奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

27 薄情な女は大っ嫌いだ 中

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 駅の近くの喫茶店で文香は恭一と会っていた。
 一月半ぶりに会う恭一は以前と同じく無表情だ。

「離婚したそうだな」

 会って早々、淡々と核心を突いて来る。

「ええ……」

 おかげさまで、と返したら恭一はどんな反応をするのだろうか。
 する気はないが、どうしてか恭一とは特別気が合わず、ついつい嫌味を言いたくなる。
 ある意味では調子が狂う男だ。

「君からの電話に出れなくてすまなかった」

 志穂とファミレスで対峙した後、文香は恭一に連絡をした。
 これ以上彼女と関わり合いになりたくなく、恭一から釘を刺して欲しかったのだ。
 結局、タイミング悪く恭一は国外にいたが。
 
「全ては俺の判断が甘かったせいだ。君に、迷惑をかけてしまった」

 そもそも恭一が国内にいなかったからこそ志穂は優と不倫することができたし、文香に接触することも、あの嵐の夜のように優に会いに行くこともできた。
 恭一はどうやら志穂が優に再び会いに行ったことを知っているようだ。
 けど、文香は恭一達の事情を全く知らない。
 恭一はいちいち文香の近況を知っているのに。
 まったく理不尽な話だ。
 
 恭一は淡々と要点のみしか語らない。

「俺は志穂とは離婚しない」

 そう言った恭一は真っ直ぐ文香の目を見ていた。
 
「……軽蔑するか?」

 恭一の目は微かに揺れている気がする。
 何故かすんなりと恭一の言葉が文香の頭の中に入って来た。

 そうか。
 恭一達は離婚しないのか。

「別に」

 特に感慨もなかった。
 意外に思ったが、納得もしていた。
 
 恭一は、つまり志穂の不貞を赦したということだ。
 冷酷で合理的な恭一が志穂を赦して夫婦関係を続けることに対する違和感と、そもそも淡泊なこの男だから続けられるのかもしれないという理解。
 正直、文香には分かるようで分からない。
 初めは文香も優とやり直そうと思っていた。
 けど、駄目だったのだ。
 
「何故、離婚しないのか…… 君は聞かないんだな」
「聞いてどうするんですか?」

 あの日喫茶店で恭一に夫の不貞を突きつけられたときと、まったく逆の立場に二人はいる。
 当時の恭一は文香に離婚しないのかと聞いた。
 悔しくないのか、と。
 なんと返したのかは覚えていないが、あの場で離婚という言葉を口に出さなかった文香をどこか哀れみ、批難していたと思う。

「興味ないんです。もう、私の中では終わったことなので」

 文香はもう優の妻ではない。
 優の不倫相手である志穂。
 その志穂の夫である恭一。
 この複雑で救いようのない関係は、文香が優と離婚した時点で切れている。

 遺恨が残ったとしても。

 例え優と離婚しても、離婚したからこそ、文香は永遠と志穂という女への恐怖、愛した人からの裏切りを忘れられない。
 離婚したからといって全て綺麗に流せるはずがないのだ。
 その内きっと、また優の夢を見る。

「終わったこと、か…… なるほど」

 恭一は冷たい文香の返答を静かに受け止めていた。

「……俺は、君のことを勘違いしていたのかもしれないな」

 紅茶のカップに口をつけながら、恭一は小さく零す。
 あまりにも声が小さく、文香が聞き返すと恭一はなんでもないと首を振った。
 
 海外から帰って来たばかりらしい恭一は少しだけ草臥れているようにも見えた。
 この冷たい男にもそれなりの葛藤があるのだろうか。
 そんなことを文香は思った。

「今日君を呼び出したのは、謝罪をするためだ」

 ティーカップを置き、恭一はゆったりと言葉を紡ぐ。
 相変わらず尊大な態度だが、何故か黙って耳を傾きたくなる雰囲気があった。
 たぶん、恭一は文香が想像する以上に器用で、口調も表情もオーラすら計算しているのだろう。
 だからこそ、その本心が見えない。
 見ても仕方がないが。

「妻が原因で君は離婚する結果となった」

 こちらに注目する者がいないとはいえ、恭一が語ることは生々しい。

「俺の管理が行き届かなかったせいもある。渡辺志穂の夫として、改めて君に謝罪がしたい」

 不遜な恭一が文香に頭を下げている。

「申し訳ない」

 誰に見られるかも分からない、こんな人目のある場所で。

「……どうして、渡辺さんが謝るんですか?」

 妙に喉がひりつき、文香は慌てて喉を潤そうと珈琲カップを手に取ろうとして、上手く取れなかった。

「妻の不始末は夫である俺の責任でもあるからだ」

 恭一の眼鏡越しの真っ直ぐな瞳に。
 初めて見た誠実な眼差しに文香は動揺した。

「俺は、あいつの夫だ。あいつを妻として扱うと決めたのなら、もう覚悟するしかない」

 恭一の顔は初めて見たときと同じ、無表情だ。
 けどその目は、その声色はどこか温かい。

 恭一は、気づいていないのだろうか。

「妻の罪は、夫である俺が償うべきだ。それが、ケジメだろう」

 淡々とした言葉の奥に、苦悩と、そして微かな情があった。


 恭一が文香に頭を下げていたとき。
 恭一は気づかなかった。
 謝罪する恭一を見て、文香が何を思ったのか。

 例えるのならそれは、穏やかな絶望だ。

(……ああ、そうか)

 恭一が話すのを、文香はどこか遠い異国の出来事のように眺めている気分だ。
 
 誓約書にサインして欲しいという恭一の願いに文香は従った。
 内容は単純で、志穂が優と不倫したという事実を今後一切外部に漏らさないこと。
 その代わり、文香は恭一から多額の慰謝料を貰うことになっている。
 志穂が原因で離婚し、精神的な苦痛や離婚による社会的損失と経済的損失を受けたから……というのが恭一の言い分だ。
 なるほど、妻の罪を償うというのはこういうことかと文香は納得した。
 提示された額は何度確認しても桁が違ったが、名目上は慰謝料という形になる。
 万が一半分が税でとられても、十分お釣りが来ると思った。
 元々、文香のお金ではない。

(あんなに働いてたのが、馬鹿みたい……)
 
 文香の退職金など比較にならない。
 予期せぬ形で、まったく望まない形で、文香はこうして大金を得た。
 優の慰謝料の代わりに、文香は元義父と元夫の不倫相手の夫から多額の慰謝料を手に入れたのだ。

(……すごいな)

 義父と恭一。
 いや、優と志穂を凄い・・と文香は思った。

 二人のためにこんな大金が動く。
 義父は息子のために、そして恭一は妻のために文香に頭を下げた。
 特に、恭一の場合は意外すぎて、文香はショックすら受けていた。

 志穂が犯した罪を恭一は当然のように償おうとしている。
 世間体のための口止め料だと言えばそれまでだ。
 しかし、文香には分かってしまったのだ。

 恭一のあの冷めた口調の奥に潜む、燻るような弱弱しい情を。
 どんなに冷たく志穂を突き放すように言っても、恭一は心の底では志穂に情を抱いている。
 それが愛情かはまた別のことだ。

(こんなにも、愛されてる……)

 しかし、再び裏切った志穂を恭一は結果的に赦した。
 そして、何の力も持たない文香に頭を下げた。
 不貞をした妻の後始末のために大金を用意した。

 冷徹な男だと思っていた。
 その冷徹な男は志穂を守ろうとしている。

 そのことに、文香は動揺した。

 じんわりと。
 両親に愛される優に嫉妬したときよりも、もっとゆっくりと深く沁み込んでいくものを自覚した。

(優も、あの女も…… 二人とも、こんなにも大事に守られて、愛されている)

 恭一の手で、文香は底の無い穴に突き落とされた気がした。

(私は……)

 嫉妬よりも、もっと深く。

(……誰も、いない)

 文香は諦めたように、ぽっかり空いた穴に落ちていく自分を見届けた。
 きっと、最後に文香の背中を押したのは恭一だ。


* * * *


 家まで送るという恭一を断り、文香はとぼとぼと歩いていた。
 駅まで歩こうとしていたのに、気づけば繁華街に入っている。
 
 ちらちら見えるネオンの灯り。
 飲み屋が立ち並ぶ賑やかな通りは今の文香には不釣り合いなほど明るく見える。

「ここ……」

 なんとなく帰りたくなくて。
 見えて来る看板を辿って歩いていた。
 見覚えがあるなと思ったが、確かここの近くの居酒屋で文香は星田と飲んだのだ。

 星田とはあの後連絡をしていない。
 文香からする理由もなく、躊躇っていた。
 暇なときに連絡してくれと言われても、それが社交辞令なのか本気なのかも分からない。
 もう会社の後輩ではない星田と自分の関係がよく分からず、好意に甘えようと思う気持ちも湧かなかった。

「……」

 うじうじとスマホの画面を操作し、躊躇う。

「……帰ろ」

 たぶん、今の文香は人恋しいのだ。
 あのときと同じように。
 だから、また星田に慰めて欲しいと思ってしまう。

 これ以上、甘えてはいけない。
 迷惑だ。
 それに、これから文香は独りで生きていく。
 まだ、優と別れた後の具体的な人生設計も見えない中、独りで手探りして行くしかない。

(……もしも)

 文香は立ち並ぶビルの屋上を見上げた。
 
(もう一度、あそこから……)

 もしも、このまま虚ろな穴にずぶずぶと落ちていくぐらいなら。
 もう一度、落ちてしまいたい。
 何かの手違いで文香は生きている。
 どうしてか、目覚めたあのときは妙に全身から力が湧き、優のことなんてどうでも良いと思うようになった。
 あれを夢だと断定することもできる。
 けど、文香には分かる。
 あのときの自分の感情、衝動が夢のはずがない。

 きっと、一回狂いに狂って。
 全てがどうでも良くなったのだ。
 文香の全てだった優のことがどうでも良くなり、それでも離婚を切り出したときの変わり果てた優に失望してしまった。
 
(私、何がしたいんだろう)

 自分が何をしたいのか分からない。
 いい大人が、情けない話である。

(優と別れて、会社も辞めて……)

 たぶん、文香は優を吹っ切りたいのだ。
 だから、優と離婚し、新居から通いやすいという利点で決めた会社も辞めようとしている。
 もしくは、優と文香のことを知る全てから逃げたいのかもしれない。

(そうか、逃げたいのか)

 自殺しようとして、失敗・・して。
 そうしたら妙にすっきりして、優のことを吹っ切れた気がして。
 でも、本当は吹っ切れていなくて、必死に優の影から逃げようとしている。
 
 どんなに逃げても、文香の本質は変わらない。
 義父や恭一とのやりとりで文香は嫌でもそのことを実感した。
 
(子供みたい……)

 ないものねだりな、我儘な子供。
 愛されている優と志穂が羨ましくて、どうしてどうしてと泣き叫ぶ子供そのものだ。

(なんで……)

 どうして、こんな文香を生かしたのだろうか。
 さくらはどうして文香を助けたのだろう。


 そのとき。
 甘い香りが花びらのように文香の鼻先に触れた。


 反射的に俯いていた顔を上げ、周囲を慌てて見回す。
 人通りの多い繁華街には色んな匂いが混じっている。
 一瞬気のせいだと思った。

 けど、確かにあの匂いがしたのだ。
 さくらから香る、あの甘い匂いが。

「さくら」

 匂いを思い出したからなのか、さくらの名を呼ぶ幻聴まで聞こえ…… 

「え」

 いや、文香が聞いたのは幻聴ではなかった。
 反射的に声のした方を振り向けば、目立つ長身の男の後ろ姿が目に入った。

「さくら……?」

 人込みが、自然と避けていく。
 間違いない。
 例え後ろ姿でも文香はさくらを見間違えない自信があった。
 人込みの中、ちらちらと見え隠れするさくらの均整の取れた背中。
 風に靡く、男にしては長い黒檀の髪。
 一瞬見えた横顔。
 さくらが微かに笑った気がした。

 不思議と他者を圧倒させるオーラを放つさくらを注視する者はいない。
 
「まっ……」

 さくらの周りにいる、美しい男女を除いて。

 文香は追いかけようとして、足が止まった。
 さくらは一人ではなかった。

 さくらが笑みを向けたのは、その隣りでうっとりと見上げている美しい女だ。
 反対では気だるげにさくらの腕に胸を押し付けてしがみつく女もいる。
 さくらの後ろをついていく男もまたよく見ればあの店で見た店員だ。
 目立つ美男美女の集団。
 その中心にいるさくらはやはり際立って美しい。

 人込みがさくら達を除けていく。
 不自然なほど誰もさくら達に気づかない。
 文香を除いて。

「……」

 追いかけようとした。
 さくらを追いかけ、問い詰めようとしていたのに。
 
 美しい男女に囲まれ、文香とはまったく違う小柄で可憐な女に微笑みかけるさくらを見て。
 文香の足はまったく動かなくなってしまった。

 呆然としている間に、さくらが消えていく。

「……え」

 道の真ん中で突っ立っていた文香が邪魔だったのだろう。
 誰かの肩がぶつかって、文香は漸く正気に戻った。

 そして、何故自分が追いかけるのを止めたのか分からず、しばらくその場で考え込んでしまった。

「な、なんで……?」

 さくらに再び会った衝撃と、そして意味の分からない自分の行動に悩み、文香は少しの間だけ恭一とのやりとりを忘れた。



* * * * *
 

 もっと息苦しいかと思っていた一ヵ月も気づけばあっという間に過ぎていく。

 退職日。

 既にデスクの整理も終わり、紙袋一つ分入る程度の荷物だけが残った。
 最後に一言二言挨拶し、おざなりな拍手が響く。
 上司と、共に入社した同期が代表で挨拶するとき、その顔は不自然なほど笑顔で、やたらと親し気な猫なで声だった。

 それで終わりだ。

 文香の目の前でわいわいと帰り支度をする面々を見て、逆に文香はほっとした。
 特に行きたいわけでもなかった職場の飲み会に、当たり前のように文香の存在を無視して盛り上がる。
 今日、わざわざこの日に飲みに行こうと計画する同僚や上司の分かりやすい態度に、次第に呆れに近い感情が浮かぶのも仕方がない。

 ああ、辞めて良かったと。

 それもまた、文香の変化の一つだ。
 今までの文香なら、ただ自分を責めていただろう。
 人望のない自分を嘆き、そしてまた心の奥底で優と比べて更に自信を失い、また嘆く。
 その繰り返しだ。

 今の文香はどこか以前の必死にクールぶっていた自分よりもずっと、物事を割り切って見ている気がする。
 所詮、その程度の繋がりだ。
 哀しむほどの未練もなかった。

 けど、全員が全員、同じではない。
 そんな当たり前のことを、今更気づいた。

「よし。じゃあ、今から送別会だ!」

 その一人がこの目の前の男だ。
 新人だった文香の指導係であり、今は幸せな家庭を持つ、どこか憎めない先輩だ。
 先輩と他数人が文香のために送別会を計画していると聞いたとき少し驚いた。

「でも、今日は飲み会が……」
「いいって。だって、もうこっち予約しちゃったし」
「……」

 それはそれで少々強引すぎるのではないかと思ったが、そうでもしないとどうせ断るだろうと言われてしまえば何も返せない。
 気持ちは正直嬉しい。
 けどあからさまに文香を敵視する上司のこともある。
 文香はもうここを去るが、先輩達はそうもいかないだろう。

「気にし過ぎだって。あくまでこっからはプライベートな時間だし。香山さんは俺にとっては可愛い後輩なんだから。俺や、他の皆が気持ちよく送り出したいんだよ」
「後輩って言っても、途中から完全に追い抜かされていたけどな」
「うっせー」

 直接ではないが、入社当時に他の新人と共に文香に仕事のノウハウを教えてくれた者や、仕事を引き継ぐためにここ一ヵ月間みっちりと教え込んでいた後輩達。

「俺達が香山さんをちゃんと送りたいんだ」

 頼むよと、そう言われてしまえば文香はもうそれ以上何も言えない。

 そうして、ひっそりと終わるはずだった退職日は意外と賑やかな最後となった。
 予約していたという居酒屋に連れ込まれ、文香を置いて盛り上がる面々。
 お酒が得意ではない文香の為にソフトドリンクを注文してくれたり、食の細い文香の小皿に色んな料理を載せて来る。
 話下手な文香を巻き込んで、先輩が昔話を始めたり、それに茶々を入れたり笑ったり。
 決して和やかな空気とはいえず、皆がどこかしら気を遣って飲んで騒いでいた。
 たぶん、この人達は文香に同情している。
 けど、文香がそう思われることが嫌なことも知っているのだ。

 きっと、以前の文香ならそれを煩わしいと思ったし、心底申し訳ないと思った。
 そして、他人に同情される自分が嫌で、更に鎧を強固なものにしただろう。

 餞別だからと、結構な値段のする居酒屋の代金は先輩達が全て払ってくれた。 
 
「香山先輩には本当にお世話になりました」
「これ、使い勝手がいいって評判だったので…… どうぞ新しい職場で使ってください!」

 特に同性には嫌われていたり、怖がられている自覚があった。
 だからこそ、照れたながら小さな花束と小さく細長いプレゼントを差し出す後輩二人に、文香は自然と自分が笑っていることにも気づかないほど、嬉しかった。

「ありがとう」

 こんなにも柔らかく自然に感謝の言葉を言うことができたのかと、文香はただ驚いていた。
 初めてかもしれない文香のその穏やかな笑みを見て、目の前で真っ赤になって固まる後輩達に気づくこともなかった。


 何かが、少しずつ変わっている。
 あの日、あの夜から。
 文香は少しずつ、変わっていた。

「辛気臭い顔して、また何か難しいこと考えてるのか?」

 駅まで送ると、飲み過ぎて真っ赤になった先輩が文香に声をかける。
 迷惑をかけたくないと断ろうとしたが、先輩は得意気に鼻を鳴らす。

「後でうちの嫁が迎えに来るから大丈夫~ 香山さんを駅まで送るってさっき言ったし」
「……そうですか」

 気安く、ときどき今日みたいに相手の都合も考えずに行動するところは三年前と変わらない。
 先輩が結婚したとき、文香は本当に驚いたし、そして心の底から祝福した。
 自分なんかを気にかけてくれた先輩はいわば恩人であり、恩人の幸せを喜び願うのは文香にとって当然のことだ。
 もちろん、それを口に出したことはない。

 けど、最後ぐらいは素直になってもいいと思った。

「……今、ちょっとだけ後悔しているんです」
「後悔?」

 首を傾げて、そのままよろけそうになっている男を文香はくすっと笑う。

「自分が、もっと素直だったらな…… と、思って」

 文香は自分の仕事ぶりを後悔したことはない。
 けど、対人関係や自身のコミュニケーション能力の下手さには反省するべき点も多々あると思っている。
 意地を張り、人に弱い所を見せたくないからと無意識に他人を拒絶していたのかもしれない。
 そう考えると諦めずに文香に付き合うこの男も、なんだかんだ文香に懐いていたという星田も、どっちも変わっているのだろう。

 文香は、十分恵まれていると思った。

「もっと…… 先輩や、他の皆と仲良くなれば良かった」

 ただ、それに気づくのが遅かったのかもしれない。

「……なんて。子供みたいですよね」

 でも最後にあんな風に送ってくれる人がいたことに気づけて良かった。
 照れを誤魔化すように文香は後輩達から貰った花束をくるくると回す。
 月に照らされ、しっとりと輝く花びらがとても綺麗だと思った。

「すごく、嬉しかった……」

 火照た頬を撫でる夜の風の気持ち良さに目を細め、文香はどこか晴れ晴れと笑う。 

「本当に、今日はありがとうございます」
「……あ、ああ」

 駅の改札口の前で、文香は恥ずかしいことを言ってしまった自分を誤魔化すように男に頭を下げる。
 
「その…… こちらこそ、今まで、ありがとう」

 先輩の声は少し擦れていた。
 酒のせいではないだろう。

「今まで、お世話になりました」

 ここでお別れだ。
 迎えに来るという先輩の奥さんのことは文香も知っている。
 あまり自分が気に入られていないことも。

 最後だからと言ってこれ以上先輩に甘えるわけにはいかない。
 
「……元気で、な」

 たぶん、もう二度と会わない。
 文香はここを離れることにしたのだから。
 それはきっと、先輩も分かっている。
 だから二人とも「さよなら」はあえて言わなかった。

 去って行く先輩の背中を見送りながら、文香は少しだけ寂しさを覚えた。

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