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≪過去②≫
25 勘違いしないで、これはただの気まぐれだ 前
しおりを挟むごぽっと。
溺れていた身体が引っ張り上げられ、急に空気が体内に入って来るように呼吸が苦しかった。
浮いては沈み、水面がぽこぽこと泡ぶく。
それなのに、文香自身の身体はまったく動かず、焦る心もない。
水面から見上げる視界はゆらゆら光で揺れていて、無意識に手がその光を捕まえようとしている。
でも、腕はそれ以上動かず、また伸ばそうという気になれなかった。
「少しは掴む努力ぐらいしてよ」
水の膜の向こうから、そんな声が聞こえた気がした。
水面の光が遮られ、泡がまた、昇って行く。
「君って、本当に面倒くさいね」
水面が一気に揺れ、文香の水色の世界が壊れる。
誰かが、文香の左腕を掴んだ。
捕まってしまったと、思った。
視界に光が満ちる。
*
どこからか聞こえて来る鴉の鳴き声に文香は起こされた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
反射的に目を瞑りながら、文香はのろのろと腕を伸ばす。
いつもの習慣で枕元のスマホを覗こうと探るが、一向に手に当たらない。
「ん……?」
寝起きのせいか、頭の中が霞みがかっているような気がする。
やけに気持ちが良く、ぐっすり眠ることができた。
浅い眠りばかりで夢見の悪い日が続いていたせいか、久しぶりに熟睡した気がする。
起き抜けでぼうとする頭と裏腹に、身体中が軽く、なんだか内側がぽっかり温かいような、満たされるような感覚がした。
ぐっと両手を上げて伸びをすると、一層清々しい。
肩や首のこり、節々の痛みが消え、淀んでいた血流が健康的に全身を駆け巡っているような、そんな爽快感があった。
何よりも荒れていた肌が、今朝はやけに潤っている気がして、裸に絡みつくシーツがより心地良く感じられた。
このまま二度寝したい。
(だめ…… 会社、遅刻しちゃう)
起きなきゃいけない。
こんな風にゴロゴロしていたら、本当に遅刻してしまう。
社会人としてそれはいけない。
(起きて、ご飯作って…… そうだ、フレンチトースト、作ってみよ……)
枕に頬を押し付けながら、文香は子供のように小さく笑った。
簡単な作り方を教えてもらったのだ。
とても美味しかったから、作って食べさせてあげたいとずっと思っていた。
(早く、起きなきゃ…… 早く、起きて、)
早く起きて、優を起こさなきゃ。
(いつも、みたいに…… 優を起こして……)
珍しく二度寝していきそうな中、文香はそんなことをうとうと考え、そして目を大きく見開いた。
無意識に声にならない悲鳴が口から飛び出る。
全身から汗が噴き出て、心臓がありえないほど煩く騒いだ。
突然悪夢から起こされたような、そんな恐怖が文香を襲う。
悪夢ではない。
全て、現実だ。
「っ……」
うとうとしていた頭が嘘のように叩き起こされ、混乱する。
その勢いのままぱっと起き上がり、周囲を見渡して、文香は更に混乱した。
「な、んで……」
擦れて引き攣った声が出る。
唾を呑み込み、見慣れた部屋を見回す。
そこは文香が借りたマンションだ。
優と暮らしていた家ではない。
当たり前だ。
自分はあの嵐の夜に、あの悍ましい家から、寝室から飛び出したのだから。
もう二度とあそこには戻らないと決めた。
どこにも、もう文香の帰る場所はないと思い知らされたではないか。
(そうだ…… 私は、あのとき飛び出して…… それで、)
それで、どうした?
一気に頭から冷水を浴びせられたような心地になり、身体が小刻みに震える。
記憶が、混乱していた。
まるで頭の中の記憶の引き出しが全て暴かれ、乱雑に散らかっているような。
あまりの情報の多さと、現状の違和感に冷静でいることなどできない。
そして必死に記憶を整理しようとしている中で、文香は自分が裸であることに気づいた。
「なんで……?」
見下ろす文香の視線に映るのは紛れもなく自分自身の身体で、何も身につけていなかった。
文香に裸で寝る習慣はない。
慌ててシーツで身体を隠そうとし、そして足先に何かが当たった。
見覚えのある通勤鞄。
これもまた、あの夜文香が使っていたものだ。
恐る恐る中を覗き、まず最初に探していたスマホが目についた。
電源を押してもぴくともしない。
バッテリーが切れているだけなのか、それとも故障してしまったのか。
更に中を探ると、なんの変哲もない自分の財布が出て来た。
文香の脳内に鋭い電流のような痛みが走る。
錯乱した記憶の一部が激しく刺激された。
(あそこから飛び出して…… それから、)
どうして、これがここにあるのか。
文香は確かにあの夜、これを渡したのだ。
再び出会った、さくらに。
「さくら……?」
それが、きっかけとなった。
一気に塞き止められていた記憶が放流され、文香を呑み込む。
記憶の渦に、濁流に溺れるように。
(おぼれる……?)
息が上手くできない。
あまりにも混沌とした頭の中で、文香は溺れるようなこの感覚に覚えがあった。
こんな、苦痛を伴うものではなく、もっとずっと優しくて、そのまま沈んでいきたくなるような綺麗な光景を見たのだ。
そして、そこから引っ張り上げられた。
「……なんで、」
文香は、全身から力が抜けていくのを感じた。
震える手が自分の頬を、口を、心臓を確かめていく。
温かく、瑞々しい肌。
震える唇から漏れる吐息。
そして、心臓の鼓動。
汗が、止まらない。
「…………いきてる」
文香は全てを思い出した。
あの夜の出来事を全て。
志穂からの電話、全身ずぶ濡れになって走り、そこでさくらに会い。
寝室で、優が志穂を抱いているのを見た。
思い出すだけで、心に小さな棘が刺さる。
けど、今は感傷に囚われている場合ではない。
「それから……」
あの、怖ろしいぐらいに美しいさくらとタクシーに乗った。
その後、文香は確かに財布をさくらに渡したのだ。
もう、自分には必要がないからと。
だって、文香は死のうとしていたのだ。
あの屋上で、雨風に打たれながら。
独りで、誰にも自分の感情を看取られずに死ぬはずだった。
心も体も。
文香を構成する全てを、裏切った愛しい夫を絶望させるための手段にしようとしていた。
どこまでも醜く、幼稚で歪みに歪んだ欲望に突き動かされ、絶望に等しい惨めな愛憎に狂っていた。
「……さくら」
誰にも看取られずに、死と共にあの世に持って行くはずだった文香の激情。
ぐちゃぐちゃになった醜い感情を、文香の本性を、さくらだけが見ていた。
「あれは、さくらだったんだ……」
泣き喚き、冷たく疲れた体。
滲んだ視界に映る男が誰かも途中で分からなくなっていた。
けど、今なら断言できる。
文香が全てを曝け出し、最期に見たのはさくらだ。
優ではなく、さくらだ。
落下する瞬間に見えたさくらの表情は分からない。
そのとき既に文香の目にさくらは映っていなかったのだ。
文香はどこまでも愚かな女だった。
死の間際まで、落下するその瞬間まで。
馬鹿は死んでも治らないと言うが、ある意味で文香はそれを実体験したともいえる。
「死……?」
そうだ。
文香は死を選び、死のうとして、屋上から身を投げた。
即死しなくとも、確実に死ぬはずだ。
「……なんで、生きてるの?」
文香の問いに答える者はいない。
だが、文香はもう答えが分かっていた。
夢で見た、あの水面。
そこから伸びる腕。
確かに聞こえた、さくらの声。
さくらが文香の意識を引っ張り上げた。
死んだはずの文香の運命を、望みを捻じ曲げたのだ。
そんなことができるのは、できたのは、さくら以外ありえない。
そっと、両掌を見つめる。
左手首の脈に触れれば、熱い血の巡りを感じた。
生きているのだと、叫んでいるかのように脈は速い。
この左腕を、さくらは掴んだ。
自殺しようとした文香を救ったのだ。
なんて、傲慢で怖ろしい男なのか。
一体どうやって、屋上から落下したはずの文香を助けたのか。
生きているどころか、かすり傷一つ見当たらない。
落ちる瞬間、文香は自分が気絶したことを覚えている。
そして、溺れる夢の中で掴まれた左腕。
あれは夢ではなく、落ちる文香を実際にさくらが掴み、助けたという暗示だったのかもしれない。
それにしては傷が一つもないのはおかしいと思う。
一体どうやって文香を助けたのか、想像することもできない。
そんなこと、文香はまったく望んでいなかったのだから。
助けて欲しいとも、救って欲しいとも思っていない。
あのときの文香は最期まで死を望んでいたのだ。
「邪魔、された……」
文香が命をかけた望みはさくらに邪魔された。
けど、何故か恨みも怒りも湧かない。
あまりにも非現実的な出来事が連続し、まともに受け止められないせいだ。
「どうして、死なせてくれなかったの……?」
その問いに悲壮感はない。
本当に不思議で仕方が無かった。
「どうして、助けたの?」
さくらという存在も、わざわざ文香を助けたことも。
さくらの全てが不思議だった。
「意味、わかんない……」
瞬きもせずに、文香はさくらに捕まれた左腕を凝視し、そして気づく。
今になって漸く文香は気づいた。
指輪が、無くなっていることに。
優と選んだ、大事な大事な、もはや身体の一部と化した二つの指輪が消えていた。
落下するときに、抜けたのだろうか。
「……変なの」
自分の一部が無くなってしまったような喪失感を感じる。
その反面、軽くなった薬指が嬉しいと思う自分がいるのだ。
なんとも、不思議な感覚だ。
死んだと思ったのに文香は今生きていて、その代わりに大事な指輪が消えた。
優との誓いの証を失ったのだ。
まだ、冷静に受け止めことができなかった。
色々ありすぎて、どこから手を付ければいいのかも分からない。
死のうとして、結果的に死なずに生きている現状とどう向き合えばいいのか。
そのせいか、文香は優を思い返す余裕も暇もなかった。
記憶を整理するために一度思い返しただけで、優のことはもう頭の片隅に転がっている。
あのときの寝室の光景を思い出し、確かに文香の心は傷ついた。
今は優のことを考えたくないのかもしれない。
何よりも、文香が体験した夜の出来事はあまりにも強烈すぎた。
意識が囚われるのも仕方がない。
文香はしばらく呆然と自分の左手を凝視した。
心なしか、以前よりもずっと肌艶がよく、爪は丸く桜色に輝いている。
傷がつく所か、妙に身体の調子がいいのは気のせいではないだろう。
* *
カーテンの隙間から差し込む光が、眼前の左手を照らした。
何故だろう。
眩しく光を反射するシルバーはもうないはずなのに。
何故か、いつも以上に眩しく見えた。
「……」
そういえば、と。
文香は窓を見上げる。
カーテン越しにも外の天気の良さが分かるほど明るい。
「……雨、止んだんだ」
あんなに激しかった嵐がもうとっくに過ぎ去ったことに、文香は今更気づいた。
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