋め、記憶の匂いを消し去ろうとした。

「……きもちわるい」

 ただただ気持ち悪かった。

「……相変わらず、君ってムカつく女だね」

 あまりにも気分が悪く、思い出しゲロしそうな文香は夜の路地裏に響いた低い声に初め反応できなかった。
 舌打ちされたと気づき、吐き気のことも忘れて文香は慌てて顔を上げる。

「間抜け面め」

 冷たくせせら笑う声を、忘れるはずがない。
 目の前に、さくらがいる。

「さ、さく、ら……?」

 あまりにも呆気なく見つけたさくらに、文香は呆然とした。
 そんな文香を見下し、さくらは鼻を鳴らす。
 じろじろと文香の顔を、しゃがんだままの体勢をじっと見た後、ふいっと顔を逸らす。
 あんなにも文香を捕まえようと躍起になっていたさくらが嘘のように、冷めた表情を浮かべている。
 しかもそのまま立ち去ろうとするのだ。

「まっ、待って……!」

 慌てて文香は追いかける。
 咄嗟に鞄と花束だけ持ち、処分する予定の紙袋は路地に置いた。
 追いかけるのに邪魔だと思ったからだ。
 
「お願い、待って!」

 さくらはゆっくり歩いているはずなのに、一向に追い付かず離れていく。

 小さいとはいえ花束が邪魔だった。
 それでも文香はそれを捨てるつもりは毛頭なく、息を切らしてさくらを追いかけた。
 不思議な話だ。
 以前はさくらから懸命に逃げていた文香が、今度は逆に追いかけているのだから。

 夜の空に文香の声が響く。
 けど、さくらは振り向かない。
 文香にまったく興味がないように。

「待って…… ねぇ、待ってよ……っ!」

 胸が苦しいのは、慣れない運動のせいか。
 それとも、さくらに無視されるのが苦しいのか。

 消えていく背中に焦り、気づけば呼び止める文香の声にじんわりと涙が混じった。
 涙がぽろっと零れたことに驚き、その拍子に文香は何かに躓いてその場に転んだ。

「いっ……」

 パンプスを履いていることも忘れて、派手に走って転んだ衝撃は大きい。
 片足の靴が脱げ、どこかに転がって行く。
 最悪だ。

「っ、ま…… て、」

 足を挫いたのか。
 なんだかじんじんと痛む気がする。
 擦りむいたせいでストッキングが破れ、靴が脱げ。
 花束だけがなんとか形を保っていた。

「ふっ、まって、て…… いってる、のに……!」

 涙が次から次へと溢れ止まらない。
 ただ転んだだけなのに。
 どうして、いい歳をしてこんな風に泣いているのか。

 泣いている自分が恥ずかしくて、そして悔しい。
 これも全部、

「さくらの、せいよ……」

 全部、さくらが悪い。

「言い掛かりだね」

 涙をごしごしと拭く文香は頭上から聞こえて来る声に、恐る恐る顔を上げる。

「うわっ、よくそんな化粧をして顔を擦れるね」

 嫌そうに顔を顰め、さくらは腰を折って文香を見下した。
 涙を擦ったせいでアイメイクが崩れたのかもしれない。
 さくらがじろじろと文香の顔を見ているのが分かったが、今の文香はそれに文句を言う気力もなかった。

「ブスが更にブスに進化した…… いや、退化か」

 そう言って笑うさくらは最低最悪なのに、やはり間近で見るその顔は酷く美しく精悍だ。

「転んだぐらいで泣くなんて、君っていくつだっけ?」

 痛いところを突かれた。
 さくらの言葉に文香は悔しくて唇を噛む。
 いつもならば言い返したり、無視したり、なんとか気丈に振る舞ってこの場を立ち去るだろう。

 けど、

「っ、そんなの…… 私だって……」

 どうしてか。
 文香の目にまた涙が滲む。
 分からない。
 涙腺が壊れたように、涙が止まらない。

「さくらの、せいよ……」

 そうだ。
 やはり元凶はさくらにある。
 文香がこうして痛い思いをしているのも、涙が、止まらなくなるのも。
 さくらを前にすると、感情の歯止めが利かなくなるのは。
 
「あ、なたを、前にすると…… 馬鹿みたいに泣いちゃうのよっ、私だって、原因なんて分からないわ」

 ぷいっと、文香は顔を背ける。
 まったく理由になっていないと本人が一番よく分かっている。

「……へぇー」

 また馬鹿にされるか、呆れられるのかと思った。
 けど、さくらの口から出たのは、どこか楽しそうな笑い声だ。
 見れば、口を押えてさくらが笑っている。

「……まぁ、これぐらいで許してあげるよ」

 笑いを噛み殺し、さくらは何も分かっていない文香の近くにしゃがむ。
 一気に顔が近くなり警戒する文香の前に、靴を置いた。

「まったく、君って本当危なっかしいね」

 それは文香の足から抜けたパンプスだ。
 さくらが拾ってくれたのだ。

「あ、ありがとう……」

 目の前に差し出された自分の靴。
 何故か、妙に気恥ずかしくて、顔が赤くなる。
 一連の自分の言動があまりにも幼稚だったせいか。

「で? 僕を必死に追いかけて、何がしたいわけ?」
「……それは」

 また、痛い所を突かれた。
 文香とてさくらに会ってどうしたいのか分からない。
 戸惑うように視線を彷徨わせ、文香は考え込んだ。

「それは…… その……」

 そんな文香にさくらの笑顔が徐々に強張る。

「……君、僕に恩があるよね? お礼とか、恩返しするために追いかけて来たんだろう?」

 イライラとそう口にするさくら。
 文香の顎を掴み、鼻先が触れそうなほど近づいて来る。
 顔の近さに驚くよりも、文香はさくらの言う「恩」という単語に目を見開いた。

「忘れたわけじゃないんだろう? 覚えてるよね? 僕が、君を助けたこと」
「あ、あれは…… やっぱり、夢じゃ、ないのね……」
「何、寝ぼけたことを言ってるの? 当たり前だろう。だいたい、僕があれから君のことをどれだけ待ってたと思う? いつまでも来ないし、あのマンションに行ったらもう引っ越してるし、繁華街で会ったのに追いかけても来ないし。本当、最低。まったく、薄情な女だ」

 ぶつぶつと愚痴めいたさくらに文香は何か言い返したかった。

「そ、んな、勝手にあんたが助けたんでしょう……!?」

 それは文香の本音である。
 あのときの文香は本気だったし、今だって納得はしていない。
 人から見れば恩知らずな発言かもしれないが。
 自殺しようとしていた当人からすれば複雑だ。

「へぇー まったく僕に感謝してないんだ?」
「……」

 一番複雑なのは、心底迷惑だとも思っていないことだ。
 死んだと思って目覚めた朝。
 そのときの眩しい朝日に文香は何かに解き放たれたような一瞬の自由を感じたのだから。
 ぎゅっと抱える花束とて、もしも死んでいたら受け取ることもなかった。

「…………感謝は、してるわ」

 文香はこのとき苦悶の末に生と死を天秤にかけた。

「……生意気なことを言って、ごめんなさい。貴方には、感謝してる」

 月明りに照らされた花の美しさを思い、結局「生」に傾いた。

「あのときは本当に死にたいと思っていた…… けど、今は生きていて、良かったと思っている」

 ひらりと地面に落ちた花びらを愛し気に拾い上げる。

「命の、恩人だと思っているわ」

 滑らかな花びらの感触を知らずに死ぬのはもったいないと、文香の心は傾いたのだ。
 単純な自分を文香は笑った。



「なら、恩を返してよ」

 そんな、改めて生きてて良かった、死ななくて良かったと思い始めた文香をじーっと見ていたさくらが歪に口角を釣り上げる。

「え」

 立ち上がり、きょとんとする文香を上から見下ろす。

「君は僕に恩がある。どんな大金でも釣り合わない、命という恩が。なら、僕に恩返しするのが筋ってものだろう?」

 妖艶に、さくらは笑う。
 今すぐにでも舌なめずりしそうなほど、嗜虐的な色が浮かんでいた。

「恩って、でも…… どうすれば……」

 怯えるように眉を下げる文香はやはり幼く見える。
 真っ赤になった目はまた潤み出していた。

(兎みたいだ)

 さくらもその同胞も興奮すると瞳が赤くなる。
 けど、文香の場合だと何故か小動物のイメージが浮かぶのだ。
 不思議だなと思いながらも、さくらは自分が興奮していくのが分かった。

「簡単なことさ。命を僕に救われた君にしか出来ない恩返しがある」

 不安に怯える文香を見ると、なんだかむずむずする。
 嫌じゃない。
 むしろ、愉しい。

「僕の奴隷になれ」

 目を丸くし、さくらが差し出す手を凝視する文香。

(早く、この手を取れ)
 
 いい加減、待ちくたびれた。

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