奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

15 溝鼠みたいだ 後

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「貴女、馬鹿じゃないの?」

 その一言は紛れもなく文香の本音だ。

「え?」

 文香の返しに志穂は戸惑うように小さな顎に手を添える。
 幼い仕草がより文香を苛立たせ、ぞわっとした言いようのない嫌悪感が湧く。

「いい歳して、何を夢見てるのか知らないけど。そんな幼稚な理屈が通用すると、本気で思ってるの?」
 
 一体誰が、自分の夫とその不倫相手の関係を容認するというのか。
 愛がない夫婦ならまだしも、文香は優を愛しているのだ。
 憎み、恨むことはあれど、その関係を運命などと認めるはずがない。
 
 優と志穂が本当は結ばれる運命だった。
 文香と優の結婚は、神様の手違いだと?

(こんな女だったなんて……)

 初めから優と文香の出会いは間違いであると、今まで文香が優と過ごした時間全てを、二人の決意も思い出も全て、間違いだったと言うのか。

「思いあがらないで。貴女に、私と優の…… 夫の何が分かるって言うの?」

 罵倒する気も怒鳴る気も起きなかった。
 
「私が優と離婚すれば、全部上手く行くと本気で思ってるの?」

 文香には志穂が理解できない。
 その思考も言動も。
 文香の言葉にきょとんと目を丸く見開く姿は幼く、確かに庇護欲を誘う。
 しかし文香にはまったくそういう情が湧かなかった。

「優が貴女に言ったの? 私と別れたいと。私と離婚して、貴女と再婚したいと? 本当に、そう言ったの?」
「……」

 志穂は口をつぐむ。
 自信満々に言っておきながら、文香は志穂が反論しなかったことにほっとした。
 
「まるで私と優が離婚すれば全てが上手くいくと思っているみたいだけど…… 今の貴女に、渡辺さんに…… 私達夫婦を構っている余裕があるのかしら?」

 文香は皮肉気に笑う。
 志穂の顔は動揺とまではいかないが、確かにその人形のようにお綺麗に整った顔の色は少しずつ悪くなっていった。

「そんなに優と一緒になりたいなら、まずは自分の身辺を整理したらどう?」

 文香は厭味ったらしく、志穂を鼻で嗤う。
 冷えた珈琲を一口飲み、喉の渇きに気づかれないように潤した。

「貴女に、それができるとは思えないけど」

 文香はあの冷めた目の男を思い出す。
 志穂の夫は初めから妻に対する愛情が薄い気がするが、あれだけ名の知れた家の男が自分の妻が不倫したことを外部に漏らそうとするはずがない。
 例え志穂への愛情がなくとも、しばらくは自らの保身のために志穂と離婚はしないだろう。

 だからこそ、何故志穂がこうして文香の前にいるのか。
 そんな疑問がまた文香を悩ませたが、深く考えても仕方がない。

「運命だと散々言っていたけど。たかだか私一人に邪魔されて成就できないような運命なんて、それは運命とは言わないわ」

 冷たく突き放した文香の言葉に、志穂は深く傷ついたとばかりに顔を歪ませる。
 本当に、何をしても絵になる女だ。
 思い返せば、優もそういった人間だった。
 何をしても華やかで、周囲の視線を集め、魅了する。

「それは、ただの思い込み、妄想…… 勘違いって言うのよ」
 
 マンションで、初めて四人で会ったとき。
 文香はひたすら泣いて、寂しかったのだと、優は悪くないのだと心細げに嘆く志穂を見て、なんて幼稚な女なんだと思った。
 まるで子供のようだ。
 こんな幼く、責任感も何もない女に。
 優は、自分の夫は惹かれたのか。
 文香を騙してこそこそと密会し、何度も抱くほど入れ込んだのかと思ったとき、文香は優に失望した。
 見た目よりもずっと幼い少女のような人妻が優の好みだったのかと、そんな女にまんまと惑わされるような男だったのかと。
 
(こんな女に、振り回されていたなんて……)

 悔しかった。
 こんなにずっと文香は振り回されて来たのか。
 大切なものを傷つけられ、もう二度と元のように愛せないほど無惨に穢されたのだと思うと。
 悔しくて悔しくて、今すぐにでも泣き喚きたいほどだ。

 そして、文香の視線に戸惑うように瞳を揺らす志穂を怖がっている自分が何よりも愚かしいと思った。
 華奢な身体は文香が少し力を入れただけで折れてしまいそうなほど繊細だ。
 志穂の言っていることなど、ただの妄想でしかない。
 何も恐れることはなく、むしろ文香は志穂を訴えることができる立場なのだ。
 これ以上志穂が暴走しないように、今すぐにでも渡辺恭一に連絡をとってもいい。
 優の実家に送られた証拠もある。
 完全に文香の方が優位なのだ。

(……どうして、私はこの女に怯えてるの?)

 なのに、この得体の知れない悪寒はなんだ。
 何に、文香はこんなに怯えている。
 志穂を、ただの妄想と思い込みの激しい、理解できない人間だと切って捨てればいい。
 法的な手段をとり、二度と志穂が近づいて来ないようにすればいいだけの話だ。
 そう言い聞かせながら、文香はなんとか平静を装っている。

 自分が何に怯えているのか、あと少しで分かりそうな気がした。
 だが、その前にこれ以上志穂の戯言を、人の夫に横恋慕する女に何か言い返さないといけない。
 このまま言われっぱなしでいいはずがないし、志穂は文香の想像以上に危ない女だ。
 
「運命なんて、一体何を根拠に言ってるの? 確かに、夫は貴女と…… 関係を持ったかもしれない」

 不倫したと、文香の口からはどうしてもその台詞は躊躇われた。
 自分でも臆病だと自覚している。
 だが、赤の他人の目があるところで、どうしても文香には言えなかった。
 心なしか、他の客の視線すら感じる中で、文香はなんとか平静心を保とうと拳の内側に爪をたてる。

「けど、勘違いしないで」

 ここで負けるわけにはいかなかった。

「所詮、貴女はただの浮気相手なの。思い上がるのも、大概にしてちょうだい」

 そんなことを言われるなんてまったく思ってもみなかったとばかりに、志穂は驚いたように文香を見つめる。
 ずっと律儀に黙って志穂の話を聞いていた文香が、まさかこの場で反論して来るとは思ってもいなかったのだろう。
 文香が志穂の言葉に納得し、賛同するとでも思ったのか。
 もしも本気でそう思っていたのなら、志穂はとんでもなく狂っている。

「違います!」

 文香の言葉に志穂は顔を歪め、この場で初めて大声を出した。
 酷く傷ついたと言わんばかりに、今にも泣きそうな表情。
 だが、今までの志穂の言動を知っている文香は、その弱弱しい姿すらもどこか薄っすら寒く感じる。

「私は…… 優君に、愛されています」

 どんなに健気に志穂が言葉を紡いでも、その中身はただの厚顔無恥に他ならない。
 よくも自分にそんなことが言えるなと文香は内心で毒づいた。

「……話にならないわ」

 自然と身体から力が抜ける。
 頭が痛くて仕方がないとばかりに額を押さえれば、掌に尋常ではない汗をかいていることに今更気づいた。
 一気に疲れが押し寄せ、文香は苦々しく志穂を睨む。

「貴女が優のためだと言った行為はただの犯罪だし、名誉棄損よ。まったく他人のことを考えていない。あんなことをして、優が、夫の実家が貴女を許して受け入れるって本気で思ってるの?」

 志穂に言いたいことは山ほどある。
 だが、そのどれも彼女に響かないことをこの短時間で文香は覚った。
 それでも言わずにはいられない。

 文香は見下すように志穂を鼻で嗤う。

「いい歳して、そんなことも分からないなんて。本当に救いがないわ」

 今の文香はきっと、とてつもなく禍々しく醜い顔をしている。
 傍から見れば志穂を恐喝しているようにも見えるだろう。

「幼稚な貴女も…… そんな貴女にまんまと引っかかった私の夫も……」

 文香は一旦言葉を呑み込んだが、一度喉まで出かかったそれを戻すことはできなかった。

「……、最低だわ」

 文香の赤い唇が歪に歪む。
 それは嘲笑ではなく、自嘲だった。






 志穂は、顔色一つ変えずに文香をじっと見つめる。
 文香の言葉に、紅潮していた頬は少しずつ青白く冷たくなっていく。
 揺れる瞳は今にも泣きそうだ。

「ひどい……」

 か細く震える声は大きなショックを受けたように沈んでいる。
 泣くのを堪えようと、顔を逸らして俯く。
 そうすると長く艶やかな彼女の髪がまるで怖ろしい文香の視線から志穂を守る様に顔を隠した。
 ちらっとだけ見える志穂の淡い唇が震える。

「……いい加減、被害者ぶるのはやめて」

 そんな志穂に文香は漸くな反応が返って来たと、逆にほっとした。
 志穂にはまだまだ言いたいことがあるし、聞きたくなくとも聞かなければならないこともあった。
 
 何故、志穂が優の実家の電話番号を、住所を知っていたのか。
 そもそもどうして、文香に電話をかけれたのか。
 志穂の夫がこんな時間に志穂を野放しにするとは思えない。
 恭一に連絡することも、優に連絡することも。
 全て頭の中から消えていた文香は、やはり冷静ではなかったのだろう。
 今だって必死に身体の震えを耐え、胃が捻じれるような気持ち悪さをどうにかやり過ごしているのだから。

「貴女には、言いたいことは山ほどあるけど…… きっと、何を言っても無駄なんでしょうね」

 未だ、義両親につけられた傷は深く生々しい。
 一生癒えないかもしれないが、もうそれは今更である。
 既に文香の心はもう以前のように傷も汚れも一つもなく、綺麗なまま優を愛せないのだから。
 一生、疑念と付き合うしかないと、そう覚悟して優と別居することを選択したのだ。

 志穂などに、もうこれ以上惑わされたくなかった。

「お生憎様。夫と貴女の関係はもう終わったの。全部、過去のものなのよ」

 強がりを言っていることは文香が一番よく分かっている。
 志穂の肩が文香の言葉に傷ついたように震えた。

「そんなこと……」

 何か反論しようと、志穂は顔を上げて文香を見上げる。
 涙目で睨まれた文香はその視線から目を逸らさなかった。
 どこまでも図々しく、強情な志穂に文香はこのとき自分がずっと感じていた奇妙な既視感の正体が、あと少しで分かりそうだった。

「現実を見るべきなのは、貴女の方よ」

 その正体が分かる前に、文香の視界は黒く染まった。
 


* *


 生温い液体が、ぽたぽたと落ちる。

「え……?」

 文香は自分に何が起こったのか、いまいち分からなかった。
 目の前で無表情で冷たく自分を見据える志穂。
 その手には空っぽになった珈琲カップがある。
 生温い液体が文香の髪からぽたぽたと流れ落ち、テーブルや服に黒い沁みをつくった。

「くっ…… ははっ」

 呆然と状況が分からずにいた文香の耳に、耐え切れないとばかりに笑う男の声が届く。
 
「ああ、面白い。なかなかの見世物だったよ」

 低く、甘い声。
 聞き覚えのある声に文香は振り返った。
 揺れる前髪から液体が零れ、文香の鼻筋を通り、そして唇に触れる。
 無意識に舐めたそれは少し文香には甘すぎた。

 男が、忘れるはずもない男が文香の顔を覗き込んでいる。
 細められた琥珀の瞳に映る文香は、頭から濡れていた。

 そのときになって漸く文香は気づいた。

 志穂に珈琲をかけられたことを。
 
「……君って、本当に無様だね」

 哀れむような口調と裏腹に、その男、さくらは見惚れるぐらいに美しい笑みを浮かべていた。
 無様な文香が愉しくて仕方がない。

 愉悦に満ちた、そんな笑みだ。

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