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≪過去②≫
19 僕に感謝しろ 前
しおりを挟む一月というのは長いようで案外短いのかもしれない。
『あのさ…… もうすぐ、帰って来るよな……?』
期待し、怯え、それでも期待に満ちた優の声。
興奮を必死に抑えようとしているのがありありと分かる。
文香とて、毎日カレンダーを見ているのだ。
優のそわそわとした期待に気づかないはずがない。
とうとう我慢できずに聞いて来た優に自然と苦笑いが浮かぶ。
なんと答えるべきか、正直迷っていた。
「……まだ、一ヵ月経っていないわ」
それが文香の答えだ。
随分と曖昧な返しだと分かっている。
一ヵ月経ったら自宅に帰るとも、帰らないとも明確に言っていない。
ずるい返しだと文香は思った。
『っ、ごめん…… そ、うだよな…… 気が早すぎたみたいだ……』
すぐに謝罪する優もまた同じくずるい。
どうせ、いつかは決着をつけないといけない。
一ヵ月という期限付きの別居、優から離れる現実は確かに文香に優の必要性を、求めている自分の本心を自覚させるものとなった。
しかし、その間に起こった出来事はあまりにも強烈で。
優には決して言えないことだ。
志穂がやらかしたことを文香の感情だけで黙るのは愚策かもしれない。
それでも文香は優に自分の責任だと志穂に関することで悩んでほしくなかった。
綺麗事ではなく、これ以上志穂のことを考えてほしくなかった、意識してほしくなかったのだ。
『……全部、俺のせいなのに。文香と少し離れただけで、もう我慢できないでいる。会いたくて、堪らない…… だから、つい我儘言っちまった』
「……」
『こんなこと言う資格なんて俺にはないのにな』
震える優の声に一体なんと答えればよかったのか。
『悪い、忘れてくれ』
何も答えずにいる文香に、優は無理に明るい声を出す。
『ゆっくり、文香のペースでいいから…… 無理を、しないでほしい』
「……優」
『いつでも、文香のこと…… 待ってるから』
最後に文香に囁いた優の声は消えそうなぐらいに擦れていた。
『おやすみ、文香……』
「……おやすみなさい」
誰のせいで、一体誰のせいで、こんなことになったのか。
優が弱音を吐く度、文香を求める度、償いの言葉を紡ぐ度にやり場のない怒りが渦巻き、そして愛しさが芽生える。
優を罵倒したいのか、それとも自分も優に会いたいと、元の関係に戻りたいと涙ながらに縋り付きたいのか。
相反する感情にいつも振り回されて来た。
意地もあったのかもしれない。
やり直す気でいるのなら、あのとき義父に言ったことが嘘でないのなら。
もう、優のもとに戻らなければならない。
二人でやり直すと決めたなら、文香は目を瞑り、自分から歩み寄らないといけないのだ。
何故、浮気された自分が妥協しなければならないのか。
しかし、それが離婚ではなく、再構築を選んだ文香の現実なのだ。
裏切られ、傷つけられた方が寛容でなければ関係の修復を図ることはできない。
理不尽だが、それが文香の選んだ道だ。
「……」
優との通話を切った後、文香は部屋を見回した。
物も思い出も、何一つない冷たい部屋。
無機質で、何度も文香の心に寂しさを植え付けた殺風景な部屋に漸く慣れて来た頃だ。
不便だけど、文香が身一つでも生きていけると証明した部屋でもある。
どんなに寂しく、虚しくても。
お腹は減るし、疲れれば自然と眠りにつく。
お金さえあれば、なんとかなる。
いや、例えお金がなくても、そうそう野垂れ死ぬこともない。
しかし、それでも心が空っぽでは意味がないのだ。
何を食べても味はしないし、誰とも喋らないと喋り方すら忘れそうになる。
心のすり減りはお金ではどうにもならない。
疲れて寝ても、夢で優を求める自分に気づく度に目が覚める。
この部屋は、一人では満足に寝ることもできない文香の弱さを露呈した部屋でもあった。
「もう、お別れね……」
楽しい思い出など一つもない。
それでも、ここで過ごした約1ヵ月、優のいない1ヵ月は確かに文香の心に変化をもたらした。
*
一月というのはあっという間だ。
季節はいつの間にかもう秋となった。
つい最近まであんなに蒸し暑かったのに。
今では夜も冷え込み、天気も急激に変わり安定しない。
「今夜台風が到達するかもしれないってさ」
星田が退職してから、以前のように一人で黙々と仕事するようになった文香を気遣ってか、たまにこうして先輩が話しかけて来る。
その話の大抵が世間話という名の新婚生活の惚気だが、嫌な顔一つせずに真面目に相槌を打つ文香は聞き役としては最高の相手だ。
その無愛想な顔と威圧的な視線さえ気にならなければの話だが。
「せっかくの休みだってのに、明日はどこにも行けないな…… 掃除の手伝いとかさせられそう」
「いいんじゃないですか? たまにはご夫婦で掃除するのも」
「俺、本当掃除苦手なんだよ……」
はぁーと溜息を零しながらも、でれでれと家で待っている妻のことを考えて顔をにやつかせる男が文香は嫌いではなかった。
入社当初から世話になり、今でも文香のお堅い性格に嫌厭せず接してくれる。
とても有難く、いい人だと思う。
だからこそ、幸せそうな姿を見ると少しだけほっとする。
「電車もまたいつ運休になるか分からないし、香山さんも気を付けて帰れよ?」
こうしてさり気なく文香のことを心配してくれる人というのは限られているからこそ、妙に擽ったい。
「まぁ、いざとなったら頼りになる旦那に迎えに来てもらえばいっか」
「……そうですね」
「そうそう。少し頼った方が旦那も喜ぶって」
文香は自分の顔が曇るのを自覚し、それを覚らせないようにお茶を啜る。
なんとなく、あの夜以来珈琲が苦手になった。
寒くなって来た時分、温かい緑茶を飲む文香を不思議に思う者はいない。
たぶん、誰も文香に関心がないのだ。
関心を持たれても困るが。
もしも星田がここにいれば、探偵ごっこと称してしつこく文香につき纏っていただろう。
急に飲み物の嗜好が変わった文香にこれは事件だと、面白半分で絡んで来る。
そんな確信めいた想像に、文香はくすっと一人で笑った。
大丈夫。
まだ大丈夫。
自分は、一人でも大丈夫だと。
そう思い続ければ、いつかは本当になる気がした。
* *
文香が今借りてるマンションは自宅からさほど遠くない。
会社から近く、交通の便もあり、家賃が安くてすぐに借りられるところがそこしかなかったのだ。
優はそもそも文香が今どこに住んでいるのか知らない。
万が一、緊急の用があった場合を考えて住所を教えて欲しいと何度も頼まれたが、文香は最後まで教えなかったし、最終的に優が折れた。
文香に強く出ることができなかったのだ。
まさか優も歩いて行ける距離に自分の妻が住んでいるとは思わない。
古い建物が多く、取り壊しや解体、工事の多い地域だ。
理由もなしに近づくこともないだろう。
そんな、自分の今借りているマンションのことを思い出しながら、文香は途方に暮れていた。
どうやら先輩の読みは当たったらしい。
先ほどからずっと駅は混雑し、駅員の放送が慌ただしく流れている。
ホームの液晶パネルに表示された台風接近、到達のニュース。
被害状況が少しずつ報告され、文香が使う駅の名も一瞬流れた。
だいぶ到着時刻に遅れが出ているらしい。
明日から休日ということもあり、いつも以上に人が多いような気もする。
駅構内にいても外の激しい風や雨の音が聞こえて来そうだ。
濡れた者も多く、傘を持って来ただけ文香はまだマシであろう。
(こんな日に残業になるなんて……)
星田の退職の一件でどうも当たりがきつくなった上司の顔を思い出す。
それとなく呼び出され、文香の指導法が厳しすぎるのではないか、陰で新人に嫌がらせをしていないか。
連休明けにそんなニュアンスのことを聞かれた。
そのとき自分がどう返したかはもう覚えていないが、いつもならもう少し上司に気を遣うのに、どうも上手くいかなかったらしい。
正直、今の文香は会社や働くことに対する意識がだいぶ薄れていた。
仕事を疎かにしているつもりはないが、以前のように義務感や責任感というものが芽生えないのだ。
そんな態度がもしかしたら周囲に伝わっているのかもしれない。
上司が文香にだけ仕事を押し付けたのも、先輩が最近よく構って来るのも。
会社すら、居心地が悪いと思うのも。
全部、文香の意識が変わったせいなのだろうか。
会社に必要とされている、頼られているとは思う。
しかし、別に文香が辞めたところで倒産するわけでもない。
一時期に困っても、急な退職をした星田の席が書類置き場になるように、いずれ最初からいなかったように皆が忘れる。
身体も心も疲労していた。
だから、こんなことを考えてしまうのか。
漠然とした厭世的な思考が濡れて肌にはりつくストッキングのように、気持ち悪く文香の心を浸透していく。
(無事に、帰れるかな……)
悪い事だけが続けて起こる。
つかの間の平穏とて、それは所詮表向きの話だ。
薄皮一枚下には先の見えない不安と焦燥しかないのだから。
(そもそも、帰る家なんて……)
殺風景な部屋が脳裏を過ぎり、昨夜の優との会話も必然的に思い出した。
いい加減荷物を纏めて元のマンションへ、自宅に帰らなければならない。
一ヵ月と、約束したのは文香なのだから。
(家、か)
駅員のどこか間延びしたアナウンスが、内に沈みそうになる文香の意識を遮断した。
ざわざわとした駅内の騒音が一気に頭の中に押し寄せて来る。
塞がれていた耳が急に解放されたように、外の雨や風の音、人の騒めきが文香の意識を現実に戻した。
繰り返される駅員のアナウンスに耳をすませる。
(運休……)
いつ電車が復活するのかも分からない。
天災相手にはどうしようもないのに、先ほどから人の渦に押されている駅員が少し哀れである。
(歩いたら、二駅分か)
借りているマンションの方が自宅よりも会社に近かった。
だからと言って豪風吹き荒れる中、傘だけ差して歩いて帰るほど文香は剛胆ではない。
それに電車と徒歩ではだいぶ道も変わる。
無事に歩いて帰れる自信はなかった。
(タクシーは…… 無理そうね)
ちらっとタクシー乗り場を覗きに行けば長蛇の列である。
運よく適当に走っているタクシーを呼び止めるのも難しそうだ。
傘を差しても鞄や足元が濡れてしまうほど雨風が強くなっている。
つい、溜息が零れるのもどうしようもない。
そのとき、着信が掛かって来た。
また、誰とも知らない非通知の電話だ。
嫌な既視感に、そして既視感を自覚した自分にあのときと同じ恐怖が芽生える。
心が電話に出ることを拒絶していた。
駅構内のど真ん中で立ち尽くす文香を、大勢の人々が通り過ぎていく。
邪魔そうに顔を顰める者もいたが、誰も文香のことを気にしない。
出ないという選択肢もあった。
もう、この時点で文香は相手を確信していた。
「……もしもし」
それでも震える指は通話をタップし、文香はなんとか平静を装って電話に出た。
『……文香さん?』
できれば予想は外れて欲しかった。
親しみすら感じる志穂の第一声に文香はスマホを握りしめる。
「……一体なんの用?」
凍えるほど冷たい文香の声に志穂は黙っている。
自分から電話してきたくせに、不気味なほど静かだ。
だからこそ、向こうの雨音が聞こえた。
志穂もまた文香と同じように外にいるのか。
「……用がないのなら切るわ」
ただの嫌がらせの電話であればいい。
そんな願いを隠し、文香は吐き捨てる。
『今、優君のお家の前にいるの』
その一言に文香は固まった。
「……え」
間抜けな文香の声に、くすくすと志穂は恥じらうように小さく笑う。
『一人なんて、寂しいでしょう? 寂しがり屋な優君を、文香さんの代わりに慰めてあげるわ』
硬直したままの文香の耳にキスするように吐息を吹きかける。
『心配しないで? ずっと、私は優君の奥さんの代わりに、優君に尽くしてあげていたんだから』
まるで睦言でも聞かされているような、甘く色気に満ちた志穂の声に文香の顔は青褪めた。
嫌な想像ばかりが駆け巡る。
『私達の相性は、とてもいいのよ?』
「……いい加減にしてよ」
勝ち誇ったような志穂の台詞に文香は声を荒げた。
「お願いだから、もう私達に関わらないで……!」
文香の怒鳴り声に視線が集まるのが分かった。
唇を噛み、苦々しく思いながらも文香は声を低める。
「……一体、何がしたいわけ?」
志穂の言葉はもう全部無視しようと思った。
しかし、一瞬でも律儀に耳を傾けようと通話を切らなかった文香はどこまでも愚かだ。
『私ね、優君の子供が欲しいの』
「……………………は?」
その一言に、一瞬頭の中が真っ白になった。
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