奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

17 僕にそんなこと言ったのは君が初めてだ 後

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 逃げろ。

 考えるまでもなく、文香は逃げようと踵を返した。
 だが、それなりの距離があったはずなのに、いつの間にか近くにいたさくらに肩を掴まれ、そのまま反転させられる。
 容易く身体の自由を奪われた文香は悔しさよりも純粋に驚いた。
 唖然と長身のさくらを見上げる。

「もう、今度こそ逃がさないから」

 ギリギリと掴まれた肩の骨がきしむ。
 痛みに呻く文香をさくらは満足気に見つめ、また近くの壁に縫い付けるようにして覆いかぶさって来た。
 夜空すらも文香から隠し、さくらは顔を近づけて来る。
 じっと、瞬きすらしないままじろじろと顔を見られた文香は首を振って必死に抵抗した。
 自由な両腕でさくらの厚い胸板を叩き、押しのけようとしてもびくともしない。
 鋼のような筋肉が服越しに伝わり、驚いたほどだ。
 だからと言って諦める気はない。

「やだっ、離して……! こ、の……っ」
「無駄だよ。君如きの力じゃ、一生かかったって僕から逃げられない。今まで油断してたけど、もう僕に隙はないよ。いい加減、観念したら?」

 傲慢に好き勝手言うさくらを文香は恐怖を押さえつけて鋭く睨む。
 得体の知れないさくらにただ歯向かってもいいことはないと分かっていた。
 それでも口から吐き出される罵倒を止めることはできない。

「離してっ、……この、変態!」

 怒声をあげ、さくらの脛を蹴りつけようと四苦八苦する文香に、さくらはぽかーんと目を丸くして見下す。

「へんたい……?」

  その頬が引き攣り、文香を掴む手は更に強くなる。

「いっ、」

 あまりの痛みに悲鳴をあげる文香をさくらは無表情で見下した。

「……この世で僕を変態って言っていいのはただ一人。本当に、どこまでも失礼な女だ」
「っ、知らないわよ! いいから、私を放して……ッ」

 正直さくらが何を言っているのかよく分かっていなかった。
 焦りと混乱で文香はじたばたと暴れようともがく。
 しかし、さくらはそんな文香の努力を嘲うように両手首を片手一つで纏め、拘束した。

「君って結構じゃじゃ馬なんだね。もうちょっとお淑やかにできないかな?」

 蹴りつけようとする文香の足にさくらは長い足を絡ませ、下半身の身動きを簡単に抑える。
 必然的に文香の下半身にさくらの下半身が密着した。
 タイトスカートが捲り上がり、ストッキング越しにさくらの筋肉質な足がくっつく。
 顔を青褪め、文香は奥歯を噛みしめてさくらを睨み上げた。
 気丈なまでに弱気なところを見せたくなかったのだ。

「警察に、通報するわよ……」
「無理でしょ。今の君じゃ」

 迂闊だった。
 まさかこんなすぐにさくらに遭遇するとは、いや、そもそも再び会うとは思わなかった。
 さくらが文香を待ち伏せするなど、考えもしなかったのだ。
 この男はどこか冷めた目で文香を見下し、こんな風に焦れたような目で見て来るとは思わなかった。
 危機管理がなっていなかったのか、それとも考えすぎてそこまで気が回らなかったのか。
 例え警察に相手にされなくとも被害届でも相談でもしておけばよかったと文香は後悔する。
 
「……一体、どういうつもり? 何が、目的なの?」

 低い声が自分の口から吐き出される。
 挑発してはいけないと分かっているのに、文香は怯える自分を見せたくなかった。
 男の目的が分からない。
 傍から見れば襲われている状況なのに、文香にはいまいちそういう実感が湧かなかった。
 顔色一つ変えずに文香の身体を押さえ付け、愉しそうに苦痛に耐える文香を見下していたさくらを思えば、貞操の心配よりも命の心配の方が強かった。
 どちらにしろ最悪ではあるが。

「そんな怖い顔しないでよ。僕はむしろ可哀相な君を助けてあげようと思って、こうして会いに来たんだから」
「……たすける?」

 怪訝な顔をする文香に、さくらはなんとも綺麗な笑みを浮かべる。
 老若男女を虜にする華やかな笑みに、文香は鳥肌がたった。

「自分の旦那を寝取られて、その浮気相手に珈琲ぶっかけられた君があまりにも面白…… 可哀相でね。同情しちゃった」
「……私のこと、揶揄ってるの?」

 胡散臭いどころか、面白がっていることを元々隠す気がないのか。
 文香の一番触れられたくないところを容赦なく突いて来るさくらに腹の底で怒りが燻り揺らめく。
 そして、やはりあのファミレスで志穂との会話を全て聞いていたらしいさくらに嫌悪感が湧いた。

「盗み聞きしてたのね。変態どころか、貴方最低だわ」

 眉間を険しくさせ、さくらに囚われている状況すら忘れて文香は苦々しく吐き捨てた。
 最低呼ばわりされたさくらの頬がまた引き攣る。
 顔が引き攣るのはむしろ文香の方だ。

「……本当に、君って色々強情だね。可愛くない。少しはあの女を見習ったら?」

 さくらは文香の目の前でわざとらしくため息を零す。
 痺れるような低い声が文香の耳をざわざわさせた。
 暗い夜道。
 狭い路地裏に似つかわしないほど、さくらの全身から輝くようなオーラが満ちていた。
 見下して来る精悍な美貌。
 いつの間にか暗雲が消え、月が見えるようになった。
 さくらの背後から月の光が降り注ぐ。
 見上げた視界に映る、美しい男。
 その存在を祝福するように、光りが彼に降り注いでいる。

「君の旦那を寝取った彼女、とっても綺麗だったね。華奢で儚げで、清楚なオーラ。憂いに満ちた表情。天上の楽器のように心地良いソプラノ。全身から溢れる嫋やかで無垢な雰囲気。僕ですら守ってあげたくなるほど可憐で、可愛いかったよ」

 思わず見惚れるような光景だが、さくらの口から零れる言葉の刃は鋭く、防御する間も与えてくれなかった。

「なによりも、とっても色っぽい。自然と男を誘惑する、色気に満ちている」

 さくらの言葉に硬直する文香。
 それを面白がるように、失礼なことばかり言う文香に当てつけるようにさくらは歌う。

「君と、全然違う」
「……っ」

 顔を歪ませる文香の耳にさくらの熱っぽい吐息がかかる。
 半ば、文香はさくらの次の一言が予測できた。

 文香が一番言われたくない台詞。
 もう、分かっているから。
 その口を、止めてくれ。
 それ以上言わないでくれと、無意識に首を振って文香はさくらに懇願する。

「やめて……」

 鋭くさくらを罵倒していた文香からは想像もできないほど、小さな声が漏れる。
 湿り気を帯びた声だったが、文香は泣いてはいなかった。

「もう、いいから…… それ以上……」

 それ以上、何も言わないで。
 文香の視線がさくらに縋り付く。

 残念ながら、その懇願は逆効果だ。

 さくらはむしろ、文香が傷つき、漸く目に薄っすらと涙が浮かぶのを見て喜ぶ男なのだから。
 
「そんなんだから、浮気されるんだよ」

 もうそれ以上聞きたくないと訴える文香の歪んだ顔はさくらの嗜虐的な心を擽るだけだ。

「君みたいな女と結婚した男は、きっと最悪に不幸なんだろうね。見る目がないばかりに、本当に気の毒だ」
「…………」

 さくらの言葉に、文香の顔から感情が消える。
 それは、少しばかりさくら好みの反応ではなかった。

「……あなた、」

 強情なまでにさくらを睨んでいた文香の視線が、削がれる。
 全身を震わせ、唇を噛みしめて、必死に怒りを抑えようとした。
 果たして文香を震わすこの衝動は、さくらに対する怒りなのかすら分からない。

「一体…… 何が目的なのよ……」

 肉体だけではなく、精神的に文香を痛めつける男。
 なんでもいい、早く解放されたい。
 あんなに暴れていたのに、今となってはさくらに半ば支えられるようにして文香は立っていた。
 きっと、文香が思う以上にさくらの毒は効いている。
 それを表に出したくないと踏ん張ろうとする文香は、自分のその意地が悪循環を生んでいることに気づいていた。
 しかし、どうしようもなかった。
 文香はどこまでも愚直にしかなれない。
 文香とは、そういう女なのだ。



* 


 何が目的なのかと女に問われたさくらは自分の目的を半ば忘れていることに気づいた。
 怒りや恐れ、屈辱で歪んでいた女の顔が疲れたように暗く沈む。
 さっきまでの傷ついて、それでも何も言い返せずにさくらの言葉に打ちのめされていた顔の方がずっといい。
 そもそも、この女に笑顔は似合わず、痛めつけられ、歪んでいる顔のみに価値がある。
 さくらはそんなことを考えていた。

 女に逃げられた後、さくらは初めて尽くしのこの女をどうやって壊そうかと考えた。
 肉体的に痛めつけるのも、精神的に追い詰めるのも簡単だ。
 しかし、普通ではつまらないし、そもそもそれではさくらのプライドが回復しない。
 さくらの魅力に抗い、気持ち悪いと吐き捨てた女にそんな生温い制裁、仕置きでは物足りないのだ。
 生きていることを後悔させるよりも、さくらから不相応に逃げようとしたことを後悔させてやりたい。

 さくらは自分がまだ若く、未熟であることを知っていた。

 なので、愚痴も兼ねて早速頼りになる先人に助言を求めた。

『なんだ、簡単なことじゃないか。その彼女は亭主に浮気されたんだろう? きっと哀しみ苦しみ、女としてのプライドがズタズタの状態だ。つまりは男関係で弱りに弱っている。これほど仕留めやすい獲物はないじゃないか。傷口に食らいつけば一発だ』

 夜食を摘まみながらさくらはなるほどな~と素直に聞いていた。
 さくらは優秀で希少だ。
 その魔力も、生まれ持った美貌も。
 全て完璧と言っていい。
 ただ、まだまだ若すぎて知らないことが多かった。

「なるほどね」
『うむ。浮気されるというのは男女関係なく辛いものだ。辛いことを忘れさせるぐらい快楽漬けにするのが吉だろう。そして最後は優しく癒し、再び女の喜びを教えてあげなさい』
「うん。分かったよ兄弟」
『彼女と出会ったのもきっと何かの運命だ。女が傷ついたなら救ってやる。そういう心意気で頑張るんだぞ! 俺は応援してるからな!』
「うんうん。頑張るよ僕」

 そんなことを電話で話した。
 もちろん言われた通りに救ってやるつもりだ。

 ただ、その後は地獄に叩き落とすつもりでいるが。

 そんな目的があったのに、ついつい苛めすぎてしまった。
 傷ついた心に忍び寄るつもりだったのに、すっかり警戒されている。
 感情を硬く閉ざした女が何を考えているのかよくわからなかった。
 素直で分かりやすいかと思えば、今のように全てを拒絶し、素顔を見せようとしない。

「何度も言うように、僕は哀しむ君を救ってあげたいんだ」
「……」

 自分でも胡散臭い言葉だと思ったが、大抵の人間はさくらのこの慈悲深い笑みと深く慈しむ声で心を許し、喜び、全てを明け渡してくれる。
 しかし女はぎゅっと唇を噛みしめ、さくらを無言で睨む。
 目を覗き込んでも、その奥にあるのがなんなのかちっともわからない。

「ねぇ? 旦那に浮気されて、いっぱい傷ついたんだろう? あの女の言葉に、腹が立って、悔しくて仕方が無くて…… プライドを、ズタズタにされた」
「……」
「違う?」

 さくらの確信的な問いに女は無言を貫く。
 その態度にいらっとしたが、今は我慢するしかない。
 どうやらさくらがあからさまに誘惑すると女は拒絶してしまうらしい。
 それはさくらも同じだが、とりあえず心を堕とした後に考えよう。

 女の心を。
 精神を完全に支配する。
 
「可哀相に…… 愛した男は君を裏切って他の女を抱いた。きっと、君の知らない間に何度も何度も…… あの女に愛を囁き、二人で燃えるようなセックスをしたんだろうね」

 女の唇に血が滲む。
 その様子にさくらは満足気に笑みを深める。

 やはり、簡単ではないか。
 夫に浮気され、傷ついた女ほど誑かしやすいものはない。

「いっぱい、傷ついたんだろう? 哀しくて、悔しくて…… 絶望したはずだ」

 さくらの手が優しく女の頬を撫でる。
 肌が少し荒れていた。
 さくら好みのあの女とは大違いだ。
 
 だが、冷たい感触は悪くない。

「君を裏切った男。君の男を寝取った女。君だけが、辛い思いをして、損している。それって、すごく残酷で理不尽なことだ」

 近くで見れば見るほど、目つきの悪い女だ。
 化粧では隠し切れない隈も相まって、人相が悪い。
 
 しかし、この鋭い目が潤む瞬間というのは、なかなか趣がある。

「君には、復讐する権利がある。君だけが苦しむのは不公平というものだ。僕なら、君の復讐に手を貸すことができる」
「……復讐?」

 干からびた声だ。
 さくらが昨夜欲しいと思った華奢な女は、目の前の女と違い、哀しむときも驚くときも、嗚咽すら綺麗なものだった。

 でも、さくらはもう知っている。
 この女の冷たく突き放すような声が苦しみ、もがくとき、まるで喘いでいるように聞こえることを。

 あの声は、悪くないものだ。

「そう。やられたなら、やり返す。君だけ我慢する必要はない」

 女の髪を耳にかけてやる。
 あのときの悪臭はしなかった。
 珈琲の匂いも消えている。
 今、さくらの鼻腔を擽るのは控えめなシャンプーと石鹸の香りだ。
 これが、この女の本当の体臭なのだろうか。

 なるほど、これもまた悪くない。

「僕の恋人にならない?」

 もっと焦らすつもりだったのに、つい性急な言葉が口から飛び出た。

「見せつけてやれよ。君の浮気した旦那に。あの女に。僕とセックスするところを」

 文香の顔は見えない。
 その耳元に鼻を寄せながら、さくらは少しずつ自分の気持ちが昂るのが分かった。

「そして、忘れてしまえばいい。あんな輩なんてどうでも良くなるほど、僕が君を可愛がってあげるよ? 僕に奪われる君を見れば、きっとその旦那も後悔するだろう。女も悔しがるはずだ」

 腰を、わざと女の腰に擦りつける。
 無意識にフェロモンが出そうになったが、せっかくいい気分なのにまた女から悪臭がしたら最悪だと、さくらはなんとか自制した。
 自制しなければならないほど興奮している自分に、さくらはまだ気づいていなかった。

「僕のものになれ。そうすれば…… 君は漸く自分を取り戻すことができる。粉々にされた女としてのプライドも、怒りも、屈辱も。全て、君を裏切り傷つけた奴らに返してやればいいんだ」

 さくらはそっと文香の顔を覗き込む。

「浮気されたなら、君も浮気すればいい。僕が、その相手になってあげる」

 さくらにそう言われる女はこの世で一番の幸せ者だ。

(まぁ、最後は捨てちゃうけどね)

 期間限定の幸福でも、名誉なことである。
 傲慢とも思わず、さくらは本気でそう思っていた。



* * 


 喜び、むせび泣くのか。
 恍惚と、さくらに微笑むのか。
 それとも、意外と顔を真っ赤にして初心な反応を見せるのか。

 そんな期待をしていた。
 
「……ふざけないでよ」

 しかし、女の反応は。
 文香と呼ばれていた女の反応はそのどれとも違っていた。

「私を馬鹿にしないで……!」

 意外なほど長い睫毛に気づくほど顔を近づかせていたさくらに、文香は傷を負った獣のように威嚇し、吠えた。

「そんなゲスな考えに、私が喜ぶとでも思ったの?」

 憎悪を宿し、文香はさくらを睨みつける。

「お生憎様…… 私はそんな低俗な身に堕ちるつもりはないわ…… 浮気されたから、浮気し返す? 馬鹿じゃないの? どうして私が、そんなくだらないことを、惨めなことを、あいつらのためにやらなきゃいけないの?」

 文香はさくらの襟をつかんで自分の方に引き寄せる。
 怒りが黒々と瞳の奥で燃え上がるほど、文香は激怒していた。
 それほどさくらの言葉は文香にとって地雷だった。
 これは価値観の違いだ。

 だからこそ、さくらには文香の怒りが理解できず、されるがままになるほど呆然と、戸惑っていた。

「あんたの恋人になるなんて…… それこそ冗談じゃないわ」

 文香の口の端が歪む。 
 さくらを、低俗な考えしか持たないさくらを嘲っていた。

「あんたとセックスなんてしたくもない。気持ち悪い」

 例えさくらがどれだけ美しくても、逞しくても。
 文香にはなんの魅力も感じられなかった。

「自惚れないでよ」

 
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