奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

22 君を、悪魔が拾う 後

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 海藤やこれから登場する人物たちに、未来はあるのかどうか?わたしには分からない。
 閉鎖病棟にいた認知症の老人たちや、一般病棟に30年間も入院している統合失調症の男など...
 年齢的に、つまり物理的に未来がないというだけの意味ではなく、海藤や知的障害のロクちゃんやうつ病の福良や自閉症スペクトラムの竹宮、これら精神病院に入院している人々に、あるいは精神病院にしか居場所がない人にとって、どんな者になれる未来があるのだろうか?


 福良は斜めに位置するベッドが看護師によって慌ただしく清掃されているのを見ながら、新しい患者が入ってくるのかなと考えていた。出来れば前の老人ではなく、同年代の話の合う人でも来てくれないかなと思いながら。
「あー、また負けたわ」ロクちゃんがババを引いたようで思わず叫ぶ。2人でするババ抜きとはけっこう虚しい。
「福良さん、AAの時間ですよ」

 福良が看護婦に呼ばれて、出かける支度をしていたちょうどその時、海藤は一般病棟の広間で看護婦に説明を聞かされていた。
 週3回の入浴、風呂は共同、週1回の診察とケースワーカー、主治医は相変わらず新川医師だが、診察時間は夕方に変更になるらしい。日に3度の食事や薬は今までと同じだった。
「また、一般病棟では親御さんの面会が認められます」
「面会?...断ることは可能ですか?」
「いえ、医療保護入院の患者に面会の拒否は認められていません」
 海藤は親父と母の顔を思い浮かべ一瞬ぞっとしたが、しかし精神病院を出ても同じく親と子の対決はおこる。むしろ彼は、退院して高校生としての一員に戻る未来を考えた。その考えは親との対決から彼をなぐさめた。
「週2回、治療の一環として作業療法を選んでいただくことになっています」
 看護婦が差し出したパンフレットには陶芸や絵画、書道や調理実習など文化系の部活のような作業療法とやらが載っていたが、この中でなるべく楽できそうなのは絵画だなと思い看護婦に伝える。
「では、部屋まで付いてきてください」

 四人部屋の左端に位置する窓際のベッドに案内されると、地下の閉鎖病棟とはまさしく天と地の差だなと思った。
 清潔なベッドに仕切りを作るカーテン。それにトイレも廊下についていて、ちゃんとドア付きの洋式便器まである。今までのようにいちいち歯磨きや手洗いの為に看護師の許可をとって洗面台に行く必要もない。糞尿の匂いを嗅ぎながら食事をとる事もなければ、もう看護師や患者たちの叫び声に悩まされることもないわけだ!
 海藤は奴隷が人間に昇格するほどの、動物が人間扱いされるほどの強烈なインパクトを感じ、ここでなら1ヶ月はすぐにも過ぎるだろうと安心してベッドに寝っ転がった。
 窓から差し込む朝の太陽が眩しい。太陽を見るのなんていつ以来だろうか?久しく人間扱いされていなかったことを思い出し、彼は緩やかな幸福を感じていた。人間扱いされること、自由なこと、それがこれほどまで暖かい事だったとは!
 目の前ではカーテンを開けっぱなしにしたロクちゃんと看護婦に呼ばれている人が、看護婦に対し延々と同じことを話しかけていた。
 それは「負けないで」の途中で冒頭に戻るあのリフレインのように、「せやねん、さっきからハエが飛んでんねん」「そうですか」「汚いやろ?それでな、手で潰そうとしたんやけどな、さっきからハエが飛んでんねん」と、延々と冒頭に戻り進まず、同じことを何度も繰り返す会話を不思議に見ていた。


 福良は川上看護師に案内されながら、五月だというのにむし暑い日差しのなかを歩いているところだ。
 AA(断酒会)は精神病院から駅まで歩き、電車に乗ってさらに歩いた雑居ビルの一室にあるが、もう福良の足は疲れていた。
 それを知ってか知らずか、元アルコール依存治療病院で勤務歴のあることを誇りに思っている川上看護師は、「最近どうや?」と話しかける。
「どうもこうも...精神病院に入ってからはアルコールを一滴も飲んでませんよ」
 うん、うんと満足気に頷きながら、「その調子や。アルコール依存が治ったらうつ病の方も治ったってケースはたくさんあるしな」
 福良は、内心けっ、こいつにうつ病のなにが分かる、おれは新川医師の指示通り1年間アルコールを辞めても、うつ病は改善どころか年々悪化しているというのに、このゴリラにも似た風態の看護師は脳みそまでゴリラ並みなのかと毒付きながら、「そうだと良いですね」と他人ごとのように生返事をする。
 他人ごとのような返事の仕方が気に入らなかったのか、川上看護師は「努力を諦めちゃいかんよ!」と叱咤する。福良はもう会話したくないので黙っていた。

 川上看護師を弁護する訳ではないが、こういった喜怒哀楽の感情を出すタイプの看護師は、彼らなりに患者の障害を理解しようとはしているのだ。でなければ患者一人一人に感情を発露するなどという面倒なことをどうしてできよう?
 しかし、患者の障害を安易に理解しようとする態度は、反感を招きかねない──

「前の病院でもうつ病患者がおったが、そいつはアル中病院出るときにはすっかり治っとった、諦めちゃいかんよ!」
 川上看護師にとっては叱咤激励、勇気づけようとして発した言葉なのだが、福良にはなぜうつ病でも無い人が、うつ病のことを分かったかのように話すのか理解できない。
 「そうですか」と生返事をしながら、気分はますますどんよりとしてくる。
 
 クーラーもついていない雑居ビルの一室に十数人が集まりAAの集会を初めていた。
「誰か発言したい人はいますか?」
 司会者らしき高齢の女性が発すると、「では私が」と中年の男性が手を挙げて話だした。
「私は長年酒がやめられず、酒癖も悪いため、女房に手をあげたことも何度かあったと思います。毎日のようにひどく暴れるため、女房は耐えきれなかったのでしょう。ある日女房は子供を連れて逃げました。その頃からでしょうか、一日中酒を飲み続け、本格的にアルコール依存性になったのは...
 私がアル中だとバレるのは時間の問題でした。なんせ四六時中、仕事中でさえも隠れて飲んでいたのです。アル中だという事がバレるとそれまでの友人も離れていき、信用も失い、やがて仕事もクビになりました。
 酒を飲む生活が続くうちに貯金も底をつき、ついに私は(と、ここで声を力強くし)万引きに手を出してしまったのです。
 情け無い話ですが、当時の私はもうどうにでもなれと自暴自棄になっていたと思います。1度ならず2度、3度と繰り返し、いよいよ警察のみなさまに厄介になった時には(ここで悲愴そうに声を潜め)、自殺さえ考えました。
 警察の方にこれまでのすべてを話したとき、AAの存在を紹介されました。当時の私はAAなどでアルコール依存が治るものかと拗ねていたと思います。
 しかし、実際にこうしてAAに通っているうちに、私以外にも同じく酒で悩んでいる人がいるのだ、それももっと酷い経験をしている方がいらっしゃる...私は私自身が恥ずかしくなりました。
 そこで勧められるまま...当時はお恥ずかしながら半信半疑でしたが...AAの教義に一つずつ従っていくと、アルコール依存が回復していく事が少しずつ実感できました。酒をやめたと知った私に(ここは浪花節風に)女房は驚きつつも連絡を取ってくれるようになり、最近では子供とも月に1度会っています。
 酒をやめる事ができてもう15年になりますが、日に日に実感するのは(と、ここで声をいっそう張り上げ)、 ”神の前にわれわれ人間は無力だ“ということです。私はこの教えを一人でも多くのアルコール依存に悩む人たちに教えてあげたいと思っています」

 あまりに感動的なスピーチのため、蒸し暑い会場からはまばらな拍手が起こり、川上看護師はかつてのアル中病院にいた患者と重ね合わせてホロリと感動し、女性司会者は「AA集会のための寄付をお願いします」と募金箱を回していた。
 福良は募金箱に寄付をせず隣に回しながら、AAにおける12ステップの内の5段階目に出てくる〈神に対し、自分自身に対し、他の人々に対し、自分自身の欠点の正確な気質を受け入れた〉という教義を思い浮かべていた。なぜ急に「神」なんて言葉が出てくるのだろう?と。

 AAの帰り、あの感動的なスピーチに勇気づけられた人間くさい川上看護師は、武勇伝のように話し始めた。
「昔のアル中病院ではな、俺が昔働いとった頃の話やけど、先輩たちが竹刀持ってアル中患者を叩くんや、どうや?考えられへんやろ?」と、自嘲気味に笑いながら。
 自慢げに話すこの看護師を、福良は理解できないどころか、憎悪すら覚える。そうだ、この看護師を見ていると、おれがうつ病になって不登校の頃、情熱的な態度で文字通り引っ張って学校に連れて行こうとしたあの担任の教師を思い起こさせる。
 川上看護師が自嘲気味に言おうとしたのは、「昔のアルコール依存症の直し方は間違っていて、いまのAAの在り方や治そうとするアルコール依存症患者たちは素晴らしい」ということだったのだが、
 なぜ武勇伝のような形で話してしまったかと言えば、昔憧れていた竹刀を持った先輩たちを裏切ることができなかったからだ。
 なぜなら、先輩たちを裏切り否定することは、当時先輩に憧れていた自分自身をも否定することになってしまうから。つまりはプライドが邪魔したのだ。
 こうして2人は理解し合えないまま、一方は上機嫌で、一方は落ち込みながら、精神病院に戻るところだ。


 海藤は、ぶつぶつと「戦車は文明の遺物やねん。偉い人がそう言うとってん」などとさっきから繰り返し誰かに向けて話している(もはや看護婦はいなくなったのに、彼は誰に向けて話しているのだろう?)ロクちゃんを見ながら、ウロウロと歩きつつなにかを考えている友人の西野の姿を重ね合わせていた。
 一つには、この人が何歳なのかが分かりづらいという点において。
 知的障害者はその年齢と言動とのギャップによって、30歳でも20歳に見えることがあり、20歳でも30歳に見えることがある。
 その年齢と動作との不釣り合いさ加減が、わたしたちにある種奇妙な感覚を与える。
 ロクちゃんが西野と重なるのは、西野の言動も、15歳なのにある時には大人びた18歳に見えたり、逆に15歳なのに少学生のような無邪気さが見えることがあるからだ。(ポスターの件などは、幼稚さの良い例ではないだろうか?)
「竹宮さん、調理実習の時間ですよ」と看護師に呼ばれて帽子とマスクをつけた竹宮がカーテンから顔を出した。
 海藤は病院内でマスクと帽子を付けている竹宮を見ながら、蒸れないのだろうか?いや、そもそも室内なのに、なぜマスクと帽子を付けているのだろう?などと不思議に思っていた。


「今日は栄養についてみんなで考えましょう」
 管理栄養士の説明を聞きながら、竹宮は内心嘘つきやがれあんな不味い病院食出しやがってなにが栄養バランスだと思っている。
「一日に必要な栄養バランスを摂るのにはコンビニで売っているキャベツの千切りなんか買うのも良いですね」
「それ買ったことあるんですか?」と竹宮。
「はい、ありますよ」
「1日で食べたんですか?」
「はい」
「自分も買ったことが有りますが、あれ消費期限一日しか持ちませんよ、そのくせ内容量は150gもある。あんなのを毎日食うんですか?」
 管理栄養士は面倒くさい生徒が来たときの教師よろしく後へひけない。竹宮は作業療法に調理実習なんか選んだことを馬鹿馬鹿しく思い、今度は別のを選ぼうと思いはじめている。
 しかし、なぜ竹宮はこんなにまでくってかかるのだろう?人間嫌いなのだろうか?それとも、自閉症や社交不安障害といった障害からだろうか?
 否、この疑惑、疑念の性格は、彼の障害から生じたのではなく、彼がその障害を受け入れた時から生じた。
 あの今でこそ自閉症スペクトラムと診断名が変わったが、未だにアスペと侮蔑的な意味で馬鹿にされる障害を彼が受け入れた時から。
 もし、竹宮に人が意識しだすのはどんな状況においてかと尋ねたら、「他人を通して自分を見てしまったときだ」と答えるだろう。彼はマスクをして帽子を被りながら、一方では安心し、一方では他人からは確実に変人に見えるのだろうと恐れていた。
 彼は学生でない分、近所の厄介者扱いされている頑固なジジイのように面倒くさく拗らせている。全てを障害のせいにできない以上、なおさら。
 「神」を──あるいは「障害」という診断を──絶対的なものとして受け入れられない人々にとって、AAの“われわれは神の前に無力である”といった教義や、〈神に対し、自分自身に対し、他の人々に対し、自分自身の欠点の正確な気質を受け入れた〉といった教義は、なんとも虚しく響く。
 竹宮のこうした態度について、もしわたしが精神科医なら、「彼らは自身の障害や挫折体験や依存症と折り合いをつけられないという“幼稚な悩み”に苦しんでいる」とカルテに書くだろう。
 次は絵画にしよう。そう思う竹宮は、未だに自身の障害に境界線が見出せないままさ迷い続けている。


 海藤は相変わらず「人間はなあ、ろくなもんやないねん。地球の癌やねん、そうテレビで言うとってん」などと福良に話しているロクちゃんを見ながら、西野との共通点をもう一つ見つけた気がした。
 この延々と何かをぶつぶつと喋っている知的障害者と、自分の考えを伝えたいが為に意味不明のポスターを手渡す友人とに、自己顕示欲、承認欲求という共通点があるように思えたのだ。
 そうだ、自分の考えたものを見て、聞いて欲しいという人間の根本的な承認欲求は、あの読書部を立ち上げようとポスターを手渡ししていた西野や、知的障害者にまで共通のものではないだろうか?
 ただ一つ違うのは、西野は自分で伝達する手段をもっているのに対して、ロクちゃんは、その手段をもてない為にこうして壁に向かい延々と同じ事を喋りかけているということだ。

 12時近くになると福良とロクちゃんは広間へ出て行き、海藤と竹宮だけが取り残された。
「海藤さん、竹宮さん、食事ですよ!取りに来てください!」
 海藤は看護婦に言われるまま広間へ出ると、みんな配食のトレーをとり広間の椅子に座って食事をしている。
 配食制なら予め説明しておいてくれよと思いながら、海藤もまわりと同じように食事し始めたところだ。
「今日入ってきた人ですね!」
 福良が彼に話しかけたのは、同年代と話をする機会を伺っていて、それがやっと食事の時間に訪れただけだが、しかし15歳と21歳は同年代と呼べるのだろうか?話が噛み合うのだろうか?
「そうですよ、あなたは...」
「おれは福良って言うんですよ。今日から入院ですか?おれはもう数ヶ月も前から入院しているんですよ」
「いえ、1週間前から閉鎖病棟に入っていたんです。数ヶ月も、それはまた長いことで」
「へえ!じゃあ今日こっちへ移ってきたんですね!またなぜ入院するはめに?おれはアルコール依存でやらかしちゃって...」
「ぼくはちょっとした事故みたいなもんで...一般病棟の方は快適ですね」
「いや、そうでもないですよ。だいたい看護師がうるさくって!ところでお名前は?」
「海藤と言います。閉鎖病棟の方が看護師のうるささで言えばもっと酷いですよ!一般病棟も老人の方が随分多いんですね?」
「ええ、そうなんです。同じ若い人が四人部屋に入ってくれて嬉しいですよ。なんせ退屈で...」
 話は噛み合う。福良も海藤も、同じく喋りたがっていたのだから。
 最初の福良が会話は成立しているが、ことばが理解されないケースだとすれば、ロクちゃんはことばは理解されるのに、会話が成立しないケースだ。
 そして竹宮はそもそもことばの理解を拒否してしまっている。
 福良と海藤は会話もことばも理解され共有される(他人の体験よりも自分の体験を我先にと語りたがる部分にさえ目を瞑れば)。この違いはなんだろう?
 福良が喜んで話しかけたのはまた別の理由もあった。前に18歳くらいの患者が入院してきたとき、彼は喜んで話しかけたのだが、同じ病室では無いという理由で看護師に親しくすることを禁止されたのだ。
 一方海藤は、内心どう見ても自分より年上の人に敬語を使って話されるうちに、段々とむず痒くなってきたが言いだすきっかけを見失っていた。
「そういえば、同じ四人部屋にもう一人マスクつけた人がいましたが...」
「ああ、竹宮さんですか?あの人は食事に出てきませんね」
「それはまた、どうして?」
「ハンストしてるみたいですよ、理由は分かりませんが」
 話しているうちに食事が終わり、「先に失礼します」と立ち上がった海藤は看護婦から怒られた。
「海藤さん、何やってるんですか!」
「え、ベッドに戻ろうと」
「先にやる事があるでしょう!」
 看護婦が指差した場所にはポリバケツが置いてあった。説明されたところでは、食べ残したものをポリバケツに捨て、食器類は水洗い場に持って行き、トレーを詰所に戻すらしい。
 だから説明しておいてくれよと思いながら、海藤はそれにしても他の患者たちの食事のペースが遅いのは何故だろうか?とぼんやり考えていた。老人ばかりだから?いや、福良さんよりも後から来たぼくの方が食べ終わるのが早かった。
 ポリバケツには大量に残った白米、味噌汁、小魚、パン、牛乳などがごちゃ混ぜに捨てられていた。彼はふと閉鎖病棟のことを思い出した。
 そうだ、閉鎖病棟では糞尿の匂いがする中嫌々食っていたから、食べるペースが早くなったのだろう。
 彼は食品がごちゃ混ぜに捨てられたポリバケツの中身を見ながら、巨大な三角コーナーだなと思った。


 昼食後、竹宮は数時間の外出届けを出し院内の喫煙室でタバコを吸っていた。
「すいません、タバコ一本くれまへんか?今日わしの誕生日なんです」その男は同じ一般病棟内で確かに見たことがあった。「良いですよ」と言い一本渡す。
「どうも。今日でちょうど50になるんです」
 適当な相槌を打ちながら、竹宮は自分は自閉症なのになぜ他人に興味を持つのだろう?と考えていた。
 他人にくってかかる竹宮は人間嫌いだったのだろうか?否。実を言えば、海藤がどんな人物か知りたくて気にかかっていたのだから。(これは珍しい。というのも、自分のことを話したい人間は現実にもSNS上にも掃いて捨てるほどいるが、見知らぬ相手の話を聞いて知りたいと思う人間は滅多にいない!)
 もしかしたら自閉症というのは、好奇心を持ちすぎた人が、他人の心にズカズカと入った挙句地雷を踏み、結果自分を閉じ込めることになった症状の人を指すのかも知れないな。
 ぼんやりと夢想しながら竹宮はまた新しいタバコを取り出す。
 実際、彼が話すのには社交不安障害の方が邪魔をした。これから仲良くしようと思っている人物に声をかけるとなると、一種のプレッシャーが邪魔し、言葉をかけようと思っても、緊張のあまり言葉が喉から出てこないのである。けれど四人部屋なら次第に慣れていき、話しかけることも苦でなくなっていくだろう。
 竹宮はタバコに火をつけながら、2年前までバーテンとして働いていた時期の出来事を苦々しく思い返していた。
「もうここに入って30年にはなりますかなあ」
 喫煙所から見える広場では患者たちがカップラーメンを食べていた。あの栄養士が管理しているやたら味付けの薄い食事も、おやつにカップラーメンを食べたられたら身も蓋もないだろうな。
 「どうもごちそうさん」タバコ一本をなるたけ長く吸い終わると、その男は出て行った。
 竹宮はバーテンを辞めてから作業所で働いた地獄の時期を苦々しく思い返している。それにしても、なぜ竹宮は未来のことを考えず、過去のことばかり考えるのだろう?
「兄ちゃん、タバコなんてあげたらあかんで」
 今度はその様子を見ていた見知らぬおじさんが話しかけてきて思わず「え?」と問い返す。
「誕生日なんて嘘かもしれんやないの」
 嘘だったのだろうか?竹宮にはなんとなくあの男が嘘をついているようには思えなかった。
 
 男が今日誕生日だったのか、それともタバコを吸いたいための嘘だったのか、それとも彼の中では本当に今日が誕生日だったのか、筆者には分からない。
 しかし、男の兄のイケダさんについてならわたしはよく知っている。
 今年54歳になるイケダさんは、10年前に妻を亡くして以来スーパー玉出の狭いマンションに一人で住んでいる。20歳の一人娘は妻の死と共に家出してしまった。
 イケダさんが経済的に苦しい状況なのは、月々の金が30年もの間統合失調症で精神病院にいる弟の入院費に消えるからだったが、それでもたまにデリヘルを呼んでは、セックスよりもむしろ、音信不通の妹が写った写真を得意気に見せるのである。
 どんな不細工な風俗嬢が来ても、イケダさんは「かわいいのう、わしの娘によう似とるわ」というのが口癖であったが、それはイケダさんにとっての願望であり、また褒め言葉でもあった。(親にとって一人娘より可愛い人物がいるだろうか?)
 今、イケダさんは西陽の当たる部屋で立てかけてある娘の写真をつまみに黒霧島の焼酎を飲んでいるところだ。夕陽がいやに眩しい。
 いや、わたしは風俗嬢に娘の不在を見出そうとしている独居老人について語っている訳ではない。イケダさんにしろ、統合失調症の弟にしろ、未来がなく思い出しか残っていない彼らにとっては、精神病棟もスーパー玉出のマンションの狭い一室も同じことではないだろうか?
 

「あかんねん、こんなんしたらあかんねん」
 と言いながらベッドでもぞもぞしているロクちゃんの声を聞きながら、海藤は夕食で捨てられていたポリバケツのことを頭から離そうとしていた。
 白米、味噌汁、小魚、その他もろもろ全てがごちゃ混ぜにされる巨大な三角コーナー。糞尿の匂いと食事の匂いがごちゃ混ぜになる閉鎖病棟。
「怒られんねん、罰当たりなんやって」
「また悪いことしてるんですか?」耐えかねた福良が遠回しにたしなめる。
「せやねん。あかんことや」
 カーテンの向こうから聞こえる会話やハアハアといった息切れの音や衣ずれの音を聞きながら、海藤はやっとなにが起こっているのか理解しだした。
 いや、認めたくはないが、確認しようとカーテンを少し開き前の様子をうかがうと、明らかにロクちゃんがベッドの中でオナニーしているのである。
 せめて声を出さずに、カーテンを閉めてやってくれたら、海藤も耐えられただろう。しかしいまの彼は多少神経質になっていた。オナニーを見せられ、いやと言うほど嫌悪感を覚え耐えがたかった。
「悪いことしない方が良いですよ」
 福良の遠回しの注意を見るに、彼はその状況に慣れているらしい。
 しかし赤の他人のオナニーを否応なく見せつけられること、それは男にしろ女にしろ、良い気分がするはずもない。海藤は嫌悪感のあまり四人部屋を飛び出した。
 わたしたちは普通こういう状況に出会うことがないので海藤の感じた嫌悪感を表すことが難しい。筆者の体験から言えば、目の前で否応なくオナニーを見せられること、それは定食屋で隣に座った人がクチャラーだった時の5倍は辛い。
 あるいは、満員電車の逃げ場のない状況で他人がゲロを吐いたり、糞尿を漏らした場合。誰もその汚らわしさから近づこうとしないだろう。オナニーや咀嚼やゲロや糞尿といった人間の生理は汚らわしいが、しかし普通それらは人目に隠れて行われるので、わたしたちは気にせず通りすぎることができる。
 逃れられない状況でのみ、改めてその汚らわしさに気づくのだが、海藤がポリバケツの中身を見て感じた嫌悪と、閉鎖病棟で感じた糞尿と食事の匂いが混ざった嫌悪と、他人のオナニーを否応なく見せつけられて感じた嫌悪は、まったく同じ人間の生理への嫌悪感だった。
 尤も彼が耐えきれず四人部屋を飛び出したのと、福良が嫌悪感を覚えつつもその状況に慣れてしまった違いは、15歳という思春期の青年特有の潔癖症によるとこも大きかったのだろう。

 海藤は抗議するために詰所に向かい看護婦を呼んだ。
「すいません、前のベッドの人がオナニーしているんですが」
「はあ...」という看護婦のやる気のない返事。
「ちょっと注意してくれませんか?」
「ああ...後でしておきます」
 いかにもやる気のない看護婦の態度を見ていると、この手のクレームに慣れているのだろうか?
 彼はオナニーのハアハアといった喘ぎ声や衣ずれの音の続く四人部屋に戻る気がせず、詰所横のソファーに座っていた。窓から差し込む西陽がいやに眩しい。

 夕陽は人を感傷的にさせる。朝移ってきたときには自由を感じたのに、海藤はもう睡眠薬を求め始めている。

 彼の感じた一般病棟のメッキは、早々に剥がれ落ちようとしていた。
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