奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

20 旦那を寝取られるのって、どんな気持ち? 後

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 逃げてしまいたい。
 今すぐ、ここから逃げたい。
 
 それなのに、動けずにいた。
 自分は何故、こんなものを見ているのか。
 それすら分からない。

 文香が呆然と惚けている間に、志穂が果てた。
 初めて聞く女の絶頂に至る嬌声は酷く甘ったるく、獣みたいだ。

 声にならない絶叫は女の、雌としての喜びに魂が歓声をあげているようにも聞こえる。
 それほど志穂は恍惚と、これ以上なく幸せそうに優にしがみついたまま、絶頂した。
 切ないほど、硝子細工が無惨に壊れたような、そんな儚げな声が文香の胸を抉る。
 気絶するように力なく志穂の四肢が優から離れていく。
 それでも、離れ難いように優の肌を撫でて沈んでいく白魚のような手に、文香は胸を掻きむしりたくなるような衝動に駆られた。
 ぴんっと伸びた人形のような足先が、力なくシーツの波に溺れていく様は陸にあげられた人魚のようだ。

「……志穂」

 そして、そんな志穂を。
 淫靡に乱れ、狂いそうなほどの快楽に翻弄されていた女を、優は抱き上げる。
 大事な大事な、宝物のように。
 人形のように動かない女を見つめる優の顔は濡れた髪に隠れて見えなかった。
 ただ、その口角が上がり、愛し気に歪むのが見える。
 気絶した志穂の頬に手をあて、優は笑ったまま、ゆっくり顔を近づける。

 ああ、そうか。
 キスを、しようとしているのか。

 志穂の唇と優の唇が触れる寸前に、そんな暢気なことを文香は思い、

「……何、してるの?」

 そんな分かり切った台詞が口からぽろっと零れた。

 弾かれるように、志穂にキスする寸前だった優が呆然と文香を見る。
 今、自分がどんな顔をしているのか分からない。
 ただ、文香の視界に映る優は夢でも見ているように、あるいは夢から突然起こされたように戸惑っていた。

「ふ、みか……?」

 戸惑い、そして徐々にその目が大きく見開かれ、文香を食い入るように見つめている。
 優が文香を呼ぶ声は酷く擦れていた。
 外の嵐に簡単に掻き消されてしまいそうなほど。
 獣のように呻いていた声とは、まるで別人だ。

「……ねぇ、何をしてるの? ここで、」

 文香は声を荒げることもせず、ゆっくりと寝室を見回し、そして裸の優が抱き締めているお人形を静かに見つめる。

「その、女と…… ねぇ、何やってたの? 私のいない間に、ここで…… 何してたの?」

 文香の視線が優を捉える。
 濡れた前髪に今更気づき、文香はそれをかき上げた。
 ずぶ濡れな文香の全身を優が凝視している。
 目の前の文香が本当に現実なのかを確かめるように。

 きっと、優も文香と同じだ。
 お互い、今の現実を認めたくなく、無様に足掻いている。

「ち、が…… 違うんだ、これは……」

 優の顔が歪む。
 情けないほど動揺し、懸命に文香に何かを言おうとし、何も言えずに焦っているのが手に取る様に分かる。
 
「俺はただ……」

 優が文香に近づこうと腰を上げる。

「ん……」

 優が抱きしめていた志穂が身じろいだのを見て、文香の口が歪む。
 青褪める優の顔を見つめたまま、文香は笑った。

 優の目を見て、囁く。

「嘘つき」

 途端、優の目に絶望が浮かぶ。
 それは優の目に映った文香なのかもしれない。

「……みんな、嘘ばっかりね」

 嘘つきだと思った。
 優ではなく、を文香は嘘つきだと責めた。

「本当……」

 優のことが手に取るように分かるなんて嘘だ。
 何一つ分からない。
 文香は何一つ、夫のことを分かっていなかったのだ。

「……馬鹿みたい」

 文香が一番の嘘つきだ。



* 


 鞄を引っ掴み、文香は寝室から出ようとした。

「文香、まっ……」

 優は必死に文香を引き留めようとベッドからずり落ちる勢いで這って来る。
 乱暴に放り投げられた志穂が微かに呻き出すが、そんなことをまったく気にせず優は足に絡まるシーツをそのままに出て行こうとする文香に縋りつこうとした。

「文香、ごめん…… 違うんだ、俺は…… 俺はどうかしてたんだ! 全部、夢だと思って…… 俺は……」

 そんな優を避けるように、そのまま無視して行こうとする文香の足首を優は掴んだ。

「行かないでくれ、文香……!」

 足首を掴まれた文香の動きが止まる。
 そのことに一瞬安堵した優は見上げた文香の顔に浮かぶ嫌悪に気づき、息を呑む。
 鋭い衝撃が優の顎を襲った。

「私に触らないで……!」

 ヒステリックな文香の叫びが優の鼓膜を揺らす。
 雷すら引き裂く文香の叫びは嫌悪に塗れ、心底気持ち悪いと言わんばかりに優を見下していた。

 文香に足蹴にされたと気づいた優は、噛んだ唇に滲む血を恐る恐る触れ、文香を呆然と見上げる。

「文香……?」

 痛みよりも、文香に蹴られたということが信じられず、優は迷子の子供のように情けない表情で文香に縋り付いた。

「気持ち悪いのよ…… あんたに触られると虫唾が走る……」

 腕を抱きしめ、文香は吐き捨てる。
 憎くて仕方がないと、その目は語っていた。
 志穂との関係がバレたときですら、文香はこんな激しい拒絶を、優に暴力を振るうようなことがなかった。
 痛みなどどうでも良かった。
 今の優はただ文香の、明確な文香の拒絶に恐れ、怯えていた。

「っ、ご、めん…… 俺、とんでもないことを、」

 優が文香に手を伸ばそうとすると、文香は顔を歪め、近づこうとする優の顔を引っ叩いた。
 鋭く皮膚を引っ叩く音が再び優の鼓膜を揺らす。

「二度と……」

 完全に切れた唇を拭うこともせず、優はただ文香を見つめた。
 優を見下す文香は声を震わせている。
 揺れた黒髪がその顔に張り付き、痛々しいほど噛み締められた唇は優と同じように血が滲んでいる。
 文香の目は真っ赤だ。
 濡れた頬はまるで泣いているように見えるのに、文香の目にはただただ火傷がしそうなほど、永遠に褪めない炎が憎悪に揺らめいていた。
 そしてそれを必死に抑えようとしている。
 だからこそ余計に痛々しく、傷だらけに見えた。

「二度と、その汚い手で…… 私に触らないで……!」

 窓を叩きつける外の嵐は、そんな文香の心を代弁しているかのように、未だ止む気配を見せない。

「……あんたの顔なんて、もう見たくない」

 文香の侮蔑に満ちた眼差しに、優は自分の喉が凍り付き、声が出なくなるのが分かった。
 それでも、立ち去ろうとする文香を引き留めたくて。
 このままでは駄目だと、必死にその足に縋り付く。
 プライドなどなかった。
 泣きながら、文香の濡れたストッキングに額を擦りつけて、優は懇願する。
 凍り付いた喉を、無理矢理動かし、喘ぐように文香に哀願した。

「い、やだ…… ふ、みか…… 頼むから、」

 優は現実を認めたくなかった。
 文香を裏切ったことも、文香の見ている前で志穂を抱いたことも。
 もう二度と優を許さないであろう文香を。
 修復しかけた夫婦関係を再び自分が壊したことを。

 認めることが怖かった。

「俺を、捨てないでくれ……!」

 我儘な子供のように優は嫌だ嫌だと泣き喚く。
 呆れてもいい、馬鹿にされてもいい、嫌われてもいい。
 
「文香と、別れたくないんだ…… 俺は、文香が…… 文香だけが、ずっと、」

 文香と別れたくないと、優はみっともないぐらいに願った。
 赦しを、乞うた。

「ずっと、文香だけを…… 愛してる……!」
 
 血を吐くような叫びが、暗い廊下に響き渡る。
 一瞬の静寂がその場を支配した。
 
「……あんたの愛って、そんな薄っぺらいのね」

 文香はそんな優を嘲笑う。
 心底馬鹿にし、優の汗で濡れた前髪を掴み、吐き捨てた。

 優の愛を、吐き捨てた。

「そんな愛なら、無い方がマシよ」

 優の髪を乱暴に掴み、揺さぶり、情けないその顔に爪を立てる。
 ギリギリと引っ掻き、優の血で爪の間が赤くなるほど憎しみを込めた。

「死んだってもう、あんたの愛なんていらない」

 衝動のまま優の首を絞める。
 苦しみ、顔を歪ませながら、優は文香から目を逸らさない。
 ただただ強いショックを受けたように、傷ついたように文香を見つめている。
 その視線が堪らなく不愉快で、優の目に映る自分のその醜い顔が遣る瀬無かった。

 どうして、そんな真っ直ぐな目で文香を見つめて来るのか。
 首を絞める文香を、殺意を抱く文香に抵抗しないのだ。
 理解できなかった。

 文香の手が首から離れると、優は激しく咳き込んだ。
 それでも文香に手を伸ばそうとする。

「っぁ、ふ、み……」

 首を絞められても文香を求めようする優。
 泣きながら求めて来る優から、文香は今度こそ逃げ出した。



* * * * *


 気持ち悪い。
 気持ち悪くて堪らない。

 傘も忘れ、とにかく優から、あの部屋から飛び出したかった文香は吹き荒れる嵐の中を彷徨い歩いていた。
 シャワーをそのまま浴びたように濡れた身体。
 女一人がこんな荒れた夜に力なく彷徨う様は不気味である。
 時折車のヘッドライトが文香を照らすが、当の文香にはどうでもよかった。

 ただ、吐き気が止まらない。
 優と志穂が抱き合っていたあの光景が、寝室全体を覆う熱気が。
 文香の知らない顔で志穂に溺れ、求める優を思い出すたびに気持ちが悪くて堪らない。

 耐え切れず、文香は道の半ばでしゃがんだ。
 朦朧とした意識の中、文香は無意識に借りていたマンションに帰ろうとしていた。
 もう、あそこは自分の家ではないという意識があった。
 志穂の匂いに満ち、文香を拒絶する冷たい部屋。
 あそこはもう文香の家ではない。

 水溜まりが溢れる道路にしゃがみ、文香の口の中に胃液が広がる。
 口を押さえ、必死に吐き気を耐える文香をヘッドライトが照らす。
 そのことに気づかない文香は、ふと自分を差す傘に気づいた。

「相変わらず、惨めだね」

 聞き覚えのある男の声が雨の代わりに降り注ぐ。
 文香に傘を差すさくらはどこか呆れたように文香を見下している。

 吐き気が少し、治まった気がした。

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