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≪過去②≫
21 また、僕から逃げていく 前
しおりを挟むあのときとは違う運転手があのときの運転手と同じように、どこかぼうっとしたまま運転している
隣りに座るさくらが濡れた文香の全身を観察していたが、以前のように暴れることはしなかった。
初めは拒絶していたのに、あのときの文香は何故か途中で警戒心を無くした。
違う。
文香は一度はさくらのことを忘れていたのだ。
さくらにタクシーを譲られたことなど初めからなかったことのように、さも自分が運良くタクシーを拾ったと思い込んでいた。
冷静に考えれば怖ろしいことで、ますますさくらの存在が怖ろしくなる。
けど、今の文香にはどうでもよかった。
さくらへの警戒心が湧く気力もないのだ。
目的地を聞かれて黙るのも嘘をつくのも面倒で、借りているマンションの名を告げた。
今の文香は無気力だ。
全てがどうでもよかった。
「随分と哀しそうな顔をしているね」
そんな文香をさくらは足を組みながら眺めている。
座席のシートに染み込むほど濡れている文香に気にせず顔を近づけ、前髪をかき上げて顔を覗き込もうとする。
形の良い鼻を動かし、猫のように目を細める。
抵抗しない文香にさくらは眉を顰めた。
「ほら、見ろ。意地なんて張らずに、大人しく僕のものになれば良かったんだ」
文香は無反応だ。
さくらに触れられても、寒さで凍えた今の文香の感覚は鈍くなっていた。
心も身体も寒く、何も感じられない。
「また、あの女に旦那を寝取られたんだろう?」
直球すぎるさくらの言葉に文香の顔色は青白いまま、変化を見せない。
何故さくらがそのことを知っているのか、確認もしなかった。
「まぁ、仕方ないか」
今の文香はただ沈黙を貫き、静かだ。
「君じゃ、あの女には敵わないからね」
揶揄うさくらに文香は反論しなかった。
そのことにさくらは違和感を覚え、黙ったままの文香に鼻を鳴らす。
俯く文香はさくらの目にはとても小さく見える。
寒さに震える姿は弱弱しく、哀れだ。
しかしさくらは特に同情も何もせず、むしろガッカリしていた。
(つまんないな)
あっけなく壊れた文香にさくらはなんだか裏切られたような、失望に似た感情を覚え、急速に文香に対する興味が失せていくのをこのとき自覚した。
「……ここで、降ろして」
窓の外を見ていた文香が呟く。
以前さくらに見せた激しい感情など微塵もない。
そのことに何故か不機嫌になっていく自分にさくらは首を傾げつつ、運転手に車を停めさせた。
車が停まると文香はすぐにドアを開けて外に出る。
再び雨に濡れた文香はさくらに何故か財布を押し付けた。
なんの変哲もない女物の財布で、雨に濡れている。
何の真似だとさくらが口を開く前に文香は淡々と言葉を紡ぐ。
「中に、現金が三万ほど入ってるわ。今のタクシー代と、あのときタクシーを譲ってくれた分…… 全部受け取って」
「……は?」
文香の言葉にさくらは怪訝な視線を向ける。
「全部、あげるわ」
そんなさくらに文香は微かに笑った。
「……もう、私には不要だから」
そう言って、呆然とするさくらを置いて文香はゆっくりと立ち去って行く。
バケツの水をひっくり返したような大雨。
風に煽られ、雷が時折落ちる。
そんな天気の中、文香の背中はすぐに見えなくなった。
*
非常用階段を上る度に階段に水たまりが出来た。
身体から血が流れ出ているみたいだ。
文香が借りたマンションは本当に古く、管理もずぼらだ。
こんな簡単に屋上に出れてしまうのは問題だと思う。
もちろん、とんでもない迷惑をかける今の文香に文句を言う資格はない。
むしろ、そんな管理能力が薄いマンションに、雑なセキュリティーに感謝しなければならない。
皮肉でもなんでもなく、文香は感謝していた。
わざわざ悩まなくてすんだのだから。
自分の、死に場所を。
死ぬ方法を考える手間が省けた。
屋上の扉はさび付き、鍵は意味を成していなかった。
中高生がわざわざこのマンションの屋上に忍び込み、時折騒いでいることに気づいたのは最近だ。
今時これだけ杜撰な管理も珍しい。
家賃だけは安いと思っていたが、この管理のなさを考えればむしろ割に合わないのかもしれないと今更ながらに思った。
……いや、むしろ向こうの方が割に合わないだろう。
これから文香は、とっても迷惑なことをするのだから。
(屋上は…… 初めてだ)
真っ暗闇の中。
遠くで雷が落ちた。
運良く雷に当たればいいのに。
なかなかそうもいかない。
川に飛び込むことも考えたが、残念ながら近くに橋がなかった。
そんなことを考えながらも文香の歩みはしっかりしている。
足をひっかけ、身を乗り出せばあっさりと落ちてしまえそうな脆い鉄柵。
鉄条網もないなんて、本当に呆れるぐらい危なっかしいマンションだ。
文香みたいな住民を考えなかったのだろうか。
他人事のようにそんなことを思った。
そして、柵の上に身を乗り出す。
雨は止まず、文香の身体に容赦なく降り注いだ。
滲む視界に映る景色。
屋上から見下ろすのは初めてだが、暗く視界が曇っているせいで地上の様子がよく見えない。
それでもじっと目を凝らしたのは決心がつかないからではなく、他に人がいないか確認するためだ。
誰かを巻き込むわけにはいかない。
そこまで冷静でありながら、文香の決意は一切揺るがなかった。
自分が何をしようとしているのか。
よく、分かっている。
分かっていなかったら、こんな所にいない。
こんなことを、しようとなんて思わない。
(そうだ、靴を脱がなきゃ……)
しゃがみ込み、文香は鞄を置いてパンプスを脱ごうとした。
「呆れた」
そんな文香を、さくらは心底呆れたように見ていた。
* *
正直、さくらは失望していた。
自分を侮辱し、拒絶した文香に対して元々良い感情は持っていなかった。
けど、物珍しく、退屈しない存在だとは思っている。
なんとしても自分の虜にし、奴隷にして甚振り、最後に惨めに捨ててやろうと思っていた。
さくらの矜持を傷つけたのだ。
それぐらいの代償は必要だと思っていた。
(こんなつまらない女だったなんて……)
舌打ちしたくなる程度にはさくらは文香に苛立った。
そんなありきたりで、誰にでも思いつくようなつまらない選択をする文香の平凡さを嘆いていた。
「君ってどうしようもない馬鹿だったんだね」
「……」
全身を濡らし、冷たい風に煽られる文香の顔色はまるで死人みたいだ。
死ななくても、そう大して変わらないだろうとさくらは思った。
今の文香は既に死人のようなものだ。
「わざわざ男のために…… 他の女に寝取られるような旦那なんて、元々大したものじゃないだろう? そんなことで自殺しようとするなんて馬鹿だとしか思えないよ」
文香に死なれたとしても、特にさくらに感傷は芽生えない。
けど、一度も自分の魅了に靡かなかった文香にこのまま逃げられるのは癪だった。
「現実から逃げたいから、人って自殺するんだってね」
水溜まりばかりの屋上を革靴でゆっくり歩いてく。
近づいて来るさくらを文香はぼんやりと見ていた。
びしょ濡れの文香と違い、さくらは綺麗なままだ。
「浮気なんて、よくある話だろう? いちいちそれで自殺してたらきりがない」
肩を竦めながら、さくらは御座なりに文香を説得する。
「そんなことするほどの価値が君の夫にあるとは思えないけど。君って案外男に依存するタイプなんだね」
さくらは心底分からないとばかりに首を傾げる。
何も言わない文香に僅かに苛立ちながら。
「死んだって何も変わらないと思うよ。むしろ君の旦那とあの女は随分と相性がいいみたいだから…… そのまま再婚しちゃうかもね」
文香の自殺を説得したいのか、それとも更なる絶望に突き落としたいのか。
さくらにもよく分かっていない。
もう、どうでもいいのかもしれない。
さくらをガッカリさせた文香に対する興味関心は急激に薄れている。
このまま死んでも特に何も支障はなかった。
「君が死んだって誰も変わらないし、君を傷つけた奴らに罰は下らない。ただ、旦那に浮気されて自殺した、惨めな女の死体が一つ出来上がるだけだ」
さくらは人の感情や行動に疎い面があった。
知らなくても困らない、また興味がないのだ。
「死ぬぐらいならさっさと別れちゃえばいいのに。離婚でもなんでもして、浮気相手と一緒に訴えて、慰謝料でもとった方がずっと建設的だろう?」
それはさくらの紛れもない本音であり疑問だ。
死ぬぐらいならさっさと男に見切りをつければいい。
そしてさくらに縋り付けばいいのに、と思っていた。
「……いやよ。別れるなんて、絶対に嫌」
だからこそ、文香のその返しはさくらの想定外だった。
* * *
「優とは…… 死ぬまで別れない。別れてやるつもりはないわ」
激しい風に吹かれ、濡れた黒髪がさくらの前で乱れて舞う。
文香は雨も風も、自分に降りかかる全てがどうでもいいように、さくらを睨みつけた。
その口元は不器用なまでに鮮やかな笑みを形作っている。
「私は、あいつの…… 優の妻のまま、妻として…… 死んでやるのよ」
文香の声は震えていたが、そこには奇妙なまでの暗い熱があった。
「私が自殺すれば、優はずっと罪悪感で苦しむ。そういう奴よ。……だから、一生、私のことを忘れられなくしてやるの」
さくらはこのとき初めて文香が泣いていることに気づいた。
「優はね…… とてもお人好しで、誰にでも優しいの。だから、皆に好かれてる」
その頬を濡らしていたのは雨ではなく、文香自身の涙だ。
「そうよ。貴方の言う通り、私が死んだって何も変わらないわ。私が自殺しても、哀しむのは…… 優だけよ」
文香の口から漏れ出る笑い声は低く擦れ、聴く者を不愉快にさせるほど悍ましい感情に満ちていた。
「優は昔からそう…… 私と違って皆に好かれ、皆を好いていた。優と付き合ったときも、結婚したときも、結婚した後も…… 皆、私達を不釣り合いだと言っていたわ」
無理に笑おうと頬を引き攣らせる文香をさくらはじっと見ている。
その目に映る文香はなんとも醜く、惨めだ。
「そうね…… 本当に、あの女の言う通り…… 優の運命の人は私じゃなくて、あの女なのかもね」
後ずさり、文香は背後の鉄柵に寄りかかる。
「優は…… 一度も、あんな風に私を抱いたことはなかった…… 私を抱くことを、拒みすらしたわ。なのに、あの女には…… とても、激しく、盛った獣のように抱いていた……」
文香は狂ったように自分の髪を掻きむしる。
「愛しそうに、本能のまま、私以外の女を、あんな女を抱いていた……!」
文香は必死に夫とその浮気相手の女の前で我慢していた嫉妬を全て吐き出す。
「なんで? どうして、私じゃいけないのッ!? 優が好きなのは、愛しているのは私だって…… ずっと、私だけを愛するって、誓ったのに…… 結婚したのに、どうして裏切るの……?」
嵐に負けないぐらいに激しく、理不尽なまでに暴力的に目の前のさくらにぶつけた。
「裏切るぐらいなら、あの女が好きなら、どうして私を捨ててくれないの!? 期待させて、赦そうと、やり直そうって気にさせといて…… 優も、あの女も、愛し合っているなら、さっさと邪魔な私を殺せばよかったのよ……!」
醜い女の嫉妬と憎悪が嵐に掻き消されることなく、夜に響き渡る。
「騙すぐらいなら、嘘をつくぐらいなら……! そんなにお互いが好きなら、愛し合ってるなら……! さっさと私と離婚して、二人で正々堂々、再婚でもなんでも、勝手にすれば良かったのよ……!」
それはまさに炎だ。
「そうすれば…… そうすれば、私は……っ!」
文香の魂が、激しく燃えている。
叫んでいる。
「こんなにも、惨めにならなかった……!」
憎悪と怨嗟に満ちた絶叫がさくらの全身を貫く。
さくらは何も言わず、渇いた犬のように息を切らす文香を瞬き一つせず凝視する。
じっと、文香の全てを見逃さないように目を凝らしていた。
しばらく、不自然なほどの静寂がその場を支配した。
「…………できないわよね。だって、」
荒々しく叫んでいた文香は糸が切れた人形のように、項垂れ、嗤った。
「優は…… 優しいから」
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