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≪過去②≫
18 だから君は、詰めが甘い 後
しおりを挟む溜息を呑み込み、文香は覚悟して電話に出た。
自然と文香の視線が鍵のかかった引き出しに注がれる。
『文香さん、か?』
疲れたようなしゃがれ声に、文香は自分の心臓が早鐘を打つのが分かった。
「……お義父さん」
いつもは温かく聞こえる義父の声はひどく擦れていた。
それは文香も同じである。
『文香さん…… すまない。こんな夜分遅くに……』
「いいえ、気にしないでください。今…… ちょうどのんびりしてた所ですから」
『……すまない』
気を遣えば遣うほど言葉につまってしまう。
文香も義父も互いに何を話せばいいのか、何から切り出せばいいのかわからなかった。
『……文香さんには、本当にすまないことをした。息子のことも…… 家内のことも…… 一体、なんとお詫びすればいいのか……』
喋るのがあまり得意ではなく、ついぶっきらぼうな口調になる義父が一言一言細心の注意を払いながら文香に謝罪している。
そんな義父の態度に文香はどう返せばいいのか分からなかった。
文香も同じく喋るのが得意ではない。
自分の言葉を、気持ちを相手に伝えるのが下手だ。
何よりも、今の文香は自分が何を思っているのか分かっていない。
電話口の義父が謝罪するたびに重く圧し掛かってくる苦痛の正体が分からなかった。
『息子と家内を止めることが出来なかったのは俺の責任だ。父親として、夫として…… どう、あんたに謝ればいいのか…… 本当に、本当に、申し訳ないことをした……!』
「お義父さん…… お願いです、もう謝らないでください……」
涙声が混じる年老いた男の謝罪に文香は居た堪れなかった。
義父が謝れば謝るほど、文香は自分の腹の中で何かが渦巻くような不快な気持ちになった。
息子である優も文香を傷つけた自分の妻も。
義父は容赦なく罵っていた。
そんな義父の言葉を聞くたびに何かが蓄積していく。
それが何かは、まだこのときの文香には分からなかった。
ただ、義父の口から壊れたカセットテープのように何度も繰り返される謝罪を止めたかった。
「お義父さんが謝る必要はありません。私はもう、大丈夫ですから…… だから…… お願いです、もう、謝らないでください」
『……しかし、』
「これは、私と優の問題です。お義父さんとお義母さんが気に病むのは仕方のないことだと思います。今回の別居の件も…… 秘密にしていた私にも落ち度はあります」
義理の両親に心配をかけたくない一心で文香は夫の不倫を、別居のことは内密にしていた。
しかし、それは無惨に志穂の手で壊された。
「黙っていて、ごめんなさい…… お義母さんも突然のことで、きっとショックを受けたんでしょう。だから、どうか責めないでください」
それは紛れもない文香の本心だ。
義母のあのときの言葉は今も文香の心に深く突き刺さっている。
確かにショックだった。
だが、優の不倫を知ったときの絶望に比べれば、まだマシだとも思っている。
優と、その両親。
そのどちらとも、きっともう元のような関係には戻れないという確信があった。
だからと言って、捨てられるものでもない。
優も、そのご両親との縁も、繋がりも。
簡単に断ち切れないからこそ厄介で、苦しい。
それでも、修復したいと思ってしまう。
いつか、元のように笑い合えるのではないか。
そんな夢を捨てられないのだ。
「今回のことは…… きっとお互い悪かったんです。私も、優も…… 全てが上手く行き過ぎて、相手を思いやる心がいつの間にか無くなっていたんです。二人とも大事なことを忘れていた…… 優のせいだけではありません。夫婦二人の、問題なんです」
文香は話している内に自分の心に強固な壁が出来上がるのを感じた。
躊躇い、何を言うべきか迷っていたとは思えないほどスラスラと台詞が出て来る。
会社の上司、あるいは顧客相手に喋っているような、そんな感覚だ。
そこに感情はない。
文香の感情は一切なく、ただ今は相手を満足させ、納得させるような説得力のあるお綺麗な言葉を淡々と並べている。
ただビジネスと違うのは、話せば話すほど、文香の胃に重石がどんどん増えていくことだろう。
重苦しい気持ちとは裏腹に、口の滑りだけは大変よろしかった。
「私が、妻として至らなかったから……」
こんなの、ただの自傷行為だ。
わざわざそんなことをする意義も見出せないくせに。
一体文香は何を、誰を庇おうとしているのだろう。
『それは違う! あんたは、何も悪くない……! あの馬鹿が、馬鹿息子が全部悪い、どうしようもない奴だ…… 全部、あいつが…… そんな息子を育てた俺達が悪い……』
「お義父さん……」
『あんたは…… いい嫁だ。何一つ、落ち度なんかないんだ…… 頼むから、そんなことを言わないでくれ…… 悪いのは、こっちなんだ……』
「……なら、もうこのお話はやめましょう」
自傷どころか、もしかしたら文香は電話越しに義父と互いの傷口にナイフを突き立てているのかもしれない。
そんな想像が一瞬頭の中を過ぎるほど、義父の声は苦々しく、深い悲しみと怒りに呻いていた。
文香と同じように。
「もう、やめましょう…… 優とのことは、もう話し合って解決しています。私の、気持ちの整理がつくまで待ってもらっているんです…… 私は、自分から優とやり直すと決めたんです。だから…… もう少しだけ、待ってもらえませんか?」
自分の言葉に湿り気が帯びるのが分かった。
けど、涙は一滴も出ない。
「必ず、やり直しますから。 ……今はそっとしておいてください」
『………………わかった。俺は、俺も家内も、もう何も口を出さない』
長い沈黙の後、義父は今にも消えそうな声でそう答えた。
文香の言葉に納得しているのかしていないのかも分からないほど、小さな声だ。
文香の決意ともいえる言葉を尊重したのだろう。
『文香さん…… あんたには怒る権利がある。優を許す義務もない。それだけは、どうか覚えておいてほしい』
義父の声はやはり小さく、擦れていた。
電話越しでは上手く聞き取ることができないほど。
『けど、あいつとやり直してくれると言うのなら…… 一つだけ、頼みがあるんだ』
それでも、不思議とそのとき義父が文香に言った頼み事はよく聞こえた。
『馬鹿なあいつを恨むのは当然だ…… どうか、その恨みを俺達に分けてくれないか?』
文香は義父の言っている意味が最初よく分からなかった。
『子の犯した罪は親にも責任がある。優の罪は俺達の罪だ。あいつへの恨みは俺達が引き受けたいんだ……』
「……」
『勝手な言い分だと分かってる…… 馬鹿な親だと…… わかってるんだ……』
ついに漏れ出た義父の嗚咽に文香は自分の手が震えるのが分かった。
それでも、何か答えなければならない。
「……わかりました」
文香にはそう答えるしかできなかった。
その返事に安心したのか、鼻をすする音が向こうから聞こえた。
滅多に動揺しない義父が、あのときあんなにも大きく温かく見えた義父が、今は弱弱しく泣いている。
息子の犯した罪に怒り、悲しみ、必死に親として償おうとしているのだ。
自分の息子が可愛くないはずがない。
だからこそ許せないという葛藤は声だけでも伝わって来る。
『っ、あ、りがとう…… 文香さん、本当に、ありがとう』
優を許し、責めない文香に、別れを選択しなかった文香に義父はきっと罪悪感でいっぱいなのだろう。
それでも息子夫婦が前を向いて歩いてくれることにほっとして涙が止まらないのだ。
情けなさもあるのかもしれない。
義父のそんな生々しい感情を最後に文香は通話を切った。
切った後に封筒を返す話をし忘れたことに気づいたが、自分から電話を掛け直す気がどうしても起きない。
義父との通話の間、ずっと文香の心は沈んでいた。
重石がどんどん積み上げられていくように。
「『悪いのは、こっち』……」
必死に謝罪する義父に他意はない。
これは、文香の問題だ。
(結局、私は他人でしかないのか……)
文香は重石の正体が何か、分からないふりをした。
* *
拍子抜けするぐらい、ここ一週間文香は平和な日々を過ごしていた。
さくらの件は警察に電話で相談したが、正直対応はおざなりで、とても本気で受け止められているようには思えなかった。
警察も忙しい上、さくらに関するあれこれはいくら言葉を尽くして説明しようにも全てが胡散臭く聞こえてしまう。
そもそも出会いのきっかけの店のことを説明できず、ただ深夜のファミレスで絡まれ、その後待ち伏せさせられ、再び目の前に現れた。
悪質なストーカー、暴行未遂事件と言っていい。
しかし、さくらの特徴を説明し出すと途端に信憑性が薄れ、懐疑的な反応が返って来る。
長身の体格の良い男で、見た目はまるで彫刻のように完璧で美しく、声と色気が半端なく良い男。
そんな男に何故か絡まれ、しかしその詳細はまた説明できないという。
冷静に淡々と説明しながら、所々で声を詰まらせる文香の方が不審かもしれない。
結局被害届は出せなかったが、警察に相談したという事実が残っただけで御の字だと思うことにした。
それよりも文香を悩ませたのは志穂の夫への連絡だ。
志穂が優との情事を盗撮し、録音録画して第三者に渡したという事実。
これも警察に相談しようかと思ったが、そうなると事細かく前後の事情を説明しないといけない。
夫の汚点を第三者に話すことに躊躇いがあったのだ。
警察に話しても身内の修羅場的な扱いで真剣に取り合ってくれない予感もあった。
それに、勝手に恭一に話を通さずに志穂のことを第三者に漏らした場合、文香はあの渡辺恭一の敵になってしまう。
それだけは避けたかった。
なら、やはり当の恭一に話すしかない。
また志穂に何かされては堪らない。
未だ文香は何故志穂が優の実家の、そして文香の電話番号を知ったのかも分からないのだから。
さすがに優が教えたとは思えない。
思いたくもなかった。
恭一に電話をした。
何を言うべきか自分でもよく分からなかったが、あのまま志穂を放置してもいいことはない。
いつ、再び文香や優の前に現れるか分からない不気味さがあった。
万が一志穂が近所や会社、遠い優の親戚、知人友人に義両親に送ったものと同じものを送り、ばら撒くかもしれないという心配もある。
しかし、何度掛けても恭一は電話に出なかった。
後になって知ったことだが、このとき恭一は日本にいなかったのだ。
タイミングが悪かったとしかいいようがない。
さくらと志穂。
ベクトルも中身も違うが、この二人に対する警戒心にしばらく文香は悩まされた。
しかし、意外なことにその後暫くは二人の危険人物から一切の接触がなく、文香は驚くほど平和な日々を過ごしたのだ。
きっと、それが俗にいう嵐の前の静けさというものなのだろう。
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