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≪過去②≫
24 神様はそんな暇じゃない 前
しおりを挟む全身がだるく、それでいて内側が熱くて堪らないような、なんともいえない充実感に志穂は包まれていた。
「ん……」
懐かしい夢を見た気がする。
けど、それはあっさりと離れて行った温もりと、焦る男の声にかき消された。
ゆっくりと水面から意識が浮かび上がって行くような感覚。
激しい雨音が急にリアルに志穂の耳をざわつかせた。
その中に混じる、愛しい男の懇願に志穂は身体を強張らせる。
「行かないでくれ、文香……!」
視線を向けることはしなかった。
志穂は覚られないように寝たふりをして、優と、そして文香のやりとりに耳をすませる。
肉を殴打する音。
激しい拒絶を露にする、文香の怖ろしいまでに嫌悪に塗れた拒絶の声。
優と文香の、夫婦二人のやりとりは音と声だけでとても痛々しく感じられた。
薄っすらと、志穂は自分の口元が緩むのが分かった。
(可哀相な優君……)
優が泣きそうな声で文香に縋っている。
(いっぱい、慰めてあげなきゃ……)
重たく、叩きつけるように玄関の扉がしまう音がした。
志穂はゆっくりと力が入らない腰をあげる。
それほど長くかからずに二人のやりとりが、文香が出て行ったのが分かった。
外では激しい雷雨が轟いているのに、どうしてかこの部屋はとても静かに思える。
裸のまま、志穂は恐る恐るとベッドから降りた。
「っぁ、」
動く度に、腰の奥が甘く疼く。
たくさん突かれ、たくさん中に出された。
股の間から、太もも。
力を失った膣からどくどくと流れ出てく白濁。
愛する男の精子が溢れ出ていくのが勿体なくて、志穂は咄嗟に手で押さえた。
理性を失った男を志穂はこれまで何度も見て来た。
その中で自分からスキン無しで、中に出して欲しいと懇願したのは優が始めてだ。
夫ですら、望んだことはない。
「ゆうくん」
ちらっと見えた優と文香の写真立てに微笑みながら、逸る気持ちを押さえて志穂はゆっくりと優に近づく。
ふらふらと力ない足腰。
ぽたぽたと床に精液が零れる。
「ゆう、くん……」
開け放たれた寝室の扉。
廊下で志穂と同じく裸の優が腰や脚にシーツを絡ませた状態で座り込んでいた。
冷たいフローリングの上で項垂れる優の背中が堪らなく哀れで愛しい。
「ゆ、う…… く、ん」
自然と涙が浮かぶ。
散々優に泣かされた瞼は腫れていた。
「……ゆう」
こっちを見て欲しい。
擦れた声しか出なかったが、志穂はなんとか優に自分を見てもらおうと、気づいてもらおうと名前を呼ぶ。
それでも、優の背中は動かない。
振り向いてもらう前に先に志穂の手がそっと慰めるように優の背中に触れた。
汗で冷えた肌は一瞬驚くほど冷たく、まるで氷の彫刻のようだ。
火傷しそうなほど熱かった身体が嘘のように、今の優は全身が冷えていた。
「……可哀相な優君」
そんな優の身体を温めてやりたくて、志穂は縋る様に広い背中に腕を回し、その肩に頬を摺り寄せる。
溶けて混じってしまいそうなほど馴染んでいた二人の肌。
また、あのときの熱を分かち合いたくて志穂は冷たい優の肌に自分の肌を押し付けた。
寒さと快楽の名残りで勃起した乳首が優の肌を撫で、その刺激で志穂は思わず艶めかしい吐息を吐き出す。
熱く湿った吐息が優の耳にかかり、漸く優が反応らしきものを見せた。
志穂はそっと汗で濡れた優の髪を耳にかけ、その横顔を切なげに見つめる。
「酷い…… こんな、乱暴をするなんて…… 優君が、可哀相」
切れた唇と引っ掻かれた傷が痛々しい頬を見て、耐えられずにぽろっと涙を零した。
優の妻が、文香がこの傷をつけたのだと思うと怒りが湧く。
志穂の視線は自然と優の首筋に浮かぶ痣に吸い寄せられた。
初めて見る暴力の痕。
今まで甘やかされ、大事にされて来た志穂は初めて見る痛々しい光景に思わず息を呑んだ。
「もう、大丈夫だから……」
愛しい男がこれ以上傷つけられないように、志穂は優の頭を抱え込む。
抵抗もせず、優は志穂にされるがままだ。
「優君に、こんなことをするなんて…… こんな暴力を、人を傷つけるなんて、信じられない……」
「……」
しかし、涙ながらに優を慰めようと抱き締める志穂と裏腹に、優はまったく反応を見せない。
優の視線は志穂に向けられず、ただ玄関を見つめていた。
その視線を、眼差しを、志穂はまだ見ていない。
「でも…… きっと文香さんが一番傷ついているわ」
志穂は自分の口から勝手に飛び出す言葉に身を委ねた。
「優君も、文香さんも可哀相…… 誰も悪くないのに」
志穂は分かっていた。
ここで、文香を責めてしまえば優はきっと文香を庇おうとする。
そして自分が悪いのだと、また文香への罪悪感で苦しみ、志穂から離れようとすることを。
優は優しい。
志穂には理解できないぐらいに、優しい。
「ただ…… こうなるのが運命だったのよ」
優のくせ毛が志穂の頬を擽る。
優からは、なんだか甘くて優しい匂いがするのだ。
セックスするときの野生的な匂いとはまた違う、ミルクのようなほっとする匂い。
男女の相性は匂いも大きく関係すると聞く。
志穂と優はきっと最高に相性が良い。
「…………運命?」
優の声は平坦だった。
何を思っているのか志穂には分からなかった。
きっと今の優は混乱している。
だから、志穂が優を正しい道に導かなければならない。
「ええ、そうよ」
あと、もう少し。
「優君と文香さんは…… 初めから別れる運命だったのよ」
きっと、優なら分かってくれる。
「誰も悪くない…… 優と文香さんは結ばれるべき運命ではなかった…… ただ、神様が間違って二人を出会わせてしまったの」
志穂の言葉に熱が籠っていく。
恍惚と、愛に酔いしれていた。
「優君が本当に愛しているのは…… 結ばれるべきなのは誰か……」
何も答えない優に志穂は囁く。
「……優君だって、本当は分かってるでしょう?」
その耳に、自分の想いを込めながら。
魂からの執着を込めて、吐息を吹きかける。
「私達が出会ったあのとき、初めてキスしたとき、初めて愛し合ったとき…… 自分が自分じゃなくなる感覚を、理性も周りも何も見えなくて、ただお互いしか目に映らない…… もっと触れて、愛し合って、深く深く繋がって…… そして、ひとつになりたいあの衝動を……」
志穂は優に現実と向き合って欲しかった。
情が厚く、妻である文香を捨てきれない優がとても憐れで哀しい。
認めてしまえば楽になる。
「このままじゃ、皆不幸になるわ…… 何よりも、文香さんが可哀相。文香さんの幸せのことも、ちゃんと考えるべきよ」
腕に抱きしめた優が身じろぐ。
文香の名前に反応する優にどろっとした感情がまた芽生えそうになったが、今は耐えた。
だって、もうすぐ優が手に入る。
「もう、文香さんを解放してあげましょう?」
優の旋毛にキスした。
それでも優の身体は硬直したまま、体温も一向に上がらない。
ずっとくっついている志穂の身体が逆に冷えてしまいそうだ。
「認めるしかないのよ。優君が本当に望んでいるのは…… 文香さんじゃない。そうでしょ?」
それでも構わなかった。
志穂自身、身体の底から燃えるように熱くなっているのだから。
「このまま、嘘をついて仮面夫婦を演じる方がずっと辛いわ。文香さんのために、皆のために…… 文香さんと別れて、彼女を自由にしてあげるべきよ。きっと、それが神様のお望みで、自然の摂理なの。だから、」
志穂が続けて何か言う前に、優の口が糸の切れた人形のように開いた。
「………………別れる?」
先ほどと変わらず、どこまでも平坦な声だ。
「…………文香と、別れる?」
優が細々と言葉を反復するたびに、その吐息が志穂の胸に当たる。
くすぐったさと、高揚感で自分の胸が高鳴るのが分かった。
それを覚られないように、志穂は優から身体を放す。
「辛いけど…… 文香さんの幸せのためにも、優君は現実から目を逸らしちゃ駄目。ちゃんと、向き合わなきゃ!」
志穂は俯く優に語り掛ける。
とても、慈悲深く。
「優君は、もっと素直になるべきよ」
理性で必死に自分の感情を抑えつけていた優。
志穂には分かっていた。
優が本当に求めているのは自分だと。
二人が離れている間に、優がひたすら志穂を求め、欲していたことを。
その欲望を志穂もまたずっと感じていたからだ。
だから、簡単だった。
雨で濡れた身体で優に抱き着くだけで良かった。
久しぶりに優と顔を合わせ、その目を見た瞬間。
優の全てが志穂に集中し、狂いそうなほどの熱気を向けているのが分かった。
怖ろしいぐらいの欲望を、愛欲を志穂に抱いていることが。
どんな言い訳をしても無駄だ。
ふらふらと、まるで志穂の媚香に吸い寄せられたかのように、手を伸ばした優。
志穂がその手を取り、潤んだ眼差しを向け、懇願するだけで優は簡単に最後の理性を手放した。
優はとても人が好い。
とても優しくて、妻を大事にしている。
だからこそ、自分の感情を認められないのだろう。
それは自分を偽っていることに他ならない。
(可哀相、優君は、本当に可哀相だわ)
優にはきっかけが必要なのだ。
優と、そして文香も。
二人は現実を見るべきなのだ。
「お願い、優君…… もう、嘘をつくのも、現実から目を逸らすのもやめて」
「……」
何も答えない優に志穂は強く言葉を重ねる。
「もう、自分を偽らなくてもいいの」
「…………」
「優君には、私がついている…… 私が優君の望む全部をあげるから」
志穂の手が優の顔を上げようとする。
「新しい家庭を、二人で…… 三人で、作りましょう?」
優と志穂と、そして二人の子と。
志穂は気づいたのだ。
初めの計画は狂ってしまったが、もっと良い方法があることに気づいた。
どうして気づかなかったのだろうかと思うほど、もっと簡単に確実に優を幸せにできる方法を思いついたのだ。
妊娠すればいい。
優の子供を産めばいいのだ。
どうしてそんな簡単なことを今まで思いつかなかったのだろうか。
それはまさに天からの啓示だ。
(子供が出来れば、もう誰にも邪魔されない…… 優君は、きっと……)
電話口の文香の焦りようを思い出す。
滑稽な姿を思うだけで、なんだか幸せな気持ちになれる。
優と志穂の運命を否定し、更に妨害しようとした文香はとても悪質だ。
神様の決めた運命を否定するなんて、酷い話である。
(子供は授かりものと言うわ…… いっぱいに中に出してもらったんだもの。きっと、元気な子が産まれる)
神様に祝福された、優と志穂の子供。
「私と優君の子供はきっと可愛いわ……」
優が望む、二人の子供が産まれれば、もう誰にも邪魔されることはない。
優は漸く自由に志穂を愛することができる。
志穂は本気でそう思っていた。
何か、囁こうとした瞬間、志穂の膣の奥の奥が、きゅっと蠢いた気がした。
「……名前は、優君の好きなように決めていいよ。 優君が望むように、もしも女の子が産まれたら、」
幸せな未来を夢見て、感極まって言葉を詰まらせる志穂。
優と一緒にいると初めての感情に振り回される。
志穂が望んでいたものを、優は与えてくれる。
皆が持っていて、志穂にだけ持っていない、とても大事なもの。
自分の核のような、魂のような、何かが志穂の胸を熱くさせ、言葉を詰まらせる。
そんな幸福と優越感の絶頂にいる志穂の手を、優が掴む。
「ゆ、」
歓喜で満面の笑みを浮かべる志穂の手を、優は引き離した。
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