奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

11 夢を見る権利すら、君にはないんだ

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 文香は初め、優との結婚に消極的だった。
 それは二人が若すぎるからとか、経済的なこととか、就職のこととか。
 今この瞬間の情熱だけで文香と結婚した優が、いつか後悔するのではないか。
 そんな不安があったからだ。
 文香は優に後悔してほしくなかった。
 そして、自分が厄介な身の上であることを自覚している。

 文香は間違いなく優に好意を抱かれている。
 プロポーズされるぐらいには愛されている。

 だが、愛があるからと果たしてそれだけの理由で結婚なんてしてもいいのだろうか。
 例え愛があったとしても、結婚相手に自分は向かないと文香は冷静に見ている。
 
 その理由を優に話すとき、文香は不安と同時に安堵した。
 今まで、優が文香を褒める度、好意を伝えられる度に、文香は後ろめたさのような罪悪感を抱いていたのだ。

 自分は、優に愛されるような女ではないと。

 卑屈な思いを、初めて文香は優に吐露した。
 

 だが、文香の予想を裏切り、優は何一つ文香を拒まなかった。
 
「だって、文香は文香だろう?」

 たった一言。
 それだけで優は文香の苦悩を一刀両断にしたのだ。
 そして呆然とする文香を今がチャンスとばかりに攻めて来る。
 
 流されたと言われても仕方がない。
 それでも、最終的に優のプロポーズを受け入れたのは文香本人だ。
 文香と優を知る友人達は二人の早すぎる決断に呆れたり驚いたりしていた。
 実際に、優の勢いはすごく、傍から見れば文香は初めは拒みながらも優に押されるがままに結婚したと見える。
 
 その実、文香は葛藤し悩んでいた。
 優はそんな文香を辛抱強く待ち、結果文香の未来を手に入れたのだ。

 

* 

 
 プロポーズされた後に、文香は優に連れられて優の実家に行った。
 緊張で硬くなった文香と違い、優はひどく楽観的で文香の不安を笑っていた。
 優と話し合い、文香の不安や後ろめたさ、過去や家庭も含めて全てを曝け出した。
 それでも優は文香と家族になることを望んでいる。
 その決意と誠実に文香も全力で応えなければならないと思った。

 まだ、正式に結婚が決まったわけではない。
 婚約も二人の口約束に過ぎない段階だ。
 二人は若すぎたし、無謀でもあった。
 だが、きっと若くなければ文香は勇気を振り絞ることも、優の情熱に押されることもなかった。
 優の親に、自分の過去や家庭事情を話す気など起きなかっただろう。
 後ろめたいのなら、そのまま優と別れてしまえばいいだけだ。
 それでも、文香は優と離れたくないと思ったのは、ただの我儘であり、エゴに過ぎない。

 優の両親がどう受け止めるか分からない。
 何も事情を知らない二人は無邪気に優と文香が結婚することを応援しているそうだ。
 だからこそ、余計に罪悪感が疼く。

 彼らはまだ知らないのだ。
 自分の息子が求愛している女が、それなりの厄介なものを背負っていることを。

 きっと、難しい顔をするだろう。
 文香の事情を知れば、きっと躊躇うはずだ。

「優も文香さんも、顔を上げてくれ」

 そう、思っていた。
 全てを話し、それでも優と結婚したいと望んでいる本音をぶちまけた後、文香は優と一緒に深々と頭を下げた。
 二人は正攻法としてまず親に認めてもらいたかった。

 どんな冷たい声が、あるいは戸惑った声がかかるのかと覚悟していたはずなのに。 

「……よく、全部話してくれた。辛かっただろう」

 優の父の声は低く、野太く、微かに震えていたことを文香は今でも思い出せる。
 現実の優の両親は優しく文香を受け入れた。
 優の母は言葉を詰まらせてリビングを出て行ったが、後の義父となる優の父の方はとても冷静に見えた。

「何も悩むことはない。単純なことだ」

 いつも静かで滅多に笑わない優の父。
 優は母親似だと思っていたが、このとき文香は優とその父が意外にも似ていると思った。
 優しい眼差しか、それとも文香の悩みに対してなんてことないように笑うところか。
 二人の反応はとてもよく似ていた。

「あんたに…… 文香さんに親がいないと言うなら、俺と家内が親になればいい」

 義父が声を出して笑うのを、文香よりも優の方が驚いたように見ている。
 一度義母が消えていった扉の先を見つめ、そしてまた文香に優しく慈悲深い笑みを見せた。
 
「……血の繋がりがなくとも、あんたはもう俺の娘だ」

 ぽんっと、頭を撫でられたときに感じた義父の硬い手の平はじんわりと温かく、これが一家の大黒柱の手なのだと文香は場違いなことを思った。
 そんなズレたことを考えないと、泣いてしまいそうになるほど、文香は救われたのだ。

 優に、そしてその父に文香は救われた。
 リビングに戻って来た義母が目を赤くしながら文香を労わるように抱きしめる。
 
「……辛かったでしょう」

 文香を抱きしめたまま身体を震わす義母。
 戸惑う文香を義父はただただ静かに見つめていた。

「優」

 義母に文香に抱きしめられていた文香はそのときの義父と優のやりとりの音しか聞こえなかった。

「……文香さんを幸せにしてやるんだぞ」
「ああ、分かってるよ、父さん」

 それだけで、文香は十分幸せだった。 

 文香はこのとき、漸く自分の存在が認められた気がした。
 幸せになってもいいのだと、そう言われた気がしたのだ。

 例え血の繋がりがなくとも。
 家族になれると、受け入れられたのだと信じていた。


 文香の全てを受け入れると言ってくれた優と、その両親。
 自分に家族ができる。
 考えもしなかった未来に、文香は怯えながらも期待せずにはいられなかった。

 そんな、懐かしく温かい過去の記憶。
 全ては昔のことである。

 

* * 


 部屋には文香一人しかいなかった。
 義父が泣き喚く義母を無理矢理引き摺って行くのを、文香に必死に謝る姿を、ぼうっと見たような気がする。
 鉄の扉が閉められる音がやけに重く響き、玄関を出た後も義母の狂ったような声が薄い壁越しに文香の耳に届いた。

 もしかしたら、苦情が来るかもしれない。
 ご近所にも迷惑をかけてしまった。

 そんなことを、文香はぼんやり考えた。
 今の文香は無気力だった。
 全身の力が抜け、頭はちっとも回転してくれない。

 現実を、認めたくないのだ。

(……私の、せい)

 義母の罵倒が今でも鮮明に耳に残っている。
 あんな義母を見たのは初めてだ。
 あんな風に正面から人に罵られるのも。

 可哀相なぐらいに文香に謝っていた義父に申し訳なかった。
 義母はきっと混乱しているのだ。
 文香と同じように現実を認めたくない、それでも証拠が揃っている。
 信じられないという気持ちや裏切られたようなショックは想像以上に大きく、深い傷を残す。
 痛みを誤魔化すために誰かに八つ当たりもしたくなる。

 それが自分だったのだと。
 自分しかいなかったのだと、文香は無理矢理納得しようと、義母を理解しようと思った。
 文香にとっては懐の大きな、いつも朗らかに笑ってくれる優しい親の一人なのだから。

「っ……」

 誰もいない部屋。
 文香は唇を噛んで必死に叫び出したくなる感情を抑えた。
 穴が、ぷちぷちと胸の肉の繊維を引き千切って広がって行く。
 強い孤独感と無力感、失望が重たく文香に襲い掛かる。

「……ばか、みたい」

 嗚咽が、掌から漏れる。
 誰もいないのに必死に涙を隠す文香は本当に馬鹿だ。
 
 文香は失望していた。
 義母の態度にではない。

 気づいてしまったのだ。

 ずっと、慕い、信頼し、親しくしていた。
 文香は夫の家族を、本当に大事にし、大切に敬い、愛していたのだ。
  
 自分の親だと、思っていた。

「っ、う……」

 呻くような、苦しくて仕方がない泣き声を聞く者はいない。
 胸の奥の穴が広がる。
 どうしようもない虚無感に襲われた。

 文香は気づいてしまったのだ。

 家族だと。
 優の、香山家の家族の一員になれたのだと思っていたのは、だということを。

 結局、自分は彼らにとって娘ではなく、息子の嫁でしかないのだ。
 分かり切っていたはずのことなのに、文香は心のどこかで本当の家族になれたのだと、彼らの娘になれたのだと思っていた。
 思い込んでいた。

 その幻想は無惨に打ち砕かれた。

 義父母だけは、文香の味方をしてくれると。
 文香を可哀相だと思ってくれる。
 優を叱ってくれると、そう思っていた。

 そんなはずがないではないか。
 文香は所詮、部外者なのに。
 妄想だとしても、傲慢すぎる考えだ。

 彼らの愛する息子に、夫に敵うはずがない。
 文香が優に敵うことなど、何一つないのに。
 
(本当に、馬鹿だ……)

 自分は今までとんでもない勘違いを、都合の良い夢を見ていた。
 文香がもっと可愛く、愛嬌があり、誰からも好かれるような女なら。
 もしかしたら皆文香に味方してくれたかもしれない。
 文香を愛してくれたのかもしれない。

 だが、現実の文香は所詮その程度の存在だ。

 もしも、文香が文香でなければ。
 そもそも優は不倫なんてしなかったのかもしれない。
 文香に不満があるから、優はあの儚げな女に惹かれたのだろうか。
 あの場で、守ろうとしたのだろうか。

 そう思い至ったとき、文香は自分が深く底の無い穴に落ちていくような気がした。
 内臓を引っ張られるような不快感。
 眩暈がしそうだ。

「ぜんぶ、私が…… いけないの……?」

 誰に問いかけているのかも分からない。
 独りぼっちの部屋で、文香は虚ろな問いをここにいない誰かに投げかけた。
 まるで、子供のように幼く。
 涙が静かにぽたぽたと落ちていった。

「は、はは……」

 誰かの不気味な笑い声が聞こえる。
 初め、それが自分の漏らしたものだと気づかなかった。

 震えが止まらない腕をきつくきつく握りしめる。
 爪が食い込み、血が滲んでも構わなかった。

 文香は自分を戒めた。
 義理の両親を詰ろうとする自分の心を制御する。
 
 彼らは悪くない。
 義母にあんな疑心を抱かせた文香がいけない。
 文香の過去を知っている義母が女として疑うのも仕方がないのだ。

(お義母さんもお義父さんも悪くない……)

 自分で自分を洗脳するように頭の中で繰り返し同じ言葉を紡ぐ。
 それは一種の子守歌のようになり、気づけば文香は気を失うように硬いフローリングの上に倒れ込んだ。
 スーツがよれてることも、化粧を落としていないことも、暖房をつけていないことも、気にする余裕はなかった。

 疲れていた。
 文香の心はすり減っており、身体が思うように動かず、全身がだるく重かった。

 起き上がる気力もない。
 息をすることさえ億劫だ。

 眠りに落ちていく間、文香はもう二度と目が覚めなければいいのにと思った。
 昔、まだ優と出会う前の文香はいつもそんなことを妄想していた。
 夜、寝る前にこのまま明日が来なければいいのにと思った。

 それでも無意識に優にメッセ―ジを送るためにのろのろと手が動く。
 予め連絡できない場合を想定して用意したメッセージをコピーして送る。
 返信を確認する気も起きない。

 最後の気力を振り絞った後、文香はそのまま深い眠りに入った。

(悪くない、誰も悪くない…… 全部、私が……)

 眠りにつく直前まで、文香はずっと自分を責めていた。
 義母があんな風に疑心暗鬼になったのは、きっと文香のせいだ。

(私が……)

 目を閉じる寸前、耐え切れずに決壊した涙腺から次から次へと涙が零れていく。
 頬を濡らしながら、文香は夢を見た。

 夢の中でしか会えない優に、慰めてほしかったのだ。



* * *


 現実逃避だと分かっている。
 それでも、今この短い間だけでいい。
 せめて、夢の中でだけ全てを忘れて逃げたかった。

 だが、そんな些細な願いすら文香には許されていない。
 不躾な着信音に、文香は叩き起こされた。

 腕時計を反射的に確認すれば、もうすぐ日付が変わる時間帯だ。
 そんなことお構いなしに、スマホから延々と文香を呼び立てる音が鳴る。

「……」

 無視、してもよかった。
 くらくらと眩暈がし、二日酔いよりも酷い気分だ。
 指一本動かすのも重く、辛い。

 だが、それでも文香は冷静だった。
 誰とも知らない非通知の電話。
 何度も何度も、馬鹿みたいに諦め悪くかかってくる。
 こんな非常識な時間にも関わらず。

 しつこくかかって来る相手に、文香は直感した。

「はい…… 香山です」

 自分ですら感情の読めない声が勝手に喉から飛び出していく。
 今の文香はまるで空中に漂う幽霊のように自分の行動を俯瞰的に、他人事のように見ていた。
 そうでもしなければ冷静ではいられない。

『こんばんは』

 鈴の鳴るような声色とは、きっとこんな声を言うのだろう。
 機械越しにも澄んだように聞こえる女の声に、文香は無意識でスマホを握る手に力を込めた。

 文香の直感は正しかった。

『以前、お会いした渡辺志穂です』

 名乗らなくとも分かった。
 湿っぽく、泣いたような声しか聞いていなかったが、それでも間違えるはずがない。

『よかった』

 雨に打たれてか弱く鳴く子猫のような声は今でも思い出せる。
 
『すぐに出てくれなかったから、てっきりもう寝てしまったのかと思って、不安だったの』

 今の志穂はまるであのときとは別人のような声で文香に話しかける。
 まるで春の陽気な日差しの下で、親しい友人に話かけるように。

「……社会人にもなって」

 そんな志穂に、文香の声は自然と冷たくなる。
 優しくしてやる義理などない。
 むしろ、無視もせず怒鳴ることもしない文香は立派だった。

「時計を見る習慣がないというのは、どうかと思うわ」

 今すぐにでも、志穂の声が聞こえる物体を壁に叩きつけたくなる衝動を、必死に耐えているのだから。

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