奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在②≫

21 情けない男

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 夢の中で見た母は無表情だった。
 恭一は母に何か言おうとしたが、結局それを言葉にする前に桜に起こされてしまった。
 あのとき、恭一はなんと言いたかったのだろうか。

 こんな、大事な場面でそんなことを考える自分がとても軽薄に思えた。

「離婚しよう」

 そう告げたとき、志穂の顔から様々な感情が抜け落ちた。
 能面のような、本当の人形のように、その目には何も映していない。
 恭一は動揺しなかった。
 志穂は色んな顔を持っている。
 様々なベールで常に自分を儚く、美しく装っていることを恭一は知っていた。
 恭一はそんな志穂が嫌いではなかった。
 それが彼女にとっての身を守るための強靭な鎧であることを知っていたからだ。
 
「何を、言ってるの? 恭一さん」

 志穂の声は柔らかく、まるで我儘な子供に言い聞かせているようだ。
 無理矢理笑顔を浮かべようとしているのか、その頬が引き攣るのを見て、その目が一心に桜を見ているのを見て、恭一は志穂という女がやはり分からないと思った。

「言葉の通りだ。君が今後一人で生活できるだけの慰謝料は用意しよう」
「……」
「だが、桜の親権を譲る気はない。桜が自分で考え、物事を判断できる歳になり、自分から君に会いたいという希望が出ない限りは今後一切の面会を禁じる」
「っ……」

 志穂の顔に動揺が広がる。
 ぎりぎりと歯を食いしばり、恭一を鋭い眼光で睨む志穂は我が子を人質に取られた無力な母親に見えた。

「どうして? どうして、そんなことを急に……? 恭一さん、私を赦してくれるって言ったじゃない? あれは嘘だったの!?」
「……ああ、俺は君を赦そうと思った」
「なら、どうして!? どうして、離婚なんて…… 私から、桜を奪おうとするの……!?」
「……どうして?」

 志穂の悲痛な悲鳴に、桜が怯えたのが分かった。

「君が、理解できないからだ」

 桜にこれ以上両親の言い争う声を、醜い争いを見せたくない。
 恭一は桜を抱きかかえたままリビングを出ようとした。

 これ以上志穂と話すことはない。






 当然のように志穂は必死に恭一に縋った。
 シャツの裾を引っ張り、どうにか引き留めようとする。
 状況が理解できない桜は不思議そうに両親を見ていた。

 志穂は恭一が怒っているのだと思った。
 
 志穂が、桜にことを。 

「ごめんなさい、桜のことは謝るから…… ほんの、出来心だったの、桜はまだ小さいから、きっとすぐに忘れると思って……」
「……」
「悪意なんてなかった。私はただ、償おうと思って…… 少しでも優君や文香さんの夢を、叶えてあげたい一心で、あの二人に喜んで欲しくて、」
「黙ってくれ」

 恭一にはどこからが志穂の本心なのか分からない。
 どこからが彼女の計算だったのか。
 もしかしたら、志穂は桜を孕もうと決意したときには既に今回のような馬鹿げた計画を立てていたのかもしれない。

 恭一はただ自分の迂闊さを恨んだ。

 確かに恭一は志穂を赦した。
 過去何度も。
 
「ごめんなさい、でも本当に私はもう優君のことは、香山さんのことはもうなんとも思っていないのっ、だから、お願い、桜を…… 桜を返して、」
「まぁまっ」

 桜が母親に手を伸ばす。
 異様な空気に桜は今にも泣き出しそうだ。

「桜はまだ小さいの、この子には私が、母親が必要だって…… 子供には母親が必要だって、恭一さんならよく分かっているでしょう?」
 
 必死に恭一の身体に、足元に縋り付く志穂。
 無視して立ち去ろうとしていた恭一は、志穂のその哀願に顔を強張らせた。

「恭一さんが私を許せないのは仕方がないわ、でも…… 桜のために我慢できない?」

 志穂は恭一の心が揺れたことに気づいた。
 彼女は人の心の隙間を見つけ、入るのが非常に上手かった。
 突破口が見つかったとばかりに、必死に恭一を説得しようとする。
 恭一の腕から逃れようと、母親に必死に手を伸ばす桜の姿が志穂の背中を後押しした。

「桜は、ママが好きよね? ママがいなくなったら、寂しいでしょ?」
「うー、まっまぁ……!」

 桜が志穂の言っている意味が分かっているのか恭一には判断できない。
 だが必死に志穂を求める桜がいるのは確かだ。
 桜は哀しんでいる母親を見て、本能的に恭一が泣かしているのが分かった。
 
「やっ、ぱ、ぱ、やっ!」

 父親である恭一に抗議するように桜が腕の中で暴れる。
 小さな拳が恭一の頬に当たる。
 そんな桜に志穂は反射的にあやそうと、慰めようと手を伸ばした。

 恭一はそんな志穂を無視した。

「ふぅっ まぁ、まっ まんまっ!」

 桜がついに耐え切れず、泣き出す。
 志穂を求め、恭一を拒絶する小さな身体。
 恭一の服を引っ張り、桜は悪い男の腕から逃げようと歯を立てる。

「お願い、恭一さん、目を覚まして? 私を嫌いでもいい、憎んでもいいから、桜のことを、この子の将来を考えて……! 恭一さんなら分かるでしょ? ねぇ? 母親がいなくなったら、子供がどれだけ傷つくか……!」

 それでも恭一は桜を放さなかった。

「桜には普通の家庭が、両親のいる普通の家庭が必要なのよ……!?」

 志穂のその嘆きに恭一の足が一瞬止まる。
 それを好機と見た志穂は更に恭一を説得しようとした。
 
「ねぇ…… 冷静になりましょう? 私達はまだやり直せるわ。桜のことを考えれば分かる、私達は離婚してはいけないの。この子のためにも…… それが親の務めでしょ? ねぇ?」
「……」

 志穂は必死に、必死に願った。
 これほどまでに必死になったことはない。

「お願い恭一さん、もう一度チャンスをちょうだい…… 保身のために言っているわけじゃないわ。全部、桜のためを思ってるの。私をいくら責めてもいい、殴ってもいいわ…… でも、娘のために…… お願いだから、私を、許して」

 優の心を取り戻そうとしたときだって、これほど全身が粟立ち、どんな恥も捨てて懇願しなかった。
 縋り付く恭一の背中は広く、硬く、微塵も動揺を表さない。
 だが、動かないで志穂の話を聞いている恭一の心は揺れている。

 もう一息だ。
 何か、何かもっと恭一の意識を。
 彼を同情させ、その心を抉ることを言わないと。
 こんなにも焦ったのは生まれて初めてで、上手く言葉が思いつかない。
 いつもはすらすらと、何も考えずに語れる舌がもつれている。

「恭一さんは、一番分かってるでしょ? 子供が片親を失う悲劇…… お母様を亡くした恭一さんなら……」
「…………」

 恭一の背中が熱くなる。
 志穂の体温が移ったのではない。
 そのことに、志穂は希望を見出した。

「恭一のお母様は、とても子供思いの素晴らしい女性だって聞いたわ…… いつも凛としていて、どんな不幸な境遇にも前向きに耐えた気丈な女性だって…… 一人息子である恭一さんの幸せを誰よりも願って、自分を殺して健気に頑張っていた、立派な母親だって……!」

 志穂の舌が漸く滑らかに滑り出す。
 恭一の母の死は公然の秘密だ。
 今の義父とと恭一の間にある蟠りはどんなに鈍い人間でも気づく。
 志穂も結婚する前にその事実を知った。
 だからこそ恭一を選んだのだ。
 自分と境遇の似ている目の前の男なら、何か共感することができるかもしれない。
 そう思ったから。

「今の恭一さんを見たら、天国にいらっしゃるお母様もきっと哀しむわ……」

 涙ながらに訴える志穂に、恭一はようやっと言葉を紡いだ。

「ああ…… そうだな」

 志穂にではなく、自分自身に言い聞かせるような、初めて聞くどこか幼い口調だ。

「母が…… あの人が生きていたら、きっと俺を批難しただろうな」

 しみじみと、柔らかく断定する恭一に志穂は顔を輝かせる。
 自分の気持ちが通じたのだと思った。

「そうよ……! 子供の幸せを思うなら、桜のことを思うなら、耐えなきゃ……」

 両親の雰囲気に桜は怯えながら、嗚咽を洩らし続けている。
 そんな桜を早く慰めてやりたかった。
 言葉に自然と熱が籠る。
 どこか酔い痴れるように、志穂は恭一に囁く。

「それが、親の務めですもの」

 

* *


 志穂のその言葉に恭一は静かに目を閉じた。
 このとき、恭一は自分が夢で母になんと言ったのか。
 一言も返事をせず、恭一ではない何かを見ていた母に。
 なんと言ったのか、何を伝えたのか、どんな懺悔をしたのか。
 それを思い出した。

 母が亡くなってからどれくらい経ったのか。
 恭一はとっくに亡くなった母の年齢を越したのに、どうしてか母の目の前に立つと途端に口だけが達者な生意気な子供に戻ってしまう。
 母が死んでから恭一は寡黙になった。
 言葉が凶器になることを知ったからだ。

 夢の中の母はあの日と同じように髪が乱れ、顔色が悪く、痩せ細っていた。
 あの頃よりもずっと小さくて、恭一は今すぐ母を抱きしめたい衝動に駆られた。
 今の恭一にはそれが可能だった。

「母さん」

 恭一は手を伸ばそうとして、躊躇った。
 謝罪をしなければ。
 あの日のことを、謝らなければと思いながら口が開かない。
 あのとき恭一が吐き出したのは今まで溜まりに溜まった本音だった。
 だが、真実ではない。
 あのときの、当時の恭一は結局勇気がなく、全てを母に叩きつけて、傷ついていることを隠して気丈に振る舞う母の目を覚ますことは結局できなかった。
 恭一は母に離婚する勇気がないだけだと罵倒したが、本当に勇気がなく弱虫なのば恭一本人だ。
 その歯がゆさが恭一の心を歪めたともいえる。

「母さん。俺、大人になったんだ」

 母の前だと、どうしてこんな風に口調が子供っぽくなるのか。
 それが不思議であり当然のことに思える。

「母さんよりもずっと大きく…… あの男のよりもずっと大きくなった。身体も鍛えている。格闘技も、学生の頃に少し習った。もう歳をとったけど、体力には自信があるんだ」

 亡くなった母の前で歳のことを言うのはなんだか気恥ずかしかった。
 母はただ黙っていた。
 恭一の話を聞いているのかも分からない。

「今なら、母さんを背負ってどこまでも走っていけるよ」

 仕方がない。
 これは恭一の見ている夢なのだから。

「母さんが望んだように大学を出たし、ずっと心配していた会社も家も継いでいる。まぁまぁ、信頼できる奴もできた。それなりに、人に必要とされる人間になれたと思う」

 その分敵も多く、その筆頭が父親だとは言わなかった。
 隠居し、運命の女とやらと再婚しながら、今の父親は恭一の目から見て幸せそうではなかった。
 愛人が愛人ではなく、妻となった途端、父の中から情熱が失せた。
 恭一にはどうでも良いことだ。
 もう昔のように復讐心のみで出世しようとしていた青い恭一はいない。
 それよりも、守るべきものが多くなり過ぎた。
 色惚けた年寄り共に構っている余裕などないのだ。

「自分で金を稼ぐようになった。資産も増やした。あの男よりも、俺を味方してくれる奴が増えた。家や土地も買った」

 恭一はどこか熱っぽく、自分の視界が熱くなるのが分かった。
 それでも恭一はもう大人だった。

「今なら…… 母さんを養っていける」

 泣きそうになりながらも、涙が零れることはない。
 母もまた、どれだけ恭一が熱心に語っても反応することはない。

 これは恭一の都合の良い夢でしかないのだから。

「あの男から、あの家から…… 母さんを背負って逃げることができる。もう、あの女の電話に怯えることも、嫌がらせに泣くこともない。そんなことは俺が許さない。母さんが親戚に馬鹿にされることも、泣くこともない。全部俺が盾になって、母さんを守るから」

 恭一の手が脆く、華奢な母の肩を包む。

「今の俺には地位と、権力と金がある。母さんを幸せにする力がある」

 恭一はあのとき伝えられなかったことを、今度こそ伝えた。
 もう、どうにもならないと知りながら。

「ずっと言いたかった。でも、ずっと言えなかった。あのときの俺は、母さんに暴力を振るあの男に怯えて、母さんに守られてばかりだった…… 庇護されただけの餓鬼だったくせに、母さんの苦労を何一つわかっていなかった」

 味方など一人もいない中、情報が遮断された家の中で塵のような扱いを受けていた母。
 母の気性を考えれば、きっと一人で着の身着のまま裸足で逃げることも、同情した周囲の知恵を借りて助けを求めることもできただろう。
 それができなかったのは、恭一がいたからだ。
 恭一を捨てさえすれば、母はとっくに自由になれた。
 だが、できなかった。
 後妻となるだろうあの女が跡取りである恭一に何をするか分からない。
 もしかしたら夫が女の言葉に乗って恭一が受け取るはずの遺産や権利を誤魔化すかもしれない。
 もしも、万が一にも二人の間に子供ができたら。
 そうなれば恭一はどうなるのか。
 そもそも、まともにあの二人が恭一を育ててくれるはずがなく、虐待されることは目に見えていた。
 
 全て、簡単に思いつく話だ。
 
 夫を憎み、嫌悪しながらも、母は恭一を産んだのは自分自身であり、その人生に責任があると思っていた。
 だからこそ、ずっとずっと耐え続けて来た。

 賢い恭一が自分を取り巻く状況を理解しないわけがない。
 母の忍耐という愛情を感じるたびに、恭一の心はどんどん歪んでいった。
 恭一のことを第一に考え、全ての苦労を背負い我慢する母に対する罪悪感はいつしか苛立ちに変わった。

 だが、今になって思う。
 妻に不倫され、そして子を持つ父となった今だからこそ。
 
「所詮、夫婦は他人だ。けど、子供は違う。例え、どんなに酷い人間でも、それがその子の親だって…… 母さんと同じことをいつの間にか自分に言い聞かせるようになっていた」

 愛する我が子の血の繋がった片親を取り上げたくない。
 恭一を連れて逃げられない以前に、母は恭一から父親を取り上げたくなかったのだろう。
 親だから、我慢して耐えるべきだと、ずっと自分にそう言い聞かせていたのだ。
 恭一も同じだ。
 経済力もあり、有能な弁護士を雇える身分でありながら、恭一は志穂に懐く桜を見るたびに、志穂への複雑な気持ちに蓋をした。
 使える力を、権利を、あえて使わない。
 情けない男だと思われようと、それが恭一の選択だった。
 自分さえ我慢すればいいと、批判した母と同じことを思っているのだ。
 笑えない話だと思う。

 だが、幼い桜にはやはり母親が志穂が必要なのである。
 それは、紛れもない真理だ。



 だからこそ。
 これは恭一のエゴに過ぎない。

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