奥様はとても献身的

埴輪

文字の大きさ
上 下
104 / 148
≪過去②≫

25 勘違いしないで、これはただの気まぐれだ 前

しおりを挟む

 ごぽっと。

 溺れていた身体が引っ張り上げられ、急に空気が体内に入って来るように呼吸が苦しかった。
 浮いては沈み、水面がぽこぽこと泡ぶく。
 それなのに、文香自身の身体はまったく動かず、焦る心もない。
 水面から見上げる視界はゆらゆら光で揺れていて、無意識に手がその光を捕まえようとしている。
 でも、腕はそれ以上動かず、また伸ばそうという気になれなかった。 

「少しは掴む努力ぐらいしてよ」

 水の膜の向こうから、そんな声が聞こえた気がした。
 水面の光が遮られ、泡がまた、昇って行く。

「君って、本当に面倒くさいね」

 水面が一気に揺れ、文香の水色の世界が壊れる。
 誰かが、文香の左腕を掴んだ。

 捕まってしまったと、思った。
 
 視界に光が満ちる。






 どこからか聞こえて来る鴉の鳴き声に文香は起こされた。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
 反射的に目を瞑りながら、文香はのろのろと腕を伸ばす。
 いつもの習慣で枕元のスマホを覗こうと探るが、一向に手に当たらない。

「ん……?」

 寝起きのせいか、頭の中が霞みがかっているような気がする。
 やけに気持ちが良く、ぐっすり眠ることができた。
 浅い眠りばかりで夢見の悪い日が続いていたせいか、久しぶりに熟睡した気がする。
 起き抜けでぼうとする頭と裏腹に、身体中が軽く、なんだか内側がぽっかり温かいような、満たされるような感覚がした。
 ぐっと両手を上げて伸びをすると、一層清々しい。
 肩や首のこり、節々の痛みが消え、淀んでいた血流が健康的に全身を駆け巡っているような、そんな爽快感があった。
 何よりも荒れていた肌が、今朝はやけに潤っている気がして、裸に絡みつくシーツがより心地良く感じられた。

 このまま二度寝したい。

(だめ…… 会社、遅刻しちゃう)

 起きなきゃいけない。
 こんな風にゴロゴロしていたら、本当に遅刻してしまう。
 社会人としてそれはいけない。

(起きて、ご飯作って…… そうだ、フレンチトースト、作ってみよ……)

 枕に頬を押し付けながら、文香は子供のように小さく笑った。
 簡単な作り方を教えてもらったのだ。
 とても美味しかったから、作って食べさせてあげたいとずっと思っていた。 

(早く、起きなきゃ…… 早く、起きて、)

 早く起きて、優を起こさなきゃ。

(いつも、みたいに…… 優を起こして……)

 珍しく二度寝していきそうな中、文香はそんなことをうとうと考え、そして目を大きく見開いた。

 無意識に声にならない悲鳴が口から飛び出る。
 全身から汗が噴き出て、心臓がありえないほど煩く騒いだ。
 突然悪夢から起こされたような、そんな恐怖が文香を襲う。

 悪夢ではない。
 全て、現実だ。

「っ……」

 うとうとしていた頭が嘘のように叩き起こされ、混乱する。
 その勢いのままぱっと起き上がり、周囲を見渡して、文香は更に混乱した。

「な、んで……」

 擦れて引き攣った声が出る。
 唾を呑み込み、見慣れた部屋を見回す。
 そこは文香が借りたマンションだ。
 優と暮らしていた家ではない。
 当たり前だ。
 自分はあの嵐の夜に、あの悍ましい家から、寝室から飛び出したのだから。
 もう二度とあそこには戻らないと決めた。
 どこにも、もう文香の帰る場所はないと思い知らされたではないか。

(そうだ…… 私は、あのとき飛び出して…… それで、)

 それで、どうした?

 一気に頭から冷水を浴びせられたような心地になり、身体が小刻みに震える。
 記憶が、混乱していた。
 まるで頭の中の記憶の引き出しが全て暴かれ、乱雑に散らかっているような。
 あまりの情報の多さと、現状の違和感に冷静でいることなどできない。
 そして必死に記憶を整理しようとしている中で、文香は自分が裸であることに気づいた。

「なんで……?」

 見下ろす文香の視線に映るのは紛れもなく自分自身の身体で、何も身につけていなかった。
 文香に裸で寝る習慣はない。
 慌ててシーツで身体を隠そうとし、そして足先に何かが当たった。
 見覚えのある通勤鞄。
 これもまた、あの夜文香が使っていたものだ。

 恐る恐る中を覗き、まず最初に探していたスマホが目についた。
 電源を押してもぴくともしない。
 バッテリーが切れているだけなのか、それとも故障してしまったのか。

 更に中を探ると、なんの変哲もない自分の財布が出て来た。
 
 文香の脳内に鋭い電流のような痛みが走る。
 錯乱した記憶の一部が激しく刺激された。

(あそこから飛び出して…… それから、)

 どうして、これがここにあるのか。
 文香は確かにあの夜、これを渡したのだ。

 再び出会った、さくらに。

「さくら……?」

 それが、きっかけとなった。 
 
 一気に塞き止められていた記憶が放流され、文香を呑み込む。
 記憶の渦に、濁流に溺れるように。
 
(おぼれる……?)

 息が上手くできない。
 あまりにも混沌とした頭の中で、文香は溺れるようなこの感覚に覚えがあった。
 こんな、苦痛を伴うものではなく、もっとずっと優しくて、そのまま沈んでいきたくなるような綺麗な光景を見たのだ。

 そして、そこから引っ張り上げられた。


「……なんで、」

 文香は、全身から力が抜けていくのを感じた。
 震える手が自分の頬を、口を、心臓を確かめていく。

 温かく、瑞々しい肌。
 震える唇から漏れる吐息。
 そして、心臓の鼓動。

 汗が、止まらない。

「…………いきてる」

 文香は全てを思い出した。
 あの夜の出来事を全て。
 志穂からの電話、全身ずぶ濡れになって走り、そこでさくらに会い。

 寝室で、優が志穂を抱いているのを見た。

 思い出すだけで、心に小さな棘が刺さる。
 けど、今は感傷に囚われている場合ではない。

「それから……」

 あの、怖ろしいぐらいに美しいさくらとタクシーに乗った。
 その後、文香は確かに財布をさくらに渡したのだ。

 もう、自分には必要がないからと。

 だって、文香は死のうとしていたのだ。
 あの屋上で、雨風に打たれながら。
 独りで、誰にも自分の感情を看取られずに死ぬはずだった。

 心も体も。
 文香を構成する全てを、裏切った愛しい夫を絶望させるための手段にしようとしていた。
 どこまでも醜く、幼稚で歪みに歪んだ欲望に突き動かされ、絶望に等しい惨めな愛憎に狂っていた。 

「……さくら」

 誰にも看取られずに、死と共にあの世に持って行くはずだった文香の激情。
 ぐちゃぐちゃになった醜い感情を、文香の本性を、さくらだけが見ていた。

「あれは、さくらだったんだ……」

 泣き喚き、冷たく疲れた体。
 滲んだ視界に映る男が誰かも途中で分からなくなっていた。
 
 けど、今なら断言できる。
 文香が全てを曝け出し、最期に見たのはさくらだ。
 優ではなく、さくらだ。

 落下する瞬間に見えたさくらの表情は分からない。
 そのとき既に文香の目にさくらは映っていなかったのだ。

 文香はどこまでも愚かな女だった。
 死の間際まで、落下するその瞬間まで。
 馬鹿は死んでも治らないと言うが、ある意味で文香はそれを実体験したともいえる。

「死……?」

 そうだ。
 文香は死を選び、死のうとして、屋上から身を投げた。
 即死しなくとも、確実に死ぬはずだ。
 
「……なんで、生きてるの?」

 文香の問いに答える者はいない。
 だが、文香はもう答えが分かっていた。

 夢で見た、あの水面。
 そこから伸びる腕。
 確かに聞こえた、さくらの声。
 さくらが文香の意識を引っ張り上げた。
 死んだはずの文香の運命を、望みを捻じ曲げたのだ。

 そんなことができるのは、できたのは、さくら以外ありえない。

 そっと、両掌を見つめる。
 左手首の脈に触れれば、熱い血の巡りを感じた。
 生きているのだと、叫んでいるかのように脈は速い。
 
 この左腕を、さくらは掴んだ。
 自殺しようとした文香を救ったのだ。

 なんて、傲慢で怖ろしい男なのか。

 一体どうやって、屋上から落下したはずの文香を助けたのか。
 生きているどころか、かすり傷一つ見当たらない。
 落ちる瞬間、文香は自分が気絶したことを覚えている。
 そして、溺れる夢の中で掴まれた左腕。
 あれは夢ではなく、落ちる文香を実際にさくらが掴み、助けたという暗示だったのかもしれない。
 それにしては傷が一つもないのはおかしいと思う。
 一体どうやって文香を助けたのか、想像することもできない。 

 そんなこと、文香はまったく望んでいなかったのだから。

 助けて欲しいとも、救って欲しいとも思っていない。
 あのときの文香は最期まで死を望んでいたのだ。

「邪魔、された……」

 文香が命をかけた望みはさくらに邪魔された。

 けど、何故か恨みも怒りも湧かない。
 あまりにも非現実的な出来事が連続し、まともに受け止められないせいだ。

「どうして、死なせてくれなかったの……?」

 その問いに悲壮感はない。
 本当に不思議で仕方が無かった。
  
「どうして、助けたの?」

 さくらという存在も、わざわざ文香を助けたことも。
 さくらの全てが不思議だった。

「意味、わかんない……」

 瞬きもせずに、文香はさくらに捕まれた左腕を凝視し、そして気づく。
 今になって漸く文香は気づいた。

 指輪が、無くなっていることに。

 優と選んだ、大事な大事な、もはや身体の一部と化した二つの指輪が消えていた。
 落下するときに、抜けたのだろうか。

「……変なの」

 自分の一部が無くなってしまったような喪失感を感じる。
 その反面、軽くなった薬指が嬉しいと思う自分がいるのだ。
 なんとも、不思議な感覚だ。
 死んだと思ったのに文香は今生きていて、その代わりに大事な指輪が消えた。

 優との誓いの証を失ったのだ。

 まだ、冷静に受け止めことができなかった。
 色々ありすぎて、どこから手を付ければいいのかも分からない。
 死のうとして、結果的に死なずに生きている現状とどう向き合えばいいのか。

 そのせいか、文香は優を思い返す余裕も暇もなかった。

 記憶を整理するために一度思い返しただけで、優のことはもう頭の片隅に転がっている。
 あのときの寝室の光景を思い出し、確かに文香の心は傷ついた。
 今は優のことを考えたくないのかもしれない。
 何よりも、文香が体験した夜の出来事はあまりにも強烈すぎた。
 意識が囚われるのも仕方がない。
  
 文香はしばらく呆然と自分の左手を凝視した。
 心なしか、以前よりもずっと肌艶がよく、爪は丸く桜色に輝いている。
 傷がつく所か、妙に身体の調子がいいのは気のせいではないだろう。



* *


 カーテンの隙間から差し込む光が、眼前の左手を照らした。
 何故だろう。
 眩しく光を反射するシルバーはもうないはずなのに。
 何故か、いつも以上に眩しく見えた。
 
「……」

 そういえば、と。

 文香は窓を見上げる。
 カーテン越しにも外の天気の良さが分かるほど明るい。

「……雨、止んだんだ」

 あんなに激しかった嵐がもうとっくに過ぎ去ったことに、文香は今更気づいた。

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

どうして隣の家で僕の妻が喘いでいるんですか?

ヘロディア
恋愛
壁が薄いマンションに住んでいる主人公と妻。彼らは新婚で、ヤりたいこともできない状態にあった。 しかし、隣の家から喘ぎ声が聞こえてきて、自分たちが我慢せずともよいのではと思い始め、実行に移そうとする。 しかし、何故か隣の家からは妻の喘ぎ声が聞こえてきて…

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

処理中です...