奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在②≫

11 贖罪

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 志穂の指定したホテルは優にとっては苦い思い出の場所だった。
 三年前と変わらない外観に心臓が鈍く痛んだ。
 忘れるはずがない。
 
 優が初めて志穂を抱いたホテルだ。

 何故、あえてここを指定したのか。
 志穂の本心が読めない中、優はただ待つことしかできなかった。
 
 先にホテルに着いた優はロビーの談話スペースのソファーに腰かける。
 エントランス近くにある柱時計をちらちら見ては憂鬱そうに溜息を零した。
 華やかなロビーに独りだけ取り残されたような、そんな暗く静かなオーラを漂わせていた優は何度も客の出入りを確かめる。
 一体何度顔を上げて、そしてまた俯いたことか。
 優が漸く志穂の姿を見つけたとき、その回数はもうとうに両手の指の数を超えていた。

「し……」

 反射的に名前を呼びそうになったが、それが音になることはなかった。
 風船が萎むように、優の語尾は弱弱しく消えていく。
 見開かれた優の目に映るのは紛れもなく志穂本人だ。

「優君」

 その笑顔も柔らかな髪も、華奢な身体も、何一つ変わらない。
 だからこそ優は戸惑い、混乱した。
 志穂が優に近づいて来る。
 見慣れないベビーカーを押しながら。

「ごめんなさい、待たせちゃって」
「……いや、」
「今日は朝からこの子と用事があって出かけていたの。思いのほかぐずらなくて良かったわ」
「……」

 長い髪を結いあげ、志穂にしては珍しく動きやすそうなカジュアルな服装。
 あの日再会したときとは全く違う姿に優は呆然とし、そして不思議そうにこちらを見上げて来る幼い女の子に息を呑んだ。






 小さな氷の棘が優の心臓に刺さった気がした。
 何に驚き、一瞬でも恐怖したのか。

 それは紛れもなく優自身に疚しい過去があるからだ。
 咄嗟にありえない想像をしてしまった自分が信じられなかった。

「志穂…… その子は……」

 
 その子は、だ。


 無意識に飛び出そうになった最低な台詞に優は慌てて口をつぐむ。
 馬鹿馬鹿しいと思った。

(何を、馬鹿なことを考えてんだ、俺は……)

 わざわざ聞かなくとも、答えは一つしかない。
 それ以外ありえないし、あっていいはずがない。

(三年も経ったんだ…… 子供ができたって不思議じゃない)

 馬鹿な想像はやめろと、優は自分自身を戒める。
 最低なことを一瞬でも考えた自分が忌々しい。
 何よりも、その可能性を否定することができない過去があることが、一番救いがなかった。

 つくづく、自分は最低な男だ。

「……悪い、なんでもない」

 間一髪で最低なことを聞かずにすんだ優は平静を保とうと不器用ながらも笑顔を見せた。

「……あ、あぅ」

 ベビーカーの中で無邪気に両手を差し出す子供。
 その目が優を見ている。

「あ、うー?」
 
 人見知りしない子なのだろう。
 初めて見るはずの優を興味深そうに円らな瞳で見上げていた。

「あぅ、ま、まっ!」
「どうしたの? 初めての場所だから緊張しちゃったのかな?」

 興奮する女の子を慣れたようにあやし、軽々と抱き起こす志穂は紛れもなく母親だった。
 優の知らない一面である。
 一人っ子で周りに子供がほとんどいなかった優は赤ん坊や幼児というものにあまり接したことがない。
 子供は好きだったが、それでもリアルなものとして触れたことは今までなかった。

 お人形のように可愛らしく整った女の子は志穂に抱っこされる間もキラキラとした目で優をじっと見ている。

「ほーら、ちゃんとご挨拶して」
「うー? あ、いちゃ……つ?」
「そうよ。ほら、こんにちはして」
「ん、こん、ちぃわ」

 志穂とその娘のやりとりを優はただ見ていることしかできなかった。
 何にこんなに驚いているのか、自分でも分かっていなかった。

「ああ…… こんにちは」

 じっと優の反応を待つ四つの大きな瞳。
 幼いながらも整った顔立ちの女の子は髪の色と目の色が志穂にそっくりだった。

「あいー」
「……はじめまして、香山優です」
「……ゆーぅー?」
「はは、そうだよ。優って名前なんだ」
「んっ、ゆぅっ」

 優の名前を聞いた女の子は驚いたように目を丸く見開いた後、歓声を上がる。
 嬉しそうにけらけらと笑い、手を上げて反応する様はまさに無邪気で、元来子供好きな優は思わず微笑んだ。
 緊張し、変な勘ぐりをしてしまった自分が馬鹿らしかった。

 だが、本当にそうなのだろうか?
 ただの下種の勘繰りだと決めつけていいのだろうか。

「あー? あぅー?」

 初対面の男の穏やかな笑みにその子はすっかりご機嫌になったらしく、可愛らしい笑顔を振りまく。
 そして小さな指で不器用に優を指差し、志穂の顔を見たり、また優を見たりと忙しそうだ。
 幼児に親しみがない優は思わず大きな頭がそのまま落ちてしまわないかと、内心でひやひやした。

「この子ったら、優君のことが気になってるのね」
「あっ、あぅ」

 志穂と優の微妙な距離感を埋めるように、女の子は志穂の腕から飛び出す勢いで優に手を差しのべる。
 見た目以上に重たいであろう子供が志穂の細い腕の中で暴れる様は心臓に悪かった。

「あっ、こら……!」
「きゃ、きゃっ」

 危ないわよと焦る志穂が面白いのか、甲高い声で笑う女の子は床に落ちてしまうという危機感がまったくなかった。
 危なっかしい様子に優が思わず手を差し出したのは当然のことだ。
 
「……ほら、危ないだろう?」

 恐る恐るその幼い身体を支えるとふにゃとした感触と体温が腕からダイレクトに伝わる。
 何が面白いのか更に上機嫌になった女の子はそのまま優の袖を掴み、放そうとしない。
 間近で抱いている志穂が困ったように、そして嬉しそうに優を見上げた。

「すっかり、優君のことが気に入っちゃったのね」

 志穂の言葉に優はなんと返せばいいのか分からなかった。
 完全にペースを握られていると分かっていても、この場はどうしようもなかった。

「優君に抱っこして欲しいみたい」

 志穂が上目遣いで優に懇願する。
 同じように大きく潤んだ目で期待に満ちた女の子の視線が注がれ、優は苦笑いを返すことしかできなかった。
 ここで拒否できるほど優の心は狭くなく、また非情ではなかった。
 
 元不倫相手の娘を抱っこする日が来るとは正直思わなかったし、まったく想定外のことだ。

 文香の真意が知りたくて志穂に会いに来たのに、その当の志穂の真意が分からず惑っている自分が情けなかった。

「この子、結構重いのよ。気を付けてね」
「ああ……」

 それでも、純真な目で見て来る子供に罪はない。

「きゃっ」
「本当だ…… 君、結構重たいんだね」

 優に抱っこされ興奮して歓声を上げる子供。
 長身の優に抱っこされても怖がる様子はない。
 女の子ということもあり、優は慎重に抱き上げた。
 服越しからおむつらしき感触が伝わり、それが何故か微笑ましく思えた。
 紅葉のような手で優の顔をぺちぺちと叩き、好奇心で満ちた猫のような目が覗き込んで来る。
 ミルクの匂いと子供特有の体温に、薄汚れた自分の心が少しだけ浄化されたような気がした。
 意識しなくとも顔に笑みが広がるのが分かる。

「こら、あまり困らせちゃ駄目よ」

 嬉しそうに優の髪や顔を弄る娘を咎める志穂もまた笑っていた。

 ホテルのロビーの片隅で和やかなやりとりをする彼らは傍から見れば親子にしか見えなかった。
 そんなことに気づかず、優は意味のなさない言葉を紡ぐ子供に視線を合わせる。

「今、いくつになるのかな?」
「うー?」

 名前を訊くよりも先に年齢を尋ねる。
 不自然とまではいかないが、無意識の自分の行動に優は気づかないふりをした。

「今、いくつ?」

 この子は一体何歳なのだろう。
 身近に子供がいなかった優には見当もつかない。
 こちらの言っていることに反応しているが、それでもまだまだ幼く見える。
 だが、優が尋ねるような質問は今まで何度もされて慣れているのか、一瞬母である志穂を伺い、また優に視線を向けるとにこっと笑いゆっくりと手を上げた。
 小さな指が稚拙に動き、不器用に折り曲がる。
 たぶん、人差し指と中指を出したいのだろう。
 上手くいかず、ボールを握る野球選手のようになっているのが微笑ましかった。

「……にぃー」
「に?」

 にっこりとまるで褒めて欲しいように、その子は満面の笑みで指を二本突き出そうとしている。

「ゆぅー、にちゃいっ」

 と、言いたいのだろう。
 
「二歳……」

 もう一人の冷静な優が頭の中で静かにしようとしている。

「にぃ、にちゃい、ゆう、にちゃいっ」

 無垢な子供を抱きながら、下劣なことを考えようとしていた自分を優は慌てて打ち消した。

「そっか、二歳か…… 偉いな、ちゃんと言えて」
「ゆう、えら……?」

 年齢相応かどうかは知らないが、優の言葉を繰り返して首を傾げる姿は誰が見ても可愛らしいものだ。

「ゆぅ、ゆう」

 何度も覚えたてのを繰り返す。
 何がそんなに楽しくて嬉しいのか分からないが、随分と愛嬌のある子だ。

「可愛いな……」

 本心からそう思った。
 子供は可愛い。
 優は子供が好きだった。
 温厚な性格が子供に伝わるのか、電車で泣く赤ん坊や迷子の子供とちょっと目が合ったり話かけたりするだけで皆が笑顔になるという地味ながらも凄い特技があった。
 何もしなくとも顔を見られて怖いと泣かれたことがある文香とは対照的である。
 子供と接する機会がないからこそ、優は逆に子供の面倒な部分や我儘な一面を知らずその分余計に夢見ている所があった。
 特に、文香との子供の名前を考えていた時期は親子連れに憧れを抱いたりしたものだ。

(もしも、俺と文香が離婚しないで、子供が産まれてたら……)

 もしも、なんて虚しい妄想でしかない。
 それでも頬を赤く染めて笑う子供を見ていると、つい思考が傾いてしまう。
 
「名前、なんて言うのかな?」

 優しく、慈しむように尋ねる。

「うぅー んーっ」

 年齢を聞かれたときとは違い、まだ自分の名前が上手く言えないのか、それとも質問の意味が分からないのか。
 混乱したように呻き、女の子は母に助けを求めるように手を伸ばす。

「まだ、名前が上手く言えないのよ。他の子に比べてちょっと言葉が遅くて……」
「っ、ぅ、まぁ、ま」

 志穂が困ったように眉を下げる。
 それが伝わったのか、泣き出しそうになる子供を見て優は慌てた。

「いや、十分上手いと思うよ。すごく人懐っこいし、歳もちゃんと言えるし」

 頭を撫でてやると必死に涙を溜め込みながらも我慢している。
 まだ幼いのにそのいじらしい様子に優はほっとした。

(偉いな…… こんなに小さいのに、泣かないなんて)

 きっと、志穂の何気ない言葉に傷ついたのだろう。
 言葉の意味は分からなくともニュアンスだけで伝わったはずだ。
 繊細なのに、とても我慢強い。
 口をきゅっと結んで泣かないようにするなんて、子供とはいえとても強い子だと思った。

(文香みたいだ)

 優の中の強いのイメージは泣かないことだ。

 そのイメージが固まったのは、優の根底に文香がいるからだ。
 文香も傷ついたとき、悔しい思いをしたとき、そういうときは決して涙を見せずになんでもないふりをした。
 腕の中で必死に我慢する子と同じだと思った。
 ただ、文香はもっと隠すのが上手かった。

(文香の子も…… 俺と文香の子も、こんな感じなのか……?)

 それは永遠に分からないことだ。
 元不倫相手の娘をあやしながら、優は別れた妻ともしも子供がいたらと妄想する。
 不毛すぎる時間だ。
 冷静になれば一体何をやっているのだろうかと自嘲してしまいそうなほど。

 それでも不器用ながらも自分をあやす優に完全に懐いたのか、笑顔を見せるようになった子供に癒された。
 首筋に頭をすりつけて甘えてくる子供に夢中になっていた優は志穂の存在を完全に忘れていた。
 
 優は腕の中の重みに、頬を擽る柔らかな子供の髪に、ミルクの匂いに包まれながら、感傷に浸っていた。
 自分が何故ここにいるのか、どうして志穂と会っているのか、腕の中の子供が誰の子かも忘れていた。

(俺と文香の子か……)

 文香に似た真面目で強い女の子を何の疑いもなく望んでいたあの頃が遠い昔の出来事のような気がする。
 文香は、まだ覚えているだろうか。
 
『《優》ってつく名前なら、なんでもいいよ』

 それは幻聴だった。
 あの日、文香はどんな目で優を見ていたのか、優は知らない。
 結局、最後まで男の子の名前は思いつかなかった。
 文香はただ《優》という字が入ればいいと言っていたが、優はどうしても文香の字も入れたかった。
 結果的に何も思いつかず、永遠に叶わなくなったが。

(女の子なら……)

 安易な名づけに、あのときの文香は呆れていたが、満更でもないことを優は知っている。
 
「名前は優香ゆうか

 いい名前ではないかと、当時の優は自画自賛した。
 優と文香で優香。
 これ以上ない命名だと思っていた。

「優香っていうのよ」

 自分の思考に沈んでいた優は、志穂のその言葉にしばらく反応することができなかった。



* *


 腕の中の重みが急激に薄れる。
 硬直し、不思議そうに優を見上げる子供の存在を忘れるほど、優は志穂を凝視していた。

「今……」

 声が震えていないのが奇跡だと思った。

「今、なんて言った……?」

 聞き間違いだろうか。
 いや、ありえないと、即座に否定し、そして愕然とする。

「優香ちゃんって言うのよ。可愛い名前でしょ?」

 にこにこと優が抱っこしている自分の娘の頭を撫でる志穂。
 嬉しそうに手を伸ばす娘を志穂は愛し気に見つめていた。
 その視線がそのまま優に移る。

「なんで……」

 意味をなさない優の問いに、志穂は頬を赤らめ、キラキラと星屑が散らばったような目で答えた。

「女の子の名前は優君と文香さんの一字をとって、優香。とても素敵な名前ね」
「違う、俺が言いたいのは……」

 優が言いたいのはそんなことではない。
 胸の中で暴れようとする感情に喘ぎながら、それでも優は自分達を不思議そうに見上げて来る幼い子供のことを思い、必死に我慢した。

 何故、志穂はこんな風に平然としていられる。

「だって、私のせいで優君と文香さんは子供ができなかったでしょう……? 文香さんには本当に申し訳なくて……」

 志穂の声に熱が宿る。

「だからこれは二人への…… いいえ、文香さんへの償いなの。女としての幸せを奪ってしまったことへの償い」

 じっと、睨むように志穂を凝視する優を、志穂は頬を染めて受け入れる。
 心の底から、そう思っているのだろう。 

「だから、私が文香さんの代わりに……」

 優の目を真っ直ぐ見ながら、志穂はそう言った。







 人通りが多く、混雑したホテルのロビーで、優達の周りだけが別世界のように静かだった。

「……本気で、言ってるのか」
「ええ、本気よ」

 正気とは思えなかった。
 温度の無い優の言葉も視線も志穂には届かなかった。

「優君に嘘なんてつかないわ。これが、私にできる、文香さんへの…… 二人の幸せを壊してしまったことへの償いなの。だから、」

 喜々として、自分の行いを誇らしげに志穂は謳う。

「私が文香さんの代わりに、優君の子供を産んであげたの」

 
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