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≪過去②≫
14 災厄みたいなものだよ 後
しおりを挟むなんだかやけに深刻な客がいると、レジを担当していた店員は思った。
こんな時間に見た目も何もかも対照的な若い女が二人で来るなんて。
さり気なく近くを通れば、なんだか修羅場な気配までする。
やたらと背が高く、派手な口紅をした女は目つきもきつい。
水を出したとき思わずビビってしまうほど、怖いオーラを放ってる。
対する女の方は思わず見惚れてしまうほど可愛らしく、その横顔は今にも消えそうなほど儚い。
珈琲を出してから他は何も注文しない女二人を店員はそわそわと観察していた。
暇だというのもあったが、好奇心がどうしても疼くのだ。
だから、自動ドアが開いて新たな客が来店したとき。
観察を中断された店員は少しだけ不機嫌になった。
それでも反射の如く笑顔で客を出迎えようとし、
「いらっしゃ……」
途中で固まった。
「ねぇ」
低く、甘く、どこか気だるげな男の声は腰が砕けそうなほど艶っぽく耳を擽る。
「外の看板にある期間限定のベルギー産最高級チョコレートパフェってまだあるの?」
「……は、はいっ、ございます!」
初めて嗅ぐ名も知らない香水に気づいたとき、店員はもうまるで夢でも見ているのかと自分の頬を抓りたくなった。
それほど、目の前の男は人間離れした、怖ろしいほどの美貌を持っていたのだ。
「そう、随分と美味しそうな甘い匂いがしてたんだ」
男はゆっくりと、意外と太く逞しい首を揺らす。
黒檀のような黒髪が顎の周りで揺れ、鋭い鷹のような琥珀の瞳が店の中央を見つめて細められる。
獲物を狙う肉食獣のように。
「あっちの席、座ってもいいかな?」
そう言って男は柔らかな物腰と違い、どこか傲慢な仕草で店員に尋ねた。
もちろん、この全身から王者の風格を漂わせる男に、瞬時にその場を支配した男に逆らえる者はいない。
レジで対応していた店員も、導かれるように厨房から、裏から出で来る他の店員も、ドリンクバーでコップからジュースが溢れていることにも気づかずに男に視線を奪われた客も。
皆が皆、その芳しくもあり、生々しくもある男のオーラと匂いに当てられていた。
「……ど、どうぞ、お好きなように」
もう、どうにでもしてくれと言わんばかりに顔を真っ赤にして蕩ける店員に男は魅力的に微笑む。
「ありがとう」
男、さくらはゆっくりと店の中央の席に近づく。
さくらの視線は、その嗅覚はただ一つに引き摺られていた。
最高に甘くて美味しそうな、極上の獲物の匂いに。
琥珀色の瞳に、さくら好みの人形めいた美女が映る。
品のある可憐な美貌はまさにさくら好みであり、青白い蝋のような肌を薔薇色に染めてやりたい欲望が疼いた。
まさか、こんなところで、こんな貴重な女に出会うとは。
(僕はなんて運がいいんだろう……)
信じてもいない神に感謝したいぐらいである。
さくらは舌なめずりし、久しぶりの高揚感に浮かれた。
「……」
しかし、その足がピタッと止まる。
上機嫌な靴音が止み、ついでにさくらの笑みも固まった。
とても美味しそうな匂い。
甘くて甘くて、きっと一度食べたら癖になるような極上の女。
その美味そうな匂いを掻き消すほどの異臭がした。
一度、嗅いだことのある匂い。
忘れるはずがない。
さくらの頬が引き攣る。
(まさか……)
さくらの好みそのものである女。
その女の、向かいにいるのは誰だ?
さくらからはその後頭部と背中しか見えない。
だが、見覚えがあった。
忘れもしない。
いや、むしろ忘れるはずがない。
この、食欲が失せる、なんともいえない嫌な匂い。
さくらの魅了が効かずに逃げ出した、あの失礼極まりない女を忘れるはずがない。
(……あのときの、枯れ屑女か)
さくらの眉間に皺が寄る。
その威圧的なオーラに当てられる周囲の人々を余所に、さくらお目当ての女と因縁の女はまったく気づかずに何かを話している。
さくらがここまで近づいても気づかないなんて。
(ムカつく……)
特に、一度さくらのオーラと匂いを知って覚えたはずの女は一切後ろを振り向かない。
レストランのときと同じだ。
なんて鈍感な女だろう。
(絶対に、どっか可笑しいよ。なんなんだ…… あの女は)
さくらの琥珀の瞳に最初に映り込んだ女は、見た目も醸し出す色気も、全てが最高級品で、何よりもさくら好みの清楚で華奢だ。
こんな魅力的な女は、さくらの理想の女は滅多にいないというのに。
「……はぁ」
思わず、溜息が零れる。
せっかくの高揚感も台無しだ。
最高に自分好みの、とてつもなく魅力的な女と、最低な記憶と最悪な匂いを放ち、さくらの食欲を失せさせた糞女が一緒にいるのだ。
まったく、期間限定のチョコレートパフェ目当てで来てみれば、目の前に極上肉と残飯以下の何かが同じテーブルについている。
悪夢でしかない。
あのときの女のせいで、食欲とやる気が一気に失せてしまった。
だが、このまま踵を返すなど、さくららしくない。
さくらのプライドが許すはずがない。
むしろ、あの夜からさくらは無礼な人間の女がずっと引っかかっていた。
さくらのプライドを傷つけた女を、どうにかしてやりたいと常々思っていたせいで、ここの所機嫌も悪く、下僕達に八つ当たりし、暴飲暴食してしまったほどだ。
そのせいで兄弟に窘められ、子供を扱うようにファミレスの期間限定パフェの半額券を貰った。
これ以上兄弟に愚痴っても仕方がないと、気分転換にここに来てみれば、まさかの……
これぞ、神の嫌がらせか、はたまた復讐のための親切なのか。
分からないが、このまま引き下がるのは癪である。
どうせなら、さくらを苛立たせた代償としてたっぷりあの女を甚振ってやりたい。
もう、逃がさないように。
(……今度こそ、屈服させてやる)
そうと決まればさくらの行動は早い。
まずは、落ち着いてチョコレートパフェを食べよ。
食事と甘いものは別腹だ。
意識さえしなければ、不思議と女は異常なほど無臭なのだから。
そうすると強烈なまでの色香を醸し出す女に意識が向く。
(あれ……?)
しばらく二人を観察していたさくらは颯爽と運ばれて来たチョコレートパフェを味わいながら、一人首を傾げる。
「…………」
美味しそうだと思った方の女をじっと見ていたさくらは、しばらくしてから苛立たし気に舌打ちした。
このとき、さくらは漸く気づいたのだ。
つい、逃げた女に意識を向けていたせいで、まったく気づかなかった。
まだまだ、未熟な自分の観察眼にさくらは不貞腐れたようにパフェをやけ食いした。
*
近くを店員が通る。
自動ドアが空き、新しい客がまた入って来たのがなんとなくわかったが、今の文香にそんなことを気にしている余裕はない。
余裕など、なかったはずだ。
(……あれ?)
文香の視界はこのとき奇妙に歪んでいた。
頭が重く、ガンガンと中から頭蓋骨を叩かれているような痛みがあった。
目の前の志穂の笑みが、その言動が文香を苦しめていた。
何か、忘れようとしていた何かが、文香の頭の奥の奥で暴れようとしている。
思い出せと言わんばかりに、文香に強い既視感を与えていた。
志穂の何かを見て。
志穂の何が、文香の記憶を刺激するのか。
分からないけど、良くないことだけは分かる。
志穂に怯え、何かから必死に目を逸らそうとしている自分はきっと良くない。
けど、どうしようもない。
そう思っていた矢先のことだ。
ふんわりと。
まるで、桜の花弁が鼻先で舞うような。
嗅いだことがあるような、甘い匂いが漂って来たのは。
それは一瞬のことだ。
だが、その一瞬で文香の意識は志穂から削がれ、苦しいほどの強い既視感も、頭痛も、身体の震えも治まった。
何が何だか分からなかったが、結果的に文香の意識は呪縛から解き放たれたのだ。
そして、文香は再びまっすぐ志穂の目を見つめた。
目を逸らすことなどない。
志穂を怖がる必要などないのだと、文香は自分を鼓舞した。
「文香さんと一緒にいても、優君は幸せになれません。二人共、不幸になるだけです。だから、お願いです」
そんな文香に、志穂の潤んだ唇から柔らかなマショマロのような毒が紡がれる。
「優君のために…… 彼と別れてください」
そう言って頭を下げた志穂を、文香は無言で見ていた。
文香の口から冷たい声が志穂に降り注ぐ。
「貴女、馬鹿じゃないの?」
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