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≪過去②≫
26 汚いなぁ 中
しおりを挟む「離婚しましょう」
文香の輪郭が光りに溶けるのを、気づけば優はぼうっと見惚れていた。
憂いを帯びた文香の眼差しに吸い寄せられる。
「もう、優を赦せない。信用もできない。夫婦としてやっていけないの」
そうだ。
優は知っていたはずだ。
自分の妻は、とても綺麗な人だと。
そして、とても可愛い人なのだ。
優にだけ、こそっと甘えてくれる。
誰も知らない、夫である優だけが知っている文香。
幸福と愛情、そして優越感にいつだって満たされていた。
「……私の荷物は、後で業者に頼んで処分してもらうから」
けど、ふと気づいた。
「離婚した…… その後のことも、他にも話すべきことはたくさんあるわ」
文香が最後に優に甘えて来たのは、いつだろう。
「でも、今は……」
文香の唇が動く。
睫毛が時折震え、頬は微かに紅潮していた。
文香の声を、息遣いを。
優はただ聞き惚れ、見惚れていた。
文香が手に持っていた封筒から取り出した用紙。
視界に入っても、優は綺麗に磨かれ、白く細い文香の指に視線を集中していた。
そして、気づいてはいけないことに気づいた。
(指輪が……)
文香の左薬指には何もなかった。
指輪の跡一つ、そこには見当たらない。
「これにサインして」
眼前に突きつけられても、優の反応はまだ鈍い。
今すぐ、文香に指輪はどうしたのだと、問いただしたいと思った。
「……聞いてるの?」
平坦だった文香の声が初めて変わる。
どこか不安気な声に、優はただ惚けていた。
いけない。
指輪のことは、後にしよう。
これ以上文香を不快させてはいけないと、優は漸く文香に集中していた焦点を、目の前の用紙に向けた。
「……今日、役所閉まってるよな?」
咄嗟に出たのは、そんな間抜けな一言だ。
「ダウンロードしたのよ」
窓口まで行く時間が惜しかったのだと文香は素っ気なく返す。
冷たい文香の返事を優はただぼうっと受け止めていた。
現実感が湧かず、なんだかふよふよと雲の上にいるような気がする。
もっと、渡された離婚届に、妻のサインや印鑑が押された離婚届の用紙に焦るべきなのに。
心が追いつかない。
それなのに、身体は正直で。
優の手がぐしゃっと渡された紙を引き千切ろうとしている。
「破ったら、軽蔑するわよ」
そんな優の行動を見透かしたように、文香は淡々と冷めた言葉を投げつける。
その声に優ははっとした。
言い訳をするなら本当に優は無意識だった。
無意識に、子供のように渡されたその紙を、文香の意思を破り捨てようとしていたのだ。
「ち、ちが……」
そんなつもりはなかったと弁明したい。
けど、実際に優の手で皺が出来た紙が現実にある。
「文香、文香、ごめん…… 俺、俺……っ」
舌が縺れ、上手く言葉が続かない。
腕を組み、優を見る文香はまるで氷のように硬く冷たい。
だからこそ余計にその怜悧な美貌が際立っているようにも見えた。
こんな風に文香から存在を全て否定されるような凍える視線を向けられたことはない。
リビングで縋り付いたときも、寝室の廊下の前で哀願したときも。
文香からは優へのどうしようもない愛情があった。
優は肌で、それを感じていた。
けど、今の文香からは何もない。
目を逸らさず、優を真っ直ぐ見つめる文香の視界には確かに情けない優がいる。
でも、どうしてか文香は優ではなく、別の何かに気を取られているような気がした。
ただの被害妄想かもしれない。
現に、文香は裏切者の優と真っ直ぐ向き合い、優の言葉を聞こうとしている。
手を触れることを拒みながらも、文香はとても落ち着いていた。
それがこんなにも怖ろしい。
優を殴り、首を絞めた文香には決して感じなかった危機感、警告音が今更のように壊れて鳴り響く。
「ぁ、い、やだっ…… 俺は、離婚なんて…… したくない」
謝罪も言い訳も、償いも。
それらを押しのけて優の口からカラカラに飛び出たのはそんな陳腐な言葉だ。
「文香と、別れるなんて…… 嫌だ、絶対に、嫌だ……!」
ひらひらと離婚届がそのまま床に落ちる。
膝から崩れ落ちるように、優は項垂れ、文香を見上げた。
出来ることなら、その足に縋り付きたい。
どれだけ情けない姿を晒したって構わない。
あのときのように、もう一度文香の同情を買えるなら。
「嫌だ…… 文香と別れたら、俺は…… 俺は生きていけない」
「……」
文香の瞳が、確かに揺れた。
ほんの一瞬だったが、文香の僅かな動揺を優を見逃さなかった。
「なぁ、お願いだ、捨てないでくれ……! こんなこと、俺が言う資格はないって、分かってる! けど、けど…… 俺は、死ぬほど文香のことを愛している……! もう、信じられないかもしれない、信じてもらえないって、分かってる…… でも、それでも俺は……」
「……死ぬほど、ね」
文香の口元が微かに緩む。
「本当に…… 優って、 」
冷たく平坦な文香の声が変わる。
まるで、そっと優の頭を撫でるような優しい声だ。
「……ふ、文香?」
けど、必死に文香の紡ぐ言葉の続きを聞こうとする優に構わず、文香は結局その続きを口に出さなかった。
音にならなかったのだ。
このとき、文香が何と言いたかったのか、優は知らない。
もしかしたら、文香自身も分かっていないのかもしれない。
「優の…… 貴方の気持ちなんて関係ないわ」
文香は振り切るように目を瞑り、そして再び跪くように座り込む優を真っ直ぐ見下ろした。
「私が、貴方と別れたいの」
文香はまるでなんの未練もないように優を突き放す。
「貴方は私と離婚するのが嫌。けど、私は貴方の妻でいるのが…… 夫婦でいるのが、もう嫌なの」
「ふ、」
「ねぇ? 分かる? 今、こうして貴方と同じ空間にいるだけで…… 気持ち悪くて堪らないの。一緒になんて暮らせない。本当なら話もしたくない、顔も見たくない。貴方の全部が、私にとっては毒なの。だから、もう無理なのよ」
「……」
文香は駄々をこねる子供を見るように、言い聞かすように一言一言ゆっくりと優に語る。
「これ以上貴方と何を話しても無駄だってことは分かったわ。なら、好きにすればいい。どんなに話し合ったところで、もう私の意思は変わらないから」
文香はどこまでも静かな眼差しで優を見据える。
「話し合いで離婚が無理なら、調停、審判…… 裁判でもなんでもするわよ」
どこか皮肉気に笑う文香に優はただただ呆然としていた。
あんなにも世間体を気にし、決して事を大げさにしたくないと訴えていたのは文香の方だ。
それほどまでに、文香は優との関係を断ち切りたいのか。
「夫の今までの不貞行為の証拠もある。そして別居の間に、また同じ不倫相手と性的行為をしたという事実もね。妻である私が離婚したいと思うのも当然でしょう? 十分な理由になるわ」
文香の顔が歪む。
嫉妬や悲しみではなく、まるで這いずる虫を見るように無感動な目だ。
文香の口から、次から次へとありえない言葉が優に突き刺さる。
どこか投げやりで、ただただ優が面倒くさいと言うような文香の態度。
見えないナイフでずっと同じ箇所を、心臓を刺され続けている。
その痛みに抗う術を優は持っていない。
「皮肉よね…… 今の私はあのときとは真逆のことを望んでいる」
文香の目に揺らめく薄暗い炎。
それは紛れもない憎悪で、漸く見れた文香の負の感情に、何故か優はほっとした。
まだ、文香は優を見ている。
そう思ったからだ。
「貴方が死ぬほど私と離婚したくないように、今の私は…… 死ぬほど貴方と別れたいの」
文香が嘲う。
優の目を見て、愚かで救いようのない者を嗤っていた。
「貴方の気持ちなんてどうでもいいのよ」
しかし、その嘲笑が優に向けられたものなのか、それとも優の薄い瞳に映る文香自身に向けられたものなのか、或いは、違う誰かに向けられたものなのか。
優には判断がつかなかった。
「だってもう、愛していないから」
判断する余裕などなかった。
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