奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

5 ねぇ、君は誰?

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 星田は意外と目敏かった。
 文香の少し大きめの鞄を見て、外泊することを瞬時に覚ってあっという間に文香がどこに泊まるのか、明日以降どうするつもりなのかを聞き出した。
 文香が近くのビジネスホテルに泊まる予定だと聞いた星田はなんの気負いもなく文香を誘う。

「なら、うちに泊まりません?」

 彼氏と同棲していたが、つい数日前に喧嘩別れして一人で寝るのが寂しいのだと言う。
 部屋にはまだ元カレの物が散らばって汚いが、ホテルと違い無料でお得だと星田は主張する。
 まさかそんな風に誘われるとは思わず、文香はなんともいえないむず痒い気持ちを抱いたが、所詮その場限りのノリで、酔っ払いの戯言を真に受けてはいけないと内心で首を振る。

「ねぇ~ せんぱーい、ふみちゃんせんぱーい、うちにとまりましょうよ~」

 ぐでんぐでんに酔っ払いながら文香に絡んで来る星田がなんだか微笑ましい。
 今朝からずっと沈んでいた気持ちが少しだけ軽くなったような気がした。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「やったぁ~ おとまり、おとまり」

 子どものようにはしゃぐ星田を文香は柔らかな眼差しで見つめる。
 もちろん、酔っている星田を宥めるためだけの言葉だ。
 もう辞表届を出したという元後輩に迷惑をかける気はない。
 どうせこの調子ならすぐに忘れてしまうだろうと文香は思った。


 だが、星田はバッチリ覚えていた。

「終電なんて気にしない、気にしない~ どうせうちに泊まるんだから、今夜はオールしましょう、オール」

 タクシーから降りる頃にはだいぶ酔いが冷めたのか、星田は元気に文香の腕を掴む。
 捕まれた文香は星田の家に泊まる気はないと、もう遅いから手を放してくれと言おうとしたが、キラキラわくわくな星田の視線にやられ、結局何も言い出せなかった。

「……お世話になります」

 替えの下着やその他の荷物を背負いなおし、文香はきちんと星田に頭を下げた。

「せんぱいったら、大げさ― 泊まるぐらいそんな気にしなくてもいいのに~」

 けらけら笑いながら文香を引っ張る星田は本当になんでもないかのように言う。
 能天気で無責任。
 だが、文香の存在を苦に思わず、むしろ懐いて来る星田の存在に確かに救われた。

「で、一体どこに連れて行く気なの?」

 未だ行き場所を教えてくれない星田に少しだけ不安になる。
 タクシーが停まったのは繁華街の路地裏で、外灯が少なく、人もほぼ見当たらない。
 ネオンと人込みで賑やかな表の通りとは違う雰囲気につい警戒してしまう。
 へらへら笑っている星田が酔ってふざけた所に行くのではないかと不安だった。

「レストランですよ~」
「レストラン? こんな所に?」
「はいっ、秘密の会員制のレストランです~」

 どこか含むように笑い、不安がっている文香の腕をぺちぺちと星田は叩く。

「心配しなくても怪しいお店じゃないですよぉ~」
「でも、さっきでもうお腹いっぱい……」

 星田があれもこれもシェアしようと揚げ物から刺身まで結構頼んでいた。
 勝手に文香の小皿にひょいひょいと料理を分けて来たり。
 たぶん、嫌いなものを押し付けて来たのだろうが、文香は特に不味い美味いもなく黙々と食べていた。
 苦しくはないが、もうこの時間帯にレストランで何か頼めるほど胃に余裕はない。
 怪しくはないと主張されても、こんな人気のない暗い場所にあるレストランは少しホラーだと思う。

「だーいじょうぶです。食べるのがメインじゃないんで」
「え、レストランなんでしょう?」
「んー 私もよく分かんないんですけど、お店の人が言うには…… あっ、ここです」

 暗い夜道を歩いていたはずなのに、気づけば目の前にぼんやりとした外灯で照らされた建物があった。
 暗いせいか、どの程度の大きさかは分からない。
 裏道とはいえ、こんなにも暗いものなのだろうかと文香の不安はますます大きくなる。

(なに、ここ……)

 そもそもどうして星田に連れられるがままにここに来てしまったのか。
 そんな疑念はあったが、不思議と後悔はない。
 きっとあのまま別れてしまえば、文香はまた一人でどうしようもない現実と向き合うはめになるからだ。
 普段の文香なら意地でも拒否する怪しいお店。
 それでも恐る恐ると足を踏み入れたのは、まだ酔っている星田が心配で、そして文香自身が現実逃避したかったことに他ならない。
 扉が開かれ、そこから一気に溢れる甘い匂いを嗅いだとき、不思議と文香は落ち着いた。






 扉を開けるとスーツを着た若い男が笑顔で出迎えた。

「いらっしゃいませ」

 文香の顔を一瞬見たスーツの男は暗くて顔がよく見えない。
 どこか印象の薄い男だ。

「こんばんは~ 今日は二人ね。この人は私の連れです。あっ、別にじゃないです。ただの連れですよ~」
「ちょっ……」

 何故か星田にぐいぐいと背中を押され、文香は男の胸に危うくぶつかりそうになった。
 星田のに文句を言う暇もない。
 そうこうしている内に、文香の顔が強張る。
 視線を感じたからだ。

 男の視線が無遠慮に文香の顔面を、胸を、下半身を這う。
 見えないが、何故か分かった。
 男に観察されていることに、文香は不愉快な気分になったが、一方の星田は上機嫌だ。

?」

 何故か自信満々に文香を男に見せつけようとする星田に訳も分からず咎めようとしたとき。

「……ええ。合格でございます」

 どこか低く笑うような男の声に、何故か背筋がぞっとした。
 当然だと言わんばかりに男の先導のまま階段を降りていく星田。
 もちろん文香の手を掴んだままだ。

 足元の照明しか頼るものがなく、文香はお守り代わりに自分の荷物をぎゅっと胸元に引きよせた。

「大丈夫ですよ。何も怖い事はないんですから」

 用心深く周囲を観察する文香に星田は気楽に声をかける。
 階段を降りる足音しか聞こえない中、その声は妙に響いた。
 
 甘い匂いが徐々に強くなる。
 これは何の匂いだろう。
 何故か惹きつけられ、どこか懐かしいような……

「では、お楽しみください」

 いつの間にかぼんやりとしていた文香は自分の顔を不躾に見て来た男に背中をそっと押されながら、地下の扉を潜った。
 うっとりするほど甘い匂いと、痺れるようなアルコールの匂い、噎せ返るような何かが一気に文香の鼻腔を、脳を襲う。

 ずっと暗闇にいた文香は蝋燭という頼りない灯りの数々に目を細めた。
 
「なに、ここ……」
「レストランですよ」

 呆然とした文香の戸惑いに星田は声を潜めながら耳打ちする。
 繁華街の騒めきとは違う、それなりの人数の客らしき人々が穏やかに囁くように会話している姿はひどく奇妙だ。
 赤を基調にしたらしい店の中はシンプルでありながら華やかでゴージャスな印象を与える。
 秘密めいた蝋燭の灯りと時折光る硝子細工達。
 小ぶりの丸いテーブルがそれぞれの席にあり、椅子の代わりに広く寝そべれそうな革張りのソファーがあった。
 その一つに文香達は案内された。
 テーブルの上に硝子の小瓶と蝋燭が置かれている。
 小瓶の中身が何かは分からなかった。
 違う店員がこれまた顔がよく見えない中で飲み物のオーダーを取る。
 メニュー表はなかったが、星田が凝りもせずにカクテルの名前を出すので、文香はとりあえず水だけ頼んだ。
 得体の知れない店で何か頼めるほど文香の神経は太くない。
 音楽は流れていないが、グランドピアノが控えめに置かれたステージがある。
 客の目の前にシンプルなステージがあるのだ。
 その上には、何故かキングサイズの天蓋つきのベッドが置いてある。
 やけに大きいソファーにちょこんと腰かけたまま、文香はそわそわと辺りを警戒する。
 周囲の客の顔は見えないが、どうやら文香達以外はカップルで来ているらしい。
 より一層場違いな感じがした。
 ドレスコードとまではいかないが、途中移動するときに目に入った女性達は皆美しく着飾っている。
 恋人との隠れデートスポットなのかと思ったほどだ。

「ねぇ、星田さん…… 本当に、ここって一体なんなの?」

 カクテルを今度は味わうようにゆっくりと飲む星田に囁けば、どこか気だるい顔で見つめられる。
 とろんとした目は確かに酔っていた。
 だが、酒のせいだけではない。

「いいから、いいから。すぐに浮気した最低野郎なんて、一瞬で忘れちゃうほど楽しい気分になりますから」

 グラスに飾られたチェリーをぷちっと噛みながら、星田はにやりと猫のように笑う。

「今度来るときは新しい彼氏か旦那さんと来るといいですよ~ ただし、カッコいい人限定です」

 相変わらず文香が離婚すること前提で話す星田にもやもやする。

「だから、私はまだ……」

 何か言い返そうとしたとき。
 蝋燭の灯りが突然消えた。



* *


 客の囁き声がやむ。
 唾を呑み込む音だけがやたらと印象に残った。
 暗闇の中、咄嗟に立ち上がりそうになった文香を星田は腕を掴んでやんわりと止める。 
 耳元で星田が囁く。

「もうすぐに会えますから」
「さくらって……?」

 戸惑う文香の耳に布ずれと湿った音が聞こえた。
 遠くの席に蝋燭の灯りがつく。
 漸く見つけた光源に文香の視線は自然と吸い寄せられた。

「っぁ、ん……」

 その光景に文香は目を見開き、硬直した。
 匂いが、強くなる。

「な、に……」

 信じられないとばかりに、文香は顔を青褪めさせる。
 文香の見ている、いや文香だけではなくその場にいる他の客全員が熱心に灯りがついたその席に、皮張りのソファーの上で絡む男女を凝視していた。

「あん、あっ」

 知らない女が、白い足を広げ、その股に男が顔を埋めている。
 ブラジャーからはみ出た乳房まで実に鮮明に見えるのに、何故かその顔だけは曖昧で見えず、喘ぐ赤い唇だけがやたらと印象に残る。

「うわ、大胆」

 こそこそと楽しそうに笑う星田に文香はなんの反応もできなかった。
 金縛りにあったかのように視線が離れない。
 文香が服を剥ぐように脱いでいく男女を、ねっとり口づけし合うカップルを凝視している合間に、次から次へと蝋燭の火が灯る。
 女の、或いは男の濡れて快感に溶け行く歓喜の声があちこちから聞こえ、気づけば、どこか落ち着いて上品に囁き合っていた客達皆が熱く、時には冷静に淫らな行為を始め、夢中になっていた。

 文香はただ見ていることしかできない。
 先ほどのスーツの男が音も無く近寄り、星田に声をかけた。

「お相手しましょうか?」

 混乱し、動揺を露にする文香の前で、スーツの男が星田の手からグラスを取り上げる。
 今更だが、文香達の席にも灯りがついていた。

「んー どうしようかなぁ?」

 星田はくすくすと品定めするように男の顔を観察する。
 そして文香の見ている前で男にキスした。

「んっ、ん…… っぁ」

 舌を絡ませているのが分かる。
 目を見開き、ショックに震える文香などお構いなしに、ソファーに乗り上げた男に押し倒されながら星田はちらっと文香を見た。
 正しくは文香の背後をうっとりと見ていた。

「さ、くら……」

 操られるように、文香は星田の視線を追い、振り返る。
 強烈なまでの匂いが文香の脳を直撃した。



* * *


「今晩は」

 その甘い匂いに、低く脳髄が蕩けそうな美声に、文香の身体が震える。
 文香が腰かけていたソファーの背もたれに腕を寄りかけ、じっとこちらを妖しい瞳で観察する男がいた。

 直感的に、この男が「さくら」だとそのとき文香は勘づいた。

(……きれい)

 初めて見るさくらという男は、酷く美しく、一層禍々しいほどの色気を放っていた。

 真珠のような光沢を放つ白い肌。
 黒檀のような黒髪が波打ち、肩の上で揺らいでいる。
 睫毛も長く、すっと通った鼻筋や赤い唇は奇跡のようなバランスで収まっており、同じ人間とは思えないほど整っていた。
 華やかでありながら優美な美しさ。
 それなのに、一切の女々しさがなく、むしろ精悍な顔立ちとなっている。
 シャツから見える鎖骨や意外と広い肩幅、匂い立つ色香は雄の強さに満ちていた。

 生物的な本能として、これは逆らってはいけない生き物に思える。
 その場にいるだけで、視線一つで魂ごと縛られそうな、従いたくなるような、魔性に文香は震えた。

「はじめまして、僕はさくら」

 琥珀の瞳が獲物を品定めする獣のように文香の全身を呑み込もうとする。

「君は、誰?」

 どこか慈悲すら浮かぶ笑みはため息が出そうなほど神々しい。
 それなのに、決して逆らってはいけない、どこか傲慢な響きに文香はただ間抜け面を晒すことしかできなかった。

 背後で星田達がごぞごそと楽しそうに何か始めている。
 どういうことだと星田に詰め寄りたいのに、その楽しそうな嬌声や耳に残る水音に文香は顔を青褪め、震えて視線を向けることができなかった。
 星田が嫌がっているのならすぐにでも助けようと思っただろう。
 だが、心底楽しんでいる彼女達の間に入ることはできない。
 頭が混乱した。
 冷静な判断など、不可能だ。

 そして目の前のさくらがじっと文香の返答を待っている。

 どうすればいいのか分からず、この異常な空間に、さくらという強烈な存在感を放つ男に文香は途方に暮れることしかできなかった。
 くらくらするような甘い匂いと酒の残りが文香を追い詰めていく。

 一体ここはなんなんだ。
 この男、さくらは一体誰なんだ。

 そう叫びたいぐらいに、文香は追い詰められていた。
 肉食の獣に追い詰められる、哀れな子兎のように。

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