奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去②≫

1 君って鬱陶しい

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 文香の世界は香山優を中心に回っている。
 少なくとも文香はそう思っていた。
 
 優と別れる前までは。






 夫が不倫をしていた。
 初めその事実を知らされたとき、文香はありえないと思った。
 確かに最近の優は不可思議な行動をすることが多い。
 不審には思っていたし、心配もしていた。
 本当は認めたくないだけで、心のどこかで疑っていた自分がいたかもしれない。
 だからと言って、あの優が文香を裏切るような、家族を裏切って騙すような行為をするはずがないと、文香は疑心に蓋をしていたのだ。
 渡辺恭一から証拠を見せられるまで、文香は間抜けにも優を信じていた。
 信じようとしていた。

 土下座し、情けなく縋り付いて来る優を見る文香の心はどす黒く沈んでいる。
 大の男が頼りない子供のように文香の赦しを求め、泣いていた。
 苦しそうに、息をするのも辛そうに文香に訴える。
 
 全てを話すと。
 今まで文香に秘密にしていたこと、騙していたことを全て話すと優は必死に訴える。
 それが、優の誠実なのだろうか。

 話を聞いて欲しい、そして別れたくないと必死に訴えて来る。
 文香に捨てられたら、生きていけないと悲痛な声で哀願する優。

 なら、どうして? 
 文香がいなければ生きていけないのなら、ずっと側にいればよかったのに。
 文香と過ごす時間を捨て、嘘をついてまで他の女と会っていた優に今更そんなことを言われても、都合の良い言葉としか捉えられない。
 写真の中の優とその不倫相手の笑顔が忘れられなかった。
 他の女に向ける笑顔とは違う。
 文香に向ける穏やかなものとも違う。
 熱に浮かされたような視線を優は文香以外の女に向けていたではないか。

 何を今更という嘲笑が文香の胸に渦巻く。
 
 確かに、文香は誤魔化しが嫌いだ。
 嘘をつくのなら墓場まで持って行って欲しい、騙すならバレないようにして欲しい。
 そういう考えが好きではなかった。
 無意味だと思っている。
 例え真実を知らず、永遠に騙されたまま幸せに人生が終わったとして。
 裏切られた事実に変わりはない。
 文香は潔癖なところがある。
 不倫は彼女にとって人の道を外れた行為、罪でしかない。
 誰にも知られないからと言って罪を犯していいはずがない。
 バレないようにやるのが不倫のルールだという輩が心底汚らわしかった。
 愛する者との誓いを破り捨てるような輩がルールを語るなど、嗤う気すら起きない。

 だから優は必死に謝っているのだろう。
 この世で一番文香を理解し、長く付き合って来たのが優だからだ。

 唯一意外だと思ったのが、優にまだ文香への気持ちがあるということだ。
 それはそれで虚しく、腹が立った。
 あの女への気持ちが本気ではないのなら、その程度の気持ちで優はあの女と付き合ったのか。
 妻である自分を騙してまで。

 文香はもう自分が何に怒り、苛立ち、絶望し失望しているのかも分からなくなっていた。
 優とあの女のやりとり、今までの行動を突きつけたられたとき、文香は呆然とし、恥ずかしくて仕方が無かったのだ。
 こんな、みっともない会話を年下の既婚の女としていた事実、ままごとのように二人で疑似夫婦を演じていた事実、警戒心もなくホテルに行き、何度も何度もマンションに通っていた事実に吐き気がした。
 そんな優を疑わなかった自分は滑稽でしかない。
 証拠を見せた後、目の前で静かに文香の様子を観察する渡辺恭一の視線が居た堪れなかったほどだ。

 今は、どうだろう。

 実物の渡辺志穂を見たとき、文香は嫉妬した。
 漸く生々しい現実を手に取ったような気持ち悪さが全身を支配し、青褪める優の姿に、一連の全ては悪夢ではなく現実だということに心にぽっかりと穴が空いた。
 もしも、優があの場で咄嗟に不倫を否定したら。
 文香はどんな行動を取ったろうか。

 文香は自分の気持ちが分からなかった。
 ただ、このまま優の側にいても何一ついい事はない、自分も優も苦しむだけだと理解していた。
 甘いと分かっている。
 凶暴で暴力的な感情に支配された瞬間も多々あった。
 だからこそ文香は怖くて仕方が無かった。
 それほどまでに、狂いそうなほどに嫉妬し憎悪を燃やす自分が。
 何をするかも分からない、制御できないほど、優がまだ好きな自分を認めたくなかった。

 頭の中がもうぐちゃぐちゃだった。
 冷静になんてなれない。
 でも、感情のまま喚き散らしたくない。
 くだらないプライドが、文香の首を絞めている。
 息ができないほど、苦しい。

 一番苦しいのは、それでもまだ優が好きだという自分の気持ちだ。

 だからこそ、自分達には時間が必要だと思った。
 どんなに軽蔑し、嫌悪し、もう二度と心の底から信頼することも、何の憂いもなく愛することはできない知りながら。

 それでも文香は、自分を裏切った夫を嫌いになることができなかった。
 文香と別れたくないと縋る優を嘲いながら、確かにホッとしている自分もいる。
 簡単に割り切れて離婚できるような関係なら、ここまで絶望し傷ついたりしない。
 
 別れたくない、赦してくれ、愛してる。
 その言葉に偽りはないのだろう。
 なら、どうして他の女と浮気したのか、文香を求めるその手で、あの女にも触れたのかと思うと発狂しそうになる。
 聞きたくないと思いながら、もっと聴きたい。
 もっと、愛してると言って欲しい。
 二度としないと、文香だけが大事だと、許してくれと哀れっぽく泣いて欲しい。
 文香の気持ちは、心は瞬きするたびに万華鏡のように激しく変化する。
 優を赦そうと思えば次の瞬間信用できない、別れるべきだと思い、また殺したいぐらい憎いと思った後に惨めに泣く姿に心が傷つき愛しさがまた湧いて来るのだ。

 耐えられなかった。
 自分がどんどん壊れていくのが分かる。
 自分自身が分からなくなり、最終的に優に助けを求めたくなるのに、それができない。

 今の文香には、夫婦には時間が必要だ。
 互いの距離を置き、もう一度関係を見つめなおさないといけない。

 別居という選択は優への最後の慈悲であり、文香自身の救済措置だった。
 平静を装ってその案を切り出したとき、優の傷ついた表情を見た文香は自分の心が荒れ狂うのを実感したが、必死に耐えた。

 傷ついた優に傷つきながら、どうしてお前がそんな顔をするんだと叫びたくなる心をじっと耐えたのだ。

 何よりも悔しかったのは、それでも文香の心は確かに優との関係を修正しようとする方に傾いていたことだ。
 どんなに辛くても、結局文香もまた優からは離れられない。
 離れられない、離れたくないと思ったから、文香と優は結婚したのだから。



* *


 今年は忙しい日が多く、文香は例年よりも多めに連休を取った。
 まさかこんなことになるとは思わず、文香は別居を決めたその日から賃貸の情報をチェックし、荷物の準備を始めた。
 それを優は無言で、ただ母親が出ていくのを黙って見ていることしかできない子供のように、呆然と哀れっぽく見つめて来る。
 その視線を文香は無視し、なるべく意識しないように心の中で未だ深く大きく広がり続ける穴に様々な感情を投げ捨てて、埋めようと努力した。
 無駄な行為だと思いながらも、文香にはそうする以外の術がない。
 そうしなければ、また優にきつく、辛く当たってしまう。
 一度は優にチャンスをやると約束したのだ。
 約束を破るよう大人げないことはしたくなかった。

 それに、優の存在を無視すればするほど、優が深く傷つくことを文香は知っている。
 いつからこんなに性格が悪くなったのかと思いながら、元から性格はよくなかったなと思いなおす。
 文香にとっての善とは優その人である。
 いつだって優の成すことは合理性がなく、感情に左右され、時には損ばかりしている。
 けど、誰もを笑顔にさせ、人に好かれる優を、文香は尊敬し、憧れていたのだ。

 その優が、まさか不倫するなど思わなかった。

「……ふ、」
「……」
「……悪い、なんでも、ない」
「…………」

 淡々とキャリーバッグに荷物を詰め込む文香に優は蚊の鳴くような声で名を呼ぼうとし、結局やめた。
 優は決して不甲斐ない男ではない。
 むしろ、いざとなればとても頼りになる。

 それが、今では捨てられた子犬のようだ。

(鬱陶しい……)

 そんな優を可愛いと思っていた自分が、今では信じられない。
 


 気づけば夕方になっていた。
 大事な物、必要な物は全て揃えた。
 文香の荷物はキャリーバッグ一つで収まる。
 いつでも家から持ち出せるように、文香はそれを玄関脇に置いた。
 物欲のない文香の使う物のほとんどは優との共有か、お揃い、選んで買ってもらったものばかりだ。
 だからこそ持って行こうと思うものは少ない。
 後は出ていくときにまた必要な物を思いつくかもしれないと、そこまで完璧に全部は準備しなかった。
 当日に少しだけ荷物を増やせばいい。
 持って行く物の大半を纏め終わった文香はとりあえず少しだけ肩の荷が降りた気がした。 
 纏められた少ない荷物を見て、そして文香が持って行かないと決めたものを見て、優は今にも泣きそうな顔で俯いたのを見なかったふりをする。
 
 昼は出前を取ったが、優はほとんど食べきれずに残した。
 いつものように大して美味しくなさそうな顔で食べきった文香はそんな優を一瞥すらしなかった。

 文香が別居を決めたあのときから。
 二人の視線は、まだ一度も合っていない。

 一日経ち、文香の心はふらふらになりながらもなんとか自力で立つことができた。
 
「まだ、家は決まってないんだろう……? なら、決まるまで、ここにいれば……」
「もう、他に泊まるとこ決めてあるから」

 さすがに今日明日といくら急いだところで早々に引っ越すことはできない。
 別居先が正式に決まるまでは自宅で過ごすべきだと主張する優は間違ってはいなかった。
 最短で2、3日ほど我慢すればいい話だ。
 それすら我慢できないほど、文香は優と一緒にいたくなかった。

 キャリーバッグとは別に下着や替えの服だけを鞄に詰め、それを肩に背負って玄関に向かう文香に優は一定の距離を置きながら後について行く。
 必死に引き留めようと言葉を投げて来る優に文香は内心で嘆息した。

「泊まるって、一体どこに……」
「当てはあるから、余計な心配はしないで」
「当てって…… 誰かの家に泊まるのか? ここら辺に住んでて、泊まれる奴の家なんて…… 相田さん? 千佳や、明美の家は…… あ、でも明美は剛田と同棲してるのか……」
「……」

 優は必死に友人知人の顔や住所を思い浮かべているが、優が考えれば考えるほど、文香の心は冷えていく。
 学生の頃から付き合っていたのだ。
 元々友達付き合いがそれほど得意ではなかった文香と違い、優の顔は広く、皆に慕われていた。
 優のおかげで高校の後半や大学生活では大勢の知り合いに囲まれ、随分と賑やかに過ごしていたことを思い出す。
 文香の数少ない友達も皆すぐに優を信頼し、文香を羨ましがっていた。

 息が詰まるような、胸が痛む様な、どす黒い何かがこのとき文香の心に忍び寄った。
 だが、文香にはまだその正体が分からなかった。
 それよりもこのままでは知り合いに片っ端から連絡を入れて文香の居所を確認しそうな様子の優を止めることの方が重要だった。

「優の知らない友人の家に泊めてもらうつもりよ」
「俺の知らないって……」

 文香の言葉に優は驚いたように目を見開き、次いで不安そうに顔を顰める。
 文香が自分の知らない変な人間と関わっていないか、そんな不安が全面に出たような表情だ。

「……もういい歳なんだから、そんな昔みたいにいちいち知り合いや友達を紹介するなんてしないでしょ? それとも、私の交友関係は全部優に報告しないといけないわけ?」

 文香は苛立ち、顔が自然と険しくなるのを止められなかった。
 言えば言うほど、悪い感情しか出てこない。
 だから優と話したくなかった。
 今すぐ家を出たかったのに。

「……そんなこと言える立場なの?」

 文香の知らないところで、隠れてこそこそと女と不倫していた優には言われたくない。
 口から飛び出そうになった強烈な嫌味をなんとか呑み込んだ。
 優の強張った顔から静かに目を逸らす。
 いい加減、分かって欲しい。
 これ以上ここにいても、二人が同じ空間にいてもただただお互い傷つけるだけだと。

「……いい加減、しつこい」

 低く、感情を押し殺すように文香は吐き捨てる。
 
「…………悪い」

 優のその言葉を聞き終える前に、文香は玄関を出て行った。

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