奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

15 溝鼠みたいだ 前

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 志穂の父は娘に甘かった。
 親子としての愛情というよりも、お気に入りの玩具だったという方が正しい。
 儚げで可憐な人形のような娘をよくパーティーに引きずり出しては自慢していた。
 悪気もなしに亡き前妻にそっくりで、幼い頃は病弱で人見知りだと、娘を愛し、最愛の妻を亡くした自分に酔うような男だった。
 そんな風に話す父の横で笑顔を張り付かせる継母と何も分かっていない腹違いの弟の姿を見るのは密かに楽しかった。
 継母に苛められていないかとそれとなく聞いて来る人に志穂はただ哀し気に俯き、無言で微笑むだけで皆が優しくしてくれる。
 父はそういった周囲にまったく気づかない鈍感な男だ。
 志穂は人の感情に疎かったが、その機微や空気を読むことには長けている。
 少しずつ裕福なはずの志穂の家を取り巻く暗雲に気づいていたが、どうせいずれは出ていく家だと、大して気にもしていなかった。
 幼い頃に会ったきりの曾祖父や祖父と違い、志穂の父には全てが足りていなかった。
 徐々に家が傾くのも仕方が無く、使用人が今は亡き志穂の母の呪いだと言うのを志穂は小馬鹿にしていた。
 
 能天気な父も、さすがに志穂が高校を卒業する頃には焦りを抱き始めた。
 美しいが故に、妙な男につき纏われやすい娘を放任しながらも過保護に甘やかしていた父は漸くこの頃になって志穂の有用性に気づいた。
 同じ穴の狢とでもいうのか、当時の志穂の父は夫である恭一の父と嫌に馬が合っていた。
 ただ志穂の家は恭一の家よりも格が劣り、そして誰が見ても老いた恭一の父よりもその息子の方がずっと優秀で、周りからの扱いに差があった。
 もしかしたら、恭一と志穂の婚約は恭一の父の最後の嫌がらせかもしれない。
 後に渡辺家に嫁いだ志穂は自然とそう思うようになった。
 そうでなければ、経済界への影響も衰え、中途半端な財力しかない家の前妻の子である志穂と唯一の跡取りである恭一との見合いを薦めるはずがない。
 志穂の経歴も素性も夫側が調べないはずがなく、あの父がいくら頑張ってもみ消そうとしても一度燻りかけたものの匂いは残ってしまう。
 果たして志穂の過去の男関係を、夫側が知っていたのかどうか。
 値踏みするように、あるいは舐めるように初対面の志穂を意味あり気に見つめていた義父。
 男の視線、熱の籠った視線に敏感な志穂はそれに気づいていた。
 そのとき恭一が不愉快そうに義父を睨みつけ、志穂をさりげなく視線から庇ったことは正直意外ではあったが、その頃から志穂は恭一が現家族と不仲であることを空気で察していた。
 夫である恭一はそもそも見合いのときから乗り気ではなかったし、当時の志穂はそもそも状況がよくわかっていなかった。
 ただ、やたらとにこやかな笑みを浮かべて白々しく双方のが何か喋り、強引に二人っきりにさせようと、なんとしてもこの見合いを成功させようとしている気配だけは分かった。
 人の感情に疎くとも、志穂は場の空気を読むことには長け、そして、頭の回転も悪くない。
 氷のような冷たい眼差しを向ける見合い相手の男と結婚するメリット、デメリットを計算することができた。
 能天気で自身を過大評価して策士を気取る実父よりもずっと、志穂は狡猾な女だ。

 恭一が何故志穂との婚約を拒絶しなかったのか。

「君は俺の予想以上に頭が良く、要領もいい。俺の邪魔にはならないと、そう思っただけだ」

 なんとも色気のない恭一の返事に志穂は特に落胆しなかった。
 その言葉とは裏腹に志穂の意思を尊重し、何も持たずに嫁いできた志穂を自分が選んだ妻として大事にしてくれた、と思う。
 志穂の過去も今までの男関係も。
 恭一には興味が無いようだった。
 
 優の同情を煽るため、恭一に酷い仕打ちを受けたと告げた志穂に罪悪感は欠片もなかった。
 別に恭一を陥れたいわけではない。
 ただ、志穂を愛し、欲情しているのに世にいう倫理観や既婚であるだけの理由で志穂から離れようとする優がとても切なく、胸が痛んだ。
 当時、やたらと干渉して来る義両親に辟易していたのは事実だった。
 多忙な夫は日中家にいない上、実の父から嫌がらせを受けている身だ。
 志穂の夫は敵が多く、そのもっとも厄介なのは彼の血の繋がった父親と継母だった。
 恭一の家庭環境を知れば当然かもしれない。
 今更父親面をし、早く跡継ぎをつくれと恭一とその嫁に迫る義父。
 猫なで声で恭一の機嫌をとろうと、また志穂を身内に取り入れようとする義母。
 もちろん、二人は志穂が働くことを反対した。
 妻は夫に尽くし、貞節と家を守り、丈夫な跡継ぎを産むことに専念すべきだと。
 そもそも妻を働かせるなんて、夫として情けなく、無責任だと義父が恭一を罵るのを見たとき、志穂は初めて恭一の顔に憎悪が過ぎるのを見た。
 だが、それは一瞬の出来事で、すぐに恭一は元の冷淡で無機質な男に戻り、煩い羽虫を相手にするように聞き流していた。
 恭一はくだらないとばかりに両親の相手をほとんどしない。
 その矛先が志穂に向けられない限り。

 恭一は即決即断の人だ。
 家のことに志穂を巻き込むつもりはないと、文句のつけようがない新たな邸宅を作り、そこに両親を押し込むことにした。
 憎い親に時間と労力、金銭をかける恭一の意味が分からず首を傾げる志穂に恭一は薄笑いを浮かべたことを志穂は覚えている。

「集り屋の物乞いへの手切れ金だと思えば安いものだ」

 笑いながら、そう吐き捨てる恭一に、志穂は自分の夫は逆らってはいけない人なのだと思った。
 志穂を時に子供のように甘やかす男は、本当はとても怖い人なのだと。

 きっと、志穂は運が良かったのだ。
 会社での地盤固め、実家とのいざこざに集中していた恭一とのすれ違いが多くなった頃、志穂は運命の人に出会った。

 夫とすれ違い、その義理の両親に悩まされていた志穂を憐れんだ神様がくれたプレゼントだと思ったほどだ。






 会社で他の人に気づかれないようにしながら、優は時折わざと志穂にちょっかいを出す。
 初々しい恋人同士のような無邪気で一種の清らかさすら感じる二人の関係。
 秘密だからこそ、より一層二人の絆が強くなった気がする。
 いつ誰かに見られるかも分からないからこそ、日常にないスリルが二人をより大胆にしていった。
 そもそも何故、秘密にしなければならないのか。
 その根本的な疚しさに、志穂はまったく無頓着であり、優はただ目を逸らしていた。
 二人だけの時間。
 プラトニックでありながら、どこかじわっと湿るような熱が二人の鼓動を常に熱く、昂らせていた。
 もう、誰も二人をとめることはできない。
 漸く巡り合えた最愛の恋人、運命の人。
 尊い二人の絆は不滅だと志穂は思った。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。
 
 社内であることも、人目にいつ触れられるか分からない緊張感の中で二人はキスをし、身体を触り合った。
 二人の相性は当然のように最高だった。
 性格も嗜好も、身体も。
 それを証明するように、志穂は優にキスされるたびに、抱きしめられるたびに、じんわりと股の奥が熱く、疼くのだ。
 その熱を何度も志穂は慰めた。
 義両親とのいざこざが本格化する中、恭一は急遽海外に出張しなければならなかった。
 恭一は志穂のためにマンションを借りるという。
 ごく一部にしか住所を知らせず、面倒な義両親からの干渉を及ばないようにするためだ。
 だが、そのときの志穂は恭一の話をあまり真剣に聞いていなかった。
 ただ、火照る肉体の熱を冷ますため、夫の身体を求めた。
 恭一を嫌いになる要素などなかった。
 今までで一番上手に志穂を抱く恭一だが、きっともうすぐ一番ではなくなると志穂は確信していた。
 早く、そのときが来ればいいのにと思いながら、志穂はベッドの中で優の名前を出さないように意識することに多大な努力を有したのだ。
 恭一は情熱的に志穂を抱きながらも最後まで冷静さを失わない男だ。
 志穂の身体に痣をつくらないよう、キスマークを残さず、毎回律儀にスキンとローションを使ってくれる恭一は志穂にとって有難かった。
 優を一途に思いながらも、夫である恭一に抱かれる志穂は一切の矛盾を持たなかった。
 志穂は恭一に抱かれるのが嫌ではない。
 本命である優にはしたない女だと思われるのが嫌で、本当はすぐにでも抱いて欲しい欲求を押さえ、夫に協力してもらっているのだ。
 だから、優への愛は本物である。
 また、夫に対する罪悪感もなかった。
 志穂は浮気や不貞をしているという認識が初めからないのである。

 自分と優の関係は正当なものであり、よってそれは不倫ではない。

 だから、夫を裏切ってはいない。
 志穂は慣れない会社での仕事に疲れながらも、ちゃんと妻として恭一を支えているつもりだ。
 何も悪いことはしていない。
 ただ、いずれ恭一とは別れなければならず、それを切り出すのは今ではなかった。
 何も悪いことなどしていない。
 志穂はただ、愛する人に尽くしたいだけなのだ。

 だからこそ、優が志穂の手作りのお菓子を食べて、本当に美味しかったと褒められたとき。
 志穂はとても幸せな気持ちになった。
 優もまた釣られるようにはにかむ志穂にキスをし、二人はその日いつも以上に身体をくっつけ、体温を交換し、唾液を奪い合った。



 いつになく情熱的に、お互いの味をじっくり堪能するように。

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