奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在②≫

15 一方、その頃 表

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 ひどく慌てた様子の家政婦からの電話に恭一は大まかなことを覚った。
 運転しながらも必死に恭一に謝罪する男を制止して黙らせる。
 零れそうになる重い溜息を耐えた。
 額に指を当て、恭一は目を閉じて整理する。
 先ほどまで文香といたときの時間が全て幻だったのではないかと思った。

 付き合いの長い使用人の二人が必死に恭一に謝罪する。
 話を整理すると、志穂は今日のの後、家に戻らず子供を連れてランチに行く予定だったらしい。
 まず、その時点で恭一の許可を得なかった志穂に不審を抱いた。
 恭一の命をあえて無視し、志穂の願いを優先した二人を責める気にはなれない。
 そもそも二人は知らないのだから。
 何故、三年前から突然恭一が志穂の行動を制限するようになったのか。
 若く世間知らずな妻である志穂を恭一はなるべく自由にさせていたのに。
 ただの束縛だと思い、志穂に同情しながらも恭一の意思に従おうと人の好い二人は頑張ってこの三年間仕えてくれた。
 幼い頃と違い、随分と小さく老いた二人。
 電話越しで涙ながらに恭一に謝罪する彼らを恭一はそれ以上責めることができなかった。
 真相を話さず、結局自分の胸の内にしまいこんだ恭一の甘さが全ての原因なのだから。

 そんな風に考えてしまう時点で、恭一は本心から冷徹になれない男だった。

 だからこそ、志穂は大胆な行動に出たのだろう。
 恭一の態度が軟化し、少しずつ志穂を信頼するようになったと、思ったからだ。
 そんな恭一を、自分の夫を甘く見ていたのだろう。

「決断を、するべきだ」

 今度こそ、恭一は決断しなければならない。

 その意思は焦燥に似ている。
 だからこそ、一人ではない車中に関わらず、恭一の口からそれは零れた。
 自分に言い聞かせながら。
 或いは、もう既に決めたことを再度確認するように。

 決意が鈍らないように、今度こそ迷わないように、間違えないように。

 恭一は冷静になれと、自分に念じる。
 
 全ての責任は自分にあると。
 ただ受け止めて痛みに耐えるだけではいけないのだ。
 逃げるわけにはいかない。

 今の恭一には、桜がいるのだから。






 家につくと、志穂と桜は疲れ果てて眠っていると聞かされた。
 閉じられた寝室の扉を恭一は冷静に見つめる。

「旦那様、申し訳ございません……」

 恭一が産まれたときからこの家に雇われている家政婦が深々と頭を下げる。
 恭一に黙って志穂を、それも桜と一緒に勝手に外出させたことに強い罪悪感を抱いているのだろう。
 志穂が件の同僚と待ち合わせしていたホテルに少しの時間を置いてから家政婦もまた行ったらしい。
 そこで桜の泣き声に気づいて慌ててロビーを見渡せばホテルの従業員に介抱されている志穂の姿があったそうだ。
 
「奥様は何かに驚き、腰が抜けたような状態でした。幸い、お怪我はないのですが…… ホテルの者が言うには、男と何か話をした後に急にお嬢様が泣き出し、その後奥様がその場に崩れたと……」
「男、か」

 心当たりはあった。
 むしろ、一人しか思いつかない。

 そもそも何故、恭一の許しもなく志穂が勝手に桜を連れてホテルに行ったのか。
 そのことについて問えば、躊躇いながらも使用人の二人が話した。

「……以前、勤めていた会社で大変お世話になった同僚の方とお話がしたいと…… 結局、体調が崩れ、お嬢様が泣き止まないので断りの連絡をしたそうですが……」
「……ほぉ」
「申し訳ございません…… 私どもが勝手に…… 朝も昼も夜も一日中休まず熱心に子育てしている奥様に息抜きしてほしく、遠慮する奥様を半ば無理矢理説得したようなものです…… それなのに、あのような…… あんな怯えたお嬢様は見たことがありません。奥様もずっと黙り込んで……」

 一度言葉を切ってから、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

「一体、その男が誰か…… 奥様は従業員の勘違いだとおっしゃっています」

 語尾を湿っぽくさせる家政婦に恭一は慰めることも叱責することもなかった。

「この事は全部俺が処理する。今日のことは他言無用だ。いいな?」
「……はい、かしこまりました」

 それ以上家政婦は何も言えず、静かに退出した。
 それを見届けた恭一は無音のままの寝室の扉をノックする。

「志穂」

 応えはない。

「志穂、聞いていたんだろう?」

 だが確かに人が動く気配がした。

「桜が起きる前に、ここを開けろ」

 恭一の声色に険が宿る。
 それを敏感に察したのか、のろのろと布ずれの音が近づいて来る。
 扉一枚越しに志穂が立っているのだろう。
 しばらくして漸く、鍵が開く音が静かなその場に響いた。

「恭一さん……」

 目を細める恭一に、志穂は血の気の失せた白い顔を向ける。

「彼と会って来たのか?」

 温度も感情も見当たらない、それでいて鋭い恭一の言葉に志穂は傷ついたように瞳を揺らす。
 恭一はそんな志穂に目もくれず、その華奢な身体を押しやり、寝室に入って行った。
 
 穏やかな寝息が聞こえる。
 夫婦用のベッドの真ん中に桜が寝ていた。
 随分と暴れ、なかなか泣き止まずにずっと何かに怯えていたという。

「お前は何がしたかったんだ?」

 恭一が志穂の方を振り返る。
 桜が起きないように声は潜められていた。
 唇を噛み、何か言おうと志穂が口を開く前に、恭一は手で制した。

「いや…… 子供の前で話すことじゃないな」

 恭一の言葉に志穂は俯くほかなかった。
 スーツを脱いだ恭一はゆっくり、恐る恐ると桜を抱き上げる。
 壊れ物を扱うように慎重に。
 自分の娘ながら、未だにその柔らかすぎる重みに戸惑ってしまう。
 寝ぼけているのか、ぐずるように振り上げられた拳が恭一の眼鏡に当たる。
 随分と力が強くなったなと恭一は苦笑いを浮かべた。
 そのまま、桜をベビーベッドに寝かせる。
 一時期夜泣きが酷く、毎晩志穂があやしていた。
 志穂の側が落ち着くのなら、夫婦の寝室で寝かせることを提案したのは恭一だ。
 二人の間だと桜の寝つきはよく、最近ではベビーベッドをあまり使わなくなった。

 そんなことを思い出しながら、恭一は桜の顔を覗き込む。
 ミルクの匂いが鼻につく。
 確かに目が随分と腫れている気がすると、手を伸ばそうとして、結局下した。
 恭一の手は骨ばり、皮膚も硬いため、桜は嫌がる。
 泣き疲れて漸く眠ったのに起こすのは可哀相だ。
 未だ恭一は泣き出した娘を上手くあやすことができなかった。
 夜中に魘されて泣き出す桜をあやそうとしても、最後は結局志穂に任せることしかできない。
 子育てがこんなにも大変だとは思わなかった。
 自惚れでもなく、自身を有能だと思っていた恭一はまったく思い通りにいかない桜が新鮮で、未だどう接すればいいのかよく分かっていない。
 桜は気まぐれに恭一に懐いて来るが、すぐに飽きて母親の方に行ってしまう。
 その度に幼い子にはやはり母親が必要なのだと思い知らされる。
 幼い頃の母の記憶が蘇るのだ。

 
 桜が熟睡しているのを確認した恭一と志穂は広いリビングのソファーに隣り合うようにして座っていた。
 顔を見合わせて座るには志穂の声は小さすぎる。

 意外にも先に口を開いたのは志穂の方だ。

「ごめんなさい……」

 時計の針の音しか聞こえないリビングでも、その声は聞き取るのが難しいほど小さかった。

「それは何に対しての謝罪だ」
「っ……」
「何も過ちを犯していないのなら、今俺に謝罪するのはおかしいだろう? 悪い事をしたと、自覚していると思っていいのか?」

 淡々とした恭一の声に、志穂は涙を滲ませる。
 俯き、その両頬に長い彼女の髪が揺れた。
 膝の上で握りしめた拳が震えているのを恭一はレンズ越しに冷静に観察する。

「……約束を、破りました」

 志穂の震える声に恭一はそっと目を閉じる。
 俯く志穂には分からなかった。

「……香山さんと、会いました」

 言い切った後に、志穂は手で顔を覆い、肩を震わせた。
 必死に嗚咽が漏れないように我慢する様は痛々しく見える。

 途切れ途切れながらも、志穂は恭一に謝罪し、を話した。 

 桜の夜泣きが少なくなり、言葉が少しずつ喋れるようになった頃。
 三年前のことを思い出すことが増えたのだと言う。
 あのとき、とんでもない罪を犯した自分が今こんなにも幸せでいいのかと思うようになった。
 だから、その後の香山優とその元妻の文香がどうしているのか気になってしまったのだと。

「なるほど…… それで、調べたというわけか」

 志穂は恭一の言葉に頷く。
 行動は制限していたが、志穂が誰かと連絡を取るのは自由にさせていた。
 二人を調べるのは楽だったろう。
 その手段も伝手も、いくらでもある。
 今のご時世さほど労力も知識も必要ない。
 香山優のことはどうでも良かったが、文香の近況を何度か調査した恭一はその無防備さをよく理解している。
 ごく普通に生きている人間がいちいち誰かに調査されていると警戒する方がおかしいのだ。

「調べて、それで君はどうするつもりだったんだ?」

 今更、あの元夫婦の近況を知った所で何になる。
 恭一が言うべきことではないが、それでも志穂の行動は論理的ではない。
 
「……分からないわ。自分でもよく、分からなかった」

 志穂の発言を聞いても恭一は動揺しなかった。
 ただ、どこからが真実でどこまでが嘘なのか。
 それを見極めることが酷く面倒だと思った。

「でも…… 香山さんがこの三年間一人で苦しんでいたのを知って…… 酷く後悔したの。それなのに、文香さんはもう再婚して……」
「……」
「……あの人は香山さんを陥れようとしている。それがとても怖くて…… でも、香山さんはそれを知らなくて、私、私…… 文香さんにもそんな哀しいことをして欲しくなくて…… だから、」

 志穂は怯えたように身体を抱きしめる。

「だから、香山さんに忠告をしようと……」

 恭一は酷く冷めた気持ちでその様子を見ていた。

「それは全て君の推測だろう?」

 恭一は文香が優に会いに行っていることを知っていた。
 何か理由があるのだろう。
 もしも深刻な理由なら、何か手助けできないのか。
 そんなことを思いながら今日文香と面会した。
 文香には憂うような様子がなく、恭一はそのことに言及することを止めた。
 恭一は文香を信頼していた。
 一方通行の信頼だが、文香が安易な理由で香山優に会いに行くとは思えなかった。
 志穂にはきっと理解できないだろう。
 不倫し、自身を裏切った元配偶者に会うことがどれだけ苦痛で、難しいことか。
 例え今がどれだけ幸せでも、フラッシュバックから解放されるわけではないのだ。

「君は自分ならこう思う、こうしたはずだと…… 自分の基準でしか他人を見ることが出来ない」
「そんな……」

 志穂は何か反論しようとして、結局押し黙った。

「もしも自分が彼女の立場だったら、と君は想像したのだろう」

 恭一は思う。
 志穂の鏡は彼女以外映さない。
 そして志穂はやはり賢くないと思った。

 志穂が憶測で文香のことを批難すればするほど、それはつまり彼女にはそういう思考しか浮かばない証拠である。
 文香を悍ましいと言うなら、そんなことしか浮かばない志穂自身が悍ましいのだ。

「違う、私はそんな……」

 恭一の心無い言葉に傷つく志穂に恭一は笑った。
 
 志穂と話すのは疲れる。
 彼女はいつだって嘘つきで、そして嘘を本当にしてしまう。

「君が余計な心配をしなくとも、あの二人がよりを戻すことはないさ」

 文香にはがいるのだから。
 
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