奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

21 また、僕から逃げていく 後

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 文香は果たして自分が向かい合っているのがさくらなのか、それとも優なのか。
 分からなくなっていた。

「優は皆に好かれて…… 私はそんな優に愛されて幸せだった」

 口から零れるのは未練なのか恨みなのか。
 それすら判別できない。

「でも、今はもう何も分からないの。優のことを私が一番よく知っているはずなのに…… だって、私の知る優は…… 浮気するような奴じゃなかった。反省してるって、チャンスをくれって言って…… 嘘をつくような奴じゃなかった」

 自分は何を話そうとしているのか。

「でもね、あいつが優しいのだけは、本当なの。だから皆に好かれるのは当然で…… 私が死んだ後も、きっと誰も優を責めない。むしろ責められるのは…… 優を哀しませた、弱い私の方よ」

 どこか幼く、拙い口調。
 それは文香の素に最も近い、彼女の本質だ。
 必死に善い子になろうと、殻を何重にも被っていた。
 だから、文香は自分で自分が分からなくなっていた。

 文香の言葉を誰よりも文香自身が聞きたくて。
 誰よりも怖くて、聞きたくなかった。


「……優を、絶望させてやりたいの」


 自然と自分の口から零れた本音はどこか夢見るように柔らかい。
 目の前の、さくらなのか優なのかも分からない、歪んで見える男が目を丸くしている。
 子供みたいな素直な反応を見て、ああこれはやっぱり優なのだろうかと思った。
 そんなはずないのに。
 だって優は文香がどこにいるのか、何をしようとしているのかまったく知らない。
 想像することもできない。
 いつだって、優の知る文香は理性的で、正義感のある、強い女なのだから。
 こんな、軽々しく自分の命を投げ捨てようと、それで誰かを苦しめようとする女なんて、優はきっと知らない。

「死ぬほど、私の後を追うほど、後悔させてやりたい。皆、優を慰め、死を選んだ私を責めればいい…… いっぱい、私を馬鹿にして、怒ればいいのよ。それが何よりも、優しい優にとっての拷問になる」

 こんな風にうっとりと、醜い自身の願望を語るような女は優の望む文香ではない。

 今の文香にはどうでもいいことだった。
 だってもう、自分は死ぬのだから。

「苦しめばいい……! 例え、私の後を追わなくても…… 優は私を忘れない、一生忘れることもできず、自分の過ちを後悔して、ずっとずっと、苦しみもがき続ければいいのよ!」
 
 もう、何も耐える必要はない。
 意地を張る必要はもうないのだ。
 張りつめていたものが解放され、雪崩のように崩れていく。
 文香の全てを呑み込んでいくのだ。
 跡には何一つ残らない。
 
「……馬鹿らしいって、思うでしょ?」
 
 そんなこと、文香とて分かっている。
 愚かな選択だと、普段の冷静な文香なら思うだろう。
 自殺するぐらいなら、さっさと離婚でもして、二人を訴えて、新たな人生を歩めばいい。
 二度も文香を裏切るような男を、あんな吐き気を催すような女を抱くような男なんてさっさと見切りをつければいい。

 そんなこと、文香が一番よく分かっている。

「そうよ、私は優に依存しているわ」

 この男の言う通り、文香は夫である優に依存していた。

「私は…… ずっと優が好きで…… ずっと嫌いだった」

 ただ好きだから、愛しているから。
 その気持ちに嘘はなく、優の不倫を知る前であれば自信を持って自分の愛は曇り一つないと言えただろう。
 しかし、心やプライドを守る鎧も殻も全て剥ぎ取られた今の文香は漸く自分の本心と向き合った。
 本心というには酷く複雑で、それ故にずっと奥深いところに巣くっていた感情が今暴れている。

「優は私の欲しいものを全部持っていた。今も昔も……」

 優しく愛情あふれる両親がいて、困っているときには全力で助けてくれる友人がいる。
 誰からも好かれ、無邪気なほど世の全てが善意で成り立つと信じ、躊躇いもなく困っている人を助ける優が文香にはとても眩しく、尊く、綺麗なものに思えた。

「ずっと、そんな優に憧れて…… ずっと、嫉妬していたの」

 なんだか無性に笑えて来る。
 それなのに、口から零れたのは耳障りな嗚咽だ。

「だって、狡いよ…… 私の欲しいものを、優は全部持っている」

 まるで子供みたいだ。
 けど、本当の文香は所詮子供なのだ。
 自分の欲しいものが手に入らないことに怒り、苛立ち、泣き喚く子供でしかない。
 
 文香は優に嫉妬していた。
 初めて会った頃から、羨ましくて仕方が無かった。
 文香の持っていないものを全て持っている優が。
 それは、仕方のないことだと分かっている。
 どう足掻いたとて、文香は優になれない。
 帰る居場所なんてないし、将来を心配してくれる家族もいない。
 性格だって、もうどうしようもないのだから。

 それだけなら、まだ耐えられた。

「なんで……? いつも、優ばっかり…… 皆、私よりも優を好きになる、私がどんなに頑張っても、どんなに仲良くなっても…… 皆、優に会うと私のことなんてどうでも良くなって、優ばっかり見る…… 頑張っても頑張っても! 皆、私じゃなくて優を好きになって、私から離れていく……! 初めから、優はたくさん持っているのに、どうしてそれ以上を攫って行くの!? 私の何が、何が優と違うのよ……!」

 友達を取られた子供のように文香は泣き叫ぶ。
 
 優は人望がありすぎた。
 人に好かれ過ぎた。

 文香と仲の良かった数少ない友人も、優に会えばすぐに優の虜になって、文香への関心がなくなっていく。
 大学で自分を変えようとメイクもファッションも頑張って、漸く自分の居場所を見つけたと思ったら、あっさりと優に奪われる。
 文香が少しずつ歩み寄り、仲良くなったサークルの先輩も後輩も。
 目をかけてくれた教授も、優に会った途端、文香を見なくなる。

 二人を知る人は皆、優しか見ない。
 文香を文香ではなく、優の恋人、妻としてしか見なくなる。

 悔しくて、それでも優なら仕方がないと思った。
 いつもそうやって諦めていた。

「……分かってるのよ、私が一番、よく分かってる。皆が、優に惹かれるのも仕方がないって」

 それほどまでに、優はとても魅力的だから。

「私が、誰よりも…… そんな優に嫉妬するほど、愛しているから」

 文香がこの世でもっとも敵わないと思い、嫉妬するのが優であれば、一番に自分を守り、愛して、愛するのもまた優だった。

「誰よりも優を愛している。きっと、死の間際でも、私は優を愛しているわ」

 風が冷たく文香の頬を嬲る。
 涙が吹き飛ばされても、文香の視界は未だ歪んでいた。

 もっとずっと前から、文香の世界は歪んでいたのかもしれない。



* 


 後ろの鉄柵に寄りかかったまま、足を引っかける。
 パンプスのヒールは滑りながらも、柵の一部に乗り上がり、ふわっと文香の身体が浮く。
 風が、まるで文香を支えるかのように。

 目の前の黒い男を見つめたまま、文香は背中から柵の上に身を乗り出す。
 どこから吹いて来たのかも分からない突風で文香の髪が宙に舞った。

 随分と、色々話した気がする。

 話せば話すほど、文香は自分がとても醜い女だと、誰よりも幼稚な女だと自覚した。
 
 色んな人に迷惑をかけてしまうと分かっている。
 でも、耐えられないのだ。
 優のことが赦せなくて、それでも愛しているから。
 後悔させてやりたい。
 苦しませて痛めつけて、罪悪感で死ぬほど後悔させてやりたい。
 誰からも愛される優に、思い知らせてやりたかった。
 優のせいで、文香は死んだのだと。
 永遠に忘れられない罪を、背負わせてやりたい。
 
 私の後を追って死んでほしい。
 生きて、生きて永遠に苦しめばいい。

 矛盾した願いが鬩ぎ合い、身体中熱くて仕方がない。

 あんなにも冷たかった文香の頬は紅潮し、乾いていた目からはずっと涙が零れて止まらない。
 笑みの形に歪む唇は赤く、血の色のようだ。

 誰にも、今の自分は止められない。

「私の世界は、優を中心に回っているんじゃない」

 誰がなんと言おうと。
 この目の前の男が何を言おうとも、文香はもう、止まらない。

「私の世界は、優でしているのよ」

 だから文香の世界は全て偽りに満ちている。





 力を抜くだけで良かった。 
 風が、文香の足元を攫う。
 全てが軽くなる感覚。
 文香の全身を叩きつける雨が心地良い。

 最後に目に入った男に笑いかけながら、文香は屋上から落ちて行った。
 目に映る全てがゆっくり流れていく。

「貴方にはきっと、分からないわ」

 落下する瞬間。
 文香は、追憶の闇に呑み込まれた。

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