奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

6 初対面は最悪

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 文香は目の前のさくらと名乗る男に圧倒されていた。
 この場の異常な空気、客達の異常な行動すら一瞬忘れてしまうほど。
 それほどまでにさくらは文香の意識を奪った。
 その強烈な色香と、謎めいた美貌。
 何よりも、息が詰まりそうな甘い匂いに文香の頭がぽうっと惚けてしまったのだ。

「僕のレストランにようこそ」

 優しく柔らかな口調と違い、低く艶のある声の端々にどこか傲慢な響きが感じられる。
 それなのにまったく不愉快に思わない。

 男、さくらの顔が近づいて来るのを文香は呆然と受け入れた。

「ねぇ…… 君の名前も教えてよ」

 さくらの長く白い指が文香の髪を一房摘まむ。
 毛先を弄り、その手触りにどこか満足気に笑みを深める。
 そして、さくらは文香の顔を改めて観察するように目を細めた。

「へぇ…… 珍しいタイプだ」

 鼻先が触れてしまいそうなほど近づいて来るさくらに何故か文香は抵抗することもできなかった。
 ただ、匂いがより強烈になり、文香の全身に纏わりついて来るのが分かる。
 焦りがゆっくりと忍び寄って来る感覚に、文香はただ混乱した。
 すぐにさくらの手を振り払って逃げたいのに、逃げられない。
 琥珀色の瞳が薄暗い店の中でまるで蝋燭の灯のようにゆらゆら揺れている。
 その目に見つめられると、まるで催眠術にでもかかったかのように、ぽうっとしてしまうのだ。

「僕の趣味じゃないけど、まぁ、たまにはいいかもね」

 さくらの視線はたまらなく色っぽく、一目見られただけで身体の奥底から燃えてしまいそうな威力があった。
 それなのに、人々を熱狂させるその美しい琥珀は冷たく、無機質に光っている。
 
 そのことに気づいた瞬間、文香はぞわっとした。

「口直しには、最適かも」

 さくらの視線が文香の顔からどんどん下へ移る。
 厭らしさは不思議と感じられない。
 だが、冷静で、それでいてどこか愉悦が滲んだ眼差しが文香の胸を、腰を、下半身を見ているのだ。
 生理的な恐怖と、それを上回る嫌悪感が文香を襲う。
 
「んー……? あれ? 君……」

 顎に手を当て、じろじろと文香を観察した後、さくらの視線が再度文香の顔を凝視する。
 長い睫毛をぱちぱちと瞬かせ、今の状況に似つかわしくない純粋な疑問と興味がその目に浮かぶのを文香は見ていた。

 さくらの顔が近づく。

「なんだろう…… この、匂い……?」

 キスできそうな距離に文香は口を、鼻を押さえたい衝動に駆られた。
 それにさくらは気づかず、次いで文香の首筋に鼻を寄せる。
 匂いを嗅がれていると理解した瞬間、文香の全身に鳥肌がたった。

「……君、なんか嫌な匂いがするね」






 さくらの失礼な台詞に、違う意味で文香の身体が硬直する。
 ゆっくりとさくらの顔が離れた。
 片手で鼻を押さえ、さっきまでの微笑が嘘のように眉間と鼻に皺を寄せ、嫌そうに文香を見下す。

「無理…… こんな糞みたいな匂い…… いくら見た目が良くても無理だよ…… 食欲が失せる」

 嫌悪を隠しもしないその表情すら、美しく人を惹きつける。
 文香もまた強い引力に惹かれるように視線を逸らすことができなかった。
 自分の身体に、鼻に纏わりつくさくらの残り香に顔を青褪めさせながら。

「君みたいな不味そうな女は、初めてだ」

 そんな文香の気持ちなど知らず、さくらは嫌そうに吐き捨てる。
 
「ふっ……っ」

 ふざけるなと、今まで縫い付けられたように動かなかった口から咄嗟に罵倒が飛び出そうになった。
 蛇のように全身に絡んでいたさくらの視線が逸らされたせいか、或いはその言動に我慢できなくなったせいか。
 何よりも、胸にせり上がってくるように吐き気に我慢ができなくなったからかもしれない。

 さくらの匂いが。
 その例えようもなく甘く、濃い匂いに、文香は漸く鼻と口を両手で押さえ、後ずさる。

「うっ」

 そんな文香を怪訝に見ているさくらの前で、文香は顔を青白くさせながら正体の分からない気持ち悪さに堪えた。

「む、り…… はき、そう……」

 無理なのはこっちの方だと怒鳴りたい気持ちすら萎えるほど。

「きもちわ、るい……」

 さくらの強烈な匂いに、文香は必死に吐くのを我慢した。


「…………は?」


 そんな文香をさくらは意味が分からないとばかりに首を傾げる。
 だが、今の文香にはそれに目を向ける余裕がない。
 漸く解かれたさくらの視線、今まで何故か身体が言うことを聞かず、黙って突っ立ていることしかできなかった。

 解放された。
 そんな安堵が芽生えたが、状況は未だ危なく、そしてまったく読めない。
 ここがどこで、人々が何をしているのか。
 さくらは何者なのか。
 謎が多すぎて訳が分からないのだ。
 さくらに見つめられ、硬直していたときは周囲の様子すら分からなくなっていたのに、今はやたらと鮮明にリアルに場の雰囲気や人々の行為が文香の五感を刺激する。

「もう、いや……」

 吐き気を耐え、テーブルに寄りかかる様にしてしゃがんだ文香は言葉とは裏腹に顔を上げることもその場を立ち去ることもできなかった。
 すぐ近くでは文香達の様子を気にする素振りも見せずに夢中になって絡む星田と男の店員がいる。
 それから必死に目を逸らそうとしても、右も左も、どこもかしこも似たような光景だ。
 目を瞑ろうとすれば今度は破廉恥な音や声が生々しく感じられる。
 一層目を瞑って両耳を塞ごうかとも思ったが、手を一瞬でも口から放せば吐いてしまう自信があった。
 何よりも、まだしつこく文香の身体にあの吐きそうなほど甘ったるい匂いが沁みついている。
 涙目になりながら、唇を噛んで痛みで必死に気持ち悪さを我慢しようとする文香を、さくらはじっと見ていた。

「……ちょっと、待って。気持ち悪いって…… 何?」

 文香は気づかない。
 さくらに構っている余裕もないほど、気持ち悪くて気持ち悪くて、嫌悪感と混乱で頭がいっぱいなのだ。
 少しでも気を抜けば吐いてしまう。
 早く、この場を離れたいのに、身体が上手く動かず焦りだけが募る。

 誰かの甲高い嬌声と、湿った水音、ソファーが軋む音がまるでこの場の不自然な熱狂を盛り上げる音楽のように響く。
 
 文香にとって、ここは地獄だ。
 
 星田に誘われるがままにほいほいとついて来たことを心底後悔した。
 そして肝心の星田の姿がまともに見れず、それでも彼女一人を置いて逃げるわけにも行かず、文香は落ち着けと騒ぎ出す自分の心臓を必死に宥めようとする。

 そんな文香をさくらはじっと見ていた。

「……ねぇ、君」

 さくらが近づいて来ようとするのを、文香は敏感に察した。
 少し動くだけで、さくらのオーラが、その匂いが文香を刺激する。

「っ、こ、ないで……!」

 苦しそうに息を乱し、険しい顔で文香がさくらを拒絶する。
 鼻を押さえ、じりじりとさくらから離れようと後ずさりする文香。
 
「お願いだから…… 私に、近づかないでっ……!」

 必死に。
 本当に情けないほど必死に文香はさくらに懇願するように拒絶した。
 
 文香に近づこうとしていたさくらの足が止まる。
 顔を見ることもできず、じっとさくらの首から下しか見ていなかった文香は足音を立てないままの革靴に心底安心した。

 早く、星田を連れてこの場から逃げなくてはと考えを纏めようとしていた文香の耳に、低い声が突き刺さる。
 男と女のあられもない嬌声を切り裂き、その声は真っ直ぐ文香に直撃した。

「近づくな…… だって?」

 低い笑い声に文香は全身が凍るような、そんな本能的な恐怖を抱いた。

「ふふ…… ははは、あー、可笑しい」

 激しい嘔吐感がぱっと消え失せるほど、さくらは温度の無い声で笑う。

「初めてだよ、君みたいな子」

 冷たい笑い声がやみ、どこか柔らかな声が文香の耳を擽る。
 恐る恐ると、その声に文香は顔を上げ、再び硬直した。

「……君みたいな不愉快な子は、初めてだ」

 今すぐにでも舌打ちしそうな、そんな苛立ちに満ちた男の目は。
 赤く、禍々しく輝いていた。



* *


 その赤い瞳を見たとき。
 文香は自分の荷物を手に取って立ち上がり、逃げようとした。
 丸いテーブルが文香とぶつかった衝撃で揺れ、その上の蝋燭が消える。
 蝋燭の灯が消えると、震えていた文香の身体に熱が戻る。
 正常な、人としての体温を取り戻した気がした。

 文香は混乱と恐怖と焦燥のまま、気づけば店の男のズボンをずり下げ、口に何かを銜えていた星田の手を掴んだ。

「いたっ、ちょ、ふみちゃん、せ……」

 痛がる星田に構う余裕などない。
 暗がりの中、文香は星田の手を掴み、脱兎の字の如く逃げ出した。

「わっ、ふみちゃん、せんぱい!?」

 慌てる星田と共に、テーブルや人を押し倒しながら文香はステージを通り、グランドピアノの近くに出口があったという記憶を頼りに走った。
 そのときの文香は本当に無我夢中で、後で思い返しても自分がどうやって星田を連れてあの場から離れることができたのかよく覚えていなかった。

 ただ、必死でさくらから逃げようとした。
 それだけは生々しく覚えている。



* * *


 嵐のように店から飛び出していく女。
 この席だけではなく、他にも蝋燭を倒された席がある。

「……気にせず、ゆっくり、愉しんでくれ」

 夢から唐突に起こされたように、戸惑う客が数人いたが、すぐに灯った蝋燭とさくらの笑みにうっとりとまた夢の世界に入って行く。
 そして自分達のパートナー、或いは店の者と再び快楽に堕ちて行った。

「ご主人様……」

 連れ去られた客の相手をしていた若い男だけは戸惑い、不安気にさくらを見つめる。
 勃ち上がりかけたペニスが間抜けに露出していた。
 それをさくらは一瞥し、気だるげにソファーに腰かける。
 怒りを吐き出すように長い溜息を零し、指でちょいちょいと男を呼ぶ。
 それに男は顔を輝かせ、頬を染めて犬のように這って来た。
 さくらが掌を差し出すと、男は頬を摺り寄せ、甘く鼻で鳴く。
 完全に勃起し、我慢汁を床に垂らし出す男のペニスにさくらは目を細める。

 ひじ掛けの上で頬杖をつきながら、男の横腹をなんの躊躇いもなく革靴で蹴った。

「っぁ、」

 どこか切なく、痛みと快感に悶える男を前にしてもさくらの表情は欠片も動かなかった。
 長い足を組み、男の顎を革靴の先で弄る。
 強制的に顔を上げさせられた男は、恍惚の眼差しで、涎を垂らしながらさくらを求めていた。

「……いい子だね」

 その様子にさくらの赤い唇がにたりと笑う。
 それすら、どこか気品があり、そして獲物を甚振る獣のように野蛮だ。
 顎を上げていた靴が離れ、男の顔面で止まる。
 男は意図を察し、喜々としてさくらの革靴を舐めた。
 片手で自身のペニスを弄り、すぐに射精すると、今度はその精液を掬って臀部に手を伸ばす。
 その健気な様子を見てもさくらの心は晴れない。
 自分の奴隷なのだから、これぐらいするのは当たり前だ。
 そして、どれだけプライドが高く、高潔な精神を持った人間でもさくらに逆らうことはできない。
 皆、喜んでさくらにひれ伏すのが当然である。

 それがなのだ。
 だからこそ、あの女は異常だった。
 
「……ふざけるなよ」

 さくらの愉悦の時間が、大事な食事の時間をぶち壊された。

 たかが、餌の分際で。
 しかも、あんな気色の悪い匂いをした人間の女に。

 さくらの苛立ちは収まらない。

「ご主人様、どうぞお飲み物を……」

 飲み物を恭しく差し出して来た男の奴隷をさくらは冷たく一瞥する。
 差し出されたグラスを手に取り、一口もつけることなく、微笑みを浮かべる奴隷の顔にかけた。
 酒の匂いが漂う。
 初めは驚き、目を見開いていた男だったが、すぐに顔を赤くし、目を蕩かせてその場に跪いた。
 さくらの尋常でない雰囲気に怯えと期待が芽生えたらしい。
 うっとりと濡れた服をさくらの目の前で男が脱ぐ。
 靴を舐めていた男はもう一人の奴隷の様子を見て、名残惜しくもさくらから離れた。
 そして丸いテーブルに両腕をつき、腰を高く掲げる。
 靴下と靴だけを残して裸になった男が、酒に濡れた髪をかき上げながら同じくテーブルに近づく。

 そして、さくらの見ている前で二人の奴隷はセックスを始めた。
 必死に腰を振り、場を盛り上げるために、恥もなく二人の見目麗しい男が喘ぐ。
 さくらの視線は媚薬のように彼らを興奮させ、その快楽は凄まじい。
 ご主人様と、ひたすらさくらを呼び、求めながら二人は夢中になって互いの身体を交互に攻め、痴態を晒していく。

「……」

 さくらはそれをどこかつまらなさそうに見ていた。
 今宵のさくらの機嫌は過去最低に悪い。
 冷たい視線に気づかず、勝手に盛り上がって行く奴隷達との温度差に興ざめする。

 いつの間にかさくらの側には嗅ぎ慣れた匂いを放つ女や男の客が集まって来た。
 誰かが一人、さくらの硬くなった陰茎に触れようとする。
 
「気安く触るな」

 冷たいさくらの声に、その手は弾かれたように離れた。
 それでいい。
 興に乗ればしゃぶらせることもあるが、基本さくらは潔癖で少食だ。
 直接的な摂取はさくら好みではない。

「皆、もっと美味しそうにしてみせてよ」

 さくらの声は低く、美しくその場に響く。
 自分に従うのが当然だと言わんばかりの口調。

「僕を愉しませろ」

 だが、この場でさくらの命令に喜ばない者はいない。
 奴隷も客も。
 皆がさくらに恋しているといえた。
 今宵のさくらは一段と華やかで美しく、そして全身から溢れんばかりの媚香を放っているのだ。

 暴力的なまでの魔力に、魅了に敵う者などいない。

 饗宴が始まる。
 さくらからすれば今までのは前座、食前酒のようなものでしかない。
 これからが本番だ。

 さくら好みの美しい男女が無秩序に絡む。
 パートナーのことも忘れ、客や店員の立場も忘れて。
 ヘテロにしか興味のない者が見知らぬ同性と絡み、それのパートナーだった者もまた見知らぬ異性とセックスする。
 複数に犯される女もいれば、一人の男の唇や乳首、ペニスにアナルを舐めて愛撫する女達もいた。
 パンティーを口に詰め、腕を縛って暴力的にパートナーを犯す男、労わる様に互いの足の爪まで丁寧に舐めるゲイカップル。
 肉欲に溺れる者と愛欲に溺れる者。
 インモラルな輩しか、この場にいない。
 愚かで美しい淫らな彼らを、さくらはじっくり味わった。
 
 噎せ返るような背徳の匂い。
 混沌とした欲望は、今のむしゃくしゃしたさくらの気持ちを少しだけ落ち着かせた。

 気持ち的にやけ食いしているような感覚だ。

「くそっ、なんなんだ…… あの女」

 それでも完全に苛立ちは収まらない。
 
「この僕を拒むなんて…… 許せない」

 ギリギリと歯を噛みしめる。
 こんなに苛立ったのは初めてだ。
 腹の底から熱くなる。
 この場で奴隷達に八つ当たりしないのは、ただ単にさくらの意識が他に集中していたからだ。
 
「あの女…… 絶対に後悔させてやる」

 さくらのプライドを踏みつける女がいた。
 
 許せるはずもない。
 そして、未だ信じられなかった。

 淫魔であるさくらの魅力を拒むことができる女が、この世にいるなんて。

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